いい国つくろう
第百十五話 いい国つくろう
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源頼朝が、目の前にいた。
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その名だけは、シンにも分かった。
源頼朝。
鎌倉幕府。
征夷大将軍。
いい国つくろう、鎌倉幕府。
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どこで覚えたのかは分からない。
誰に教わったのかも、思い出せない。
その語呂が正しかったのかさえ、もう怪しかった。
だが、名前だけは残っている。
歴史に疎いシンでも知っている。
教科書の中から抜け落ちなかった、数少ない大物だった。
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その男が、灯の向こうに座っている。
机の脇には、弓が一本立てられていた。
矢は三本だけ。
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鎧は着ていなかった。
国衡のような厚い胸もない。
義盛のような大きな肩もない。
景時や景季のように、立っているだけで武者だと分かる身体でもなかった。
年は四十を少し越えた頃だろうか。
頬は痩せている。
目の下には、薄く影が落ちていた。
長い旅と、眠らない夜が、そのまま顔へ残っている。
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英雄には見えなかった。
天下を取る怪物にも見えなかった。
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生身の人間だった。
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ただし。
目だけが違った。
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深い。
暗いのではない。
奥がある。
何人もの顔を見て。
何人もの名を覚え。
何人もの死を決めて。
その全部を、目の底へ沈めた人間の目だった。
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背負う者の目。
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国衡も、義盛も、景時も、背負っていた。
家を。
郎党を。
土地を。
頼朝の目の奥には、それより多くのものが重なっていた。
幕の外で眠る兵。
ここまで運ばれた米俵。
掘り埋められた堀。
まだ見たこともない土地。
これから死ぬ者。
死なせた者。
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その重さが、男を大きく見せていた。
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「まぁ、座れ」
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もう一度、頼朝が言った。
声は低い。
威圧するほど強くない。
だから逆らいにくかった。
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シンは促されるまま、机を挟んで座った。
床へ置いた膝が、少し痛い。
正しい座り方が分からない。
景時の顔が頭へ浮かび、背筋だけは伸ばした。
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頼朝は、その様子を見ていた。
笑わない。
咎めもしない。
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「梶原から聞いた」
頼朝の指が、机の上の紙を押さえた。
奥州の道と山が、細い墨で描かれている。
「九郎の最期を見たそうだな」
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「見た」
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「首ではなく」
「生きてる義経を」
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頼朝の目が、僅かに動いた。
それだけだった。
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「話せ」
「どこから」
「お前が九郎と会ったところからでよい」
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シンは息を吸った。
何から話せばいいのか分からなかった。
義経を説明するには、出来事が多すぎる。
少なすぎる気もした。
会ってから、まだ一年も経っていない。
それなのに、ずっと前から知っていたような顔が幾つも浮かんだ。
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「最初は、刀を向けられた」
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頼朝の眉が、ほんの少し上がった。
「九郎らしい」
「笑うところか?」
「お前は生きている」
「ギリギリだった」
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頼朝の口元に、何かが出かけた。
だが、すぐに消えた。
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シンは話した。
春の平泉。
雪解けの水。
高館から見た金色の都。
義経が、見知らぬ男を疑いながらも家へ置いたこと。
タダの飯を食べたこと。
ユウガオが酒を飲ませたこと。
国衡と、子供みたいに笑っていたこと。
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「国衡殿とは、親しかったのか」
「親しいなんてもんじゃない。会えば喧嘩して、喧嘩しながら笑ってた」
「昔からそうだった」
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今度は、頼朝が先に言った。
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「知ってるのか」
「九郎が奥州にいた頃のことは、後から調べさせた」
「全部?」
「全部を知ることはできぬ」
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頼朝は一度、目を伏せた。
「だから聞いている」
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シンは続きを話した。
鞍馬で義経に剣を教えた男と、話したこと。
人の匂いを嗅ぎ分けたこと。
嘘をついても、すぐ見抜かれたこと。
戦えば、白桃すら圧倒したこと。
刃が首へ届く寸前で止まり、モモを斬らなかったこと。
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「白桃とは何だ」
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頼朝が初めて、話を止めた。
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「……モモだ」
「同じ女か」
「同じで、違う」
「分からぬ」
「俺も全部は分からない」
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頼朝は、しばらくシンを見た。
嘘を量る目だった。
だが追及はしなかった。
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「九郎は、その女を殺さなかった」
「殺せた。でも、殺さなかった」
「なぜだ」
「モモが中にいるって分かったからだと思う」
「九郎が?」
「俺より先に」
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頼朝の指が、紙の端を一度なぞった。
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「昔から、理屈より先に見つける男だった」
「兄弟だな」
「私まで同じにするな」
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即答だった。
シンは少しだけ、息を抜いた。
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「でも、似てる」
「どこがだ」
「人を見てるところ」
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頼朝は答えなかった。
灯の芯が小さく鳴った。
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衣川の話へ入る。
空気が変わった。
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四月三十日の朝。
館を囲む兵。
庭へ降りた義経。
襲いかかる男たち。
土佐坊。
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「土佐坊が、なぜ衣川に」
頼朝は一瞬考え、眉間に皺を寄せた。
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「院か……あの大天狗め」
小さく舌打ちして、シンに続きを促した。
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その中心で、まるで子供に戻ったように戦ったこと。
ユウガオを逃がしたこと。
タダを行かせたこと。
自分は残ったこと。
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頼朝は口を挟まなくなった。
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シンの言葉だけが、狭い幕の中へ落ちていく。
義経の足。
刀。
呼吸。
返り血。
笑っていた顔。
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「笑っていたのか」
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頼朝が、そこで聞いた。
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「笑ってた」
「何を見て」
「分からない」
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シンは少し考えた。
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「いや」
「何だ」
「俺たちを見てた」
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義経の声が戻る。
逃げろ。
生きろ。
行け。
短い言葉だった。
自分だけが残ると決めた人間が、生きる者たちを前へ押した。
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「たぶん、満足してた」
「死ぬことにか」
「違う」
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シンは首を振った。
「自分で決めたことに」
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頼朝は黙って聞いていた。
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「……私のことは」
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その言い方だけが、少し違った。
頼朝はシンではなく、灯を見ている。
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「何か言っていたか」
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シンはすぐには答えなかった。
義経は、頼朝について何度も話した。
怒っていた。
悔しがっていた。
子供みたいに拗ねた。
それでも、憎んではいなかった。
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「会いたがってた」
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頼朝の顔は動かない。
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「恨み言は」
「言ってた」
「そうか」
「でも、殺したいとか、仕返ししたいとかじゃない」
「では何だ」
「驚かせたいって」
「兄上は、きっと怒る。でも、そのうち笑うって」
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頼朝が、初めてシンを見返した。
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「私を」
「アンタを」
「どうやって」
「そこまでは、あとで言う」
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頼朝の眉間に、また薄く皺が寄った。
「今言え」
「話の最後に取っておく」
「誰に向かって申している」
「鎌倉殿」
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外にいた景時が聞けば、卒倒するかもしれない。
だが頼朝は怒らなかった。
小さく鼻から息を出しただけだった。
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「続けろ」
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シンは、義経と別れたところまで話した。
そして国衡に匿われ、今に至ること。
それから義経には会っていないこと。
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「九郎の死を見たのか」
「見てない」
「館は」
「燃えた。遺体も、首も見つかってない」
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頼朝はシンを見た。
長い。
逃げたくなるほど長かった。
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「では、九郎が死んだとは言えぬな」
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意外な返事だった。
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「公には、あの首を九郎とした」
「分かってる」
「だが、ここには我らしかおらぬ」
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頼朝は地図へ目を落とした。
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「最後に、九郎の傍にいたのは」
「敵だ。俺たちは逃がされた」
「一人で残ったのか」
「ああ」
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シンは衣川の火を思い出した。
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「でも、義経は自分が終わるなんて思ってなかった」
「なぜ分かる」
「笑ってたから」
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頼朝は何も言わなかった。
けれど、地図を押さえていた指の力だけが抜けた。
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シンは、その手を見た。
細い傷が幾つもあった。
筆だけを持ってきた手ではない。
長い間、弓と馬を扱ってきた者の手だった。
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「話は終わりか」
「義経の話は」
「では、お前の話をしろ」
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頼朝が顔を上げた。
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「何のために、ここへ来た」
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シンは膝の上で拳を握った。
ここからだった。
義経の話は、頼朝へ会うためだけに持ってきたものではない。
だが、何を言っても届かないかもしれない。
目の前の男は、もう何万もの兵を北へ進めている。
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「平泉から手を引いてくれ」
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頼朝の表情は変わらなかった。
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「泰衡は、最初からアンタと戦うつもりじゃなかった」
「知っている」
「義経を差し出せって言われて、追い詰められて、やった」
「それも知っている」
「なら」
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シンは身を乗り出した。
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「もういいだろ」
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幕の外で、馬が鼻を鳴らした。
頼朝は動かない。
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「泰衡は恭順する。平泉も差し出す。金も馬も、必要なら渡す」
「お前が決めることではない」
「国衡だって、アンタを倒して天下を取るなんて考えてない」
「国衡殿の考えも、国衡殿が決めることだ」
「じゃあ本人に聞けよ」
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声が大きくなった。
外で、何かが動く気配がした。
頼朝は片手を僅かに上げた。
幕の外の気配が止まる。
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「聞いたところで、答えは変わらぬ」
「何でだよ」
「奥州から兵を退くことはできぬ」
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即答だった。
迷いがない。
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「国衡を死なせたくない」
「私も、できることなら死なせたくはない」
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シンの拳が止まった。
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「……本気で言ってるのか」
「勇猛な者は使い道がある。国衡殿だけではない。北には、馬を知り、山を知り、雪を知る武者が多い」
「なら生かせばいい」
「降ればな」
「降らせろよ」
「降らぬ者を、力ずくで生かすことはできぬ」
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頼朝の声は静かだった。
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「そして、降るだけでは足りぬ」
「何が」
「奥州藤原氏が、終わったと誰の目にも分かることだ」
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シンの背中が冷えた。
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「見せしめか」
「区切りだ」
「同じだろ」
「違う」
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頼朝は初めて、少し強く言った。
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「見せしめは、恐れさせるために殺す」
「区切りは、次を始めるために終わらせる」
「死ぬ側には同じだ」
「そうだ」
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あまりにも簡単に認めた。
シンは言葉を失った。
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「だから軽くは言わぬ」
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頼朝の目が、地図の北へ落ちる。
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「これは、この国が一つにまとまるため、最後に流す血だ」
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「最後?」
「そうする」
「言い切れるのか」
「言い切れぬ者に、兵を進める資格はない」
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灯が揺れた。
頼朝の影が、幕へ大きく伸びる。
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「どういうことだ」
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シンは聞いた。
怒りは消えていない。
だが、目の前の男が何を見ているのか知らなければ、怒る場所さえ間違える気がした。
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頼朝はすぐには答えなかった。
地図の上へ、指を置く。
京。
鎌倉。
その間をなぞり、北へ滑らせた。
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「平安の世は終わった」
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静かな声だった。
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「都が消えるという意味ではない。帝を捨てるという意味でもない」
「朝廷に代わるんじゃないのか」
「代わるだけなら、また同じものができる」
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頼朝の指が止まった。
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「都の権威は要る。法も要る。官位も、国司も、寺社も要る」
「でも、それだけじゃ足りない」
「そうだ」
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頼朝は、地図の余白を指で叩いた。
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「都から見えぬ田がある」
「誰のものか分からぬ土地がある」
「隣の家と水を争い、刀を抜く者がいる」
「命令が届く頃には、村が焼けている場所がある」
「国司が代わるたび、沙汰も変わる」
「強い者が奪い、弱い者が都へ訴え、返事を待つ間に死ぬ」
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列挙する声に、怒りはなかった。
見てきた事実だけがあった。
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「伊豆に流されていた頃、私は何も持たなかった」
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頼朝が言った。
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「都から見れば、死なずに置かれた罪人だ」
「土地の者から見れば、いつ平家に消されるか分からぬ厄介者だった」
「その時に分かった」
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目が、シンへ戻る。
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「遠くにある正しさは、届かなければ無いのと同じだ」
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シンは黙った。
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「だから、近くに置く」
「何を」
「裁く者を」
「守る者を」
「命じられれば兵を出し、働けば土地を守られ、争えば沙汰を受ける者を」
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「守護とか、地頭とかってヤツか」
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言葉だけが、シンの中に残っていた。
正確な違いまでは分からない。
頼朝は少し目を細めた。
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「どこでその名を聞いた」
「分からない。でも、そういう名前になるんだろ」
「名など後から定まる」
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頼朝は、地図の各所を指した。
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「大事なのは、鎌倉と主従を結んだ者を、国々へ置くことだ」
「鎌倉殿から受けた恩を、働きで返す」
「働いた者の土地を、鎌倉殿が守る」
「一度の戦で集まった兵を、戦が終わった後も繋いでおく」
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陣幕の外で見た白旗が、シンの頭へ浮かんだ。
国ごと。
家ごと。
主従ごと。
別々の言葉を話す者たちが、同じ北を向いていた。
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「国を作ってるのか」
「形を作っている」
「何の」
「武士が、武士の争いを裁く形を」
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その答えを聞いた瞬間。
シンの中で、何かが繋がった。
頼朝の陣。
米俵。
書きつけ。
旗。
命令。
御家人。
土地。
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鎌倉幕府。
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教科書の中で、四文字に縮められていたもの。
それが今、幕の外で息をしていた。
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「そのために、国衡たちを殺すのか」
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繋がったからこそ、聞かなければならなかった。
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「礎になってもらう」
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「人を石みたいに言うな」
「石ではない」
「同じだ」
「名を持つ人間だから、礎になる」
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シンが立ちかける。
頼朝は動かない。
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「九郎も、そうやって使い切った」
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身体が先に動いた。
机へ手をつく。
紙がずれた。
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「ふざけるな!」
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声が、幕を震わせた。
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「使い切ったって何だ!」
「アイツは道具じゃない!」
「アンタの国を作るために、あそこへ残ったんじゃない!」
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頼朝は、少しも引かなかった。
怒りもしない。
目だけで、立ち上がったシンを見上げる。
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「座れ」
「座れるか!」
「なら立ったまま聞け」
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低い声だった。
シンの怒鳴り声より、よく届いた。
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「私は、お前より九郎を知っている」
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「何を知ってる」
「九郎が覚えていない父を、私は知っている」
「九郎を抱いた母が、平家の世でどう生き延びたかも知っている」
「鞍馬に預けられ、奥州へ下った理由も知っている」
「黄瀬川で初めて会った時の顔も知っている」
「私を兄と呼んだ声も知っている」
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頼朝の声が、初めて熱を持った。
大きくはない。
だが、沈めていたものが底から浮いた。
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「共に過ごした時は短い」
「お前と九郎が笑い合った日々より、短かったかもしれぬ」
「それでも、我らは血を分けた兄弟だ」
「九郎も私を知っていた」
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「だったら何で!」
「兄弟だからだ」
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返事が重なった。
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「九郎でなければ、あれほどの戦は終わらなかった」
「九郎でなければ、平家を海へ追い詰められなかった」
「九郎でなければ、都の武者も坂東の武者も、同じ敵へ向かなかった」
「そして九郎でなければ、その追討を理由に国々へ手を伸ばすこともできなかった」
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シンの喉が詰まる。
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「最初から、そのつもりで」
「違う」
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頼朝は断った。
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「九郎が私の許しなく官位を受けた時も」
「京で私を討つ宣旨を求めた時も」
「海で敗れ、山へ消えた時も」
「その先がすべて見えていたわけではない」
「私は神ではない」
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机の端へ置いた手が、ゆっくり握られる。
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「だが、起きたことを使わぬほど愚かでもない」
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「九郎を追うため、国々へ命令を出した」
「誰が従い、誰が従わぬかを見た」
「どこに兵があり、どこに道があり、どの寺社が誰を匿い、どの荘園が誰の言葉で動くかを見た」
「九郎は逃げながら、この国の綻びを私へ見せた」
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「だから、利用したんだろ」
「そうだ」
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頼朝は逃げなかった。
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「九郎の生命を使った」
「九郎が勝ち取った名も、九郎が生んだ恐れも、九郎を追うために集めた兵も、すべて使った」
「九郎が死んだという形も使う」
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シンの拳が震えた。
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「アンタは」
「世の中では、九郎は死んだ」
「ここで止まれば、九郎は犬死だ」
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頼朝の言葉が、シンを止めた。
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「奥州は総決算だ」
「九郎を匿ったから討つ。それだけではない」
「平家が滅び、義仲が滅び、行家が滅び、九郎が討たれたと国中が信じてもなお、鎌倉の命が届かぬ大きな土地が北に残っている」
「ここで兵を退けば、鎌倉は坂東の一勢力へ戻る」
「国々はまた、それぞれの強さだけで生きる」
「次の争いが始まる」
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頼朝は立ち上がった。
大きくない身体だった。
それでも、机を挟んだ距離が急に狭くなる。
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「九郎を切ってまで開いた道だ」
「この先を作らずに止まれば、私はただ弟を追い詰めた兄になる」
「九郎は、兄に追われて消えた哀れな武者で終わる」
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目が、シンを射抜いた。
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「そのようには終わらせぬ」
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シンは何も言えなかった。
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嫌だった。
言っていることが分かるのが、嫌だった。
義経を追い詰めたことを正しいとは思わない。
頼朝を許す気にもならない。
それでも、目の前の男が弟を捨てたのではなく、捨てられなかったから使い続けているのだと分かってしまった。
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姿を消した後まで。
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「奥州で流す血を最後にする」
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頼朝が言った。
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「その後は、働いた者へ土地を返す」
「争いを裁く」
「勝手な略奪を禁じる」
「都へ届かぬ訴えを鎌倉で受ける」
「国々の武士を、一つの約束へ繋ぐ」
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「そんなに上手くいくのか」
「いかぬ」
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即答だった。
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「裏切る者が出る」
「恩を忘れる者もいる」
「土地を奪う者も、私の名を使って人を殺す者も出る」
「私の子に器量がなければ、また争う」
「私が誤れば、鎌倉そのものが災いになる」
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「分かってて作るのか」
「人が作るものに、誤りが無いと思うか」
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シンは答えられない。
⸻
「完全な世など要らぬ」
「昨日より、少し長く約束が保たれる世でよい」
「刀を抜く前に、訴える先が一つ増える世でよい」
「父の土地を、子が戦わず受け取れる可能性が少し増えればよい」
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頼朝の声は、理想を語る者の声ではなかった。
届かないものを承知で、届くところまで積む者の声だった。
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「そのためなら」
⸻
頼朝は、自分の胸へ手を置いた。
⸻
「私の生命も使う」
「家族も使う」
「仲間も、名も、後に残る悪評も、すべて使う」
「九郎だけに払わせるつもりはない」
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灯の向こうに、別の顔が重なった。
⸻
カミノ。
⸻
遠い時代で、都を背負っていた男。
若く。
迷い。
怒り。
人を見ようとしていた。
親王である前に、一人の人間でいようと足掻いていた。
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似てはいない。
顔も。
声も。
立っている場所も。
⸻
だが、目の奥にあるものが同じだった。
自分一人では抱えきれない時代を、それでも抱こうとする目。
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もしカミノが、あの先も国を背負い続けていたなら。
多くを決め。
多くを切り。
何度も眠れぬ夜を越えたなら。
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こんな目になったのかもしれない。
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シンの胸が、少し痛んだ。
前の時代へは戻れない。
カミノが最後にどんな顔で生きたのか、もう知ることはできない。
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「国衡だけでも」
⸻
それでも、シンは言った。
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「助けてくれ」
⸻
頼朝は首を振った。
⸻
「できぬ」
「国衡が残れば、北の武者が集まるからか」
「それもある」
「それだけじゃない?」
「国衡殿自身が、望まぬ」
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シンは顔を上げた。
⸻
「知ったように言うな」
「会ったことはない」
「なら」
「だが、お前の話を聞いた」
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頼朝は地図の阿津賀志山へ指を置いた。
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「退く兵を見送り、自分は最後まで残る男なのだろう」
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シンは黙った。
⸻
「その男へ、家も名も捨てて私に飼われろと言うのか」
「生きてれば」
「生きることだけが、救いではない」
⸻
義経の笑った顔が浮かんだ。
自分で決めたことに満足していた顔。
⸻
「だからって、死なせていい理由にはならない」
「ならぬ」
「さっきから、そればっかりだな」
「正しくないことを、正しいと言い換えれば楽になる」
⸻
頼朝の目が細くなった。
⸻
「私は、その楽を選ばぬ」
⸻
幕の中が静かになった。
外では何万もの人間が動いている。
ここだけ、音が遠い。
⸻
その時だった。
⸻
頼朝の目が、シンの肩越しへ動いた。
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ほんの一瞬。
何かを確かめたようにも見えなかった。
ただ、目が動いた。
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次に、頼朝の右手が消えた。
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机の脇に立てられていた弓を取る。
左手が握る。
右手は、置かれていた矢を掴んでいる。
弦へ掛ける。
引く。
⸻
速い。
⸻
国衡の槍とも違う。
義経の刀とも違う。
始まりが見えなかった。
構えたのではない。
気づいた時には、矢が放たれていた。
⸻
弦が鳴る。
⸻
矢が、シンの頬のすぐ横を通った。
風が皮膚を切る。
身体は動かなかった。
避けるという考えすら、矢の後から来た。
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背後で、鈍い音がした。
⸻
シンが振り返る。
幕の合わせ目から、一人の兵が入り込んでいた。
白い布を額へ巻いている。
胸から、矢羽が伸びていた。
片手には短い刃。
もう片方の手は、シンの背へ届く寸前で止まっている。
⸻
「な……む……」
⸻
兵の口が動いた。
血が溢れる。
⸻
「南無、八幡……大菩薩……」
⸻
膝が落ちる。
刃が床へ転がった。
兵は頼朝を見た。
助けを求める目ではない。
なぜ自分が射られたのか、理解できない目だった。
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「鎌倉殿……」
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最後の息が抜けた。
身体が前へ倒れる。
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頼朝は弓を下ろした。
顔色一つ変わっていない。
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「まったく」
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頼朝が、倒れた兵を見た。
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「八幡大菩薩も当てにならぬ」
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シンは頬へ手を当てた。
血は出ていない。
矢の風だけが残っている。
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「お前を殺せと、先ほどから煩かった」
「……何?」
「無視していたら、無理に刺客を寄越したらしい」
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頼朝は、死んだ兵の額の布を見る。
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「私の幕にまで入れるとは、随分と増長したものだ」
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「神託を、受けてるのか」
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シンの声が低くなる。
頼朝は弓を持ったまま、元の場所へ座った。
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「受けている、という言い方が正しいかは知らぬ」
「声が聞こえる?」
「伊豆にいた頃からな」
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「いつから」
「二十年以上前だ」
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頼朝は弦を指で弾いた。
低い音が返る。
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「初めは、夢かと思った」
「次は、怨霊かと思った」
「その次は、自分が狂ったのだと思った」
「だが、こちらしか知らぬことを告げる時がある」
「明日の雨」
「敵の動き」
「誰が裏切るか」
「どこへ行けば、生き残るか」
「外れることもある」
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「従ったのか」
「役に立つ時は」
「じゃあ、今も」
「従っておれば、お前は死んでいる」
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シンは口を閉じた。
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「声は、自らを八幡と名乗るのか」
「そう名乗る」
「本当に八幡大菩薩だと思ってるのか」
「思っておらぬ」
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「じゃあ、何だと思ってる」
「知らぬ」
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頼朝は、倒れた兵へ目を落とした。
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「名が何であれ、役に立つ時は使う」
「害になる時は捨てる」
「それだけだ」
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「かれこれ二十年以上の付き合いだ」
「役に立つこともある」
「今回のように、意味の分からぬことを命じる時もある」
「厄介な声だ」
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シンは倒れた兵を見た。
八幡大菩薩を唱えながら、頼朝の矢で死んだ。
自分が信じた神の名を掲げる男に射られた。
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「弟と一緒だな」
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頼朝の指が止まった。
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「何がだ」
「神託を聞いても、言うことを聞かない」
「九郎は聞こえていたのか」
「たぶん。少なくとも、何かに命令されるのを嫌ってた」
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頼朝はしばらく黙った。
弓を見下ろす。
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「似ておらぬ」
「似てる」
「九郎は、声を無視して崖を駆け下りる」
「アンタは、声を利用して道を作る」
「違うではないか」
「従わないところは同じだ」
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頼朝は、嫌そうに息を吐いた。
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「二度と申すな」
「義経に言っとく」
「死んだのであろう」
「そのうち会うかもしれない」
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頼朝の目が、またシンを量った。
今度は嘘かどうかではない。
何者なのかを考える目だった。
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幕の外から、足音が殺到した。
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「鎌倉殿!」
「今の弦音は!」
「御無事にございますか!」
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景時の声。
義盛の声。
ほかにも何人もいる。
幕へ手が掛かる気配がした。
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「大事ない」
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頼朝が言った。
外の動きが止まる。
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「鼠が一匹入った」
「中へ入ります」
「要らぬ」
「されど」
「もうすぐ終わる。待て」
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短い命令だった。
何人もの武者が、幕一枚の向こうで従った。
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頼朝は、刺客の刃を足で遠ざけた。
それから弓を横へ置く。
置いたまま、弦を指で弄った。
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「さて」
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目が、シンへ戻る。
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「私を殺せば、軍は多少止まる」
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「……何言ってる」
「お前の目的は、奥州を救うことだろう」
「そうだけど」
「武器は持っておらぬ。だが、神託がそこまで殺したがる男だ。何か隠しているかもしれぬ」
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頼朝は、自分の胸元を指した。
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「やってみるか」
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冗談ではなかった。
試している。
シンが何を選ぶか、本気で見ている。
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今なら近い。
机一つ。
頼朝は鎧を着ていない。
外の護衛が入るまで、僅かな間はある。
首へ手を伸ばすことくらいはできる。
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この男を殺せば。
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阿津賀志山への命令が乱れる。
御家人たちは動揺する。
国衡が生き残る道が、少しは開くかもしれない。
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その先は。
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義盛。
景時。
景季。
そのほかの御家人。
幕の外にいた、名も知らない者たち。
頼朝が死ねば、彼らは誰に従う。
誰が次の鎌倉殿になる。
誰が頼朝を殺した者を討つ。
奥州は、本当に救われるのか。
それとも、行き場を失った大軍が、怒りのまま北を焼くのか。
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分からなかった。
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ただ一つ分かった。
目の前の男を殺すことは、一本の道を消すことではない。
道を支えている人間すべてを、暗闇へ放り出すことだった。
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「……やめとく」
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頼朝の指が、弦から離れた。
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「なぜだ」
「アンタを殺した後が、見えない」
「国衡殿を助けたいのではなかったか」
「助けたい」
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シンは頼朝を見た。
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「アンタの正しさも分かる」
「正しいと思うのか」
「全部じゃない」
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頼朝は黙っている。
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「でも、アンタが必要だって言うことも分かる」
「ここで止まれないのも」
「義経が払ったものを、無駄にしたくないのも」
「国衡が残れば、また戦になるかもしれないのも」
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シンは拳を開いた。
爪の跡が、掌へ残っている。
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「それでも、国衡たちを助けたい気持ちは捨てられない」
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「矛盾しているな」
「知ってる」
「どちらかを選ばねば、何も決められぬ」
「アンタは、そうやって選んできたんだろ」
「そうだ」
「俺は、まだ無理だ」
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頼朝の目が僅かに細くなる。
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「だから」
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シンは立ち上がった。
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「見届ける」
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「何を」
「国衡がどう戦うか」
「北がどう終わるか」
「アンタが作るものが、本当にその血に見合うのか」
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頼朝は、座ったままシンを見上げた。
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「見届けて、どうする」
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シンは少し考えた。
答えは、最初から自分の中にあった気もする。
言葉になるまで、時間がかかった。
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「運ぶ」
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「何を」
「見たものを」
「死んだ人の名前を」
「残ったものを」
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シンは、幕の入口を見た。
その向こうには景時がいる。
義盛がいる。
ワカレがいる。
もっと向こうでは、モモが待っている。
北では国衡とユウガオとタダが待っている。
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「先へ」
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頼朝は長く黙っていた。
灯が小さく揺れる。
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「そうか」
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それだけだった。
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シンは入口へ向かった。
倒れた兵を避ける。
八幡の名を唱えた口は、もう動かない。
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幕へ手を掛ける。
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「待て」
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頼朝の声が、背中へ届いた。
シンは振り返る。
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「まだ何かあるのか」
「お前が取っておいた話だ」
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頼朝の顔は、また鎌倉殿の顔に戻っていた。
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「九郎は、どうやって私を驚かせるつもりだった」
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「ああ」
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忘れるところだった。
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「海を渡るって言ってた」
「海を」
「もっと北へ行って、その先から渡る」
「どこへ」
「知らない。義経も、たぶんよく分かってなかった」
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頼朝の眉間へ、また皺が寄る。
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「それで」
「向こうで馬賊になるって」
「馬賊」
「馬に乗った強い奴らを、たくさん仲間にする」
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頼朝は無言だった。
何を聞かされているのか、本気で考えている顔だった。
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「それから、とんでもない数の仲間を連れて戻ってくる」
「何のために」
「アンタをびっくりさせるため」
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沈黙。
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長かった。
幕の外で、誰かがもう一度声を掛けるか迷うように、衣を擦った。
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やがて。
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頼朝の口元が、僅かに上がった。
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「九郎め」
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声が変わった。
鎌倉殿ではなかった。
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「あやつなら、本当にとんでもない大軍を率いて戻るかもしれぬ」
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頼朝は、困ったように息を吐いた。
目の奥に沈んでいた重さが、ほんの一瞬だけほどける。
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「ならば、海の向こうから来るものを、退けるにも、迎えるにも足る国を作らねばならんな」
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一拍置いて、付け加えた。
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「いい国を、な」
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シンは、その時初めて見た。
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歴史を作った男でもない。
何万もの兵を動かす鎌倉殿でもない。
弟の生命まで使い切ると決めた、止まれない男でもない。
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普通の兄だった。
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やんちゃな弟が、今度は何をしでかすのか。
呆れながら。
少しだけ楽しみにしている。
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苦労人の、兄貴の顔だった。
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(第百十六話へ)




