国衡
第百十七話 国衡
⸻
朝靄の向こうで、白旗が動いた。
⸻
最初は一列だった。それが二列、三列と増え、やがて山裾の向こうまで白旗が続いた。
法螺貝が鳴った。
少し遅れて、阿津賀志山のあちこちから太鼓が返る。
⸻
「来るぞ!」
⸻
国衡の声が、防塁を走った。
奥州兵が土塁の陰へ身を沈める。弓を引く者。槍を構える者。堀際の逆茂木を最後まで直す者。
⸻
シンも立ち上がった。
⸻
「シン!お前は水だ!」
「分かってる!」
「分かっている奴は槍を持とうとせぬ!」
⸻
いつの間に拾ったのか、自分の手に短い槍があった。
シンは黙って地面へ置いた。
国衡が一度だけ頷く。
⸻
「それでいい。声と水を運べ。死にたくなければ、俺より前へ出るな」
「昨日は好きにしろって言っただろ」
「一晩で気が変わった」
「横暴だな」
「大将だからな」
⸻
笑ったのは、そこまでだった。
⸻
鎌倉方の矢が来た。
空が一瞬、暗くなる。
⸻
土塁へ伏せた次の瞬間、乾いた音が何十も重なった。木へ刺さり、土へ落ち、盾へ弾かれる。
奥州方の弓が返った。
南から上がった鬨の声が、山と湿地へ押し寄せる。
⸻
国衡たちが作った防塁は、最後まで役目を果たした。
湿地へ入った馬は速度を失い、堀へ寄せた兵は足を止めた。そこへ土塁の上から矢が重なり、山側では合図とともに丸太が斜面を駆け落ちた。
⸻
前へ出られる兵の数を、奥州側が決める。
国衡が言った通りだった。
鎌倉の大軍は、一度には戦えない。
⸻
「押してる!」
⸻
水桶を運んでいたシンの横で、若い兵が叫んだ。
実際、正面の白旗が下がって見えた。
堀の前に人が詰まり、後ろの兵が前へ出られない。倒れた馬が道を塞ぎ、さらに混乱を広げている。
奥州兵から歓声が上がった。
⸻
「まだだ!」
⸻
国衡の怒声が、それを押し潰した。
⸻
「前だけを見るな!山を見ろ!」
⸻
鳥取越。
⸻
昨夜から、国衡は兵を置いていた。
道を知っている。来る時刻も知っている。先に入る少数の兵だけを見て、奇襲だと騒ぐこともしなかった。
奥州側は、一度そこを受け止めた。
狭い山道へ入った鎌倉兵を前後から挟み、斜面から矢を浴びせた。先頭の兵が崩れ、後続が詰まり、しばらくは道そのものが止まった。
対策は、効いた。
⸻
⸻
だが。
⸻
止めた道の後ろから、さらに兵が来た。
その後ろからも来た。
先に入った者が倒れても、次が登る。木を切り、枝を払い、人一人しか通れなかった場所を二人、三人と通れる幅へ変えていく。
正面でどれほどの大軍を止めても、山の中では十人が二十人になり、二十人が百人になる。
⸻
国衡が備えた道だけではなかった。
人が登れる斜面は、すべて道になった。
⸻
「後ろへ回られます!」
⸻
伝令が転がるように駆け込んだ。
⸻
「鳥取越の北!別の兵が斜面を越えております!」
⸻
国衡は一瞬だけ目を閉じた。
すぐに開く。
⸻
「山側の二陣を下げろ。大木戸へ寄せすぎるな。退路を塞がせるな」
「しかし、正面が!」
「だからだ!」
⸻
国衡が馬を返す。
⸻
「前と後ろで挟まれたら終わる!傷を負った者から北へ送れ!」
⸻
⸻
そこから先は、早かった。
⸻
どこが最初に破られたのか、シンには分からない。
正面の大木戸だったのか。
山側だったのか。
あるいは、どちらも同じだったのか。
気づいた時には、土塁の向こうとこちらの両方から鬨の声が聞こえていた。
⸻
白旗が一つ、防塁の上に立つ。
奥州兵が引き倒す。
また別の場所に立つ。
今度は、その後ろからさらに三つ現れた。
⸻
「大木戸、持ちませぬ!」
「後陣へ鎌倉勢!」
「山からも来ます!」
⸻
報告が重なった。
国衡は全部を聞いた。
⸻
それから、槍を高く上げ、叫んだ。
⸻
「退け!」
⸻
兵たちが動かなかった。
聞こえなかったわけではない。
聞きたくなかったのだ。
⸻
「国衡様!まだ戦えます!」
「だから退けと言っている!」
⸻
国衡の声が山を叩いた。
⸻
「戦える者までここで死ねば、次に誰が戦う!負傷者を先に出せ!旗は捨てろ!北へ行け!」
⸻
それでも、一人の兵が食い下がった。
⸻
「阿津賀志を捨てるのですか!」
⸻
国衡は、その兵を見た。
⸻
「阿津賀志は落ちた」
⸻
誰も息をしなかった。
⸻
「だが、奥州はまだ落ちておらぬ」
⸻
その一言で、人が動いた。
悔しさを飲み込み、傷ついた仲間を背負い、北へ向かう。
⸻
敗走だった。
⸻
⸻
ユウガオは女たちと一緒に負傷者の腕を肩へ回していた。
タダは一人で二人を担ぎ、さらに誰かの荷まで持っている。
シンも倒れた兵を起こした。
⸻
「歩けるか」
「……ああ」
「嘘つけ。全然歩けてない」
⸻
肩を貸す。
昨日までなら、国衡を助けることだけを考えていた。
今は、その国衡が逃がそうとしている人間を運んでいる。
それが正しいのかは分からない。
ただ。
国衡が何を守ろうとしているのかは、少し分かった。
⸻
退く兵の流れが、次第に北へ細くなっていく。
シンはそこで気づいた。
国衡がいない。
⸻
「国衡!」
⸻
振り返る。
崩れた土塁の向こうに、黒い馬が見えた。
高楯黒。
その背に国衡がいる。
北へ逃げる兵を見送ったまま、自分は動いていなかった。
⸻
「またかよ……!」
シンは走った。
⸻
「シン!」
⸻
後ろでユウガオが怒鳴る。
止まらなかった。
国衡へ向かって、逃げる人の流れを逆に進む。
タダの足音も追ってきた。
⸻
「国衡!」
⸻
呼ぶと、国衡がこちらを見た。
怒ると思った。
だが、返ってきたのは呆れた顔だった。
⸻
「お前は、どうして命令を聞かぬ」
「お前もだろ!」
「俺は大将だ」
「便利だな、その言葉!」
「便利だから使っている」
⸻
国衡が少し笑った。
その笑いの向こうから、馬の蹄が近づいてきた。
⸻
南側の崩れた道を、鎌倉勢が上がってくる。
先頭にいたのは、大柄な武者だった。
血と泥で鎧の色もよく分からない。それでも、あの声だけは間違えようがなかった。
⸻
「あっ!お前ぇっ!」
⸻
山が驚くような声だった。
シンは思わず顔をしかめた。
⸻
「……義盛」
⸻
「なぜお前が奥州側にいる!」
「もともとこっち側だ!」
「俺は戦に来たのだ!」
「俺もだよ!」
「お前は戦えんだろうが!」
「それはそう!」
⸻
⸻
和田義盛だった。
⸻
鎌倉の陣で出会った時と何も変わらない。
声が大きい。
身体も大きい。
考える前に口が動き、口が動いた後で、だいたい全部顔に出る。
⸻
ただし、太刀へ手を掛けた瞬間だけは別人だった。
後ろから追いついた鎌倉兵が、義盛の横を抜こうとする。
⸻
「待て!」
⸻
義盛が怒鳴った。
⸻
「ここは俺が見る!勝手に前へ出るな!」
「されど、和田殿!」
「されども何もない!俺が言っている!」
⸻
理屈ではなかった。
だが、郎党は止まった。
この男の声には、人を止める力があった。
⸻
義盛の目が、国衡へ移る。
今度は黙った。
国衡も、馬上から義盛を見ている。
⸻
「……藤原の、国衡殿か」
「和田義盛殿とお見受けする」
「俺を知っているのか!」
「侍所別当を知らぬほど、奥州は呑気ではない」
「そうか!」
⸻
なぜか少し嬉しそうだった。
シンは思った。
⸻
(本当に分かりやすいな、この人)
⸻
義盛が国衡を見直す。
兜。
傷だらけの鎧。
高楯黒。
その背後に、北へ退いていく奥州兵。
⸻
「貴殿が、九郎殿に奥州を託された男か」
⸻
国衡の目がシンへ向いた。
⸻
「お前、どこまで話した」
「少し……」
「少しではない!」
⸻
義盛が即座に怒鳴った。
⸻
「九郎殿が衣川で何を言ったか、だいたい聞いたぞ!」
「だいたいで良いのか」
「なら全部だ!」
「どんどん増える」
⸻
国衡が声を上げて笑った。
義盛はむっとしたが、すぐに自分も笑った。
⸻
敵同士だった。
ついさっきまで、互いの兵が殺し合っていた。
⸻
それでも、義経という一人の男を挟むと、二人の間から妙な遠さが消えた。
⸻
「国衡殿」
⸻
義盛が言った。
⸻
「もう退け」
⸻
国衡の笑いが止まる。
⸻
「阿津賀志は抜けた。ここに残っても、もう戦は戻らん」
「分かっている」
「なら北へ行け!まだ平泉があろう!」
⸻
義盛は、そこでシンを指した。
⸻
「こいつが言ったのだ!九郎殿は絶対に帰ってくると!なら、帰る場所を残しておけ!戻った九郎殿が困るだろうが!」
⸻
声が大きい。
言っていることも真っ直ぐだった。
国衡はしばらく義盛を見た。
⸻
「良い話だ」
「そうだろう!」
⸻
「断る」
⸻
「なぜだぁ!」
⸻
義盛が本気で驚いた。
国衡は馬から降りる。
高楯黒の首を撫で、手綱を近くの兵へ預けた。
⸻
「先に北へ連れていけ」
「国衡様」
「こいつはよく働いた。俺より先に休ませろ」
⸻
兵は何か言おうとした。
国衡は目だけで止めた。
高楯黒が鼻を鳴らす。
離れようとしなかった。
⸻
「行け」
⸻
首筋を軽く叩く。
今度は、黒い馬も動いた。
⸻
国衡が太刀の位置を直した。
⸻
「和田殿」
「何だ」
「俺はここを守る大将だ」
「さっき聞いた!」
「なら話が早い」
⸻
国衡が笑う。
⸻
「通るなら、俺を倒していけ」
⸻
義盛の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
⸻
「お前も馬鹿か!」
「も?」
⸻
「九郎殿も馬鹿だった!何でも一人で決めて、勝手に残って、周りへ面倒を全部置いていく!」
⸻
「それは悪かったな」
「なぜお前が謝る!」
⸻
「友だからだ」
「なら余計に腹が立つ!」
⸻
義盛は頭を掻きむしった。
本気で困っていた。
このまま国衡を無視して北へ追えばいい。
兵をぶつければいい。
それが戦としては正しい。
⸻
だが、目の前の男は義経が奥州を託した友で、自分と同じように最後まで残ろうとしている。
義盛には、それが許せないらしかった。
⸻
「退け!」
⸻
「断る」
⸻
「生きろ!」
「お前が言うな……」
「俺は生きる!」
「なら俺に勝て」
⸻
義盛が、とうとう天を仰いだ。
⸻
「何でそうなる!」
⸻
誰も答えなかった。
シンにも分からない。
⸻
だが。
⸻
義盛は大きく息を吐くと、馬を降りた。
背負っていた弓を下ろした。
⸻
「……一度だけだぞ」
⸻
国衡の目が細くなる。
⸻
「何がだ」
⸻
「一騎で受ける!俺が勝ったら、文句を言わず北へ行け!」
⸻
「負けたら?」
「俺が負ける前提で話すな!」
「では、俺が勝ったら」
⸻
国衡は少し考えた。
⸻
「九郎殿が戻った時、酒を奢れ」
「その程度か!」
⸻
「高い酒で頼む」
「分かった!だから死ぬな!」
⸻
そのやり取りで。
なぜか、二人とも笑った。
シンだけは笑えなかった。
⸻
「国衡」
「来るな」
⸻
名前を呼んだだけで、止められた。
⸻
「これは俺が選ぶ」
⸻
昨日、自分がユウガオへ言った言葉が戻ってくる。
⸻
自分で決めたことに、俺が口を出すのは違う。
あの時は簡単に言えた。
今は、最悪の言葉だった。
⸻
「でも」
「見ていろ」
⸻
国衡が言った。
⸻
頼朝も言った。
見届けよ、と。
国衡も、同じことを言う。
シンは拳を握った。
⸻
それ以上、前へ出られなかった。
⸻
義盛が郎党へ向く。
⸻
「誰も手を出すな!」
「和田殿!」
「うるさい!一騎と言ったら一騎だ!」
⸻
さらに、奥州側に残っていた兵まで睨む。
⸻
「そっちもだ!俺の背中へ矢を射るなよ!」
「射るか!」
⸻
国衡が笑った。
⸻
「分からんだろう!戦場だぞ!」
「お前が始めた一騎打ちだろう」
「そうだった!」
⸻
義盛は大声で笑った。
そして。
弓を構えた。
⸻
空気が変わった。
⸻
さっきまで怒鳴っていた男が、急に静かになる。
国衡も弓を取った。
⸻
二人の間に距離が開く。
土塁の崩れた斜面。
踏めば滑る土。
⸻
折れた矢。
倒れた旗。
戦場そのものが、二人の足元に残っていた。
⸻
先に放ったのがどちらだったのか、シンには分からなかった。
⸻
弦音がほとんど重なった。
義盛の矢が国衡の兜を掠め、国衡の矢は義盛の大袖へ突き立つ。
義盛の身体が揺れた。
⸻
「痛いではないか!」
「戦だぞ」
「知っておる!」
⸻
怒鳴り返しながら、もう一本を番える。
国衡が笑った。
⸻
二射目は、互いに当たらなかった。
国衡は射ると同時に前へ出た。
義盛も弓を捨てる。
⸻
太刀が抜かれた。
金属の音が、戦場の喧騒を一瞬だけ切った。
⸻
国衡は速かった。
義盛は強かった。
⸻
一度受けるたび、土が沈む。義盛の太刀を国衡が外へ流し、その返しが義盛の肩を掠める。
鎧の緒が切れた。
⸻
「やるな!」
「まだ言うか!」
「強い者には言う!」
「そうか!」
⸻
義盛が笑う。
⸻
次の一撃は、国衡が受けきれなかった。
⸻
刃が胸の鎧の端を削り、その下を浅く裂く。血が飛んだ。
⸻
「国衡!」
⸻
シンが動く。
すぐに、タダの腕が胸の前へ出た。
⸻
「見るんだ」
⸻
低い声だった。
⸻
「でも!」
「国衡が、決めた」
⸻
タダも、苦しそうだった。
少し遅れて追いついたユウガオは何も言わない。
唇を噛み、両手を握っている。
⸻
国衡は笑っていた。
⸻
これまで背負っていたものが、今だけは見えなかった。
泰衡も。
奥州も。
頼朝も。
義経も。
⸻
目の前にいる強い武者だけを見ていた。
⸻
「どうした、和田殿!」
「死にかけが元気になるな!」
「まだ死んでおらぬ!」
「なら死ぬな!」
「無茶を言う!」
⸻
二人が、同時に踏み込んだ。
⸻
国衡の太刀が義盛の首へ走る。
義盛の刃は、国衡の脇へ入る。
どちらも止めない。
一瞬だけ。
義盛が頭を沈めた。
⸻
国衡の刃が兜の縁を削る。
火花が散った。
同時に、義盛の太刀が鎧の隙間へ深く入った。
⸻
音が遠くなった。
⸻
二人が止まっている。
国衡の太刀は、義盛の首筋へ触れていた。
⸻
あと少し。
本当に、ほんの少しだった。
義盛が頭を沈めなければ。
国衡の刃が、もう指一本深ければ。
倒れていたのは逆だった。
⸻
国衡の手から力が抜けた。
義盛が慌てて太刀を引く。
⸻
「国衡殿!」
⸻
今さらのように名前を呼んだ。
国衡は一歩だけ下がり、太刀を地面へ突く。それを杖にして、どうにか立っていた。
⸻
「……紙一重か」
「そうだ」
⸻
義盛の声が震えた。
⸻
「俺が、ほんの少し速かった」
「いや」
⸻
国衡が首を振る。
⸻
「貴殿が、ほんの少し強かった」
「そういうことを言うな!」
「褒めている」
「嬉しくない!」
⸻
義盛の目から、大粒の涙が落ちた。
隠そうともしない。
国衡がそれを見て、少し驚いた。
⸻
「泣くのか」
「泣く!」
⸻
即答だった。
⸻
「強い奴と戦って!やっと友になれそうだと思ったら!その友を俺が斬ったのだぞ!泣くに決まっておるだろうが!」
⸻
「もう友なのか」
「今決めた!」
「勝手だな」
「九郎殿にも同じことを言われた!」
⸻
国衡が、声を立てて笑った。
傷が痛んだのか、途中で咳に変わる。
血が噴き出す。
それでも、楽しそうだった。
⸻
義盛の郎党が、おそるおそる前へ出た。
⸻
「和田殿」
「何だ!」
「首級を。これほどの敵将ならば、大きな手柄に――」
⸻
「いらん!」
⸻
義盛の怒声が、山へ響いた。
郎党が固まる。
⸻
「しかし、和田殿の御手柄が」
「手柄なぞ、他の郎党にでもくれてやれ!」
⸻
義盛は泣きながら怒鳴った。
⸻
「俺はこいつと一騎で戦った!俺が勝った!俺が知っておればそれでよい!」
「されど、敵将の首級は――」
「触るな!」
⸻
義盛が太刀の柄を叩いた。
⸻
「藤原国衡は、九郎殿が奥州を託した男だ!今は俺の友でもある!友の首を刎ねて、手柄だと持ち帰れるか、馬鹿者!」
⸻
郎党が言葉を失う。
⸻
「鎌倉殿へは、俺が見たと言う!文句があるなら俺が直接怒鳴られる!だから誰も、この男に触るな!」
⸻
理屈として正しいのかは、シンには分からなかった。
たぶん景時なら、頭を抱える。
頼朝も、面倒そうな顔をするかもしれない。
⸻
それでも。
今この場で義盛へ逆らえる者はいなかった。
何より、誰も逆らいたくなかった。
⸻
義盛が国衡へ向き直る。
涙を袖で拭う。
だが、拭ったそばからまた流れる。
⸻
「国衡殿」
「何だ」
⸻
「忘れんぞ」
「まだ死んでおらぬ」
⸻
「分かっておる!」
「なら、もう少し静かにしろ」
「お前が死にそうだから声が大きくなるのだ!」
「元からだろう」
⸻
国衡が笑った。
義盛も泣きながら笑った。
⸻
「シン!」
⸻
突然、義盛が振り返る。
⸻
「何だよ」
「最後までいろ!」
「言われなくてもいる」
「死ぬなよ!九郎殿の話も、まだ途中だ!」
「分かった」
「約束だぞ!」
「前にも聞いた」
「なら二度目だ!」
⸻
何の理屈にもなっていなかった。
でも。
義盛らしかった。
⸻
義盛は最後に国衡へ深く頭を下げた。
⸻
「藤原国衡殿。見事だった」
⸻
国衡も、太刀に身体を預けたまま頭を下げる。
⸻
「和田義盛殿。楽しかった」
「その言葉が一番腹立つ!」
⸻
また泣いた。
そのまま背を向ける。
⸻
「行くぞ!」
⸻
郎党たちが続く。
誰も国衡へ手を出さなかった。
白旗が崩れた防塁の向こうへ消えるまで、義盛は二度振り返った。
二度とも泣いていた。
⸻
「……すごい人だな」
⸻
シンが言った。
⸻
「強いのか、馬鹿なのか、いい人なのか分からない」
⸻
国衡が息を吐く。
⸻
「全部だろう」
「そっか」
⸻
その時。
⸻
国衡の膝が崩れた。
⸻
「国衡!」
⸻
シンが駆け寄る。
タダが反対側から身体を支えた。
ユウガオが地面へ膝をつき、血の出ている場所へ布を押し当てる。
⸻
「タダ、押さえて!」
「分かった」
「シン、水!」
「ある!」
⸻
言われる前から手が動いた。
⸻
だが。
⸻
血は止まらなかった。
義盛の刃は、深く入っていた。
⸻
「待ってろ」
⸻
シンは何度も言った。
⸻
「運べば、まだ」
「どこへだ」
「分からない。でも、何かある」
「阿津賀志は落ちたぞ」
「そんなの関係ない!」
⸻
声が震えた。
⸻
「頼朝にも会った。止めようとした。鳥取越も分かってた。国衡だって備えた。それでも……」
⸻
喉が詰まる。
⸻
「それでも、助けられなかった」
⸻
国衡はしばらくシンを見た。
それから、少し笑った。
⸻
「知っている顔だ」
「何が」
「負けた奴の顔だ」
⸻
シンが黙る。
⸻
「俺も、何度もした」
⸻
国衡は、崩れた阿津賀志山を見た。
土塁の向こうでは、まだ遠く戦の音がしている。
⸻
「若い頃、初めて退いた時もそうだった」
⸻
息を整えながら、ゆっくり話す。
⸻
「仲間が死んだ。俺が先に動けば違ったかもしれぬ。もっと強ければ。もっと早く気づけば。そう思った」
⸻
少し間を置く。
⸻
「ずっと残る」
⸻
シンは何も言えない。
⸻
「だが、あの時に退かなければ、俺は今日まで来られなかった」
⸻
国衡がシンを見る。
⸻
「負けた奴は、何かを置いて生きる」
「俺は置きすぎた」
「なら、持てるものだけ持て」
「簡単に言うなよ」
「死ぬ奴は、だいたい簡単に言う」
「自覚あるのかよ」
⸻
国衡が、ほんの少し笑った。
⸻
しばらくして、国衡は北を見た。
笑いが消える。
⸻
「シン」
「何だ」
「頼みがある」
⸻
その声で、分かってしまった。
昨日。
死ねば、泰衡を支えられぬ。
国衡は、そう言っていた。
⸻
「弟を」
⸻
国衡が息を吸う。
⸻
「泰衡を頼む」
⸻
「自分で頼め」
「そうしたい」
「なら生きろ」
「それが難しいらしい」
「難しいで済ませるな!」
⸻
声を上げたシンを、国衡は黙って見ていた。
怒らない。
言い返さない。
シンが黙るまで、待っていた。
⸻
「優しい奴なんだ」
⸻
国衡が言った。
⸻
「泰衡は」
⸻
ユウガオが顔を伏せる。
⸻
「優しすぎる」
⸻
国衡の声が少し遠くなる。
⸻
「父の後を継いだ。奥州を背負った。義経殿を守れと言われた。鎌倉を恐れた。北を守れと、何かに囁かれた」
⸻
神託。
シンは何も言わなかった。
⸻
「全部、あいつには重すぎた」
⸻
国衡の指が、土を掴む。
⸻
「俺は兄だった」
「知ってる」
「兄なのに、支えてやれなかった」
「違う」
「何がだ」
「アンタは、ずっと支えてた」
⸻
国衡は少しだけ目を細めた。
⸻
「そう見えたなら、よかった」
⸻
遠くで、また鬨の声が上がった。
鎌倉軍はもう北へ動き始めている。
時間がない。
⸻
「見てやってくれ」
⸻
国衡が言った。
⸻
「泰衡が何をするか。何を選ぶか」
「最後まで」
⸻
シンは答えなかった。
答えれば、国衡が終わる気がした。
⸻
「まず、アンタを助ける」
「俺の話は、もう終わりだ」
⸻
静かな声だった。
国衡は北を見る。
⸻
「戦も終わった」
⸻
阿津賀志山。
国衡が守ろうとした壁は、もう破られている。
⸻
「次は、奥州が終わる」
⸻
シンの胸が痛んだ。
頼朝も言った。
見届けろ。
国衡も言う。
最後まで見ろ。
シンはようやく頷いた。
⸻
「……分かった」
⸻
国衡の目が、少しだけ緩む。
⸻
「泰衡を見る」
「そうか」
「何を選ぶのか。最後まで」
「頼む」
⸻
周りには、まだ奥州兵が残っていた。
誰も動こうとしない。
国衡が気づき、眉を寄せた。
⸻
「何をしている」
「国衡様」
「退けと言った」
「しかし」
「俺一人のために、命令を破るな」
⸻
声はもう大きくない。
それでも、兵たちは聞いていた。
⸻
「進め」
⸻
一人が泣いた。
⸻
「生きろ」
⸻
別の一人も顔を伏せる。
⸻
「北へ行け。泰衡を一人にするな」
⸻
兵たちは、少しずつ立ち上がった。
一人が国衡へ深く頭を下げる。
それに続いて、皆が頭を下げた。
泣きながら。
それでも、北へ歩き始める。
国衡は最後まで、その背中を見ていた。
⸻
「シン」
「いる」
「見ろ」
「ああ」
「残せ」
「何を」
⸻
国衡は少し笑った。
⸻
「お前が見たものをだ」
⸻
それから、北を見た。
⸻
「北を忘れるな」
⸻
シンは頷いた。
今度は、声にした。
⸻
「忘れない」
⸻
国衡の顔から、最後の力が抜けた。
満足そうだった。
本当に。
やれることを全部やった人間の顔だった。
ゆっくり息を吐く。
⸻
次の息は、来なかった。
⸻
ユウガオが泣いた。
声を殺すつもりだったのだろう。
途中で、できなくなった。
タダは何も言わず、国衡の目を閉じた。
シンは動かなかった。
逃げなかった。
目を背けなかった。
⸻
見た。
⸻
最後まで。
⸻
国衡の口元には、まだ薄い笑みが残っていた。
⸻
⸻
(第百十八話へ)




