真夏の夜の夢
第百十八話 真夏の夜の夢
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国衡を埋めた。
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阿津賀志山の戦が終わっても、山にはまだ人が残っていた。
北へ退く途中で引き返してきた兵。
国衡の最期を聞いて、傷ついた身体のまま戻ってきた者。
誰かが鍬を持ち、誰かが折れた槍の柄で土を掘った。
道具が足りなければ、手を使った。
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シンも掘った。
土は硬く、石が多かった。
指の間へ泥が入り、爪の中が黒くなる。
手の皮が剥けても、ほとんど痛みを感じなかった。
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タダも黙って土を掘り続けた。
ユウガオは何も言わず、掘り出された土を運び、邪魔な石を退けた。
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国衡の身体は、少し離れた木陰へ横たえられていた。
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兜は外されている。
血を拭っても、鎧には戦の跡が残ったままだった。
義盛の刃が入った場所だけではない。
矢傷。擦れた袖。泥。乾いた血。
阿津賀志山で戦ったすべてを、その身体が残していた。
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首も。
身体も。
誰にも持っていかれなかった。
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和田義盛が、そうした。
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「もう少し深く」
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年嵩の兵が言った。
声が震えていた。
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「獣に掘られぬように」
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タダが頷き、さらに土を掘る。
誰も急かさなかった。
鎌倉の軍勢は、もう北へ進み始めている。
本当なら、一刻でも早く阿津賀志山を離れた方がいい。
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それでも。
ここだけは、誰も時間を惜しまなかった。
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やがて穴ができた。
数人の兵が国衡の身体を支え、ゆっくりと下ろす。
壊れ物を扱うように。
眠っている人間を起こさないように。
太刀は、そのまま胸元へ置かれた。
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「これを」
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一人の兵が、シンへ何かを差し出した。
短刀だった。
古い。
鞘には細かな傷があり、飾り気はない。
何度も抜かれ、何度も戻されたものだった。
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「国衡様のものです」
「俺が持っていいのか」
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兵は頷いた。
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「平泉へ」
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それだけ言った。
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「泰衡様へ、お会いになるのでしょう」
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シンは短刀を見た。
重かった。
鉄の重さではなかった。
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「分かった」
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腰へ差す。
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ユウガオが、少し離れたところへ歩いた。
山の端に咲いていた花の前でしゃがみ込む。
小さな白い花だった。
名前は知らない。
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ユウガオは一輪だけ摘んで戻り、国衡の胸元へ置いた。
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「大将に会ったら」
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ユウガオが言った。
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「酒、飲ませてやっておくれ」
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シンは少し笑った。
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「義経、全部飲むぞ」
「じゃあ取り合えばいいさ」
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ユウガオも笑った。
泣きながら。
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タダが手を合わせる。
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「飯は俺が作る」
「お前は死んでないだろ」
「あと五十年は生きる」
「お預けじゃないか」
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少しだけ。
皆が笑った。
それでよかった。
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国衡は、そういう場所にいた。
泣きながら。
最後に少しだけ笑える場所に。
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土を戻した。
一掬い。
また一掬い。
国衡の姿が少しずつ見えなくなる。
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シンは目を逸らさなかった。
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見ろ。
国衡が最後に言った。
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残せ。
お前が見たものを。
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だから。
最後まで見た。
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土がすべてを覆った。
その上へ少しだけ石を積む。
大きな墓標は立てなかった。鎌倉方に見つかり、荒らされないためだった。
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ユウガオは、もう一度山の端へ歩いた。
同じ白い花を一輪だけ摘み、今度は墓の土の上へ置いた。
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陽が傾いていた。
山の影が長く伸びる。
蝉の声が、少しずつ遠くなる。
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「行くか」
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タダが言った。
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シンは墓を見た。
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「ああ」
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三人で北へ向いた。
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会話はなかった。
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日が暮れていく。
戦場の煙が夕焼けの中へ混ざり、逃げる人々が捨てていった荷が道の脇に残されていた。
折れた車輪。
水桶。
草履。
誰かの笠。
敗走した人間の跡が、そのまま北へ続く道になっていた。
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ユウガオも静かだった。
タダも何も言わない。
シンは歩きながら、腰の短刀へ触れた。
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国衡。
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今朝までいた。
笑っていた。
大将だからな、と言っていた。
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もういない。
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次は。
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シンは指を折りそうになって、やめた。
数える必要はなかった。
次に死んだら。
この時代では、もう戻れない。
平泉。
泰衡。
タダ。
ユウガオ。
全部を置いて、別の時代へ行く。
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言えなかった。
まだ。
言えなかった。
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北の空を見る。
平泉の方角だった。
まだ煙は見えない。
それでも、空が重かった。
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川沿いへ出た頃には、夜になっていた。
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これ以上歩くのは危ない。
タダが薪を集め、シンが火を起こした。
ユウガオは川で水を汲み、三人で小さな焚火を囲む。
大きくすれば遠くから見える。
だから、手を伸ばせば暖かい程度の火だけを残した。
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川の音がある。
虫の声がある。
水面に星が映っている。
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久しぶりに。
戦が遠かった。
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ユウガオが草履を脱いだ。
川縁へ腰を下ろし、白い足を水へ入れる。
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「冷たっ」
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思わず漏れた声に、自分で笑った。
シンも少し笑う。
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泣き腫らした目。
疲れた顔。
髪も乱れている。
それでも。
綺麗だった。
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夜の中で。
今にも消えてしまいそうなほど。
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夢みたいな女だった。
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「よっ!そこの色っぽい白拍子ちゃん」
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上から声がした。
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「うわっ!」
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シンが顔を上げる。
木の枝に人がいた。
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ユウガオの目が細くなる。
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「なんだいアンタは」
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「そんな怖い顔しないでよ」
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ワカレだった。
枝から軽く飛び降りる。
いつも通り笑っている。
だが。
今日は少しだけ。
軽すぎなかった。
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「何でいるんだ」
「道があるから」
「答えになってない」
「なってるさ」
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タダが薪を一本、火へ入れた。
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「用件は」
「話が早いね」
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ワカレがユウガオを見る。
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「鎌倉で待ってる人がいるよ」
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ユウガオが動かない。
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「……誰だい」
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「静さん」
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川の音が続く。
ユウガオの顔から、表情が消えた。
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「……静?」
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ワカレが頷く。
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「生きてるのか」
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シンが聞いた。
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「生きてるよ」
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ユウガオが立ち上がる。
川から出した足が濡れたままだった。
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「どこにいるんだい」
「鎌倉」
「どうして」
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ワカレが少しだけ声を落とした。
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「表向きは、磯禅師さんと一緒に都へ帰ったことになってる」
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ユウガオが眉を寄せる。
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「表向き?」
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「実際は、あれからずっと政子さんが二人を匿ってる」
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「政子?」
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「北条政子。頼朝様の奥方」
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シンも、その名だけは知っていた。
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「静さんも磯禅師さんも、最初は鎌倉を離れたがったらしいけどね」
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ワカレは少しだけ声を落とした。
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「政子さんが、二人の身が確実に安全になるまではここにいてほしいって頼んだんだってさ」
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焚火が小さく鳴った。
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「それで今は、政子さんの庇護の下で静かに暮らしてる」
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ユウガオは、しばらく何も言わなかった。
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「……静が、生きてるんだね」
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「ああ」
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ワカレが頷く。
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「それでね」
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少し間を置いた。
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「義経くんの首が鎌倉へ届いた頃、景時くんから話が入った」
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シンが顔を上げる。
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「景時が?」
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「奥州まで義経くんと一緒に来た白拍子がいるらしい、って」
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ワカレがユウガオを見る。
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「夕顔って名前のね」
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ユウガオの指が動いた。
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「アタシを……?」
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「その話を聞いた静さんが、言ったんだ」
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ワカレの顔から、いつもの軽さが少し消えた。
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「見つけたら、連れてきてほしいってさ」
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水面の星が揺れた。
静。
吉野で別れた。
自分へ。
義経を頼むと。
最後まで見届けてほしいと。
そう言った女。
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「……勝手だね」
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ユウガオが、かすかに笑った。
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「自分でアタシを奥州まで行かせておいて、今度は帰って来いって?」
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「そういう友達なんじゃない?」
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ワカレが言う。
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「そういう女だね」
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ユウガオの声は。
少しだけ嬉しそうだった。
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だが。
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「行かないよ」
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すぐに言った。
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「まだ平泉が終わってない」
「国衡様が死んだ」
「シンも、タダも、これから平泉へ行くんだろ」
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シンを見る。
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「アタシだけ逃げろってのは、聞けないね」
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シンが口を開く。
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「……行ってくれ」
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ユウガオが振り向いた。
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「何だい、それ」
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声は低かった。
怒っていた。
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「助かってほしい」
「アタシが決めることだろ」
「分かってる」
「なら口を出すんじゃないよ」
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「それでも」
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シンはユウガオを見た。
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「行ってほしい」
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ユウガオの眉が寄る。
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「……どうして」
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答えられない。
まだ。
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「それと」
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ワカレが、今度はタダを見た。
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「君にも頼みがある」
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「俺に?」
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「夕顔ちゃんを鎌倉まで送ってほしい」
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ユウガオが顔を向ける。
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「勝手に決めるんじゃないよ」
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「まだ続きがある」
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ワカレはタダへ向き直った。
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「静さんの護衛も頼まれてる」
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タダの目が少し変わった。
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「俺が?」
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「うん。名前まで出してた」
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タダは黙った。
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「覚えていたか」
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独り言のように言う。
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ユウガオがタダを見る。
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「忘れはしないだろうさ」
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「ああ」
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タダが火を見る。
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「静が大将の傍に来た頃から知っている」
「京でも何度も顔を合わせた」
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少しだけ、昔を思い出す顔になった。
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「あの娘は、大将が飯を食わぬと俺のところへ怒鳴り込んできた」
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ユウガオが吹き出す。
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「静らしいね」
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「自分は食わずにな」
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タダが小さく笑った。
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「だから二人分食わせた」
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「アンタ、本当に誰にでも飯を食わせるね」
「腹が減るからな」
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ユウガオの顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。
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ワカレが続ける。
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「政子さんのところにいるとはいえ、静さんを大っぴらに守れる武者は置きにくい」
「だから」
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タダを見る。
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「義経くんの古い郎党で、静さん自身も知っている君に来てほしいってさ」
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タダがしばらく黙った。
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「静が、そう言ったのか」
「言った」
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「……そうか」
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それだけだった。
だが。
タダの中では。
何かが決まったように見えた。
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「俺は平泉へ行くつもりだった」
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「知ってる」
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ワカレが言う。
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「でも、義経くんがもういない今」
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少し間を置く。
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「君が守るべきものは、北にしかないのかな」
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タダは答えなかった。
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シンには。
分かった。
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タダなら。
ユウガオを守れる。
静も。
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この先。
自分がいなくなっても。
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「頼む」
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シンが言った。
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タダが見る。
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「ユウガオを」
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「アンタまで勝手なことを言うんじゃないよ」
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ユウガオが睨む。
⸻
「ごめん」
「謝れば済むと思ってるね」
「少し」
「ほんとに腹が立つ男だよ」
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それでも。
ユウガオは。
シンの顔を見ていた。
⸻
「話せ」
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タダが言った。
低い声だった。
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「何をだ」
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「夕顔と」
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シンが止まる。
⸻
タダが立ち上がった。
⸻
「話しておけ」
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それだけだった。
全部。
分かっている顔だった。
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「行くぞ」
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ワカレの肩を掴む。
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「え、俺も?」
「お前もだ」
「夜釣りでもする?」
「竿がない」
「手掴みでいこうよ」
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二人が川上へ歩いていく。
ワカレが途中で振り返った。
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「朝には戻るよ」
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「早いね」
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ユウガオが言った。
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「じゃあ昼?」
「そういう意味じゃないよ」
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ワカレの笑い声が遠ざかる。
タダの大きな背中も、やがて夜へ消えた。
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二人きりになった。
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川の音。
小さな火。
虫の声。
夏の夜気。
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何度も。
二人きりになった。
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平泉の市。
館の縁側。
夜の川。
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でも。
今夜は。
たぶん。
最後だった。
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「話しておくれ」
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ユウガオが言った。
⸻
「何を」
「全部だよ」
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逃げられなかった。
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シンは話した。
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自分は、この時代の人間ではないこと。
どうしてここへ来たのかは、自分にも分からないこと。
死んだこと。
戻ったこと。
また死んだこと。
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何度も。
同じ朝へ。
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衣川で。
阿津賀志山で。
⸻
八度。
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今ある命が、この時代で最後だということ。
次に死んだら。
もう戻れないこと。
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たぶん。
別の時代へ行くこと。
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国衡も。
タダも。
ユウガオも。
⸻
全部。
置いていくこと。
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話し終わっても。
川の音は変わらなかった。
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ユウガオは。
最後まで聞いた。
笑わなかった。
途中で止めなかった。
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「信じるのか」
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シンが聞いた。
⸻
「信じるよ」
⸻
早かった。
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「どうして」
「アンタだからさ」
⸻
「理由になってない」
「じゃあ、何度殺しても戻ってきそうな間抜け面だから」
「どんな顔だよ」
「今してる顔だよ」
⸻
少し。
笑った。
⸻
それで。
少しだけ。
息ができた。
⸻
「……だからなんだね」
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ユウガオが火を見る。
⸻
「急にいなくなる」
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シンは何も言えなかった。
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「最初から」
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ユウガオは続ける。
⸻
「アンタ、どこかへ行く顔をしてたよ」
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「そうだった?」
「そうだった」
⸻
細い枝で、焚火の端を弄る。
⸻
「誰かを探して」
「見つけたと思ったら、また別の誰かを探す」
⸻
桃の匂いが。
頭をよぎった。
⸻
「桃」
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ユウガオが言った。
⸻
シンが止まる。
⸻
「ほらね」
「何が」
「今、桃娘の顔をした」
⸻
「どんな顔だよ」
「アタシが一番嫌いな顔さ」
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言いながら。
ユウガオは笑った。
⸻
「……好きなんだろ」
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答えが出なかった。
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好き。
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それだけでは。
足りない気がした。
⸻
モモは。
最初からいた。
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何度死んでも。
殺されても。
探した。
⸻
でも。
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今。
目の前にいるのは。
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ユウガオだった。
⸻
「ユウガオが、好きだった」
⸻
シンが言った。
⸻
ユウガオの眉が上がる。
⸻
「過去形で女を口説く男は初めてだよ」
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「ものすごく好きだった」
「だから過去形を重ねるんじゃないよ」
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シンは。
少し迷って。
⸻
「今も好きだ」
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ユウガオが止まった。
⸻
今度は。
笑わなかった。
⸻
「……遅い」
⸻
「ごめん」
「そればっかりだね」
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目が濡れていた。
でも。
泣かなかった。
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「でも」
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シンは続けた。
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「助けたい奴がいる」
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名前は出さなかった。
必要なかった。
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「……知ってるよ」
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ユウガオが言った。
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「ずっと知ってた」
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少し間を置く。
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「アタシを見てるくせに」
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ユウガオが立った。
裸足のまま、ゆっくり近づいてくる。
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「桃娘が来ると、そっちを見る」
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一歩。
⸻
「アタシに触れてるくせに」
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もう一歩。
⸻
「心は、ずっとあの娘を探してる」
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シンの前で止まる。
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「ごめん」
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「また言った」
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ユウガオの手が。
シンの胸へ触れた。
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「謝るくらいなら」
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指が衣を掴む。
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「今夜くらい」
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引かれた。
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「アタシだけ見てよ」
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唇が触れた。
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前とは違った。
短くない。
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離れない。
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シンは息の仕方を忘れた。
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ユウガオの唇は、川風に冷えた頬よりずっと温かかった。
触れたところから熱が移る。
柔らかい。
少し湿っている。
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髪が頬へ触れた。
黒髪の奥から。
夜花の匂いがした。
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それだけではない。
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汗。
煙。
川の水。
人の肌。
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昼の戦を生き抜いて。
今ここにいる。
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生きた女の匂いだった。
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ユウガオの腕が、シンの背中へ回る。
薄い夏の衣越しに、身体の柔らかさが押し当てられた。
胸。
腹。
腿。
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触れているところだけ。
夜気より熱い。
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シンも腕を回した。
背中へ手を置く。
⸻
細い。
⸻
でも。
骨だけではない。
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肩から腰へ落ちる線は柔らかく、手のひらの下で身体がわずかに動く。
息をするたび。
胸が触れる。
⸻
生きていた。
⸻
ユウガオだった。
⸻
唇が離れる。
⸻
「下手だね」
⸻
「初めてだから」
「知ってるよ」
⸻
「どうして」
「全部顔に出てる」
⸻
笑われた。
⸻
今度は。
シンから触れた。
⸻
頬。
髪。
⸻
指先が。
耳の下を通る。
⸻
首筋。
⸻
ユウガオが目を閉じた。
⸻
もう一度。
口づける。
⸻
今度は長かった。
どこまでが自分の息で。
どこからが相手なのか。
分からなくなった。
⸻
ユウガオの身体が。
少しずつシンへ預けられる。
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二人で草の上へ座った。
そのまま。
倒れる。
⸻
夜空があった。
星。
木の枝。
ユウガオの髪。
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全部が混ざった。
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ユウガオが上からシンを見る。
衣の衿が少し緩んでいた。
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鎖骨。
肩。
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白い肌が夜の中に浮かぶ。
⸻
昼の熱をまだ少し残した肌だった。
表面は川風に冷えている。
けれど。
指を滑らせると、その下には確かな温度があった。
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やわらかい。
⸻
肩から二の腕へ。
指が触れる。
⸻
ユウガオが。
少しだけ息を呑んだ。
⸻
「怖いのかい」
⸻
「ちょっと」
⸻
「死ぬより?」
「種類が違う」
⸻
ユウガオが笑った。
⸻
「馬鹿だね」
⸻
また唇が触れる。
⸻
今度は。
頬へ。
額へ。
首筋へ。
⸻
シンの指が。
ユウガオの背中をなぞる。
⸻
衣越しに。
腰へ。
⸻
掌の中に。
柔らかな丸みが収まる。
⸻
抱き寄せると。
ユウガオの腿が、シンの脚へ重なった。
⸻
熱かった。
⸻
夏の夜なのに。
そこだけ。
もっと熱かった。
⸻
ユウガオが。
耳元で笑う。
⸻
「震えてるよ」
⸻
「寒くない」
「知ってる」
⸻
その声まで。
近かった。
⸻
首筋に息がかかる。
⸻
甘い匂い。
⸻
夜花。
⸻
汗。
⸻
ユウガオ。
⸻
シンの手が。
腰で止まった。
⸻
「……止めるのかい」
⸻
ユウガオが囁く。
⸻
「分からない」
「何が」
「どこまで行っていいのか」
⸻
ユウガオは。
しばらくシンを見た。
⸻
それから。
額を合わせた。
⸻
「最後まで来てもいいよ」
⸻
心臓が鳴った。
⸻
戦より。
速かった。
⸻
ユウガオの手が。
シンの頬へ触れる。
⸻
「アタシは嫌じゃない」
⸻
小さな声だった。
⸻
「今夜だけだって」
⸻
少し笑う。
⸻
「夢だったって思えばいいさ」
⸻
その言葉で。
⸻
シンは。
ユウガオを見た。
⸻
今夜だけ。
⸻
最後だから。
⸻
そう思えば。
簡単だった。
⸻
でも。
⸻
この女を。
最後だから抱くのは。
⸻
違う気がした。
⸻
「ごめん!!」
⸻
ユウガオの顔が固まる。
⸻
「……何だい、それ」
⸻
「違う!」
⸻
慌てて言う。
⸻
「嫌じゃない!」
「そうかい」
「すんごくしたい!!」
「……そこまで正直に言わなくていい」
⸻
ユウガオが吹き出した。
⸻
「でも」
⸻
シンは腕を回した。
抱きしめる。
⸻
ユウガオの身体が。
今度はすっぽり腕の中へ入る。
⸻
柔らかな胸。
細い腰。
肌の熱。
⸻
全部。
分かるくらい近い。
⸻
「今夜だけのためにしたくない」
⸻
ユウガオの笑いが止まった。
⸻
「……ひどい男だね」
⸻
「そうかな」
「そうだよ」
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胸へ顔が落ちる。
⸻
「そんなこと言われたら」
⸻
声が。
少し震えた。
⸻
「もっと、忘れられなくなるじゃないか……」
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シンは何も言えなかった。
⸻
ただ。
抱きしめた。
⸻
強く。
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ユウガオも。
抱き返した。
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長い間。
二人は。
そのままだった。
⸻
何度か。
口づけた。
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何度か。
名前を呼んだ。
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それ以上は。
しなかった。
⸻
でも。
今までで一番。
近かった。
⸻
⸻
やがて二人は、火の近くへ戻った。
同じ外衣を肩へ掛ける。
ユウガオはシンの肩へ身体を預け、絡めた指を離さなかった。
川風が吹くたび。
肌に残った相手の熱だけが、はっきり分かった。
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「シン」
「何」
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「アタシのこと」
⸻
ユウガオが、肩へ額をつけたまま言う。
⸻
「忘れるかい」
⸻
「忘れない」
⸻
すぐ答えた。
⸻
「絶対?」
「ああ」
⸻
「百年後も?」
「多分」
「千年後も?」
「多分」
⸻
ユウガオが顔を上げる。
⸻
「そこは絶対って言うところだろ」
⸻
「絶対」
⸻
「遅いよ」
⸻
また笑った。
⸻
「アタシ、千年後にはとっくに死んでるじゃないか」
⸻
「やめろよ」
⸻
「本当のことだろ」
「やめろ」
⸻
ユウガオが。
少しだけ。
優しい顔になった。
⸻
「じゃあ」
⸻
指が。
シンの胸を軽く叩く。
⸻
「アンタの中で生きるよ」
⸻
国衡の言葉が浮かんだ。
⸻
残せ。
お前が見たものを。
⸻
「うん」
⸻
シンは言った。
⸻
「残す」
⸻
ユウガオが目を閉じた。
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「なら、いいさ」
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夜が深くなる。
火が小さくなる。
川の音。
虫の声。
夜花の匂い。
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二人は。
並んで横になった。
肩が触れていた。
ユウガオの手がシンの手を探し、指が絡む。
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「眠る?」
「眠れない」
「アタシも」
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それから。
色々話した。
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義経のこと。
国衡のこと。
平泉の市で食べたもの。
酒。
静。
重衡。
モモ。
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どうでもいい話もした。
シンが馬に乗るのが下手なこと。
ユウガオが寝相の悪さを認めないこと。
タダの飯がうますぎること。
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話が途切れる。
また始まる。
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夜を終わらせないために。
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ずっと。
話した。
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いつの間にか。
ユウガオの頭が、シンの肩にあった。
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眠っていた。
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シンは。
その顔を見た。
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綺麗だった。
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少し。
口が開いていた。
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「……台無しだな」
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「聞こえてるよ」
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「起きてたのか」
「今起きたんだよ」
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目を閉じたまま。
ユウガオが笑った。
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「おやすみ」
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「おやすみ」
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シンも。
目を閉じた。
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真夏の夜の夢。
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終わらなければいいと思った。
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初めて。
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朝なんて。
来なければいいと思った。
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鳥の声で目が覚めた。
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朝だった。
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「……最悪だね」
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ユウガオが言った。
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「何が」
「朝だ」
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シンは笑った。
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「俺も最悪だ」
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「笑うんじゃないよ」
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ユウガオも笑った。
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ワカレとタダは、もう戻っていた。
タダが魚を焼いている。
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「捕れたのか」
「俺が捕った!」
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ワカレが言う。
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「嘘をつけ」
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タダが即座に返した。
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「俺が三匹。こいつは川へ落ちただけだ」
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「一匹くらい俺の手に当たったよ」
「逃げられている」
「惜しかった」
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ユウガオがシンを見る。
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「何だか安心するね」
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「何が」
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「アタシたちは、何も変わっちゃいない」
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朝飯を食べた。
焼いた魚。
残っていた粟。
水。
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最後の飯だった。
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食べ終わると。
ワカレが立った。
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「そろそろ行こうか」
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タダも立つ。
ユウガオは、しばらく座ったままだった。
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「夕顔」
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タダが呼ぶ。
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「……分かってるよ」
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ユウガオが立つ。
草履を履く。
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シンは。
何を言えばいいのか。
分からなかった。
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夜の間は。
あんなに話したのに。
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「じゃあね」
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ユウガオが言った。
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朝だった。
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「うん」
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「平泉へ行くんだろ」
「ああ」
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「死ぬんじゃないよ」
「努力する」
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ユウガオの眉が上がる。
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「そこは請け負いな」
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国衡と。
同じことを言った。
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シンが笑う。
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「分かった」
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「絶対?」
「絶対」
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ユウガオが頷く。
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そして。
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「最後にひとつ」
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「何」
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おもむろに。
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ユウガオが。
シンを蹴った。
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股だった。
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「んごぉっ!?」
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シンが崩れた。
ワカレが目を丸くする。
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「うわぁ」
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タダが目を逸らす。
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「痛そうだな」
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「痛いよ!」
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ユウガオが。
泣きながら笑っていた。
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「ひどい男だね」
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「今言う!?」
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「今だから言うのさ」
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しゃがみ込んだシンの前へ。
ユウガオが屈む。
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顔が近づく。
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唇が触れた。
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短かった。
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昨夜とは違った。
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別れの口づけだった。
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「惜しい事したね」
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ユウガオが笑う。
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本当に。
綺麗な顔だった。
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夜空に花が咲き乱れるような。
最高の笑顔だった。
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「童貞坊や」
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「大きい声で言うな!」
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「アタシを抱かずに捨てるなんて、光源氏もびっくりだよ」
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「捨ててない!」
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ユウガオの笑いが止まる。
真っ直ぐ。
シンを見る。
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「桃娘」
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シンが止まる。
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「あの娘、助けな」
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少し間を置く。
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「まだ咲いてない」
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さらに。
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「このままだと枯れるよ」
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「絶対助けな」
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ユウガオの目から。
涙が落ちた。
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「アンタじゃなきゃ無理だ」
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シンは。
頷いた。
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「ああ」
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「返事が小さいよ」
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「ああ!」
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「うるさいね」
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「どっちだよ!」
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ユウガオが笑った。
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もう一度。
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「じゃあね」
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「また会おう」
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言ってから。
シンは止まった。
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モモへ言った言葉だった。
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でも。
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ユウガオは。
嬉しそうに笑った。
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「うん」
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それだけだった。
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ワカレが南を向く。
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タダが、シンの肩へ手を置いた。
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「行ってこい」
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「タダ」
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「平泉を見ろ」
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少し間を置く。
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「俺は夕顔と静を守る」
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シンは頷いた。
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「頼む」
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「任せろ」
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タダだった。
それだけで。
安心した。
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三人が南へ向かう。
シンは北へ向く。
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少し歩いて。
振り返った。
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ユウガオも。
振り返っていた。
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目が合う。
ユウガオが手を上げる。
シンも上げた。
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それから。
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今度こそ。
互いに背を向けた。
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独りになった。
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北へ歩く。
平泉へ。
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道は昨日より静かだった。
逃げてくる人と何度もすれ違う。
荷を背負った者。
子供の手を引く者。
何も持っていない者。
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皆。
南へ行く。
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シンだけが。
北へ行く。
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国衡の短刀が腰にある。
重かった。
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でも。
昨日より。
少しだけ歩けた。
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ユウガオ。
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思い出す。
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夜。
唇。
柔らかな身体。
肌の熱。
夜花の匂い。
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それから。
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最後に蹴られた場所が。
まだ痛い。
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「……本当にひどい女だな」
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口元が。
少しだけ笑った。
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風が吹いた。
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夜花の匂いがした。
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ありえない。
ここには。
ユウガオはいない。
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それでも。
振り返った。
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誰もいない。
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代わりに。
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桃の香りがした。
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シンは止まる。
前を見る。
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道の先に。
モモがいた。
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黒い髪。
桃の髪飾り。
白い肌。
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鎌倉の陣へ入る前。
別れた時と。
同じ顔だった。
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「モモ」
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モモが。
シンを見る。
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「おはよ」
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「……おはよう」
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少し間があった。
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「ずっといたのか」
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モモが考える。
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「まあまあ」
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「……見てた?」
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さらに考える。
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「まあまあ」
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シンの顔が固まる。
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「どこから」
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「黙秘する」
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「怖いんだけど」
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モモが。
ほんの少しだけ笑った気がした。
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シンは。
それを見た。
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白桃ではない。
モモだった。
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「平泉」
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モモが言った。
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「一緒に行く」
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シンが止まる。
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「いいのか」
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モモが頷く。
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「最後まで見る」
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さらに。
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「今度は離れない」
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風が吹いた。
桃の香りがした。
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シンは。
平泉の方を見る。
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重い空だった。
まだ。
燃えてはいない。
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でも。
近かった。
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「行こう」
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モモが隣へ来る。
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二人で。
歩き始めた。
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桃の香り。
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その隣で。
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シンは。
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昨夜、腕の中にあった柔らかな身体と。
肌の熱と。
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夜花の匂いを。
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まだ。
忘れられずにいた。
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(第百十九話へ)




