Heart Of Gold
第百十九話 Heart Of Gold
⸻
阿津賀志山陥落から、十日が過ぎていた。
⸻
平泉は、まだ燃えていなかった。
だが、終わりの支度をしていた。
⸻
南へ向かう道には、人が溢れている。
荷車を引く者。背負えるだけの荷を背負った者。子供の手を引く者。何も持たず、ただ歩く者。
逆に北へ向かう兵もいた。
馬を替え、泥を跳ね上げ、まだどこかで出され続けている命令を運んでいる。
道の脇には、持ち出せなかった荷が増えていた。
壊れた箱。巻いたままの絹。割れた椀。文書。仏具。
⸻
黄金の都は、まだそこにあった。
それでも、シンの知っている平泉ではなかった。
⸻
市の声がない。
酒の匂いも、商人の呼び声も、馬の値を言い合う声もない。
前に歩いた時、この道には義経がいた。国衡がいた。ユウガオがいた。タダが飯の話をしていた。
同じ道なのに、今は風が通るだけだった。
⸻
「静か」
⸻
隣を歩くモモが言った。
⸻
「ああ」
⸻
「前は、もっと音があった」
⸻
シンが見る。
⸻
「覚えてるのか」
「覚えてる」
⸻
モモは閉じた店先を見た。
⸻
「シンが、馬に轢かれそうになった」
「それも覚えてるのかよ」
「記録良好」
「そこは忘れていい」
⸻
モモが少しだけ口元を動かした。
笑ったようにも見えた。
⸻
町の奥へ進むほど、見覚えのある景色が増えた。
義経と歩いた橋。国衡とすれ違った辻。ユウガオが面白そうなものを見つけてはシンの袖を引いた店先。
景色だけが残っている。
そこにいた人間だけが、少しずつ消えていった。
⸻
シンは懐へ手をやった。
国衡の短刀。
泰衡へ渡すためのものだった。
この十日の間、朝も夜も何度も鞘へ触れた。
夏なのに、ずっと冷たかった。
⸻
「それ」
⸻
モモが短刀を見る。
⸻
「国衡の」
「ああ」
「重い?」
⸻
シンは少し考えた。
⸻
「重い」
⸻
「鉄?」
「そういう重さじゃない」
⸻
モモは頷いた。
それ以上は聞かなかった。
⸻
少し歩いてから、シンが言う。
⸻
「モモ」
「何」
「お前は大丈夫か」
⸻
返事が遅れた。
見た目はいつものモモだった。
だが、平泉へ近づくほど桃の香りが薄くなっている。
指先も、わずかに震えていた。
⸻
「……近い」
⸻
「何が」
⸻
モモは平泉の奥を見た。
⸻
「いる」
⸻
それだけだった。
誰が、とは聞かなかった。
もう分かっていた。
⸻
⸻
政務所の門は開いていた。
兵と役人が出入りし、文書と命令だけが忙しく行き交っている。
誰もシンとモモを止めなかった。
止める余裕がなかった。
⸻
「泰衡に会いたい」
⸻
そう言うと、年老いた役人が顔を上げた。
⸻
「……国衡様とおられた方か」
⸻
シンが頷く。
役人の顔が一瞬だけ崩れた。
⸻
「こちらへ」
⸻
何も聞かなかった。
国衡が帰らないことだけは、もう分かっていた。
⸻
⸻
泰衡は奥の間にいた。
⸻
頬は痩せ、髪は乱れ、目の下には黒い影が落ちている。
机には文書が積まれていた。
南からの報せ。北からの報せ。戻らない兵。失った道。落ちた城。
その真ん中で、泰衡は同じような書状を何度も書き直していた。
⸻
「鎌倉へ使いを」
⸻
誰もいない方向へ言う。
⸻
「もう一度」
⸻
筆を取る。
⸻
「義経殿は討った。首も渡した。従った。全部、従った」
⸻
墨が滲んだ。
泰衡は、その滲みを見つめたまま笑った。
⸻
「なら、なぜ鎌倉は来る」
⸻
筆が床へ落ちる。
⸻
「なぜ阿津賀志は落ちる」
⸻
声が少し大きくなる。
⸻
「なぜ兄上は戻らぬ」
⸻
そこで、ようやく泰衡がシンを見た。
⸻
「……兄上は?」
⸻
シンは一瞬、嘘をつけたらと思った。
国衡は生きている。どこかで兵をまとめている。もうすぐ戻る。
でも、国衡が言った。
見ろ。
残せ。
⸻
「国衡は、死んだ」
⸻
泰衡が動かなくなった。
部屋の外では誰かが走り、遠くで馬が鳴いている。
そのどれも、ひどく遠かった。
⸻
「……討たれたのか」
「ああ。和田義盛に」
⸻
泰衡の喉が動く。
⸻
「一騎で戦った。紙一重だった」
⸻
シンは懐から短刀を出した。
⸻
「これを」
⸻
泰衡の目が止まる。
⸻
「……兄上の」
「ああ」
⸻
すぐには受け取らなかった。
手を伸ばしかけて、止める。
⸻
「なぜ、お前が」
「お前に会うからって、預かった」
⸻
正確には兵からだった。
それでも、国衡が最後にここへ運ばせたものだと思った。
泰衡が両手で受け取る。
震えていた。
⸻
「兄上は……何と」
⸻
シンは国衡の最後を思い出した。
土。血。笑った顔。
⸻
「弟を頼むって」
⸻
泰衡の目が揺れた。
⸻
「……私を?」
「ああ」
「兄上が」
「ああ」
「私を」
⸻
そこで声が崩れた。
短刀を抱くように胸へ引き寄せる。
⸻
「私は……兄上を……」
⸻
続かなかった。
⸻
「兄上は、私を恨んでいたか」
「いや」
⸻
シンはすぐ答えた。
⸻
「怒ってはいたと思う」
⸻
泰衡の顔が少しだけ変わる。
⸻
「でも、何より心配してた。お前は優しすぎるって。全部、お前には重すぎたって」
⸻
泰衡は俯いた。
⸻
「兄なのに、支えてやれなかったって言ってた」
⸻
しばらく何も返ってこなかった。
やがて、泰衡が掠れた声で言う。
⸻
「……遅い」
⸻
シンが見る。
⸻
「兄上も」
⸻
短刀を握る。
⸻
「お前も」
⸻
顔を上げた。
⸻
「今さら、何を言う」
⸻
目の奥にまた壊れた色が戻っていた。
⸻
「私は義経殿を討った」
⸻
シンが止まる。
⸻
「父上が守った人を、私は殺した」
⸻
「泰衡」
⸻
「兄上を戦へ出した」
⸻
声が大きくなる。
⸻
「国衡を死なせた!」
⸻
短刀を床へ叩きつけようとする。
シンがその手を掴んだ。
⸻
「だから何だ!」
⸻
泰衡がシンを見る。
⸻
「失敗したら終わりか!」
⸻
シンは離さなかった。
⸻
「間違えたら、もう立つ資格もないのか!」
⸻
「分かったようなことを言うな!」
⸻
泰衡が振り払う。
⸻
「お前に何が分かる!」
⸻
「分かんねえよ!」
⸻
シンも怒鳴った。
⸻
「俺は国を背負ったことなんかない!兄貴もいない!頼朝みたいなデカすぎる相手に攻められたこともない!」
⸻
一歩、泰衡へ近づく。
⸻
「でも、国衡が何をしてたかは見た!」
⸻
泰衡が止まる。
⸻
「阿津賀志が落ちて、勝てないって分かって、それでも兵を逃がしてた!」
⸻
「最後まで、お前のところへ人を返してた!」
⸻
「兄上が……」
「ああ!」
⸻
シンは国衡の言葉をそのまま叩きつけた。
⸻
「阿津賀志は落ちた。だが、奥州はまだ落ちておらぬ」
⸻
泰衡の目が揺れる。
⸻
「北へ行け。泰衡を一人にするな。生きろ」
⸻
国衡の声が、部屋にいた。
⸻
「お前の兄貴はな」
⸻
シンの声が少し落ちた。
⸻
「死ぬ直前まで、お前がこのあと何をするか心配してたんだよ」
⸻
泰衡の顔が崩れる。
⸻
「なのに、お前がここで全部終わった顔してどうすんだ」
⸻
シンは床へ落ちかけた短刀を拾い、泰衡へ押し返した。
⸻
「これを持って立て」
⸻
泰衡は動かない。
⸻
「国衡の分まで立てなんて言わない」
⸻
シンは言った。
⸻
「そんなの無理だから」
⸻
少しだけ息を吸う。
⸻
「お前は、お前で立て」
⸻
泰衡の手が、ゆっくり短刀を握った。
⸻
「藤原泰衡として」
⸻
長い沈黙のあと、泰衡が息を吐いた。
⸻
「……そうか」
⸻
短刀を腰へ差す。
兄の場所へ。
⸻
「兄上らしい……」
⸻
少しだけ笑った。
壊れていた顔に、人が戻っていた。
⸻
泰衡は机へ向かい、積まれた文書を一枚掴んだ。
破った。
⸻
「泰衡?」
「鎌倉へ送る書状だ」
⸻
もう一枚。
また破る。
⸻
「もう要らぬ」
⸻
さっきまでの空っぽの声ではなかった。
⸻
「頼朝は来る。何を差し出しても。何を殺しても」
⸻
義経。
国衡。
名前は言わなかった。
でも、全部そこにいた。
⸻
「なら、もう私は、私が守るものを決める」
⸻
泰衡が部屋の外へ向く。
⸻
「誰か!」
⸻
声が政務所を走った。
すぐに側近たちが入ってくる。
⸻
「道を空けろ。民を先に出せ。財は捨てよ。運べる文書だけ北へ。寺社へ兵を寄せるな。鎌倉方と遭っても、民を盾にするな」
⸻
側近たちが動けない。
⸻
「聞こえぬか!」
⸻
泰衡が怒鳴った。
⸻
「平泉は捨てる!」
⸻
空気が止まった。
⸻
「されど御館!」
「平泉のみが奥州ではない!」
⸻
泰衡の声は震えていた。
だが、止まらなかった。
⸻
「父上が残したものは、館ではない。黄金でもない。ここで生きた者だ」
⸻
シンは息を止めた。
隣でモモが、小さく泰衡を見ている。
⸻
「……変わった」
⸻
モモが呟いた。
⸻
「何が」
「泰衡」
⸻
ほんの少し間があった。
⸻
「さっきまでより、生きてる」
⸻
シンは少し笑った。
⸻
「そうだな」
⸻
泰衡は短刀の柄へ手を置いた。
⸻
「私は父上のようにはなれぬ。兄上のようにも、義経殿のようにもなれなかった」
⸻
一度目を閉じる。
⸻
「だから、藤原泰衡として決める」
⸻
その言葉は小さかった。
でも、今までのどの神託より強かった。
⸻
「平泉がなくなっても、奥州は残る。館がなくなっても、人が残れば」
⸻
国衡の短刀を強く握る。
⸻
「北は終わらぬ」
⸻
シンの胸が熱くなった。
国衡。
聞こえたか。
お前の弟は、立ったぞ。
⸻
側近たちが深く頭を下げる。
⸻
「はっ!」
⸻
人が動いた。
廊下を走り、声が飛ぶ。
命令が人から人へ渡り、外へ走っていく。
残せるものを残すために、いま何を捨てるかを決める。
阿津賀志山で国衡が最後までやっていたことと同じだった。
⸻
「シン」
⸻
モモが呼ぶ。
⸻
「何」
「国衡、届いた」
⸻
シンはモモを見る。
⸻
「ああ」
⸻
笑った。
⸻
「届いた」
⸻
⸻
その時だった。
⸻
空が白くなった。
昼ではない。
陽でもない。
何もない白。
⸻
次の瞬間、音が来た。
地面が下から殴られ、政務所が揺れる。柱が鳴り、棚から文書が落ちた。
⸻
「なんだ!?」
⸻
隣にいた少女が止まっていた。
完全に。
瞬きもしない。
息さえ、していないように見えた。
⸻
「モモ!」
⸻
シンが手を伸ばす。
その前に。
⸻
腹が熱くなった。
⸻
「……え」
⸻
下を見る。
刃があった。
脇腹へ、深く。
国衡の短刀。
さっき泰衡へ渡した刃が、今、シンの身体へ入っていた。
⸻
「……泰、衡」
⸻
顔を上げる。
泰衡が短刀を握っている。
でも。
泰衡ではなかった。
⸻
目が空っぽだった。
いや。
何かが入っていた。
シンの知らない。
知っている。
ずっと、何度も見てきた何かが。
⸻
短刀が抜かれた。
血が出る。
膝が落ちた。
⸻
「我は」
⸻
泰衡の口が動く。
低い。
古い。
人間の喉を借りているだけの声。
⸻
「阿弖流為」
⸻
シンは顔を上げた。
⸻
「……何を言ってる?」
⸻
「大墓公阿弖流為」
⸻
「は?」
⸻
血を押さえながら立とうとする。
⸻
「北の火を守る者。北を導く者」
⸻
泰衡の顔で、ソレが言う。
⸻
「歴史を正す者。誤差を消す者」
⸻
シンの眉が寄る。
⸻
「お前が?」
⸻
返事はない。
⸻
「アテルイ?」
⸻
聞き返した。
まだ、意味が分からなかった。
⸻
「阿弖流為は北の抵抗」
⸻
ソレは続ける。
⸻
「北の抵抗は敗北」
⸻
シンの目が変わる。
⸻
「敗北は修正」
⸻
一歩、前へ出た。
⸻
「修正は反復される」
⸻
「……違う」
⸻
小さく言った。
⸻
「記録は固定された」
⸻
「違う」
⸻
もう一度。
⸻
「阿弖流為は北の火」
⸻
そこで、シンの中の何かが軋んだ。
⸻
「違うって言ってんだろ!」
⸻
声が低くなる。
⸻
「阿弖流為は敗北」
⸻
「黙れ」
⸻
「阿弖流為は記録」
⸻
シンは一歩踏み出した。
⸻
「黙れ!」
⸻
それでも、ソレは言葉を止めない。
⸻
「北の英雄。抵抗の象徴。敗北の再現」
⸻
シンの顔から、血の気が引いた。
⸻
「……お前」
⸻
やっと分かった。
名を騙っている。
アテルイを。
あの男を。
⸻
シンは笑った。
怒りすぎると、人は逆に笑うらしい。
⸻
「お前、何も知らないんだな」
⸻
一歩。
⸻
「アテルイはな」
⸻
もう一歩。
⸻
「腹が減れば皆と飯を食った。モレに怒鳴られてた。子供を逃がした。仲間が死ねば、ちゃんと痛がった」
⸻
ソレは何も言わない。
⸻
「自分が何を守るか、自分で決めた!」
⸻
声が大きくなる。
⸻
「お前みたいに、人の弱さへ入り込んで!神の名前を盗んで!死んだ奴の名前まで使って!」
⸻
喉が裂けそうだった。
⸻
「自分では何一つ守らない奴が!」
⸻
シンは走った。
⸻
「アテルイを名乗るな!!」
⸻
拳を振り上げる。
殴れる距離だった。
⸻
その瞬間。
⸻
白雷が落ちた。
⸻
避けられない。
⸻
そう思った。
⸻
身体が横へ飛んだ。
⸻
「うわっ!」
⸻
違う。
飛んだのではない。
抱かれていた。
⸻
モモの腕がシンの身体を抱え、二人まとめて床を転がった。
白雷が、さっきまでシンがいた場所を貫く。
床が白く抉れた。
⸻
シンは目を開けた。
近い。
モモの顔が、ものすごく近い。
胸へ身体が触れている。
腕が背中へ回っている。
⸻
柔らかい。
桃の香り。
近すぎる。
⸻
「……モモ」
「生存確認」
⸻
いつもの声だった。
⸻
「生きてる」
⸻
少し間があった。
⸻
「心拍上昇」
「今それ言う?」
「出血」
「それだけじゃない気がする」
⸻
モモがシンを見る。
⸻
「非合理」
「久しぶりに聞いた」
⸻
一瞬だけ、笑いそうになった。
その瞬間、モモの身体が大きく震えた。
⸻
「モモ?」
⸻
白いものが目の奥を走る。
指がシンの背中へ食い込んだ。
⸻
「戻れ」
⸻
泰衡の口が言った。
⸻
「白桃」
⸻
モモが固まる。
⸻
「命令を実行せよ」
「誤差を消去せよ」
⸻
「シンを殺せ」
⸻
モモの手が腰へ動いた。
フツへ。
シンは逃げなかった。
⸻
「モモ」
⸻
名前を呼ぶ。
⸻
「俺だ」
⸻
手が柄へ触れる。
⸻
「分かってる」
⸻
モモの呼吸が止まる。
シンは目を見る。
⸻
「お前は、モモだ」
⸻
白い光が目の奥で暴れた。
⸻
「違う」
⸻
小さな声が出た。
でも。
モモの声だった。
⸻
「私は」
⸻
手が柄から離れる。
⸻
「白桃じゃない」
⸻
泰衡の顔が初めて歪んだ。
⸻
「私は」
⸻
モモがシンを抱きしめた。
⸻
「モモ」
⸻
白い光がモモの身体を走った。
音はなかった。
ただ、肩が跳ねた。背中が反り、口元から血が落ちる。
⸻
「モモ!」
⸻
シンが支える。
それでもモモは離れなかった。
⸻
「命令」
⸻
息を吐く。
⸻
「拒否」
⸻
さらに。
⸻
「シンを」
⸻
シンを見る。
⸻
「殺さない」
⸻
その瞬間、何かが切れた。
見えない糸が、音もなく切れた。
桃の香りが戻った。
強く。
一瞬だけ、部屋いっぱいに。
⸻
「モモ」
⸻
シンが笑った。
⸻
「勝った?」
⸻
モモが少し考える。
⸻
「……一旦」
「一旦かよ」
「十分」
「そうだな」
⸻
モモがほんの少し笑った。
次の瞬間、膝が崩れた。
⸻
「モモ!」
⸻
抱える。
身体が異常に熱かった。
皮膚の下で何かが焼けているようだった。
⸻
「大丈夫か」
「不正解」
「大丈夫じゃないな」
「正解」
⸻
息が浅い。
腕にも首にも、細い亀裂のような白い痕が走っていた。
白雷を、身体の中で受けたようだった。
⸻
⸻
外で鐘が鳴った。
一つ。
また一つ。
火事を知らせる鐘だった。
⸻
「火だ!」
「西の屋根へ移った!」
「水を!」
「子供を先に!」
⸻
最初に燃えたのは、政務所の一角だった。
白雷が落ちた屋根。乾いた板。積み上げられた文書。倒れた灯明。
白い異常な光が生んだ火は、すぐに人間の火へ変わった。
屋根から屋根へ。壁から壁へ。
夏の風に乗った火の粉が道を越え、離れた建物の軒へ落ちる。
そこへ、また別の白雷が落ちた。
⸻
一つの大火が町を呑んだのではない。
あちこちで別々に炎が立ち上がった。
火消しが一つを抑える間に、別の場所が燃える。
平泉が燃え始めた。
すべてではない。
寺も、山も、川も、そこにある。
だが、その夜そこにいた人間にとっては、見える世界のすべてが火だった。
⸻
「歴史は変わらない」
⸻
泰衡が言った。
まだ立っていた。
だが、その声は別のモノだった。
⸻
「北は敗北する。藤原は滅ぶ。平泉は失われる」
⸻
「固定」
「固定」
「固定」
⸻
シンは歯を食いしばった。
⸻
「うるせえ」
⸻
もう立てない。
血が止まらない。
それでも言った。
⸻
「負けることと、お前の言う通りになることは同じじゃない」
⸻
泰衡の指が動いた。
国衡の短刀が、またシンへ向く。
その時。
⸻
刃が逆へ向いた。
⸻
「……兄上」
⸻
泰衡の声だった。
一瞬、目に人が戻った。
⸻
「泰衡!」
⸻
「兄上に」
⸻
短刀を自分の脚へ突き立てる。
⸻
「顔向けが」
⸻
血が衣を染める。
⸻
「できぬ!」
⸻
叫んだ。
短刀をさらに深く押し込む。
痛みが身体を引き戻す。
⸻
「私は!」
⸻
泰衡が自分の頭を拳で殴った。
⸻
「奥州藤原氏四代当主!出羽陸奥押領使!藤原泰衡だ!」
⸻
白い光が目の奥で揺れる。
⸻
「清衡公の」
⸻
息を吸う。
⸻
「基衡公の」
「父上の」
⸻
涙が落ちる。
⸻
「兄上の!」
⸻
声が裂ける。
⸻
「奥州を!」
⸻
短刀を抜いた。
血が床へ落ちる。
⸻
「お前になど!」
⸻
もう一度、脚へ刺す。
⸻
「渡してなるものか!!」
⸻
白い何かが、泰衡の顔から抜けたように見えた。
ほんの一瞬。
でも、十分だった。
⸻
「……兄上」
⸻
泰衡が崩れ、床へ手をつく。
⸻
「今度こそ、自分で……決めました」
⸻
笑った。
泣いていた。
⸻
そこへ側近たちが雪崩れ込んできた。
⸻
「御館!」
「泰衡様!」
⸻
左右から身体を抱える。
⸻
「離せ」
「なりませぬ!」
⸻
泰衡がシンとモモを見る。
⸻
「まだ……あの者たちも」
⸻
その時、炎が天井を走った。
梁が落ちる。
シンたちと出口の間へ。
火の壁が立った。
⸻
「助けよ……!」
⸻
側近が火を見る。
崩れた梁を見る。
白雷がまた庭を貫いた。
⸻
「……間に合いませぬ!」
⸻
泰衡の顔が歪んだ。
⸻
「行け!」
⸻
シンが怒鳴った。
⸻
「泰衡を連れてけ!」
「シン殿!」
「国衡に怒られるぞ!」
⸻
泰衡が目を見開いた。
その顔が、少しだけ国衡に似た。
⸻
「……すまぬ」
⸻
泰衡が言った。
誰に、なのか分からなかった。
シンへ。モモへ。義経へ。国衡へ。平泉へ。
全部へ。
⸻
「……すまぬ」
⸻
もう一度。
側近たちが泰衡を抱え、火の向こうへ消えた。
⸻
⸻
二人になった。
シンとモモ。
それだけだった。
義経が消えて随分経った。
十日前まで国衡がいた。その翌朝まで、ユウガオがいた。タダもいた。
今は、二人だけだった。
⸻
不思議だった。
最初の時代から、何度もこの少女に殺された。
逃げた。追った。名前を呼んだ。
それでも。
最後に残ったのは、やっぱりモモだった。
⸻
炎が近づく。
出口は梁で塞がれている。別の廊下も、もう燃えていた。
白雷が外で絶え間なく落ちる。
町の鐘も、人の声も、遠くなっていく。
⸻
「モモ」
「いる」
⸻
短い。
いつものモモの声だった。
シンは笑った。
⸻
「よかった」
「何が」
「お前が、お前で」
⸻
モモがシンを見る。
⸻
「シン」
「何」
「出血量、危険」
「知ってる」
「死亡可能性」
「知ってるって」
⸻
モモが黙る。
シンは、モモの腕と首と頬に走る白い痕を見た。
⸻
「モモもボロボロじゃん」
「問題なし」
「嘘つけ」
「軽微」
「さっき崩れただろ」
「記録なし」
「都合悪いと消すな」
⸻
モモがまた、少しだけ笑った。
⸻
炎が柱を舐める。
熱い。
煙が低く降りてくる。
シンはモモへ手を伸ばした。
⸻
「来い」
「どこへ」
「ここ」
⸻
腕を広げる。
⸻
「非合理」
「知ってる」
⸻
モモが一歩近づく。
もう一歩。
シンの胸へ額が触れた。
抱きしめた。
今度はモモも、すぐに抱き返した。
細い腕だった。
でも、強かった。
⸻
「離れない」
「ああ」
「今度は」
「ああ」
⸻
「絶対」
「ああ」
⸻
シンの肩へ、モモの顔が少し沈んだ。
桃の香りがした。
あの夜から、夜花の匂いが胸の奥に残っていた。
それは消えなかった。
消さなくていいと思った。
国衡も、ユウガオも、義経も。
全部抱えたまま。
その上で、今、腕の中にいるのはモモだった。
煙の中でも。
血の匂いの中でも。
ちゃんと桃だった。
⸻
「怖い?」
⸻
モモが聞いた。
シンは少し考えた。
⸻
「怖い」
⸻
正直に言った。
⸻
「でも、独りじゃない」
⸻
抱く腕へ力を入れる。
モモが少し止まった。
⸻
「うん」
⸻
小さな声だった。
⸻
シンは目を閉じた。
いろんな顔が浮かんだ。
義経。国衡。ユウガオ。タダ。頼朝。泰衡。
皆、何かを間違えた。
何かを失った。
それでも最後まで、自分で何かを選んだ。
⸻
「黄金の、こころ」
⸻
シンが呟いた。
⸻
「何」
「いや。なんとなく」
⸻
モモは意味が分からない顔をした。
それでよかった。
⸻
黄金は町にあった。
寺にあった。
仏にあった。
⸻
でも、シンがこの時代で見た黄金は、たぶんそこではなかった。
金は、燃えても金だった。
奪われても、持ち主が変わっても、重さは変わらない。
⸻
けれど、人の中にあるものは違う。
誰かへ渡せば形が変わる。言葉になり、約束になり、悔いになり、時には次の人間が立つ理由になる。
シンは、この時代で何度もそれを見た。
⸻
義経が友を信じたこと。
国衡が兵を逃がしたこと。
ユウガオが笑って別れたこと。
タダが残った者を守ること。
頼朝が、自分の世界を作ろうとしたこと。
泰衡が最後に、自分で決めたこと。
⸻
そして。
モモが命令を捨てて、シンを抱いていること。
⸻
失っても、焼かれても、奪われても、次へ渡っていくもの。
それは金色ではない。
形もない。
でも、シンには見えた気がした。
⸻
それが、黄金の心だと思った。
⸻
炎が迫る。
白い光が空を埋める。
床が崩れた。
シンはモモをもっと強く抱いた。
⸻
「モモ」
「何」
「次も、会おう」
⸻
息が苦しい。
モモが顔を上げる。
すぐ近くで目が合った。
白い光が瞳に映っている。
⸻
「シン」
「何」
⸻
モモの手が頬へ触れた。
熱かった。
生きていた。
⸻
「次の時代でも」
⸻
白雷が落ちる。
⸻
「わたしを」
⸻
館が裂ける。
⸻
「みつけて」
⸻
シンは笑った。
⸻
「ああ」
⸻
それだけ言えた。
⸻
白い光が。
二人を。
包んだ。
⸻
⸻
平泉の夜は赤く染まった。
政務所の屋根が炎の中へ落ちる。
町のあちこちで、人が火を消していた。子供を抱いて逃げる者がいる。水を運ぶ者がいる。文書を抱え、北へ走る者がいる。
炎は、すべてを焼いたわけではなかった。
それでも、黄金の都の空を赤く染めた。
⸻
その向こう。
中尊寺の山に、金色堂があった。
燃えていなかった。
ただ、遠い炎を映して。
黄金が赤く揺れていた。
⸻
清衡が残した祈り。
基衡が育てた都。
秀衡が守った都。
義経が笑った場所。
国衡が帰ろうとした場所。
泰衡が、最後に守ろうとしたもの。
⸻
人は消える。
国も終わる。
町も形を変える。
でも、残るものがある。
誰かが見たもの。
誰かが守ったもの。
誰かが次へ渡したもの。
⸻
火は、燃やすだけではない。
暗い場所で、次の人間が道を見つけるためにも灯る。
⸻
北の火は。
消えなかった。
⸻
そして。
シンは、第五の時代から消えた。
⸻
⸻ Starting Over
⸻
(第五章 了 第百二十話へ)




