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戦場と夜花と最後の夜

第百十六話 戦場と夜花と最後の夜


⸻


 幕を開けた瞬間、三本の手が伸びてきた。


⸻


「何があった!」


「今の弦音は何だ!」


「鎌倉殿は御無事か!」


⸻


 景時。


 義盛。


 景季。


 三人が一度に詰め寄る。


⸻


「近い」


⸻


 シンは顔を引いた。


 義盛の肩越しには、太刀へ手を掛けた武者が何人もいる。


 景時の視線は、シンの顔より先に、開いた幕の奥へ入った。


⸻


 床へ倒れた兵。


 胸を貫く矢。


 その手から落ちた短い刃。


⸻


 景時の目が細くなった。


⸻


「中へ」


⸻


 シンを押し退けるように入り、倒れた兵の前へ膝をつく。


 景季も続いた。


 義盛はシンの肩を掴んだまま、幕の中を覗いた。


⸻


「お前がやったのか」


「俺が弓を持ってるように見えるか?」


「では誰が」


⸻


「私だ」


⸻


 奥から声がした。


 頼朝が弓を手にしたまま、姿を見せる。


 外にいた武者たちが、一斉に膝をついた。


 義盛の手も、シンの肩から離れる。


⸻


「鎌倉殿」


「騒ぐな。鼠が一匹入り込んだだけだ」


⸻


 頼朝は倒れた兵へ目を向けた。


⸻


「馬を一頭、こやつへくれてやれ」


「馬を?」


⸻


 景時が聞き返した。


⸻


「阿津賀志へ戻るそうだ」


「しかし、この者は」


「話は済んだ」


⸻


 頼朝は弓を景季へ渡した。


⸻


「それと、鼠の死骸を片づけておけ」


⸻


 そう言って、幕の外へ出る。


 武者たちが道を開けた。


⸻


 景時はすぐに兵の胸元を改めた。


 鎧は鎌倉方で使われているものと変わらない。


 だが、家を示す印がない。


 腰の札もない。


 兜にも、袖にも、誰の郎党かを示すものがなかった。


⸻


 景季が男の顔を灯へ向ける。


⸻


「見覚えがありません」


「私もない」


⸻


 景時が答えた。


 義盛も首を振る。


⸻


「これほど奥まで、どこの者とも知れぬ兵が入ったのか」


「警護の者は何をしていた!」


⸻


 義盛の怒声に、外の武者たちがさらに身を固くした。


⸻


「父上。直ちに陣を改め、鎌倉殿の警護を増やすべきです」


「私もそう思う」


⸻


 景時が立ち上がり、頼朝へ向いた。


⸻


「夜番を倍に。中央へ入る者は、家ごとに名を改めます」


「要らぬ」


⸻


 頼朝は足を止めなかった。


⸻


「されど、鎌倉殿」


「出所は分かっておる」


⸻


 景時の声が止まる。


⸻


「今まで通りでよい」


「しかし」


「警護を増やせば、御家人同士が互いを疑う」


⸻


 頼朝が振り返った。


⸻


「鼠一匹のために、陣の形を崩すな」


⸻


 誰も言い返さなかった。


 頼朝はそれ以上説明せず、自分の幕へ戻っていく。


⸻


 義盛が死体を見た。


 頼朝の背中を見た。


 もう一度、死体を見る。


⸻


「何があった」


「鼠が出た」


「それは聞いた!」


⸻


「じゃあ、それでいいだろ」


「よくない!」


⸻


 義盛の声が夜の陣へ響いた。


 景時は死体を見下ろしたまま、シンへ問う。


⸻


「鎌倉殿と、何を話した」


「義経のことと、国のこと」


「国?」


「詳しく話すと長い」


「話せ」


「もう帰らないと」


⸻


 景時の眉間に皺が寄る。


⸻


「お前は、鎌倉殿へ無礼を働かなかっただろうな」


「たぶん」


「たぶんとは何だ!」


⸻


 今度は景時の声が上がった。


 義盛が珍しく、隣で黙っている。


⸻


「殺してみるかって言われた」


⸻


「誰を」


「頼朝を」


⸻


 景時。


 義盛。


 景季。


 三人の顔から、同時に表情が消えた。


⸻


「それで?」


⸻


 景時が聞いた。


 声がひどく低い。


⸻


「やめといた」


⸻


 義盛の口が開いたまま止まる。


 景季は何か言おうとして、言葉を失った。


 景時だけが目を閉じた。


⸻


「……もうよい」


「いいのか?」


「聞けば、さらに頭が痛くなる」


⸻


 そこへ、馬の蹄が近づいてきた。


⸻


「お待たせ」


⸻


 ワカレが一頭の馬を引いている。


 艶のある栗毛だった。


 鞍は軽い。


 長く走らせるため、余計な荷は外されている。


⸻


「一番速い道を教えておいた」


「誰に」


「このコに」


⸻


 ワカレが馬の首を撫でる。


 栗毛は鼻を鳴らし、当然のようにワカレの肩へ顔を寄せた。


⸻


「手綱を任せれば、すぐ阿津賀志へ戻れるよ」


「う、馬にも道案内できるのか……!」


「まぁね」


⸻


 ワカレは馬の耳元を掻いた。


⸻


「人より楽かも」


「どういう意味だ」


「馬は、教えた道に文句を言わない」


「俺は言う」


「知ってる」


⸻


 義盛が二人を交互に見た。


⸻


「お前たちは、先ほどから何の話をしている」


「道案内」


「馬への?」


「うん」


⸻


 義盛は景時を見た。


 景時は首を振った。


 自分に聞くなという顔だった。


⸻


 シンが鐙へ足を掛ける。


 乗り慣れてはいない。


 栗毛は身体を少し沈め、シンが跨がるまで動かなかった。


⸻


「賢いな」


「君よりはね」


「なにおう!」


「すぐ出た方がいい」


⸻


 ワカレが馬の首を北へ向けた。


⸻


「道から落ちそうになったら、鬣を掴んで。このコは君を落とさない」


「お前は来ないのか」


「俺の道案内は、ここまで」


⸻


 いつもの言葉だった。


 だが、今度は本当に役目を終えた顔をしていた。


⸻


「モモは」


⸻


 シンは陣の外にある林を見た。


 暗い木々の向こう。


 桃の香りは届かない。


⸻


「大丈夫」


 ワカレが言った。


「君が戻る場所も分かってる」


⸻


 それ以上は聞かなかった。


 また会おう。


 モモへ渡した言葉が、胸の奥に残っている。


⸻


「シン」


⸻


 頼朝の声がした。


⸻


 いつの間にか、幕の前へ戻っていた。


 鎧は着ていない。


 それでも周囲の武者が、頼朝を中心に形を作る。


⸻


「鎌倉は手を抜かぬ」


⸻


 頼朝が言った。


⸻


「死なぬように、しかと見届けよ」


⸻


 シンは馬上から頼朝を見た。


 背負う者の目。


 さっきまで、灯を挟んで向かい合っていた男。


⸻


「アンタも」


⸻


「何だ」


「義経が戻ってくるまで、死ぬなよ」


⸻


 景時が息を呑んだ。


 義盛の口が、また開いた。


 景季はとうとう目を逸らした。


⸻


 頼朝だけが、僅かに口元を上げる。


⸻


「余計な心配だ」


⸻


「アイツは絶対帰ってくる」


「早く行け」


⸻


 追い払う声だった。


 だが、怒ってはいなかった。


⸻


 シンは栗毛の首を軽く叩いた。


⸻


「頼む」


⸻


 馬が駆け出した。


⸻


 振り返る間もなかった。


 白い幕。


 篝火。


 頼朝。


 景時。


 義盛。


 景季。


 ワカレ。


⸻


 すべてが、夜の後ろへ流れていく。


⸻


 栗毛は迷わなかった。


 兵が行き交う道を避ける。


 荷駄の列が詰まっていれば、林の細道へ入る。


 浅い沢を渡り、崩れた斜面を回り、また北へ向く。


⸻


 手綱を引かなくても進んだ。


 分かれ道へ出るたび、耳を動かす。


 何かを確かめてから、正しい方へ駆けた。


⸻


「本当に教えたんだな」


⸻


 栗毛が鼻を鳴らした。


 返事をされたような気がした。


⸻


 夜が薄くなる。


 東の空が白み始めた。


⸻


 遠くで、法螺貝が鳴った。


⸻


 二日目の戦が始まる。


⸻


 すぐに、別の音が重なった。


 太鼓。


 鬨の声。


 弓弦の連なる音。


⸻


 戦は、終わっていなかった。


⸻


 頼朝と話した。


 義経のことを伝えた。


 平泉から手を引いてくれと頼んだ。


 国衡を助けてくれと言った。


⸻


 それでも。


⸻


 戦は続いている。


⸻


 山の向こうから煙が上がった。


 栗毛が走る道と並ぶように、負傷した兵を運ぶ列が南へ下っていく。


 肩を貸される者。


 戸板へ乗せられた者。


 自分の足で歩きながら、どこを見ているのか分からない者。


⸻


 鎌倉方だけではない。


 道の脇には、奥州の矢が落ちていた。


 折れた旗。


 血のついた草。


 主を失った馬。


⸻


 誰も、頼朝とシンの話を知らない。


 知らないまま戦い。


 知らないまま死ぬ。


⸻


(何か変わったのか)


⸻


 頼朝は、義経の言葉を聞いた。


 シンは、頼朝が何を作ろうとしているのかを知った。


⸻


 それだけだった。


⸻


 阿津賀志山は落ちる。


 国衡は死ぬ。


 戦を止めようとすれば、別の場所から壊れる。


⸻


 何度やり直しても、同じ朝へ集まっていく。


⸻


 そして、シンは八度死んだ。


⸻


 次に死ねば。


⸻


 もう、この朝へは戻れない。


 阿津賀志山も。


 国衡も。


 ユウガオも。


 タダも。


⸻


 全部を置いたまま、次の時代へ飛ぶ。


⸻


 仕組みを確かめたわけではない。


 誰かに教えられたわけでもない。


 それでも、身体の奥が知っていた。


⸻


 残っている生命は、あと一つ。


⸻


 なら、何に使う。


⸻


 国衡を庇うためか。


 ユウガオを逃がすためか。


 鎌倉の兵を止めるためか。


 モモを探すためか。


⸻


 答えは出ない。


⸻


 栗毛だけが、北へ進み続けた。


⸻


 陽が高くなる。


 戦の音は、近づいたり遠ざかったりした。


 道を外れた場所では、農家の戸が閉じられていた。


 畑には人がいない。


 水桶だけが、家の前へ置き去りになっている。


⸻


 国を一つにする。


⸻


 その言葉の下で、人は家へ隠れていた。


⸻


 平和を作る。


⸻


 そのための戦で、田が踏まれていた。


⸻


 頼朝が嘘をついているとは思わない。


 だからこそ、簡単には飲み込めなかった。


⸻


 正しくないことを、正しいと言い換えない。


⸻


 頼朝はそう言った。


⸻


 ならば、シンも。


 分からないことを、分かったことにはできなかった。


⸻


 ただ見る。


 覚える。


 運ぶ。


⸻


 それで何が救えるのかは、まだ分からない。


⸻


 昼を少し回った頃。


 栗毛が急に速度を上げた。


⸻


 土塁。


 逆茂木。


 掘られた堀。


 見慣れた奥州の旗。


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 阿津賀志山だった。


⸻


「止まれ!」


⸻


 奥州兵が槍を向ける。


 栗毛は止まらない。


⸻


「シンだ!」


⸻


 誰かが叫んだ。


 槍が上がる。


 道が開く。


⸻


 栗毛は人の間を抜け、奥の陣まで駆けた。


 そこで初めて、自分から足を止める。


⸻


「ありがとう」


⸻


 シンが首を撫でる。


 汗で濡れていた。


 一度も迷わず、ここまで連れてきてくれた。


⸻


「シン!」


⸻


 声がした。


⸻


 振り返る。


⸻


 ユウガオが走ってきた。


 衣の裾を持ち上げることも忘れている。


 髪がほどけていた。


 いつものように何か怒鳴ると思った。


⸻


「遅い!」


⸻


 やはり怒鳴った。


⸻


 次の瞬間。


⸻


 身体がぶつかった。


⸻


 ユウガオの腕が、シンの背へ回る。


 強い。


 息が詰まるほどだった。


⸻


「……ユウガオ?」


「遅いって言ってんだよ」


「聞こえた」


「だったら黙ってろ」


⸻


 顔が胸へ押しつけられている。


 肩が小さく震えていた。


⸻


 泣いている。


⸻


 シンは両手を上げたまま止まった。


 どこへ置けばいいのか分からない。


 背中か。


 肩か。


 頭か。


⸻


 モモには、何度も触れた。


 手を繋いだ。


 抱きしめたこともある。


⸻


 ユウガオは違った。


⸻


 桃ではなく、汗と煙と、夜花の匂いがする。


 胸の奥が、戦とは関係のない速さで鳴った。


⸻


「アンタ、こういう時は抱き返すもんだろ」


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 胸元から、くぐもった声がした。


⸻


「そうなのか」


「そうだよ」


⸻


 シンは恐る恐る、ユウガオの背へ腕を回した。


⸻


 さらに強く抱かれた。


⸻


「痛い」


「生きてる証拠」


⸻


 ユウガオが顔を上げる。


 目が赤かった。


⸻


「泣いてる?」


「泣いてない」


「赤いけど」


「煙だよ」


「ここ、煙ないぞ」


「うるさい」


⸻


 拳が胸へ入った。


 痛くはない。


 離れたくせに、衣の端だけは掴んだままだった。


⸻


「死んだかと思った」


「約束したから」


「帰ってこなかったら、ホントにあの世まで追っかけるつもりだった」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


「怖いな」


「今さらだろ」


⸻


「抱擁は終わったか」


⸻


 横から声がした。


⸻


 タダが椀を二つ持って立っている。


 片方から湯気が上がっていた。


⸻


「見てたのかよ」


「見える場所でやる方が悪い」


⸻


 ユウガオがシンの衣を放した。


 顔だけはまだ赤い。


⸻


「食え」


⸻


 タダが椀を差し出した。


 米と粟を柔らかく煮たものだった。


 刻んだ山菜と、細く裂いた干し肉が入っている。


⸻


「話は、その後だ」


「俺より馬に水を」


「もうやってる」


⸻


 見ると、兵が栗毛へ水桶を運んでいた。


 別の者が鞍を外している。


⸻


「さすがだな」


「誰だと思っている」


「ご隠居」


「飯を返せ」


⸻


 椀を取られそうになり、シンは身体を引いた。


 湯気と一緒に、腹が鳴る。


⸻


 ユウガオが笑った。


 涙の跡が、ようやく消え始めた。


⸻


 温かかった。


⸻


 塩が身体へ染みた。


 一口食べるたび、馬上で固まっていた指が戻る。


 戦の音は近い。


 それでも、椀の中だけは静かだった。


⸻


 食べ終わる頃。


⸻


 国衡が来た。


⸻


 鎧を着ていた。


 兜だけを脇へ抱えている。


 頬に新しい傷があった。


 乾いた血が、耳の近くまで伸びている。


⸻


「会えたか」


「ああ」


「鎌倉殿に」


「会った」


⸻


 国衡はそれ以上、頼朝のことを尋ねなかった。


⸻


「何か変えられたか」


⸻


 シンは空になった椀を見た。


 頼朝の目。


 弓。


 倒れた八幡兵。


 いい国を、な。


⸻


 全部が浮かんだ。


⸻


「……ダメだった」


⸻


 国衡の顔は変わらない。


⸻


「鎌倉は止まらない」


「そうか」


「頼朝は、本気で新しい国を作るつもりだ」


「そうか」


「そのために、奥州を終わらせる」


⸻


 国衡が僅かに笑った。


⸻


「ならば、こちらも本気で相手をせねば失礼だな」


⸻


「勝てないかもしれない」


「知っている」


「死ぬかもしれない」


「それも知っている」


⸻


「怖くないのか」


⸻


 国衡は阿津賀志山を見た。


 午後の日差しの中で、土塁の影が伸びている。


 その向こうでは、鎌倉方の白旗が増え続けていた。


⸻


「怖いさ」


⸻


 あっさり言った。


⸻


「死ねば、泰衡を支えられぬ」


「家へ帰れぬ」


「共に来た者の顔も、二度と見られぬ」


⸻


 国衡が兜を見下ろす。


⸻


「だが、怖いからと背を向ければ、俺は俺でなくなる」


⸻


 兜を被る。


 紐を締めた。


⸻


「鎌倉は手を抜かぬのだろう」


「ああ」


⸻


 国衡の笑みが深くなる。


⸻


「望むところだ」


⸻


 武士の顔だった。


⸻


 義経と笑っていた男。


 泰衡を案じる兄。


 兵を退かせ、自分だけ最後に残る将。


⸻


 その全部が、一つの顔に収まっていた。


⸻


「俺も戦う」


⸻


 シンは立ち上がった。


 ちょうど山の向こうで法螺貝が鳴る。


 考えるより先に、足がそちらへ向いた。


⸻


 一歩。


⸻


 そこで、膝が抜けた。


⸻


「シン!」


⸻


 地面へ落ちる寸前で、ユウガオが腕を掴んだ。


 踏ん張ろうとしても、脚に力が入らない。


⸻


「……あれ」


⸻


 自分の身体なのに、何が起きたのか分からなかった。


 夜通し鎌倉の陣を歩いた。


 頼朝と話した。


 馬へ跨がり、何時間も揺られ続けた。


 食べた。


 帰ってきた。


⸻


 そこで初めて、身体が全部を思い出したようだった。


⸻


「何が『俺も戦う』だよ!」


「大丈夫。ちょっと足が」


「抜けてるだろ!」


⸻


 ユウガオに肩を支えられたまま、シンは国衡を見る。


⸻


「まだ行ける」


「行けぬ」


⸻


 即答だった。


⸻


「今夜は休め」


「でも」


「命令だ」


⸻


 武士の顔のまま、国衡が言った。


⸻


「鎌倉は手を抜かぬのだろう」


「ああ」


「ならば、お前も明日まで力を残せ」


⸻


 シンは言い返せなかった。


⸻


「明日は忙しい」


⸻


 国衡は背を向けた。


⸻


「ただし」


⸻


 振り返らずに言う。


⸻


「死ぬな」


⸻


 頼朝と同じ言葉だった。


⸻


「努力する」


「そこは請け負え」


「さっき頼朝にも言われた」


⸻


 国衡の足が止まった。


⸻


「鎌倉殿を呼び捨てにしたのか」


「本人の前でも」


⸻


 国衡が肩を揺らした。


 笑っていた。


⸻


「義経殿と気が合うわけだ」


⸻


「ほら、行くよ」


⸻


 ユウガオがシンの腕を自分の肩へ回した。


⸻


「どこに」


「寝る」


「眠くない」


「アンタの意見は聞いてない」


⸻


 そのまま引きずるように、陣の奥へ連れていかれる。


⸻


「自分で歩ける」


「膝から落ちたヤツが言うな」


「もう治った」


「じゃあ手、離すよ?」


⸻


「……もう少し、このままで」


⸻


 ユウガオが一瞬だけ黙った。


⸻


「調子いいね、ホント」


⸻


 小さく笑った。


⸻


 敷かれた筵の上へ、半ば無理やり寝かされた。


⸻


「目、閉じて」


「だから眠くないって」


「閉じる」


⸻


 ユウガオの手が、シンの目を覆った。


 夜花の匂いが近づく。


⸻


「子供じゃないんだけど」


「子供より手が掛かるよ」


⸻


 目を閉じるつもりはなかった。


 少し休んだら起きるつもりだった。


⸻


 瞬きをした。


⸻


 次に目を開けた時。


⸻


 夜だった。


⸻


 火の匂いがした。


 身体を起こそうとすると、肩から何かが落ちる。


 衣だった。


⸻


「起きた?」


⸻


 すぐ近くから声がした。


 ユウガオが、膝を抱えて座っている。


⸻


「……ずっといたのか」


「たまたまだよ」


「ここで?」


「たまたま」


⸻


 シンは落ちた衣を拾った。


⸻


「これも?」


「知らないね」


⸻


 ユウガオは火の方を向いた。


 横顔だけが、少し赤かった。


⸻


「どれくらい寝てた?」


「昼過ぎから、ずっと」


「そんなに?」


「死んだみたいにね」


⸻


 シンの顔が固まる。


⸻


「縁起でもない」


「アンタが言う?」


⸻


 ユウガオが笑った。


⸻


 その向こうでは、兵たちが動き続けていた。


⸻


 矢を束ねる。


 弓弦を張り直す。


 折れた逆茂木を組み直す。


 堀へ落ちた土を掻き出す。


⸻


 誰も、明日が最後だとは口にしない。


 だが、皆が知っていた。


⸻


 タダは大鍋を火へ掛け続けた。


 夜番へ汁を配る。


 傷を負った者へ、柔らかく煮た米を渡す。


 戦えない者にも、同じ量をよそう。


⸻


 ユウガオは、そのまま隣にいた。


 話しかけてはこない。


 離れもしない。


⸻


 二人で、ぼんやりと火を眺めていた。


⸻


「……逃げろって言わないのかい」


⸻


 ユウガオが静かに言った。


⸻


「言わない」


「本当に?」


「ああ」


「なんで」


「言っても聞かないだろ」


「分かってきたじゃないか」


⸻


 少し笑った。


⸻


「それに」


⸻


 シンは火を見た。


⸻


「自分で決めたことに、俺が口を出すのは違う」


⸻


 ユウガオは何も言わなかった。


 しばらくして、肩が触れた。


⸻


 離れなかった。


⸻


「シン」


「何だ」


「次も、戻ってね」


⸻


 胸の奥が止まる。


⸻


 次。


⸻


 その言葉が、別の意味を持って聞こえた。


⸻


 次に死ねば。


 この時代では戻れない。


⸻


 それをユウガオへ説明する言葉はなかった。


⸻


「戻る」


⸻


 シンは答えた。


⸻


 どこへ。


 いつへ。


 どんな形で。


⸻


 分からない。


⸻


 それでも。


⸻


「必ず」


⸻


 今度は、付けた。


⸻


 ユウガオの頭が、肩へ乗った。


 軽かった。


 いつもの夜花の香りが鼻をくすぐった。


⸻


 夜が深くなる。


⸻


 山の裏で、何かが動いている。


 鳥取越。


 シンは、その名を知っていた。


 七騎が道を開き、その後ろから兵が入る。


⸻


 止めれば、別の場所が崩れる。


 それでも、国衡たちは備えている。


⸻


 伝令が走る。


 斥候が戻る。


 夜の山へ兵が散っていく。


⸻


 シンは追わなかった。


⸻


 今度は、すべてを止めるためではない。


⸻


 見届けるために、ここへ戻った。


⸻


 やがて。


⸻


 東の空が白んだ。


⸻


 ユウガオが肩から離れる。


 タダが鍋の火を落とす。


 兵たちが立ち上がる。


⸻


 国衡が馬へ乗った。


⸻


 朝靄の向こう。


 鎌倉方の白旗が、一斉に動き始める。


⸻


 法螺貝。


⸻


 太鼓。


⸻


 地を揺らす鬨の声。


⸻


 文治五年八月十日。


⸻


 阿津賀志山。


⸻


 最後の戦が、始まった。


⸻


(第百十七話へ)


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