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いい国つくろう

第百十五話 いい国つくろう


⸻


 源頼朝が、目の前にいた。


⸻


 その名だけは、シンにも分かった。


 源頼朝。


 鎌倉幕府。


 征夷大将軍。


 いい国つくろう、鎌倉幕府。


⸻


 どこで覚えたのかは分からない。


 誰に教わったのかも、思い出せない。


 その語呂が正しかったのかさえ、もう怪しかった。


 だが、名前だけは残っている。


 歴史に疎いシンでも知っている。


 教科書の中から抜け落ちなかった、数少ない大物だった。


⸻


 その男が、灯の向こうに座っている。


 机の脇には、弓が一本立てられていた。


 矢は三本だけ。


⸻


 鎧は着ていなかった。


 国衡のような厚い胸もない。


 義盛のような大きな肩もない。


 景時や景季のように、立っているだけで武者だと分かる身体でもなかった。


 年は四十を少し越えた頃だろうか。


 頬は痩せている。


 目の下には、薄く影が落ちていた。


 長い旅と、眠らない夜が、そのまま顔へ残っている。


⸻


 英雄には見えなかった。


 天下を取る怪物にも見えなかった。


⸻


 生身の人間だった。


⸻


 ただし。


 目だけが違った。


⸻


 深い。


 暗いのではない。


 奥がある。


 何人もの顔を見て。


 何人もの名を覚え。


 何人もの死を決めて。


 その全部を、目の底へ沈めた人間の目だった。


⸻


 背負う者の目。


⸻


 国衡も、義盛も、景時も、背負っていた。


 家を。


 郎党を。


 土地を。


 頼朝の目の奥には、それより多くのものが重なっていた。


 幕の外で眠る兵。


 ここまで運ばれた米俵。


 掘り埋められた堀。


 まだ見たこともない土地。


 これから死ぬ者。


 死なせた者。


⸻


 その重さが、男を大きく見せていた。


⸻


「まぁ、座れ」


⸻


 もう一度、頼朝が言った。


 声は低い。


 威圧するほど強くない。


 だから逆らいにくかった。


⸻


 シンは促されるまま、机を挟んで座った。


 床へ置いた膝が、少し痛い。


 正しい座り方が分からない。


 景時の顔が頭へ浮かび、背筋だけは伸ばした。


⸻


 頼朝は、その様子を見ていた。


 笑わない。


 咎めもしない。


⸻


「梶原から聞いた」


 頼朝の指が、机の上の紙を押さえた。


 奥州の道と山が、細い墨で描かれている。


「九郎の最期を見たそうだな」


⸻


「見た」


⸻


「首ではなく」


「生きてる義経を」


⸻


 頼朝の目が、僅かに動いた。


 それだけだった。


⸻


「話せ」


「どこから」


「お前が九郎と会ったところからでよい」


⸻


 シンは息を吸った。


 何から話せばいいのか分からなかった。


 義経を説明するには、出来事が多すぎる。


 少なすぎる気もした。


 会ってから、まだ一年も経っていない。


 それなのに、ずっと前から知っていたような顔が幾つも浮かんだ。


⸻


「最初は、刀を向けられた」


⸻


 頼朝の眉が、ほんの少し上がった。


「九郎らしい」


「笑うところか?」


「お前は生きている」


「ギリギリだった」


⸻


 頼朝の口元に、何かが出かけた。


 だが、すぐに消えた。


⸻


 シンは話した。


 春の平泉。


 雪解けの水。


 高館から見た金色の都。


 義経が、見知らぬ男を疑いながらも家へ置いたこと。


 タダの飯を食べたこと。


 ユウガオが酒を飲ませたこと。


 国衡と、子供みたいに笑っていたこと。


⸻


「国衡殿とは、親しかったのか」


「親しいなんてもんじゃない。会えば喧嘩して、喧嘩しながら笑ってた」


「昔からそうだった」


⸻


 今度は、頼朝が先に言った。


⸻


「知ってるのか」


「九郎が奥州にいた頃のことは、後から調べさせた」


「全部?」


「全部を知ることはできぬ」


⸻


 頼朝は一度、目を伏せた。


「だから聞いている」


⸻


 シンは続きを話した。


 鞍馬で義経に剣を教えた男と、話したこと。


 人の匂いを嗅ぎ分けたこと。


 嘘をついても、すぐ見抜かれたこと。


 戦えば、白桃すら圧倒したこと。


 刃が首へ届く寸前で止まり、モモを斬らなかったこと。


⸻


「白桃とは何だ」


⸻


 頼朝が初めて、話を止めた。


⸻


「……モモだ」


「同じ女か」


「同じで、違う」


「分からぬ」


「俺も全部は分からない」


⸻


 頼朝は、しばらくシンを見た。


 嘘を量る目だった。


 だが追及はしなかった。


⸻


「九郎は、その女を殺さなかった」


「殺せた。でも、殺さなかった」


「なぜだ」


「モモが中にいるって分かったからだと思う」


「九郎が?」


「俺より先に」


⸻


 頼朝の指が、紙の端を一度なぞった。


⸻


「昔から、理屈より先に見つける男だった」


「兄弟だな」


「私まで同じにするな」


⸻


 即答だった。


 シンは少しだけ、息を抜いた。


⸻


「でも、似てる」


「どこがだ」


「人を見てるところ」


⸻


 頼朝は答えなかった。


 灯の芯が小さく鳴った。


⸻


 衣川の話へ入る。


 空気が変わった。


⸻


 四月三十日の朝。


 館を囲む兵。


 庭へ降りた義経。


 襲いかかる男たち。


 土佐坊。


⸻


「土佐坊が、なぜ衣川に」


 頼朝は一瞬考え、眉間に皺を寄せた。


⸻


「院か……あの大天狗め」


 小さく舌打ちして、シンに続きを促した。


⸻


 その中心で、まるで子供に戻ったように戦ったこと。


 ユウガオを逃がしたこと。


 タダを行かせたこと。


 自分は残ったこと。


⸻


 頼朝は口を挟まなくなった。


⸻


 シンの言葉だけが、狭い幕の中へ落ちていく。


 義経の足。


 刀。


 呼吸。


 返り血。


 笑っていた顔。


⸻


「笑っていたのか」


⸻


 頼朝が、そこで聞いた。


⸻


「笑ってた」


「何を見て」


「分からない」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


「いや」


「何だ」


「俺たちを見てた」


⸻


 義経の声が戻る。


 逃げろ。


 生きろ。


 行け。


 短い言葉だった。


 自分だけが残ると決めた人間が、生きる者たちを前へ押した。


⸻


「たぶん、満足してた」


「死ぬことにか」


「違う」


⸻


 シンは首を振った。


「自分で決めたことに」


⸻


 頼朝は黙って聞いていた。


⸻


「……私のことは」


⸻


 その言い方だけが、少し違った。


 頼朝はシンではなく、灯を見ている。


⸻


「何か言っていたか」


⸻


 シンはすぐには答えなかった。


 義経は、頼朝について何度も話した。


 怒っていた。


 悔しがっていた。


 子供みたいに拗ねた。


 それでも、憎んではいなかった。


⸻


「会いたがってた」


⸻


 頼朝の顔は動かない。


⸻


「恨み言は」


「言ってた」


「そうか」


「でも、殺したいとか、仕返ししたいとかじゃない」


「では何だ」


「驚かせたいって」


「兄上は、きっと怒る。でも、そのうち笑うって」


⸻


 頼朝が、初めてシンを見返した。


⸻


「私を」


「アンタを」


「どうやって」


「そこまでは、あとで言う」


⸻


 頼朝の眉間に、また薄く皺が寄った。


「今言え」


「話の最後に取っておく」


「誰に向かって申している」


「鎌倉殿」


⸻


 外にいた景時が聞けば、卒倒するかもしれない。


 だが頼朝は怒らなかった。


 小さく鼻から息を出しただけだった。


⸻


「続けろ」


⸻


 シンは、義経と別れたところまで話した。


 そして国衡に匿われ、今に至ること。


 それから義経には会っていないこと。


⸻


「九郎の死を見たのか」


「見てない」


「館は」


「燃えた。遺体も、首も見つかってない」


⸻


 頼朝はシンを見た。


 長い。


 逃げたくなるほど長かった。


⸻


「では、九郎が死んだとは言えぬな」


⸻


 意外な返事だった。


⸻


「公には、あの首を九郎とした」


「分かってる」


「だが、ここには我らしかおらぬ」


⸻


 頼朝は地図へ目を落とした。


⸻


「最後に、九郎の傍にいたのは」


「敵だ。俺たちは逃がされた」


「一人で残ったのか」


「ああ」


⸻


 シンは衣川の火を思い出した。


⸻


「でも、義経は自分が終わるなんて思ってなかった」


「なぜ分かる」


「笑ってたから」


⸻


 頼朝は何も言わなかった。


 けれど、地図を押さえていた指の力だけが抜けた。


⸻


 シンは、その手を見た。


 細い傷が幾つもあった。


 筆だけを持ってきた手ではない。


 長い間、弓と馬を扱ってきた者の手だった。


⸻


「話は終わりか」


「義経の話は」


「では、お前の話をしろ」


⸻


 頼朝が顔を上げた。


⸻


「何のために、ここへ来た」


⸻


 シンは膝の上で拳を握った。


 ここからだった。


 義経の話は、頼朝へ会うためだけに持ってきたものではない。


 だが、何を言っても届かないかもしれない。


 目の前の男は、もう何万もの兵を北へ進めている。


⸻


「平泉から手を引いてくれ」


⸻


 頼朝の表情は変わらなかった。


⸻


「泰衡は、最初からアンタと戦うつもりじゃなかった」


「知っている」


「義経を差し出せって言われて、追い詰められて、やった」


「それも知っている」


「なら」


⸻


 シンは身を乗り出した。


⸻


「もういいだろ」


⸻


 幕の外で、馬が鼻を鳴らした。


 頼朝は動かない。


⸻


「泰衡は恭順する。平泉も差し出す。金も馬も、必要なら渡す」


「お前が決めることではない」


「国衡だって、アンタを倒して天下を取るなんて考えてない」


「国衡殿の考えも、国衡殿が決めることだ」


「じゃあ本人に聞けよ」


⸻


 声が大きくなった。


 外で、何かが動く気配がした。


 頼朝は片手を僅かに上げた。


 幕の外の気配が止まる。


⸻


「聞いたところで、答えは変わらぬ」


「何でだよ」


「奥州から兵を退くことはできぬ」


⸻


 即答だった。


 迷いがない。


⸻


「国衡を死なせたくない」


「私も、できることなら死なせたくはない」


⸻


 シンの拳が止まった。


⸻


「……本気で言ってるのか」


「勇猛な者は使い道がある。国衡殿だけではない。北には、馬を知り、山を知り、雪を知る武者が多い」


「なら生かせばいい」


「降ればな」


「降らせろよ」


「降らぬ者を、力ずくで生かすことはできぬ」


⸻


 頼朝の声は静かだった。


⸻


「そして、降るだけでは足りぬ」


「何が」


「奥州藤原氏が、終わったと誰の目にも分かることだ」


⸻


 シンの背中が冷えた。


⸻


「見せしめか」


「区切りだ」


「同じだろ」


「違う」


⸻


 頼朝は初めて、少し強く言った。


⸻


「見せしめは、恐れさせるために殺す」


「区切りは、次を始めるために終わらせる」


「死ぬ側には同じだ」


「そうだ」


⸻


 あまりにも簡単に認めた。


 シンは言葉を失った。


⸻


「だから軽くは言わぬ」


⸻


 頼朝の目が、地図の北へ落ちる。


⸻


「これは、この国が一つにまとまるため、最後に流す血だ」


⸻


「最後?」


「そうする」


「言い切れるのか」


「言い切れぬ者に、兵を進める資格はない」


⸻


 灯が揺れた。


 頼朝の影が、幕へ大きく伸びる。


⸻


「どういうことだ」


⸻


 シンは聞いた。


 怒りは消えていない。


 だが、目の前の男が何を見ているのか知らなければ、怒る場所さえ間違える気がした。


⸻


 頼朝はすぐには答えなかった。


 地図の上へ、指を置く。


 京。


 鎌倉。


 その間をなぞり、北へ滑らせた。


⸻


「平安の世は終わった」


⸻


 静かな声だった。


⸻


「都が消えるという意味ではない。帝を捨てるという意味でもない」


「朝廷に代わるんじゃないのか」


「代わるだけなら、また同じものができる」


⸻


 頼朝の指が止まった。


⸻


「都の権威は要る。法も要る。官位も、国司も、寺社も要る」


「でも、それだけじゃ足りない」


「そうだ」


⸻


 頼朝は、地図の余白を指で叩いた。


⸻


「都から見えぬ田がある」


「誰のものか分からぬ土地がある」


「隣の家と水を争い、刀を抜く者がいる」


「命令が届く頃には、村が焼けている場所がある」


「国司が代わるたび、沙汰も変わる」


「強い者が奪い、弱い者が都へ訴え、返事を待つ間に死ぬ」


⸻


 列挙する声に、怒りはなかった。


 見てきた事実だけがあった。


⸻


「伊豆に流されていた頃、私は何も持たなかった」


⸻


 頼朝が言った。


⸻


「都から見れば、死なずに置かれた罪人だ」


「土地の者から見れば、いつ平家に消されるか分からぬ厄介者だった」


「その時に分かった」


⸻


 目が、シンへ戻る。


⸻


「遠くにある正しさは、届かなければ無いのと同じだ」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「だから、近くに置く」


「何を」


「裁く者を」


「守る者を」


「命じられれば兵を出し、働けば土地を守られ、争えば沙汰を受ける者を」


⸻


「守護とか、地頭とかってヤツか」


⸻


 言葉だけが、シンの中に残っていた。


 正確な違いまでは分からない。


 頼朝は少し目を細めた。


⸻


「どこでその名を聞いた」


「分からない。でも、そういう名前になるんだろ」


「名など後から定まる」


⸻


 頼朝は、地図の各所を指した。


⸻


「大事なのは、鎌倉と主従を結んだ者を、国々へ置くことだ」


「鎌倉殿から受けた恩を、働きで返す」


「働いた者の土地を、鎌倉殿が守る」


「一度の戦で集まった兵を、戦が終わった後も繋いでおく」


⸻


 陣幕の外で見た白旗が、シンの頭へ浮かんだ。


 国ごと。


 家ごと。


 主従ごと。


 別々の言葉を話す者たちが、同じ北を向いていた。


⸻


「国を作ってるのか」


「形を作っている」


「何の」


「武士が、武士の争いを裁く形を」


⸻


 その答えを聞いた瞬間。


 シンの中で、何かが繋がった。


 頼朝の陣。


 米俵。


 書きつけ。


 旗。


 命令。


 御家人。


 土地。


⸻


 鎌倉幕府。


⸻


 教科書の中で、四文字に縮められていたもの。


 それが今、幕の外で息をしていた。


⸻


「そのために、国衡たちを殺すのか」


⸻


 繋がったからこそ、聞かなければならなかった。


⸻


「礎になってもらう」


⸻


「人を石みたいに言うな」


「石ではない」


「同じだ」


「名を持つ人間だから、礎になる」


⸻


 シンが立ちかける。


 頼朝は動かない。


⸻


「九郎も、そうやって使い切った」


⸻


 身体が先に動いた。


 机へ手をつく。


 紙がずれた。


⸻


「ふざけるな!」


⸻


 声が、幕を震わせた。


⸻


「使い切ったって何だ!」


「アイツは道具じゃない!」


「アンタの国を作るために、あそこへ残ったんじゃない!」


⸻


 頼朝は、少しも引かなかった。


 怒りもしない。


 目だけで、立ち上がったシンを見上げる。


⸻


「座れ」


「座れるか!」


「なら立ったまま聞け」


⸻


 低い声だった。


 シンの怒鳴り声より、よく届いた。


⸻


「私は、お前より九郎を知っている」


⸻


「何を知ってる」


「九郎が覚えていない父を、私は知っている」


「九郎を抱いた母が、平家の世でどう生き延びたかも知っている」


「鞍馬に預けられ、奥州へ下った理由も知っている」


「黄瀬川で初めて会った時の顔も知っている」


「私を兄と呼んだ声も知っている」


⸻


 頼朝の声が、初めて熱を持った。


 大きくはない。


 だが、沈めていたものが底から浮いた。


⸻


「共に過ごした時は短い」


「お前と九郎が笑い合った日々より、短かったかもしれぬ」


「それでも、我らは血を分けた兄弟だ」


「九郎も私を知っていた」


⸻


「だったら何で!」


「兄弟だからだ」


⸻


 返事が重なった。


⸻


「九郎でなければ、あれほどの戦は終わらなかった」


「九郎でなければ、平家を海へ追い詰められなかった」


「九郎でなければ、都の武者も坂東の武者も、同じ敵へ向かなかった」


「そして九郎でなければ、その追討を理由に国々へ手を伸ばすこともできなかった」


⸻


 シンの喉が詰まる。


⸻


「最初から、そのつもりで」


「違う」


⸻


 頼朝は断った。


⸻


「九郎が私の許しなく官位を受けた時も」


「京で私を討つ宣旨を求めた時も」


「海で敗れ、山へ消えた時も」


「その先がすべて見えていたわけではない」


「私は神ではない」


⸻


 机の端へ置いた手が、ゆっくり握られる。


⸻


「だが、起きたことを使わぬほど愚かでもない」


⸻


「九郎を追うため、国々へ命令を出した」


「誰が従い、誰が従わぬかを見た」


「どこに兵があり、どこに道があり、どの寺社が誰を匿い、どの荘園が誰の言葉で動くかを見た」


「九郎は逃げながら、この国の綻びを私へ見せた」


⸻


「だから、利用したんだろ」


「そうだ」


⸻


 頼朝は逃げなかった。


⸻


「九郎の生命を使った」


「九郎が勝ち取った名も、九郎が生んだ恐れも、九郎を追うために集めた兵も、すべて使った」


「九郎が死んだという形も使う」


⸻


 シンの拳が震えた。


⸻


「アンタは」


「世の中では、九郎は死んだ」


「ここで止まれば、九郎は犬死だ」


⸻


 頼朝の言葉が、シンを止めた。


⸻


「奥州は総決算だ」


「九郎を匿ったから討つ。それだけではない」


「平家が滅び、義仲が滅び、行家が滅び、九郎が討たれたと国中が信じてもなお、鎌倉の命が届かぬ大きな土地が北に残っている」


「ここで兵を退けば、鎌倉は坂東の一勢力へ戻る」


「国々はまた、それぞれの強さだけで生きる」


「次の争いが始まる」


⸻


 頼朝は立ち上がった。


 大きくない身体だった。


 それでも、机を挟んだ距離が急に狭くなる。


⸻


「九郎を切ってまで開いた道だ」


「この先を作らずに止まれば、私はただ弟を追い詰めた兄になる」


「九郎は、兄に追われて消えた哀れな武者で終わる」


⸻


 目が、シンを射抜いた。


⸻


「そのようには終わらせぬ」


⸻


 シンは何も言えなかった。


⸻


 嫌だった。


 言っていることが分かるのが、嫌だった。


 義経を追い詰めたことを正しいとは思わない。


 頼朝を許す気にもならない。


 それでも、目の前の男が弟を捨てたのではなく、捨てられなかったから使い続けているのだと分かってしまった。


⸻


 姿を消した後まで。


⸻


「奥州で流す血を最後にする」


⸻


 頼朝が言った。


⸻


「その後は、働いた者へ土地を返す」


「争いを裁く」


「勝手な略奪を禁じる」


「都へ届かぬ訴えを鎌倉で受ける」


「国々の武士を、一つの約束へ繋ぐ」


⸻


「そんなに上手くいくのか」


「いかぬ」


⸻


 即答だった。


⸻


「裏切る者が出る」


「恩を忘れる者もいる」


「土地を奪う者も、私の名を使って人を殺す者も出る」


「私の子に器量がなければ、また争う」


「私が誤れば、鎌倉そのものが災いになる」


⸻


「分かってて作るのか」


「人が作るものに、誤りが無いと思うか」


⸻


 シンは答えられない。


⸻


「完全な世など要らぬ」


「昨日より、少し長く約束が保たれる世でよい」


「刀を抜く前に、訴える先が一つ増える世でよい」


「父の土地を、子が戦わず受け取れる可能性が少し増えればよい」


⸻


 頼朝の声は、理想を語る者の声ではなかった。


 届かないものを承知で、届くところまで積む者の声だった。


⸻


「そのためなら」


⸻


 頼朝は、自分の胸へ手を置いた。


⸻


「私の生命も使う」


「家族も使う」


「仲間も、名も、後に残る悪評も、すべて使う」


「九郎だけに払わせるつもりはない」


⸻


 灯の向こうに、別の顔が重なった。


⸻


 カミノ。


⸻


 遠い時代で、都を背負っていた男。


 若く。


 迷い。


 怒り。


 人を見ようとしていた。


 親王である前に、一人の人間でいようと足掻いていた。


⸻


 似てはいない。


 顔も。


 声も。


 立っている場所も。


⸻


 だが、目の奥にあるものが同じだった。


 自分一人では抱えきれない時代を、それでも抱こうとする目。


⸻


 もしカミノが、あの先も国を背負い続けていたなら。


 多くを決め。


 多くを切り。


 何度も眠れぬ夜を越えたなら。


⸻


 こんな目になったのかもしれない。


⸻


 シンの胸が、少し痛んだ。


 前の時代へは戻れない。


 カミノが最後にどんな顔で生きたのか、もう知ることはできない。


⸻


「国衡だけでも」


⸻


 それでも、シンは言った。


⸻


「助けてくれ」


⸻


 頼朝は首を振った。


⸻


「できぬ」


「国衡が残れば、北の武者が集まるからか」


「それもある」


「それだけじゃない?」


「国衡殿自身が、望まぬ」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「知ったように言うな」


「会ったことはない」


「なら」


「だが、お前の話を聞いた」


⸻


 頼朝は地図の阿津賀志山へ指を置いた。


⸻


「退く兵を見送り、自分は最後まで残る男なのだろう」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「その男へ、家も名も捨てて私に飼われろと言うのか」


「生きてれば」


「生きることだけが、救いではない」


⸻


 義経の笑った顔が浮かんだ。


 自分で決めたことに満足していた顔。


⸻


「だからって、死なせていい理由にはならない」


「ならぬ」


「さっきから、そればっかりだな」


「正しくないことを、正しいと言い換えれば楽になる」


⸻


 頼朝の目が細くなった。


⸻


「私は、その楽を選ばぬ」


⸻


 幕の中が静かになった。


 外では何万もの人間が動いている。


 ここだけ、音が遠い。


⸻


 その時だった。


⸻


 頼朝の目が、シンの肩越しへ動いた。


⸻


 ほんの一瞬。


 何かを確かめたようにも見えなかった。


 ただ、目が動いた。


⸻


 次に、頼朝の右手が消えた。


⸻


 机の脇に立てられていた弓を取る。


 左手が握る。


 右手は、置かれていた矢を掴んでいる。


 弦へ掛ける。


 引く。


⸻


 速い。


⸻


 国衡の槍とも違う。


 義経の刀とも違う。


 始まりが見えなかった。


 構えたのではない。


 気づいた時には、矢が放たれていた。


⸻


 弦が鳴る。


⸻


 矢が、シンの頬のすぐ横を通った。


 風が皮膚を切る。


 身体は動かなかった。


 避けるという考えすら、矢の後から来た。


⸻


 背後で、鈍い音がした。


⸻


 シンが振り返る。


 幕の合わせ目から、一人の兵が入り込んでいた。


 白い布を額へ巻いている。


 胸から、矢羽が伸びていた。


 片手には短い刃。


 もう片方の手は、シンの背へ届く寸前で止まっている。


⸻


「な……む……」


⸻


 兵の口が動いた。


 血が溢れる。


⸻


「南無、八幡……大菩薩……」


⸻


 膝が落ちる。


 刃が床へ転がった。


 兵は頼朝を見た。


 助けを求める目ではない。


 なぜ自分が射られたのか、理解できない目だった。


⸻


「鎌倉殿……」


⸻


 最後の息が抜けた。


 身体が前へ倒れる。


⸻


 頼朝は弓を下ろした。


 顔色一つ変わっていない。


⸻


「まったく」


⸻


 頼朝が、倒れた兵を見た。


⸻


「八幡大菩薩も当てにならぬ」


⸻


 シンは頬へ手を当てた。


 血は出ていない。


 矢の風だけが残っている。


⸻


「お前を殺せと、先ほどから煩かった」


「……何?」


「無視していたら、無理に刺客を寄越したらしい」


⸻


 頼朝は、死んだ兵の額の布を見る。


⸻


「私の幕にまで入れるとは、随分と増長したものだ」


⸻


「神託を、受けてるのか」


⸻


 シンの声が低くなる。


 頼朝は弓を持ったまま、元の場所へ座った。


⸻


「受けている、という言い方が正しいかは知らぬ」


「声が聞こえる?」


「伊豆にいた頃からな」


⸻


「いつから」


「二十年以上前だ」


⸻


 頼朝は弦を指で弾いた。


 低い音が返る。


⸻


「初めは、夢かと思った」


「次は、怨霊かと思った」


「その次は、自分が狂ったのだと思った」


「だが、こちらしか知らぬことを告げる時がある」


「明日の雨」


「敵の動き」


「誰が裏切るか」


「どこへ行けば、生き残るか」


「外れることもある」


⸻


「従ったのか」


「役に立つ時は」


「じゃあ、今も」


「従っておれば、お前は死んでいる」


⸻


 シンは口を閉じた。


⸻


「声は、自らを八幡と名乗るのか」


「そう名乗る」


「本当に八幡大菩薩だと思ってるのか」


「思っておらぬ」


⸻


「じゃあ、何だと思ってる」


「知らぬ」


⸻


 頼朝は、倒れた兵へ目を落とした。


⸻


「名が何であれ、役に立つ時は使う」


「害になる時は捨てる」


「それだけだ」


⸻


「かれこれ二十年以上の付き合いだ」


「役に立つこともある」


「今回のように、意味の分からぬことを命じる時もある」


「厄介な声だ」


⸻


 シンは倒れた兵を見た。


 八幡大菩薩を唱えながら、頼朝の矢で死んだ。


 自分が信じた神の名を掲げる男に射られた。


⸻


「弟と一緒だな」


⸻


 頼朝の指が止まった。


⸻


「何がだ」


「神託を聞いても、言うことを聞かない」


「九郎は聞こえていたのか」


「たぶん。少なくとも、何かに命令されるのを嫌ってた」


⸻


 頼朝はしばらく黙った。


 弓を見下ろす。


⸻


「似ておらぬ」


「似てる」


「九郎は、声を無視して崖を駆け下りる」


「アンタは、声を利用して道を作る」


「違うではないか」


「従わないところは同じだ」


⸻


 頼朝は、嫌そうに息を吐いた。


⸻


「二度と申すな」


「義経に言っとく」


「死んだのであろう」


「そのうち会うかもしれない」


⸻


 頼朝の目が、またシンを量った。


 今度は嘘かどうかではない。


 何者なのかを考える目だった。


⸻


 幕の外から、足音が殺到した。


⸻


「鎌倉殿!」


「今の弦音は!」


「御無事にございますか!」


⸻


 景時の声。


 義盛の声。


 ほかにも何人もいる。


 幕へ手が掛かる気配がした。


⸻


「大事ない」


⸻


 頼朝が言った。


 外の動きが止まる。


⸻


「鼠が一匹入った」


「中へ入ります」


「要らぬ」


「されど」


「もうすぐ終わる。待て」


⸻


 短い命令だった。


 何人もの武者が、幕一枚の向こうで従った。


⸻


 頼朝は、刺客の刃を足で遠ざけた。


 それから弓を横へ置く。


 置いたまま、弦を指で弄った。


⸻


「さて」


⸻


 目が、シンへ戻る。


⸻


「私を殺せば、軍は多少止まる」


⸻


「……何言ってる」


「お前の目的は、奥州を救うことだろう」


「そうだけど」


「武器は持っておらぬ。だが、神託がそこまで殺したがる男だ。何か隠しているかもしれぬ」


⸻


 頼朝は、自分の胸元を指した。


⸻


「やってみるか」


⸻


 冗談ではなかった。


 試している。


 シンが何を選ぶか、本気で見ている。


⸻


 今なら近い。


 机一つ。


 頼朝は鎧を着ていない。


 外の護衛が入るまで、僅かな間はある。


 首へ手を伸ばすことくらいはできる。


⸻


 この男を殺せば。


⸻


 阿津賀志山への命令が乱れる。


 御家人たちは動揺する。


 国衡が生き残る道が、少しは開くかもしれない。


⸻


 その先は。


⸻


 義盛。


 景時。


 景季。


 そのほかの御家人。


 幕の外にいた、名も知らない者たち。


 頼朝が死ねば、彼らは誰に従う。


 誰が次の鎌倉殿になる。


 誰が頼朝を殺した者を討つ。


 奥州は、本当に救われるのか。


 それとも、行き場を失った大軍が、怒りのまま北を焼くのか。


⸻


 分からなかった。


⸻


 ただ一つ分かった。


 目の前の男を殺すことは、一本の道を消すことではない。


 道を支えている人間すべてを、暗闇へ放り出すことだった。


⸻


「……やめとく」


⸻


 頼朝の指が、弦から離れた。


⸻


「なぜだ」


「アンタを殺した後が、見えない」


「国衡殿を助けたいのではなかったか」


「助けたい」


⸻


 シンは頼朝を見た。


⸻


「アンタの正しさも分かる」


「正しいと思うのか」


「全部じゃない」


⸻


 頼朝は黙っている。


⸻


「でも、アンタが必要だって言うことも分かる」


「ここで止まれないのも」


「義経が払ったものを、無駄にしたくないのも」


「国衡が残れば、また戦になるかもしれないのも」


⸻


 シンは拳を開いた。


 爪の跡が、掌へ残っている。


⸻


「それでも、国衡たちを助けたい気持ちは捨てられない」


⸻


「矛盾しているな」


「知ってる」


「どちらかを選ばねば、何も決められぬ」


「アンタは、そうやって選んできたんだろ」


「そうだ」


「俺は、まだ無理だ」


⸻


 頼朝の目が僅かに細くなる。


⸻


「だから」


⸻


 シンは立ち上がった。


⸻


「見届ける」


⸻


「何を」


「国衡がどう戦うか」


「北がどう終わるか」


「アンタが作るものが、本当にその血に見合うのか」


⸻


 頼朝は、座ったままシンを見上げた。


⸻


「見届けて、どうする」


⸻


 シンは少し考えた。


 答えは、最初から自分の中にあった気もする。


 言葉になるまで、時間がかかった。


⸻


「運ぶ」


⸻


「何を」


「見たものを」


「死んだ人の名前を」


「残ったものを」


⸻


 シンは、幕の入口を見た。


 その向こうには景時がいる。


 義盛がいる。


 ワカレがいる。


 もっと向こうでは、モモが待っている。


 北では国衡とユウガオとタダが待っている。


⸻


「先へ」


⸻


 頼朝は長く黙っていた。


 灯が小さく揺れる。


⸻


「そうか」


⸻


 それだけだった。


⸻


 シンは入口へ向かった。


 倒れた兵を避ける。


 八幡の名を唱えた口は、もう動かない。


⸻


 幕へ手を掛ける。


⸻


「待て」


⸻


 頼朝の声が、背中へ届いた。


 シンは振り返る。


⸻


「まだ何かあるのか」


「お前が取っておいた話だ」


⸻


 頼朝の顔は、また鎌倉殿の顔に戻っていた。


⸻


「九郎は、どうやって私を驚かせるつもりだった」


⸻


「ああ」


⸻


 忘れるところだった。


⸻


「海を渡るって言ってた」


「海を」


「もっと北へ行って、その先から渡る」


「どこへ」


「知らない。義経も、たぶんよく分かってなかった」


⸻


 頼朝の眉間へ、また皺が寄る。


⸻


「それで」


「向こうで馬賊になるって」


「馬賊」


「馬に乗った強い奴らを、たくさん仲間にする」


⸻


 頼朝は無言だった。


 何を聞かされているのか、本気で考えている顔だった。


⸻


「それから、とんでもない数の仲間を連れて戻ってくる」


「何のために」


「アンタをびっくりさせるため」


⸻


 沈黙。


⸻


 長かった。


 幕の外で、誰かがもう一度声を掛けるか迷うように、衣を擦った。


⸻


 やがて。


⸻


 頼朝の口元が、僅かに上がった。


⸻


「九郎め」


⸻


 声が変わった。


 鎌倉殿ではなかった。


⸻


「あやつなら、本当にとんでもない大軍を率いて戻るかもしれぬ」


⸻


 頼朝は、困ったように息を吐いた。


 目の奥に沈んでいた重さが、ほんの一瞬だけほどける。


⸻


「ならば、海の向こうから来るものを、退けるにも、迎えるにも足る国を作らねばならんな」


⸻


 一拍置いて、付け加えた。


⸻


「いい国を、な」


⸻


 シンは、その時初めて見た。


⸻


 歴史を作った男でもない。


 何万もの兵を動かす鎌倉殿でもない。


 弟の生命まで使い切ると決めた、止まれない男でもない。


⸻


 普通の兄だった。


⸻


 やんちゃな弟が、今度は何をしでかすのか。


 呆れながら。


 少しだけ楽しみにしている。


⸻


 苦労人の、兄貴の顔だった。


⸻


(第百十六話へ)


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