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国衡

第百十七話 国衡


⸻


 朝靄の向こうで、白旗が動いた。


⸻


 最初は一列だった。それが二列、三列と増え、やがて山裾の向こうまで白旗が続いた。


 法螺貝が鳴った。


 少し遅れて、阿津賀志山のあちこちから太鼓が返る。


⸻


「来るぞ!」


⸻


 国衡の声が、防塁を走った。


 奥州兵が土塁の陰へ身を沈める。弓を引く者。槍を構える者。堀際の逆茂木を最後まで直す者。


⸻


 シンも立ち上がった。


⸻


「シン!お前は水だ!」


「分かってる!」


「分かっている奴は槍を持とうとせぬ!」


⸻


 いつの間に拾ったのか、自分の手に短い槍があった。


 シンは黙って地面へ置いた。


 国衡が一度だけ頷く。


⸻


「それでいい。声と水を運べ。死にたくなければ、俺より前へ出るな」


「昨日は好きにしろって言っただろ」


「一晩で気が変わった」


「横暴だな」


「大将だからな」


⸻


 笑ったのは、そこまでだった。


⸻


 鎌倉方の矢が来た。


 空が一瞬、暗くなる。


⸻


 土塁へ伏せた次の瞬間、乾いた音が何十も重なった。木へ刺さり、土へ落ち、盾へ弾かれる。


 奥州方の弓が返った。


 南から上がった鬨の声が、山と湿地へ押し寄せる。


⸻


 国衡たちが作った防塁は、最後まで役目を果たした。


 湿地へ入った馬は速度を失い、堀へ寄せた兵は足を止めた。そこへ土塁の上から矢が重なり、山側では合図とともに丸太が斜面を駆け落ちた。


⸻


 前へ出られる兵の数を、奥州側が決める。


 国衡が言った通りだった。


 鎌倉の大軍は、一度には戦えない。


⸻


「押してる!」


⸻


 水桶を運んでいたシンの横で、若い兵が叫んだ。


 実際、正面の白旗が下がって見えた。


 堀の前に人が詰まり、後ろの兵が前へ出られない。倒れた馬が道を塞ぎ、さらに混乱を広げている。


 奥州兵から歓声が上がった。


⸻


「まだだ!」


⸻


 国衡の怒声が、それを押し潰した。


⸻


「前だけを見るな!山を見ろ!」


⸻


 鳥取越。


⸻


 昨夜から、国衡は兵を置いていた。


 道を知っている。来る時刻も知っている。先に入る少数の兵だけを見て、奇襲だと騒ぐこともしなかった。


 奥州側は、一度そこを受け止めた。


 狭い山道へ入った鎌倉兵を前後から挟み、斜面から矢を浴びせた。先頭の兵が崩れ、後続が詰まり、しばらくは道そのものが止まった。


 対策は、効いた。


⸻


⸻


 だが。


⸻


 止めた道の後ろから、さらに兵が来た。


 その後ろからも来た。


 先に入った者が倒れても、次が登る。木を切り、枝を払い、人一人しか通れなかった場所を二人、三人と通れる幅へ変えていく。


 正面でどれほどの大軍を止めても、山の中では十人が二十人になり、二十人が百人になる。


⸻


 国衡が備えた道だけではなかった。


 人が登れる斜面は、すべて道になった。


⸻


「後ろへ回られます!」


⸻


 伝令が転がるように駆け込んだ。


⸻


「鳥取越の北!別の兵が斜面を越えております!」


⸻


 国衡は一瞬だけ目を閉じた。


 すぐに開く。


⸻


「山側の二陣を下げろ。大木戸へ寄せすぎるな。退路を塞がせるな」


「しかし、正面が!」


「だからだ!」


⸻


 国衡が馬を返す。


⸻


「前と後ろで挟まれたら終わる!傷を負った者から北へ送れ!」


⸻


⸻


 そこから先は、早かった。


⸻


 どこが最初に破られたのか、シンには分からない。


 正面の大木戸だったのか。


 山側だったのか。


 あるいは、どちらも同じだったのか。


 気づいた時には、土塁の向こうとこちらの両方から鬨の声が聞こえていた。


⸻


 白旗が一つ、防塁の上に立つ。


 奥州兵が引き倒す。


 また別の場所に立つ。


 今度は、その後ろからさらに三つ現れた。


⸻


「大木戸、持ちませぬ!」


「後陣へ鎌倉勢!」


「山からも来ます!」


⸻


 報告が重なった。


 国衡は全部を聞いた。


⸻


 それから、槍を高く上げ、叫んだ。


⸻


「退け!」


⸻


 兵たちが動かなかった。


 聞こえなかったわけではない。


 聞きたくなかったのだ。


⸻


「国衡様!まだ戦えます!」


「だから退けと言っている!」


⸻


 国衡の声が山を叩いた。


⸻


「戦える者までここで死ねば、次に誰が戦う!負傷者を先に出せ!旗は捨てろ!北へ行け!」


⸻


 それでも、一人の兵が食い下がった。


⸻


「阿津賀志を捨てるのですか!」


⸻


 国衡は、その兵を見た。


⸻


「阿津賀志は落ちた」


⸻


 誰も息をしなかった。


⸻


「だが、奥州はまだ落ちておらぬ」


⸻


 その一言で、人が動いた。


 悔しさを飲み込み、傷ついた仲間を背負い、北へ向かう。


⸻


 敗走だった。


⸻


⸻


 ユウガオは女たちと一緒に負傷者の腕を肩へ回していた。


 タダは一人で二人を担ぎ、さらに誰かの荷まで持っている。


 シンも倒れた兵を起こした。


⸻


「歩けるか」


「……ああ」


「嘘つけ。全然歩けてない」


⸻


 肩を貸す。


 昨日までなら、国衡を助けることだけを考えていた。


 今は、その国衡が逃がそうとしている人間を運んでいる。


 それが正しいのかは分からない。


 ただ。


 国衡が何を守ろうとしているのかは、少し分かった。


⸻


 退く兵の流れが、次第に北へ細くなっていく。


 シンはそこで気づいた。


 国衡がいない。


⸻


「国衡!」


⸻


 振り返る。


 崩れた土塁の向こうに、黒い馬が見えた。


 高楯黒。


 その背に国衡がいる。


 北へ逃げる兵を見送ったまま、自分は動いていなかった。


⸻


「またかよ……!」


 シンは走った。


⸻


「シン!」


⸻


 後ろでユウガオが怒鳴る。


 止まらなかった。


 国衡へ向かって、逃げる人の流れを逆に進む。


 タダの足音も追ってきた。


⸻


「国衡!」


⸻


 呼ぶと、国衡がこちらを見た。


 怒ると思った。


 だが、返ってきたのは呆れた顔だった。


⸻


「お前は、どうして命令を聞かぬ」


「お前もだろ!」


「俺は大将だ」


「便利だな、その言葉!」


「便利だから使っている」


⸻


 国衡が少し笑った。


 その笑いの向こうから、馬の蹄が近づいてきた。


⸻


 南側の崩れた道を、鎌倉勢が上がってくる。


 先頭にいたのは、大柄な武者だった。


 血と泥で鎧の色もよく分からない。それでも、あの声だけは間違えようがなかった。


⸻


「あっ!お前ぇっ!」


⸻


 山が驚くような声だった。


 シンは思わず顔をしかめた。


⸻


「……義盛」


⸻


「なぜお前が奥州側にいる!」


「もともとこっち側だ!」


「俺は戦に来たのだ!」


「俺もだよ!」


「お前は戦えんだろうが!」


「それはそう!」


⸻


⸻


 和田義盛だった。


⸻


 鎌倉の陣で出会った時と何も変わらない。


 声が大きい。


 身体も大きい。


 考える前に口が動き、口が動いた後で、だいたい全部顔に出る。


⸻


 ただし、太刀へ手を掛けた瞬間だけは別人だった。


 後ろから追いついた鎌倉兵が、義盛の横を抜こうとする。


⸻


「待て!」


⸻


 義盛が怒鳴った。


⸻


「ここは俺が見る!勝手に前へ出るな!」


「されど、和田殿!」


「されども何もない!俺が言っている!」


⸻


 理屈ではなかった。


 だが、郎党は止まった。


 この男の声には、人を止める力があった。


⸻


 義盛の目が、国衡へ移る。


 今度は黙った。


 国衡も、馬上から義盛を見ている。


⸻


「……藤原の、国衡殿か」


「和田義盛殿とお見受けする」


「俺を知っているのか!」


「侍所別当を知らぬほど、奥州は呑気ではない」


「そうか!」


⸻


 なぜか少し嬉しそうだった。


 シンは思った。


⸻


(本当に分かりやすいな、この人)


⸻


 義盛が国衡を見直す。


 兜。


 傷だらけの鎧。


 高楯黒。


 その背後に、北へ退いていく奥州兵。


⸻


「貴殿が、九郎殿に奥州を託された男か」


⸻


 国衡の目がシンへ向いた。


⸻


「お前、どこまで話した」


「少し……」


「少しではない!」


⸻


 義盛が即座に怒鳴った。


⸻


「九郎殿が衣川で何を言ったか、だいたい聞いたぞ!」


「だいたいで良いのか」


「なら全部だ!」


「どんどん増える」


⸻


 国衡が声を上げて笑った。


 義盛はむっとしたが、すぐに自分も笑った。


⸻


 敵同士だった。


 ついさっきまで、互いの兵が殺し合っていた。


⸻


 それでも、義経という一人の男を挟むと、二人の間から妙な遠さが消えた。


⸻


「国衡殿」


⸻


 義盛が言った。


⸻


「もう退け」


⸻


 国衡の笑いが止まる。


⸻


「阿津賀志は抜けた。ここに残っても、もう戦は戻らん」


「分かっている」


「なら北へ行け!まだ平泉があろう!」


⸻


 義盛は、そこでシンを指した。


⸻


「こいつが言ったのだ!九郎殿は絶対に帰ってくると!なら、帰る場所を残しておけ!戻った九郎殿が困るだろうが!」


⸻


 声が大きい。


 言っていることも真っ直ぐだった。


 国衡はしばらく義盛を見た。


⸻


「良い話だ」


「そうだろう!」


⸻


「断る」


⸻


「なぜだぁ!」


⸻


 義盛が本気で驚いた。


 国衡は馬から降りる。


 高楯黒の首を撫で、手綱を近くの兵へ預けた。


⸻


「先に北へ連れていけ」


「国衡様」


「こいつはよく働いた。俺より先に休ませろ」


⸻


 兵は何か言おうとした。


 国衡は目だけで止めた。


 高楯黒が鼻を鳴らす。


 離れようとしなかった。


⸻


「行け」


⸻


 首筋を軽く叩く。


 今度は、黒い馬も動いた。


⸻


 国衡が太刀の位置を直した。


⸻


「和田殿」


「何だ」


「俺はここを守る大将だ」


「さっき聞いた!」


「なら話が早い」


⸻


 国衡が笑う。


⸻


「通るなら、俺を倒していけ」


⸻


 義盛の顔が、ぐしゃりと歪んだ。


⸻


「お前も馬鹿か!」


「も?」


⸻


「九郎殿も馬鹿だった!何でも一人で決めて、勝手に残って、周りへ面倒を全部置いていく!」


⸻


「それは悪かったな」


「なぜお前が謝る!」


⸻


「友だからだ」


「なら余計に腹が立つ!」


⸻


 義盛は頭を掻きむしった。


 本気で困っていた。


 このまま国衡を無視して北へ追えばいい。


 兵をぶつければいい。


 それが戦としては正しい。


⸻


 だが、目の前の男は義経が奥州を託した友で、自分と同じように最後まで残ろうとしている。


 義盛には、それが許せないらしかった。


⸻


「退け!」


⸻


「断る」


⸻


「生きろ!」


「お前が言うな……」


「俺は生きる!」


「なら俺に勝て」


⸻


 義盛が、とうとう天を仰いだ。


⸻


「何でそうなる!」


⸻


 誰も答えなかった。


 シンにも分からない。


⸻


 だが。


⸻


 義盛は大きく息を吐くと、馬を降りた。


 背負っていた弓を下ろした。


⸻


「……一度だけだぞ」


⸻


 国衡の目が細くなる。


⸻


「何がだ」


⸻


「一騎で受ける!俺が勝ったら、文句を言わず北へ行け!」


⸻


「負けたら?」


「俺が負ける前提で話すな!」


「では、俺が勝ったら」


⸻


 国衡は少し考えた。


⸻


「九郎殿が戻った時、酒を奢れ」


「その程度か!」


⸻


「高い酒で頼む」


「分かった!だから死ぬな!」


⸻


 そのやり取りで。


 なぜか、二人とも笑った。


 シンだけは笑えなかった。


⸻


「国衡」


「来るな」


⸻


 名前を呼んだだけで、止められた。


⸻


「これは俺が選ぶ」


⸻


 昨日、自分がユウガオへ言った言葉が戻ってくる。


⸻


 自分で決めたことに、俺が口を出すのは違う。


 あの時は簡単に言えた。


 今は、最悪の言葉だった。


⸻


「でも」


「見ていろ」


⸻


 国衡が言った。


⸻


 頼朝も言った。


 見届けよ、と。


 国衡も、同じことを言う。


 シンは拳を握った。


⸻


 それ以上、前へ出られなかった。


⸻


 義盛が郎党へ向く。


⸻


「誰も手を出すな!」


「和田殿!」


「うるさい!一騎と言ったら一騎だ!」


⸻


 さらに、奥州側に残っていた兵まで睨む。


⸻


「そっちもだ!俺の背中へ矢を射るなよ!」


「射るか!」


⸻


 国衡が笑った。


⸻


「分からんだろう!戦場だぞ!」


「お前が始めた一騎打ちだろう」


「そうだった!」


⸻


 義盛は大声で笑った。


 そして。


 弓を構えた。


⸻


 空気が変わった。


⸻


 さっきまで怒鳴っていた男が、急に静かになる。


 国衡も弓を取った。


⸻


 二人の間に距離が開く。


 土塁の崩れた斜面。


 踏めば滑る土。


⸻


 折れた矢。


 倒れた旗。


 戦場そのものが、二人の足元に残っていた。


⸻


 先に放ったのがどちらだったのか、シンには分からなかった。


⸻


 弦音がほとんど重なった。


 義盛の矢が国衡の兜を掠め、国衡の矢は義盛の大袖へ突き立つ。


 義盛の身体が揺れた。


⸻


「痛いではないか!」


「戦だぞ」


「知っておる!」


⸻


 怒鳴り返しながら、もう一本を番える。


 国衡が笑った。


⸻


 二射目は、互いに当たらなかった。


 国衡は射ると同時に前へ出た。


 義盛も弓を捨てる。


⸻


 太刀が抜かれた。


 金属の音が、戦場の喧騒を一瞬だけ切った。


⸻


 国衡は速かった。


 義盛は強かった。


⸻


 一度受けるたび、土が沈む。義盛の太刀を国衡が外へ流し、その返しが義盛の肩を掠める。


 鎧の緒が切れた。


⸻


「やるな!」


「まだ言うか!」


「強い者には言う!」


「そうか!」


⸻


 義盛が笑う。


⸻


 次の一撃は、国衡が受けきれなかった。


⸻


 刃が胸の鎧の端を削り、その下を浅く裂く。血が飛んだ。


⸻


「国衡!」


⸻


 シンが動く。


 すぐに、タダの腕が胸の前へ出た。


⸻


「見るんだ」


⸻


 低い声だった。


⸻


「でも!」


「国衡が、決めた」


⸻


 タダも、苦しそうだった。


 少し遅れて追いついたユウガオは何も言わない。


 唇を噛み、両手を握っている。


⸻


 国衡は笑っていた。


⸻


 これまで背負っていたものが、今だけは見えなかった。


 泰衡も。


 奥州も。


 頼朝も。


 義経も。


⸻


 目の前にいる強い武者だけを見ていた。


⸻


「どうした、和田殿!」


「死にかけが元気になるな!」


「まだ死んでおらぬ!」


「なら死ぬな!」


「無茶を言う!」


⸻


 二人が、同時に踏み込んだ。


⸻


 国衡の太刀が義盛の首へ走る。


 義盛の刃は、国衡の脇へ入る。


 どちらも止めない。


 一瞬だけ。


 義盛が頭を沈めた。


⸻


 国衡の刃が兜の縁を削る。


 火花が散った。


 同時に、義盛の太刀が鎧の隙間へ深く入った。


⸻


 音が遠くなった。


⸻


 二人が止まっている。


 国衡の太刀は、義盛の首筋へ触れていた。


⸻


 あと少し。


 本当に、ほんの少しだった。


 義盛が頭を沈めなければ。


 国衡の刃が、もう指一本深ければ。


 倒れていたのは逆だった。


⸻


 国衡の手から力が抜けた。


 義盛が慌てて太刀を引く。


⸻


「国衡殿!」


⸻


 今さらのように名前を呼んだ。


 国衡は一歩だけ下がり、太刀を地面へ突く。それを杖にして、どうにか立っていた。


⸻


「……紙一重か」


「そうだ」


⸻


 義盛の声が震えた。


⸻


「俺が、ほんの少し速かった」


「いや」


⸻


 国衡が首を振る。


⸻


「貴殿が、ほんの少し強かった」


「そういうことを言うな!」


「褒めている」


「嬉しくない!」


⸻


 義盛の目から、大粒の涙が落ちた。


 隠そうともしない。


 国衡がそれを見て、少し驚いた。


⸻


「泣くのか」


「泣く!」


⸻


 即答だった。


⸻


「強い奴と戦って!やっと友になれそうだと思ったら!その友を俺が斬ったのだぞ!泣くに決まっておるだろうが!」


⸻


「もう友なのか」


「今決めた!」


「勝手だな」


「九郎殿にも同じことを言われた!」


⸻


 国衡が、声を立てて笑った。


 傷が痛んだのか、途中で咳に変わる。


 血が噴き出す。


 それでも、楽しそうだった。


⸻


 義盛の郎党が、おそるおそる前へ出た。


⸻


「和田殿」


「何だ!」


「首級を。これほどの敵将ならば、大きな手柄に――」


⸻


「いらん!」


⸻


 義盛の怒声が、山へ響いた。


 郎党が固まる。


⸻


「しかし、和田殿の御手柄が」


「手柄なぞ、他の郎党にでもくれてやれ!」


⸻


 義盛は泣きながら怒鳴った。


⸻


「俺はこいつと一騎で戦った!俺が勝った!俺が知っておればそれでよい!」


「されど、敵将の首級は――」


「触るな!」


⸻


 義盛が太刀の柄を叩いた。


⸻


「藤原国衡は、九郎殿が奥州を託した男だ!今は俺の友でもある!友の首を刎ねて、手柄だと持ち帰れるか、馬鹿者!」


⸻


 郎党が言葉を失う。


⸻


「鎌倉殿へは、俺が見たと言う!文句があるなら俺が直接怒鳴られる!だから誰も、この男に触るな!」


⸻


 理屈として正しいのかは、シンには分からなかった。


 たぶん景時なら、頭を抱える。


 頼朝も、面倒そうな顔をするかもしれない。


⸻


 それでも。


 今この場で義盛へ逆らえる者はいなかった。


 何より、誰も逆らいたくなかった。


⸻


 義盛が国衡へ向き直る。


 涙を袖で拭う。


 だが、拭ったそばからまた流れる。


⸻


「国衡殿」


「何だ」


⸻


「忘れんぞ」


「まだ死んでおらぬ」


⸻


「分かっておる!」


「なら、もう少し静かにしろ」


「お前が死にそうだから声が大きくなるのだ!」


「元からだろう」


⸻


 国衡が笑った。


 義盛も泣きながら笑った。


⸻


「シン!」


⸻


 突然、義盛が振り返る。


⸻


「何だよ」


「最後までいろ!」


「言われなくてもいる」


「死ぬなよ!九郎殿の話も、まだ途中だ!」


「分かった」


「約束だぞ!」


「前にも聞いた」


「なら二度目だ!」


⸻


 何の理屈にもなっていなかった。


 でも。


 義盛らしかった。


⸻


 義盛は最後に国衡へ深く頭を下げた。


⸻


「藤原国衡殿。見事だった」


⸻


 国衡も、太刀に身体を預けたまま頭を下げる。


⸻


「和田義盛殿。楽しかった」


「その言葉が一番腹立つ!」


⸻


 また泣いた。


 そのまま背を向ける。


⸻


「行くぞ!」


⸻


 郎党たちが続く。


 誰も国衡へ手を出さなかった。


 白旗が崩れた防塁の向こうへ消えるまで、義盛は二度振り返った。


 二度とも泣いていた。


⸻


「……すごい人だな」


⸻


 シンが言った。


⸻


「強いのか、馬鹿なのか、いい人なのか分からない」


⸻


 国衡が息を吐く。


⸻


「全部だろう」


「そっか」


⸻


 その時。


⸻


 国衡の膝が崩れた。


⸻


「国衡!」


⸻


 シンが駆け寄る。


 タダが反対側から身体を支えた。


 ユウガオが地面へ膝をつき、血の出ている場所へ布を押し当てる。


⸻


「タダ、押さえて!」


「分かった」


「シン、水!」


「ある!」


⸻


 言われる前から手が動いた。


⸻


 だが。


⸻


 血は止まらなかった。


 義盛の刃は、深く入っていた。


⸻


「待ってろ」


⸻


 シンは何度も言った。


⸻


「運べば、まだ」


「どこへだ」


「分からない。でも、何かある」


「阿津賀志は落ちたぞ」


「そんなの関係ない!」


⸻


 声が震えた。


⸻


「頼朝にも会った。止めようとした。鳥取越も分かってた。国衡だって備えた。それでも……」


⸻


 喉が詰まる。


⸻


「それでも、助けられなかった」


⸻


 国衡はしばらくシンを見た。


 それから、少し笑った。


⸻


「知っている顔だ」


「何が」


「負けた奴の顔だ」


⸻


 シンが黙る。


⸻


「俺も、何度もした」


⸻


 国衡は、崩れた阿津賀志山を見た。


 土塁の向こうでは、まだ遠く戦の音がしている。


⸻


「若い頃、初めて退いた時もそうだった」


⸻


 息を整えながら、ゆっくり話す。


⸻


「仲間が死んだ。俺が先に動けば違ったかもしれぬ。もっと強ければ。もっと早く気づけば。そう思った」


⸻


 少し間を置く。


⸻


「ずっと残る」


⸻


 シンは何も言えない。


⸻


「だが、あの時に退かなければ、俺は今日まで来られなかった」


⸻


 国衡がシンを見る。


⸻


「負けた奴は、何かを置いて生きる」


「俺は置きすぎた」


「なら、持てるものだけ持て」


「簡単に言うなよ」


「死ぬ奴は、だいたい簡単に言う」


「自覚あるのかよ」


⸻


 国衡が、ほんの少し笑った。


⸻


 しばらくして、国衡は北を見た。


 笑いが消える。


⸻


「シン」


「何だ」


「頼みがある」


⸻


 その声で、分かってしまった。


 昨日。


 死ねば、泰衡を支えられぬ。


 国衡は、そう言っていた。


⸻


「弟を」


⸻


 国衡が息を吸う。


⸻


「泰衡を頼む」


⸻


「自分で頼め」


「そうしたい」


「なら生きろ」


「それが難しいらしい」


「難しいで済ませるな!」


⸻


 声を上げたシンを、国衡は黙って見ていた。


 怒らない。


 言い返さない。


 シンが黙るまで、待っていた。


⸻


「優しい奴なんだ」


⸻


 国衡が言った。


⸻


「泰衡は」


⸻


 ユウガオが顔を伏せる。


⸻


「優しすぎる」


⸻


 国衡の声が少し遠くなる。


⸻


「父の後を継いだ。奥州を背負った。義経殿を守れと言われた。鎌倉を恐れた。北を守れと、何かに囁かれた」


⸻


 神託。


 シンは何も言わなかった。


⸻


「全部、あいつには重すぎた」


⸻


 国衡の指が、土を掴む。


⸻


「俺は兄だった」


「知ってる」


「兄なのに、支えてやれなかった」


「違う」


「何がだ」


「アンタは、ずっと支えてた」


⸻


 国衡は少しだけ目を細めた。


⸻


「そう見えたなら、よかった」


⸻


 遠くで、また鬨の声が上がった。


 鎌倉軍はもう北へ動き始めている。


 時間がない。


⸻


「見てやってくれ」


⸻


 国衡が言った。


⸻


「泰衡が何をするか。何を選ぶか」


「最後まで」


⸻


 シンは答えなかった。


 答えれば、国衡が終わる気がした。


⸻


「まず、アンタを助ける」


「俺の話は、もう終わりだ」


⸻


 静かな声だった。


 国衡は北を見る。


⸻


「戦も終わった」


⸻


 阿津賀志山。


 国衡が守ろうとした壁は、もう破られている。


⸻


「次は、奥州が終わる」


⸻


 シンの胸が痛んだ。


 頼朝も言った。


 見届けろ。


 国衡も言う。


 最後まで見ろ。


 シンはようやく頷いた。


⸻


「……分かった」


⸻


 国衡の目が、少しだけ緩む。


⸻


「泰衡を見る」


「そうか」


「何を選ぶのか。最後まで」


「頼む」


⸻


 周りには、まだ奥州兵が残っていた。


 誰も動こうとしない。


 国衡が気づき、眉を寄せた。


⸻


「何をしている」


「国衡様」


「退けと言った」


「しかし」


「俺一人のために、命令を破るな」


⸻


 声はもう大きくない。


 それでも、兵たちは聞いていた。


⸻


「進め」


⸻


 一人が泣いた。


⸻


「生きろ」


⸻


 別の一人も顔を伏せる。


⸻


「北へ行け。泰衡を一人にするな」


⸻


 兵たちは、少しずつ立ち上がった。


 一人が国衡へ深く頭を下げる。


 それに続いて、皆が頭を下げた。


 泣きながら。


 それでも、北へ歩き始める。


 国衡は最後まで、その背中を見ていた。


⸻


「シン」


「いる」


「見ろ」


「ああ」


「残せ」


「何を」


⸻


 国衡は少し笑った。


⸻


「お前が見たものをだ」


⸻


 それから、北を見た。


⸻


「北を忘れるな」


⸻


 シンは頷いた。


 今度は、声にした。


⸻


「忘れない」


⸻


 国衡の顔から、最後の力が抜けた。


 満足そうだった。


 本当に。


 やれることを全部やった人間の顔だった。


 ゆっくり息を吐く。


⸻


 次の息は、来なかった。


⸻


 ユウガオが泣いた。


 声を殺すつもりだったのだろう。


 途中で、できなくなった。


 タダは何も言わず、国衡の目を閉じた。


 シンは動かなかった。


 逃げなかった。


 目を背けなかった。


⸻


 見た。


⸻


 最後まで。


⸻


 国衡の口元には、まだ薄い笑みが残っていた。


⸻


⸻


(第百十八話へ)


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