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Heart Of Gold

第百十九話 Heart Of Gold


⸻


 阿津賀志山陥落から、十日が過ぎていた。


⸻


 平泉は、まだ燃えていなかった。


 だが、終わりの支度をしていた。


⸻


 南へ向かう道には、人が溢れている。


 荷車を引く者。背負えるだけの荷を背負った者。子供の手を引く者。何も持たず、ただ歩く者。


 逆に北へ向かう兵もいた。


 馬を替え、泥を跳ね上げ、まだどこかで出され続けている命令を運んでいる。


 道の脇には、持ち出せなかった荷が増えていた。


 壊れた箱。巻いたままの絹。割れた椀。文書。仏具。


⸻


 黄金の都は、まだそこにあった。


 それでも、シンの知っている平泉ではなかった。


⸻


 市の声がない。


 酒の匂いも、商人の呼び声も、馬の値を言い合う声もない。


 前に歩いた時、この道には義経がいた。国衡がいた。ユウガオがいた。タダが飯の話をしていた。


 同じ道なのに、今は風が通るだけだった。


⸻


「静か」


⸻


 隣を歩くモモが言った。


⸻


「ああ」


⸻


「前は、もっと音があった」


⸻


 シンが見る。


⸻


「覚えてるのか」


「覚えてる」


⸻


 モモは閉じた店先を見た。


⸻


「シンが、馬に轢かれそうになった」


「それも覚えてるのかよ」


「記録良好」


「そこは忘れていい」


⸻


 モモが少しだけ口元を動かした。


 笑ったようにも見えた。


⸻


 町の奥へ進むほど、見覚えのある景色が増えた。


 義経と歩いた橋。国衡とすれ違った辻。ユウガオが面白そうなものを見つけてはシンの袖を引いた店先。


 景色だけが残っている。


 そこにいた人間だけが、少しずつ消えていった。


⸻


 シンは懐へ手をやった。


 国衡の短刀。


 泰衡へ渡すためのものだった。


 この十日の間、朝も夜も何度も鞘へ触れた。


 夏なのに、ずっと冷たかった。


⸻


「それ」


⸻


 モモが短刀を見る。


⸻


「国衡の」


「ああ」


「重い?」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


「重い」


⸻


「鉄?」


「そういう重さじゃない」


⸻


 モモは頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


⸻


 少し歩いてから、シンが言う。


⸻


「モモ」


「何」


「お前は大丈夫か」


⸻


 返事が遅れた。


 見た目はいつものモモだった。


 だが、平泉へ近づくほど桃の香りが薄くなっている。


 指先も、わずかに震えていた。


⸻


「……近い」


⸻


「何が」


⸻


 モモは平泉の奥を見た。


⸻


「いる」


⸻


 それだけだった。


 誰が、とは聞かなかった。


 もう分かっていた。


⸻


⸻


 政務所の門は開いていた。


 兵と役人が出入りし、文書と命令だけが忙しく行き交っている。


 誰もシンとモモを止めなかった。


 止める余裕がなかった。


⸻


「泰衡に会いたい」


⸻


 そう言うと、年老いた役人が顔を上げた。


⸻


「……国衡様とおられた方か」


⸻


 シンが頷く。


 役人の顔が一瞬だけ崩れた。


⸻


「こちらへ」


⸻


 何も聞かなかった。


 国衡が帰らないことだけは、もう分かっていた。


⸻


⸻


 泰衡は奥の間にいた。


⸻


 頬は痩せ、髪は乱れ、目の下には黒い影が落ちている。


 机には文書が積まれていた。


 南からの報せ。北からの報せ。戻らない兵。失った道。落ちた城。


 その真ん中で、泰衡は同じような書状を何度も書き直していた。


⸻


「鎌倉へ使いを」


⸻


 誰もいない方向へ言う。


⸻


「もう一度」


⸻


 筆を取る。


⸻


「義経殿は討った。首も渡した。従った。全部、従った」


⸻


 墨が滲んだ。


 泰衡は、その滲みを見つめたまま笑った。


⸻


「なら、なぜ鎌倉は来る」


⸻


 筆が床へ落ちる。


⸻


「なぜ阿津賀志は落ちる」


⸻


 声が少し大きくなる。


⸻


「なぜ兄上は戻らぬ」


⸻


 そこで、ようやく泰衡がシンを見た。


⸻


「……兄上は?」


⸻


 シンは一瞬、嘘をつけたらと思った。


 国衡は生きている。どこかで兵をまとめている。もうすぐ戻る。


 でも、国衡が言った。


 見ろ。


 残せ。


⸻


「国衡は、死んだ」


⸻


 泰衡が動かなくなった。


 部屋の外では誰かが走り、遠くで馬が鳴いている。


 そのどれも、ひどく遠かった。


⸻


「……討たれたのか」


「ああ。和田義盛に」


⸻


 泰衡の喉が動く。


⸻


「一騎で戦った。紙一重だった」


⸻


 シンは懐から短刀を出した。


⸻


「これを」


⸻


 泰衡の目が止まる。


⸻


「……兄上の」


「ああ」


⸻


 すぐには受け取らなかった。


 手を伸ばしかけて、止める。


⸻


「なぜ、お前が」


「お前に会うからって、預かった」


⸻


 正確には兵からだった。


 それでも、国衡が最後にここへ運ばせたものだと思った。


 泰衡が両手で受け取る。


 震えていた。


⸻


「兄上は……何と」


⸻


 シンは国衡の最後を思い出した。


 土。血。笑った顔。


⸻


「弟を頼むって」


⸻


 泰衡の目が揺れた。


⸻


「……私を?」


「ああ」


「兄上が」


「ああ」


「私を」


⸻


 そこで声が崩れた。


 短刀を抱くように胸へ引き寄せる。


⸻


「私は……兄上を……」


⸻


 続かなかった。


⸻


「兄上は、私を恨んでいたか」


「いや」


⸻


 シンはすぐ答えた。


⸻


「怒ってはいたと思う」


⸻


 泰衡の顔が少しだけ変わる。


⸻


「でも、何より心配してた。お前は優しすぎるって。全部、お前には重すぎたって」


⸻


 泰衡は俯いた。


⸻


「兄なのに、支えてやれなかったって言ってた」


⸻


 しばらく何も返ってこなかった。


 やがて、泰衡が掠れた声で言う。


⸻


「……遅い」


⸻


 シンが見る。


⸻


「兄上も」


⸻


 短刀を握る。


⸻


「お前も」


⸻


 顔を上げた。


⸻


「今さら、何を言う」


⸻


 目の奥にまた壊れた色が戻っていた。


⸻


「私は義経殿を討った」


⸻


 シンが止まる。


⸻


「父上が守った人を、私は殺した」


⸻


「泰衡」


⸻


「兄上を戦へ出した」


⸻


 声が大きくなる。


⸻


「国衡を死なせた!」


⸻


 短刀を床へ叩きつけようとする。


 シンがその手を掴んだ。


⸻


「だから何だ!」


⸻


 泰衡がシンを見る。


⸻


「失敗したら終わりか!」


⸻


 シンは離さなかった。


⸻


「間違えたら、もう立つ資格もないのか!」


⸻


「分かったようなことを言うな!」


⸻


 泰衡が振り払う。


⸻


「お前に何が分かる!」


⸻


「分かんねえよ!」


⸻


 シンも怒鳴った。


⸻


「俺は国を背負ったことなんかない!兄貴もいない!頼朝みたいなデカすぎる相手に攻められたこともない!」


⸻


 一歩、泰衡へ近づく。


⸻


「でも、国衡が何をしてたかは見た!」


⸻


 泰衡が止まる。


⸻


「阿津賀志が落ちて、勝てないって分かって、それでも兵を逃がしてた!」


⸻


「最後まで、お前のところへ人を返してた!」


⸻


「兄上が……」


「ああ!」


⸻


 シンは国衡の言葉をそのまま叩きつけた。


⸻


「阿津賀志は落ちた。だが、奥州はまだ落ちておらぬ」


⸻


 泰衡の目が揺れる。


⸻


「北へ行け。泰衡を一人にするな。生きろ」


⸻


 国衡の声が、部屋にいた。


⸻


「お前の兄貴はな」


⸻


 シンの声が少し落ちた。


⸻


「死ぬ直前まで、お前がこのあと何をするか心配してたんだよ」


⸻


 泰衡の顔が崩れる。


⸻


「なのに、お前がここで全部終わった顔してどうすんだ」


⸻


 シンは床へ落ちかけた短刀を拾い、泰衡へ押し返した。


⸻


「これを持って立て」


⸻


 泰衡は動かない。


⸻


「国衡の分まで立てなんて言わない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「そんなの無理だから」


⸻


 少しだけ息を吸う。


⸻


「お前は、お前で立て」


⸻


 泰衡の手が、ゆっくり短刀を握った。


⸻


「藤原泰衡として」


⸻


 長い沈黙のあと、泰衡が息を吐いた。


⸻


「……そうか」


⸻


 短刀を腰へ差す。


 兄の場所へ。


⸻


「兄上らしい……」


⸻


 少しだけ笑った。


 壊れていた顔に、人が戻っていた。


⸻


 泰衡は机へ向かい、積まれた文書を一枚掴んだ。


 破った。


⸻


「泰衡?」


「鎌倉へ送る書状だ」


⸻


 もう一枚。


 また破る。


⸻


「もう要らぬ」


⸻


 さっきまでの空っぽの声ではなかった。


⸻


「頼朝は来る。何を差し出しても。何を殺しても」


⸻


 義経。


 国衡。


 名前は言わなかった。


 でも、全部そこにいた。


⸻


「なら、もう私は、私が守るものを決める」


⸻


 泰衡が部屋の外へ向く。


⸻


「誰か!」


⸻


 声が政務所を走った。


 すぐに側近たちが入ってくる。


⸻


「道を空けろ。民を先に出せ。財は捨てよ。運べる文書だけ北へ。寺社へ兵を寄せるな。鎌倉方と遭っても、民を盾にするな」


⸻


 側近たちが動けない。


⸻


「聞こえぬか!」


⸻


 泰衡が怒鳴った。


⸻


「平泉は捨てる!」


⸻


 空気が止まった。


⸻


「されど御館!」


「平泉のみが奥州ではない!」


⸻


 泰衡の声は震えていた。


 だが、止まらなかった。


⸻


「父上が残したものは、館ではない。黄金でもない。ここで生きた者だ」


⸻


 シンは息を止めた。


 隣でモモが、小さく泰衡を見ている。


⸻


「……変わった」


⸻


 モモが呟いた。


⸻


「何が」


「泰衡」


⸻


 ほんの少し間があった。


⸻


「さっきまでより、生きてる」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


「そうだな」


⸻


 泰衡は短刀の柄へ手を置いた。


⸻


「私は父上のようにはなれぬ。兄上のようにも、義経殿のようにもなれなかった」


⸻


 一度目を閉じる。


⸻


「だから、藤原泰衡として決める」


⸻


 その言葉は小さかった。


 でも、今までのどの神託より強かった。


⸻


「平泉がなくなっても、奥州は残る。館がなくなっても、人が残れば」


⸻


 国衡の短刀を強く握る。


⸻


「北は終わらぬ」


⸻


 シンの胸が熱くなった。


 国衡。


 聞こえたか。


 お前の弟は、立ったぞ。


⸻


 側近たちが深く頭を下げる。


⸻


「はっ!」


⸻


 人が動いた。


 廊下を走り、声が飛ぶ。


 命令が人から人へ渡り、外へ走っていく。


 残せるものを残すために、いま何を捨てるかを決める。


 阿津賀志山で国衡が最後までやっていたことと同じだった。


⸻


「シン」


⸻


 モモが呼ぶ。


⸻


「何」


「国衡、届いた」


⸻


 シンはモモを見る。


⸻


「ああ」


⸻


 笑った。


⸻


「届いた」


⸻


⸻


 その時だった。


⸻


 空が白くなった。


 昼ではない。


 陽でもない。


 何もない白。


⸻


 次の瞬間、音が来た。


 地面が下から殴られ、政務所が揺れる。柱が鳴り、棚から文書が落ちた。


⸻


「なんだ!?」


⸻


 隣にいた少女が止まっていた。


 完全に。


 瞬きもしない。


 息さえ、していないように見えた。


⸻


「モモ!」


⸻


 シンが手を伸ばす。


 その前に。


⸻


 腹が熱くなった。


⸻


「……え」


⸻


 下を見る。


 刃があった。


 脇腹へ、深く。


 国衡の短刀。


 さっき泰衡へ渡した刃が、今、シンの身体へ入っていた。


⸻


「……泰、衡」


⸻


 顔を上げる。


 泰衡が短刀を握っている。


 でも。


 泰衡ではなかった。


⸻


 目が空っぽだった。


 いや。


 何かが入っていた。


 シンの知らない。


 知っている。


 ずっと、何度も見てきた何かが。


⸻


 短刀が抜かれた。


 血が出る。


 膝が落ちた。


⸻


「我は」


⸻


 泰衡の口が動く。


 低い。


 古い。


 人間の喉を借りているだけの声。


⸻


「阿弖流為」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「……何を言ってる?」


⸻


「大墓公阿弖流為」


⸻


「は?」


⸻


 血を押さえながら立とうとする。


⸻


「北の火を守る者。北を導く者」


⸻


 泰衡の顔で、ソレが言う。


⸻


「歴史を正す者。誤差を消す者」


⸻


 シンの眉が寄る。


⸻


「お前が?」


⸻


 返事はない。


⸻


「アテルイ?」


⸻


 聞き返した。


 まだ、意味が分からなかった。


⸻


「阿弖流為は北の抵抗」


⸻


 ソレは続ける。


⸻


「北の抵抗は敗北」


⸻


 シンの目が変わる。


⸻


「敗北は修正」


⸻


 一歩、前へ出た。


⸻


「修正は反復される」


⸻


「……違う」


⸻


 小さく言った。


⸻


「記録は固定された」


⸻


「違う」


⸻


 もう一度。


⸻


「阿弖流為は北の火」


⸻


 そこで、シンの中の何かが軋んだ。


⸻


「違うって言ってんだろ!」


⸻


 声が低くなる。


⸻


「阿弖流為は敗北」


⸻


「黙れ」


⸻


「阿弖流為は記録」


⸻


 シンは一歩踏み出した。


⸻


「黙れ!」


⸻


 それでも、ソレは言葉を止めない。


⸻


「北の英雄。抵抗の象徴。敗北の再現」


⸻


 シンの顔から、血の気が引いた。


⸻


「……お前」


⸻


 やっと分かった。


 名を騙っている。


 アテルイを。


 あの男を。


⸻


 シンは笑った。


 怒りすぎると、人は逆に笑うらしい。


⸻


「お前、何も知らないんだな」


⸻


 一歩。


⸻


「アテルイはな」


⸻


 もう一歩。


⸻


「腹が減れば皆と飯を食った。モレに怒鳴られてた。子供を逃がした。仲間が死ねば、ちゃんと痛がった」


⸻


 ソレは何も言わない。


⸻


「自分が何を守るか、自分で決めた!」


⸻


 声が大きくなる。


⸻


「お前みたいに、人の弱さへ入り込んで!神の名前を盗んで!死んだ奴の名前まで使って!」


⸻


 喉が裂けそうだった。


⸻


「自分では何一つ守らない奴が!」


⸻


 シンは走った。


⸻


「アテルイを名乗るな!!」


⸻


 拳を振り上げる。


 殴れる距離だった。


⸻


 その瞬間。


⸻


 白雷が落ちた。


⸻


 避けられない。


⸻


 そう思った。


⸻


 身体が横へ飛んだ。


⸻


「うわっ!」


⸻


 違う。


 飛んだのではない。


 抱かれていた。


⸻


 モモの腕がシンの身体を抱え、二人まとめて床を転がった。


 白雷が、さっきまでシンがいた場所を貫く。


 床が白く抉れた。


⸻


 シンは目を開けた。


 近い。


 モモの顔が、ものすごく近い。


 胸へ身体が触れている。


 腕が背中へ回っている。


⸻


 柔らかい。


 桃の香り。


 近すぎる。


⸻


「……モモ」


「生存確認」


⸻


 いつもの声だった。


⸻


「生きてる」


⸻


 少し間があった。


⸻


「心拍上昇」


「今それ言う?」


「出血」


「それだけじゃない気がする」


⸻


 モモがシンを見る。


⸻


「非合理」


「久しぶりに聞いた」


⸻


 一瞬だけ、笑いそうになった。


 その瞬間、モモの身体が大きく震えた。


⸻


「モモ?」


⸻


 白いものが目の奥を走る。


 指がシンの背中へ食い込んだ。


⸻


「戻れ」


⸻


 泰衡の口が言った。


⸻


「白桃」


⸻


 モモが固まる。


⸻


「命令を実行せよ」


「誤差を消去せよ」


⸻


「シンを殺せ」


⸻


 モモの手が腰へ動いた。


 フツへ。


 シンは逃げなかった。


⸻


「モモ」


⸻


 名前を呼ぶ。


⸻


「俺だ」


⸻


 手が柄へ触れる。


⸻


「分かってる」


⸻


 モモの呼吸が止まる。


 シンは目を見る。


⸻


「お前は、モモだ」


⸻


 白い光が目の奥で暴れた。


⸻


「違う」


⸻


 小さな声が出た。


 でも。


 モモの声だった。


⸻


「私は」


⸻


 手が柄から離れる。


⸻


「白桃じゃない」


⸻


 泰衡の顔が初めて歪んだ。


⸻


「私は」


⸻


 モモがシンを抱きしめた。


⸻


「モモ」


⸻


 白い光がモモの身体を走った。


 音はなかった。


 ただ、肩が跳ねた。背中が反り、口元から血が落ちる。


⸻


「モモ!」


⸻


 シンが支える。


 それでもモモは離れなかった。


⸻


「命令」


⸻


 息を吐く。


⸻


「拒否」


⸻


 さらに。


⸻


「シンを」


⸻


 シンを見る。


⸻


「殺さない」


⸻


 その瞬間、何かが切れた。


 見えない糸が、音もなく切れた。


 桃の香りが戻った。


 強く。


 一瞬だけ、部屋いっぱいに。


⸻


「モモ」


⸻


 シンが笑った。


⸻


「勝った?」


⸻


 モモが少し考える。


⸻


「……一旦」


「一旦かよ」


「十分」


「そうだな」


⸻


 モモがほんの少し笑った。


 次の瞬間、膝が崩れた。


⸻


「モモ!」


⸻


 抱える。


 身体が異常に熱かった。


 皮膚の下で何かが焼けているようだった。


⸻


「大丈夫か」


「不正解」


「大丈夫じゃないな」


「正解」


⸻


 息が浅い。


 腕にも首にも、細い亀裂のような白い痕が走っていた。


 白雷を、身体の中で受けたようだった。


⸻


⸻


 外で鐘が鳴った。


 一つ。


 また一つ。


 火事を知らせる鐘だった。


⸻


「火だ!」


「西の屋根へ移った!」


「水を!」


「子供を先に!」


⸻


 最初に燃えたのは、政務所の一角だった。


 白雷が落ちた屋根。乾いた板。積み上げられた文書。倒れた灯明。


 白い異常な光が生んだ火は、すぐに人間の火へ変わった。


 屋根から屋根へ。壁から壁へ。


 夏の風に乗った火の粉が道を越え、離れた建物の軒へ落ちる。


 そこへ、また別の白雷が落ちた。


⸻


 一つの大火が町を呑んだのではない。


 あちこちで別々に炎が立ち上がった。


 火消しが一つを抑える間に、別の場所が燃える。


 平泉が燃え始めた。


 すべてではない。


 寺も、山も、川も、そこにある。


 だが、その夜そこにいた人間にとっては、見える世界のすべてが火だった。


⸻


「歴史は変わらない」


⸻


 泰衡が言った。


 まだ立っていた。


 だが、その声は別のモノだった。


⸻


「北は敗北する。藤原は滅ぶ。平泉は失われる」


⸻


「固定」


「固定」


「固定」


⸻


 シンは歯を食いしばった。


⸻


「うるせえ」


⸻


 もう立てない。


 血が止まらない。


 それでも言った。


⸻


「負けることと、お前の言う通りになることは同じじゃない」


⸻


 泰衡の指が動いた。


 国衡の短刀が、またシンへ向く。


 その時。


⸻


 刃が逆へ向いた。


⸻


「……兄上」


⸻


 泰衡の声だった。


 一瞬、目に人が戻った。


⸻


「泰衡!」


⸻


「兄上に」


⸻


 短刀を自分の脚へ突き立てる。


⸻


「顔向けが」


⸻


 血が衣を染める。


⸻


「できぬ!」


⸻


 叫んだ。


 短刀をさらに深く押し込む。


 痛みが身体を引き戻す。


⸻


「私は!」


⸻


 泰衡が自分の頭を拳で殴った。


⸻


「奥州藤原氏四代当主!出羽陸奥押領使!藤原泰衡だ!」


⸻


 白い光が目の奥で揺れる。


⸻


「清衡公の」


⸻


 息を吸う。


⸻


「基衡公の」


「父上の」


⸻


 涙が落ちる。


⸻


「兄上の!」


⸻


 声が裂ける。


⸻


「奥州を!」


⸻


 短刀を抜いた。


 血が床へ落ちる。


⸻


「お前になど!」


⸻


 もう一度、脚へ刺す。


⸻


「渡してなるものか!!」


⸻


 白い何かが、泰衡の顔から抜けたように見えた。


 ほんの一瞬。


 でも、十分だった。


⸻


「……兄上」


⸻


 泰衡が崩れ、床へ手をつく。


⸻


「今度こそ、自分で……決めました」


⸻


 笑った。


 泣いていた。


⸻


 そこへ側近たちが雪崩れ込んできた。


⸻


「御館!」


「泰衡様!」


⸻


 左右から身体を抱える。


⸻


「離せ」


「なりませぬ!」


⸻


 泰衡がシンとモモを見る。


⸻


「まだ……あの者たちも」


⸻


 その時、炎が天井を走った。


 梁が落ちる。


 シンたちと出口の間へ。


 火の壁が立った。


⸻


「助けよ……!」


⸻


 側近が火を見る。


 崩れた梁を見る。


 白雷がまた庭を貫いた。


⸻


「……間に合いませぬ!」


⸻


 泰衡の顔が歪んだ。


⸻


「行け!」


⸻


 シンが怒鳴った。


⸻


「泰衡を連れてけ!」


「シン殿!」


「国衡に怒られるぞ!」


⸻


 泰衡が目を見開いた。


 その顔が、少しだけ国衡に似た。


⸻


「……すまぬ」


⸻


 泰衡が言った。


 誰に、なのか分からなかった。


 シンへ。モモへ。義経へ。国衡へ。平泉へ。


 全部へ。


⸻


「……すまぬ」


⸻


 もう一度。


 側近たちが泰衡を抱え、火の向こうへ消えた。


⸻


⸻


 二人になった。


 シンとモモ。


 それだけだった。


 義経が消えて随分経った。


 十日前まで国衡がいた。その翌朝まで、ユウガオがいた。タダもいた。


 今は、二人だけだった。


⸻


 不思議だった。


 最初の時代から、何度もこの少女に殺された。


 逃げた。追った。名前を呼んだ。


 それでも。


 最後に残ったのは、やっぱりモモだった。


⸻


 炎が近づく。


 出口は梁で塞がれている。別の廊下も、もう燃えていた。


 白雷が外で絶え間なく落ちる。


 町の鐘も、人の声も、遠くなっていく。


⸻


「モモ」


「いる」


⸻


 短い。


 いつものモモの声だった。


 シンは笑った。


⸻


「よかった」


「何が」


「お前が、お前で」


⸻


 モモがシンを見る。


⸻


「シン」


「何」


「出血量、危険」


「知ってる」


「死亡可能性」


「知ってるって」


⸻


 モモが黙る。


 シンは、モモの腕と首と頬に走る白い痕を見た。


⸻


「モモもボロボロじゃん」


「問題なし」


「嘘つけ」


「軽微」


「さっき崩れただろ」


「記録なし」


「都合悪いと消すな」


⸻


 モモがまた、少しだけ笑った。


⸻


 炎が柱を舐める。


 熱い。


 煙が低く降りてくる。


 シンはモモへ手を伸ばした。


⸻


「来い」


「どこへ」


「ここ」


⸻


 腕を広げる。


⸻


「非合理」


「知ってる」


⸻


 モモが一歩近づく。


 もう一歩。


 シンの胸へ額が触れた。


 抱きしめた。


 今度はモモも、すぐに抱き返した。


 細い腕だった。


 でも、強かった。


⸻


「離れない」


「ああ」


「今度は」


「ああ」


⸻


「絶対」


「ああ」


⸻


 シンの肩へ、モモの顔が少し沈んだ。


 桃の香りがした。


 あの夜から、夜花の匂いが胸の奥に残っていた。


 それは消えなかった。


 消さなくていいと思った。


 国衡も、ユウガオも、義経も。


 全部抱えたまま。


 その上で、今、腕の中にいるのはモモだった。


 煙の中でも。


 血の匂いの中でも。


 ちゃんと桃だった。


⸻


「怖い?」


⸻


 モモが聞いた。


 シンは少し考えた。


⸻


「怖い」


⸻


 正直に言った。


⸻


「でも、独りじゃない」


⸻


 抱く腕へ力を入れる。


 モモが少し止まった。


⸻


「うん」


⸻


 小さな声だった。


⸻


 シンは目を閉じた。


 いろんな顔が浮かんだ。


 義経。国衡。ユウガオ。タダ。頼朝。泰衡。


 皆、何かを間違えた。


 何かを失った。


 それでも最後まで、自分で何かを選んだ。


⸻


「黄金の、こころ」


⸻


 シンが呟いた。


⸻


「何」


「いや。なんとなく」


⸻


 モモは意味が分からない顔をした。


 それでよかった。


⸻


 黄金は町にあった。


 寺にあった。


 仏にあった。


⸻


 でも、シンがこの時代で見た黄金は、たぶんそこではなかった。


 金は、燃えても金だった。


 奪われても、持ち主が変わっても、重さは変わらない。


⸻


 けれど、人の中にあるものは違う。


 誰かへ渡せば形が変わる。言葉になり、約束になり、悔いになり、時には次の人間が立つ理由になる。


 シンは、この時代で何度もそれを見た。


⸻


 義経が友を信じたこと。


 国衡が兵を逃がしたこと。


 ユウガオが笑って別れたこと。


 タダが残った者を守ること。


 頼朝が、自分の世界を作ろうとしたこと。


 泰衡が最後に、自分で決めたこと。


⸻


 そして。


 モモが命令を捨てて、シンを抱いていること。


⸻


 失っても、焼かれても、奪われても、次へ渡っていくもの。


 それは金色ではない。


 形もない。


 でも、シンには見えた気がした。


⸻


 それが、黄金の心だと思った。


⸻


 炎が迫る。


 白い光が空を埋める。


 床が崩れた。


 シンはモモをもっと強く抱いた。


⸻


「モモ」


「何」


「次も、会おう」


⸻


 息が苦しい。


 モモが顔を上げる。


 すぐ近くで目が合った。


 白い光が瞳に映っている。


⸻


「シン」


「何」


⸻


 モモの手が頬へ触れた。


 熱かった。


 生きていた。


⸻


「次の時代でも」


⸻


 白雷が落ちる。


⸻


「わたしを」


⸻


 館が裂ける。


⸻


「みつけて」


⸻


 シンは笑った。


⸻


「ああ」


⸻


 それだけ言えた。


⸻


 白い光が。


 二人を。


 包んだ。


⸻


⸻


 平泉の夜は赤く染まった。


 政務所の屋根が炎の中へ落ちる。


 町のあちこちで、人が火を消していた。子供を抱いて逃げる者がいる。水を運ぶ者がいる。文書を抱え、北へ走る者がいる。


 炎は、すべてを焼いたわけではなかった。


 それでも、黄金の都の空を赤く染めた。


⸻


 その向こう。


 中尊寺の山に、金色堂があった。


 燃えていなかった。


 ただ、遠い炎を映して。


 黄金が赤く揺れていた。


⸻


 清衡が残した祈り。


 基衡が育てた都。


 秀衡が守った都。


 義経が笑った場所。


 国衡が帰ろうとした場所。


 泰衡が、最後に守ろうとしたもの。


⸻


 人は消える。


 国も終わる。


 町も形を変える。


 でも、残るものがある。


 誰かが見たもの。


 誰かが守ったもの。


 誰かが次へ渡したもの。


⸻


 火は、燃やすだけではない。


 暗い場所で、次の人間が道を見つけるためにも灯る。


⸻


 北の火は。


 消えなかった。


⸻


 そして。


 シンは、第五の時代から消えた。


⸻


⸻ Starting Over


⸻


(第五章 了 第百二十話へ)


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