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御家人たち

第百十四話 御家人たち


⸻


「いざ、鎌倉」


⸻


 声が戻った。


 次に、胸の穴が消えた。


 冷たかったはずの刃も、噴き出した血もない。


 だが、痛みだけが残っていた。


 フツが胸を貫く。


 泣いているモモの頬へ手を伸ばす。


 刃が、さらに深く押し込まれる。


 そこまでを、身体がもう一度やり直した。


⸻


「お前!」


 シンはワカレの襟を掴んだ。


 そのまま近くの木へ押しつける。


⸻


「何を連れてきた!」


「おっと」


「鎌倉の陣で何が起きるか、知ってたのか!」


「待って。俺はまだ、鎌倉へ一歩も入ってない」


「俺は入ったんだよ!」


⸻


 ワカレの目が細くなった。


 冗談を返す顔ではなかった。


⸻


「……道が、一度途切れたのか」


⸻


 その時、後ろで膝の落ちる音がした。


 シンはワカレを放した。


⸻


「モモ!」


⸻


 モモが地面へ崩れていた。


 両手で胸を押さえている。


 傷はない。


 それでも、息ができないように背を丸めていた。


⸻


「今、記録が……」


⸻


 色硝子のような目が、シンを見た。


 すぐに胸へ落ちる。


⸻


「私の手が、フツを握った」


「モモ」


「あなたの胸へ入った」


⸻


 モモの指が震えた。


 刃を押し込んだ感触まで、そこに戻ってきたようだった。


⸻


「私は止めようとした」


「分かってる」


「止められなかった」


⸻


 シンが肩へ触れる。


 モモは逃げなかった。


 ただ、触れられた場所から壊れていくように震えた。


⸻


「結局、負けた」


「あれはモモがやったんじゃない」


「私の身体だった」


「でも、モモは逃げろって言った」


「口だけ」


「あの中で、最後まで残ってた」


⸻


 モモは首を振った。


 桃の香りが薄い。


 代わりに、あの白い光の冷たさが、まだ肌へ貼りついている気がした。


⸻


「また、シンを殺した」


⸻


 また。


 その一言が重かった。


 これが初めてではない。


 モモの中には、シンを斬った記録が幾つも残っている。


 今回は、白桃へ変わりきる前だった。


 モモのまま泣きながら、シンを殺した。


⸻


「俺はここにいる」


「八度死んだシンが、戻ってきただけ」


「それでも俺だ」


⸻


 モモは答えなかった。


 胸を押さえていた手を、ゆっくり下ろす。


 その手を、自分の目から遠ざけるようにした。


⸻


「……今の私は、同行できない」


「何言ってるんだ」


「鎌倉の陣には、神託へ向いた声が集まりすぎてる」


「今度は近づかなければいい」


「頼朝へ近づくほど、声も近くなる」


⸻


 モモが立ち上がった。


 足元が揺れた。


 シンは腕を取ろうとしたが、モモは自分で踏みとどまった。


⸻


「私が隣にいれば、神託は私を道具にできる」


「次は止める」


「止められなかった」


「次は」


「シン」


⸻


 静かな声だった。


 拒む声ではない。


 決めた声だった。


⸻


「あなたを守るために、離れる」


⸻


 シンは何も言えなかった。


 嫌だと言えば、モモをもう一度あの陣へ連れていくことになる。


 一緒に来いと言えば、また自分を殺すかもしれない恐怖まで背負わせる。


 それは、隣にいることとは違った。


⸻


「前の道では、俺が君たちを置いて席を外したんだね」


 ワカレが言った。


「景時くんを呼びに行った。その間に襲われた」


 モモが答える。


「所属のない兵。八幡大菩薩を唱えてた」


⸻


 ワカレはしばらく黙った。


 林の向こうに並ぶ鎌倉方の火を見た。


⸻


「油断した」


⸻


 短かった。


 言い訳はなかった。


⸻


「道を見つけて、中へ入れれば、それで案内したつもりになってた」


「でも、着く前に死んだなら、道案内とは言えない」


⸻


 ワカレはシンへ向き直った。


 いつもの笑みは消えている。


⸻


「今度は俺が、頼朝の前まで確実に届ける」


「信用できると思うか?」


「思わなくていい」


⸻


 ワカレは林の向こうへ目を戻した。


 鎌倉方の火を見ながら、独り言のように呟く。


⸻


「……サルタヒコの名に恥じないようにしないとね」


⸻


 モモが顔を上げた。


 驚きが、悲しみを一瞬だけ押し退けた。


⸻


「今、猿田彦と言った?」


「言ったかな」


「神話の存在。実在するはずがない」


「そうかな」


「あなたが、あの神話の元?」


「さあね。君たちも、似たようなものだと思うけど」


「誤魔化してる」


「今は道案内が先」


⸻


 猿田彦という名は、シンにも意味だけがぼんやり残っていた。


 道を示す神。


 何か鼻がデカかった気もする。


 それ以上は出てこない。


 なぜワカレがその名を口にしたのか、問い詰めたくはあった。


 だが、阿津賀志山では国衡たちが戦っている。


 ユウガオも、タダも待っている。


 神話の答え合わせをしている時間はなかった。


⸻


 モモは長く息を吐いた。


 それから、ひどく不本意そうにワカレを見る。


⸻


「遺憾だけど、シンを任せる」


「任された」


「頼朝の前まで、生かして届けて」


「約束する」


⸻


 モモがシンへ向いた。


 まだ目の奥に、八度目の死が残っている。


 それでも、今度は逸らさなかった。


⸻


「また会おう」


⸻


 シンは言った。


 必ず、とは付けなかった。


 その言葉を軽くしたくなかった。


⸻


「りょ」


⸻


 モモは一言だけ返した。


 林の奥へ歩いていく。


 一度も振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まると分かっている歩き方だった。


 桃の香りが遠ざかる。


 やがて、夜の土と木の匂いだけになった。


⸻


「行こう」


 ワカレが言った。


「前と同じ道は使わない」


「前の道を覚えてないだろ」


「潰れた道には、匂いが残るんだよ」


⸻


 分かったような、分からないようなことを言う。


 シンは胸へ手を当てた。


 傷はない。


 モモの手の感触だけが、まだそこにあった。


⸻


 二人は鎌倉方の陣へ入った。


 今度のワカレは、夜番の隙を縫うだけではなかった。


 荷駄を運ぶ列へ混じり、厩の裏へ回り、負傷者を運ぶ者たちへ道を譲った。


 兵の流れへ逆らわない。


 誰かの視線が向く前に、別の役目を持つ者の後ろへ入る。


 止められれば、相手が確かめにくい名を一つだけ出した。


 嘘を重ねる前には、もう次の陣へ進んでいる。


⸻


 何万もの人間が、夜の中で動いていた。


 眠る兵。


 矢を数える兵。


 泥の深さを報告する者。


 明日の総攻撃を知らされず、鍋の焦げを削る者。


 皆が同じ白旗の下にいる。


 だが、顔は一つとして同じではない。


⸻


 御家人。


 頼朝に従う武者たちを、モモはそう呼んでいた。


 一つの軍を作るために集められた、別々の家の者たち。


 その一人一人に、守る土地があり、連れてきた郎党がいて、戦う理由がある。


 それらを束ねた先に、頼朝がいる。


⸻


 大きな白旗が風を受けた。


 伊勢大神宮。


 八幡大菩薩。


 二羽の鳩が、夜空へ向かい合っている。


⸻


 シンの胸が痛んだ。


 経は聞こえない。


 所属のない兵もいない。


 それでも、あの声が耳の奥で蘇った。


⸻


「大丈夫」


 ワカレが前を見たまま言った。


「今度は、俺が先に気づく」


⸻


 梶原の陣へ着いた。


 幕の前では、若い武者が報告へ目を通していた。


 鎧の横に矢立がある。


 立ち上がると同時に、手が太刀へ下りた。


⸻


「止まれ。何者だ」


「夜分にどうも、源太くん」


「その呼び方を許した覚えはない」


⸻


 梶原源太景季。


 宇治川で先陣を争い、白河の関では頼朝の求めへ歌で応じた武者。


 モモの説明が、記憶の底から戻ってきた。


⸻


「父に用か」


「この子が、九郎殿のことで話がある」


「子じゃない」


 シンが言った。


「衣川にいた。義経の最後について、景時に伝えたいことがある」


⸻


 景季の目が変わった。


 太刀から手は離れない。


 だが、すぐに追い返そうともしなかった。


⸻


「九郎殿は、本当に衣川で討たれたのか」


「その答えも、景時に直接話す」


「俺には言えぬと?」


「鎌倉殿まで届ける話だ」


⸻


 景季はシンを見た。


 武者ではない。


 名も家もない。


 そんな男を信じる理由を探している。


⸻


「俺は、義経が最後に立っていた場所を見た」


 シンは言った。


「嘘なら、景時の前で斬られてもいい」


⸻


 景季が僅かに眉を寄せた。


 やがて、後ろの兵へ顎を引く。


⸻


「中へ入れ」


⸻


 通されたのは、梶原陣の控えの帷幕だった。


 低い机。


 折り畳まれた地図。


 空の矢立。


 冷めた湯の椀。


 前の道で襲われた場所とは違う。


 それでも、白い幕に囲まれると胸が痛んだ。


⸻


「ここを動くな」


 景季が言った。


「父は鎌倉殿の近くにいる。呼んでくる」


「俺も行くよ」


 ワカレが続こうとする。


⸻


「待て」


 シンは、その腕を掴んだ。


「前は、それで俺たちだけになって…」


「分かってる」


「また襲われる」


「だから、今度は一人にしないために行く」


⸻


 ワカレは入口の梶原兵を見た。


⸻


「すぐに、一番大きくて騒がしい盾を連れて戻る」


「誰だ、それ」


「会えば分かる、いいヤツだよ」


⸻


 景季とワカレが出ていった。


 梶原兵が二人、入口へ残る。


 前と同じだった。


 シンは立ったまま、幕の外の音を聞いた。


 馬。


 足音。


 薪の爆ぜる音。


 低い話し声。


 経はない。


⸻


 それでも、手のひらに汗が滲んだ。


 誰かが幕の前で止まるたび、胸の奥が固くなる。


⸻


「どいつだ!」


⸻


 帷幕の外から、大きな声が響いた。


 経とは似ても似つかない。


 怒っている、生きた人間の声だった。


⸻


「侍所別当たる俺に、夜中、どこの者とも知れぬ男の番をさせるとは!」


「静かに。証人が逃げるよ」


「お前が連れてきたのだろうが!」


⸻


 幕が勢いよく開いた。


 大柄な武者が入ってくる。


 肩幅が広い。


 声だけでなく、歩き方まで大きかった。


 後ろからワカレが顔を出す。


⸻


「紹介するね。和田義盛くん」


「くんと呼ぶな!」


⸻


 和田義盛。


 鎌倉の御家人を束ねる侍所の別当。


 ワカレが言った通り、大きくて騒がしい盾だった。


 うるさいタダ。そんな感じ。


⸻


「景時殿は、証人を死なせるなと言っただけだ」


 義盛がワカレを睨む。


「俺を連れていけとは言っておらん」


「でも、一番死なせなさそうだったから」


「勝手に決めるな!」


⸻


 義盛の目がシンへ向いた。


 不審そうに、頭から足まで見る。


⸻


「こやつが何の証人だ」


「九郎殿の最後」


⸻


 義盛の怒鳴り声が止まった。


 目だけが動く。


 シンの顔へ戻った。


⸻


「九郎殿を知っているのか」


「衣川にいた」


「最期を見たのか」


⸻


 シンは少し考えた。


 景時にしか話せないことがある。


 だが、義盛の顔にあるのは、秘密を探る疑いではなかった。


 会えなくなった者のことを知りたい顔だった。


⸻


「俺が最後に見た時、義経は笑ってた」


⸻


 義盛は黙って座った。


 大きな身体が、低い机の前で窮屈そうに収まる。


⸻


「話せ」


「命令するなよ」


「頼む」


⸻


 言い直すのが早かった。


 シンも、向かいへ座った。


⸻


「最後まで、変なヤツだった」


「それは知っている」


「海を渡るって言ってた」


「海?」


「向こうで面白いやつを集めて、帰ってくる。その時また飲もうって」


⸻


 義盛の口元が、一度だけ緩んだ。


 すぐに歪む。


⸻


「九郎殿らしい」


「ユウガオには、酒を残しておけって言った」


「女子への別れが、それか」


「国衡には、奥州を頼んだ」


「自分はどうするつもりだった」


「追ってきた兵を止める」


⸻


 シンは衣川の火を思い出した。


 義経は、最後まで自分の死を認めなかった。


 逃げないと決めたくせに、終わるつもりもなかった。


⸻


「俺たちには逃げろと言った」


「自分だけ残ったのか」


「ああ」


「馬鹿者だ」


「俺もそう思う」


⸻


 義盛は俯いた。


 太い指が膝の上で握られる。


⸻


「最後に、待ってろって叫んだ」


「誰にだ」


「俺に」


「何を待てと」


「分からない」


⸻


 義盛の鼻から、大きな音が出た。


 泣くのを堪えた音だった。


 次の瞬間には、堪えるのをやめた。


 涙が両目から溢れた。


⸻


「九郎殿は、友だちだった」


⸻


 声まで震えていた。


⸻


「一ノ谷では、同じ敵へ向かった」


「あの御仁の勝手には散々振り回された」


「だが、同じ軍で命を預けた。戦が終われば、笑って話した」


「ならば友だ」


⸻


 義盛は袖で顔を拭った。


 拭っても、すぐ次が流れた。


⸻


「友だちがいなくなったのだ」


「悲しいに決まっている!」


⸻


 最後は、また怒鳴り声になった。


 入口の兵が驚いて幕を覗く。


 義盛が「見るな!」と怒鳴る。


 兵はすぐに顔を引っ込めた。


⸻


 シンは、いいやつだなあ、と思った。


 悲しい時に悲しいと言える。


 相手が追われた者でも、鎌倉殿に嫌われた弟でも関係ない。


 友だちだから悲しい。


 義盛の中では、それで全部だった。


⸻


「お前、名は何という」


「シン」


「それだけか」


「それだけ」


「妙な名だ」


⸻


 義盛はもう一度、乱暴に顔を拭った。


⸻


「シン。お前は俺が守る」


「急に頼もしいな」


「九郎殿の話を、まだ全部聞いておらん」


「そっちかよ」


「死なれたら困る!」


⸻


 外で足音が止まった。


 義盛は泣き顔のまま立ち上がる。


 太刀へ手を置く速さだけは、さっきまでと別人だった。


⸻


「梶原殿がお戻りだ」


⸻


 景季の声だった。


 義盛の肩から力が抜ける。


⸻


「紛らわしい!」


「なぜ俺が怒られる」


⸻


 景季が幕を開いた。


 泣いている義盛を見たが、何も聞かなかった。


 武者同士には、見なかったことにする情けもあるらしい。


⸻


「父が会う」


 景季はシンへ言った。


「一人で来い」


⸻


 景時の帷幕は、同じ梶原の陣の奥にあった。


 義盛とワカレは入口に残された。


 シンだけが中へ入る。


⸻


 景季は入口で父へ一礼した。


「先ほどの件、鎌倉殿へ申し入れてまいります」


「衣川の証人が来たとだけ伝えよ」


「承知しました」


⸻


 景季が奥の陣へ走っていく。


⸻


 梶原景時。


 その名には、ぼんやりした物語の役だけが貼りついていた。


 義経を妬み、頼朝へ讒言し、兄弟の仲を裂いた男。


 義経の物語では、義経が輝くほど黒く塗られる悪役だった。


 いつ、何から知ったのかは思い出せない。


 ただ、その輪郭だけがシンの中に残っている。


⸻


 景時は、低い机の向こうへ座っていた。


 報告の束を横へ置く。


 傍らには太刀と矢立が、同じ近さに置かれていた。


 戦うことと、起きたことを書き残すことを、分けていない男に見えた。


 細い目が、シンを正面から見た。


 そこに、物語で知った悪意はなかった。


 かといって、信じて迎える温かさもない。


 持ち込まれた一つの報告として、シンを見定めていた。


⸻


「衣川にいたそうだな」


「いた」


「九郎殿の最期を知ると」


「俺は、死んだところを見てない」


⸻


 景時の表情は動かなかった。


 慰めもしない。


 疑わしいと決めつけもしない。


 感情を挟まず、まず事実だけを拾おうとしている。


⸻


「では、何を見た」


「義経が残るところまで」


「誰が攻めた」


「泰衡の兵。土佐坊昌俊もいた」


⸻


 景時の目が僅かに細くなった。


 土佐坊は、かつて頼朝の命で義経を襲った男だ。


 衣川にいるはずのない名だった。


⸻


「義経は、俺たちを逃がすために残った」


「遺体は見ていないのか」


「ああ」


「首も」


「見つかってないと聞いた」


⸻


 帷幕の外で、誰かが歩く音がした。


 景時は、その音が遠ざかるまで待った。


⸻


「鎌倉へ届いた首は、義経のものじゃない」


⸻


 今度は、景時の目が動いた。


 ほんの僅かだった。


 だが、それで十分だった。


⸻


「なぜ、そう言える」


「奥州で、別の首が仕立てられたからだ」


「誰から聞いた」


「衣川にいた者から。俺も、義経の顔を知ってる」


⸻


 景時は黙った。


 否定しない。


 驚いて誰かを呼びもしない。


 それが答えだった。


⸻


「あんたは、知ってたんだな」


「声を落とせ」


⸻


 景時の声が鋭くなった。


⸻


「そのことを鎌倉方で知るのは、鎌倉殿と私だけだ」


「景季も?」


「知らぬ」


「和田も?」


「知るはずがない」


⸻


 シンは頷いた。


 だから、二人には話さなかった。


⸻


「九郎殿は生きているのか」


「分からない」


「お前は、死を見ていないだけだ」


「そうだ」


⸻


 景時はシンの答えを待った。


 都合のいい希望へ変えないか、見ているようだった。


⸻


「俺が逃げた時には生きてた」


「その後、山を出たかは知らない」


「でも、あの首は違う」


「頼朝に伝えたいのは、それと、義経の言葉だ」


⸻


「鎌倉殿への言葉があるのか」


「兄上は、たぶん怒るって」


⸻


 景時の眉が寄った。


⸻


「だが、そのうち笑う。そのうち、きっとなって」


「それだけか」


「それだけだ」


⸻


 景時は目を閉じた。


 深く息を吐く。


⸻


「九郎殿は、いつもそうだ」


「命令を待たぬ」


「軍議で決めた道を外れ、自分だけ先へ行く」


「勝って戻り、後始末を他人へ置いていく」


「戦は天才。政は大馬鹿」


「勝てば、それで終わりではない」


「九郎殿の後ろには、置いていかれた兵と、鎌倉殿へ説明する者が残る」


「それが、あんたか」


「それが私の役目だった」


⸻


 一つずつ、積み上げていた怒りを確かめるように言った。


 讒言。


 シンの中に残る物語では、景時の報告はそう呼ばれていた。


 だが、誰も持っていきたくない話を頼朝へ届ける者は必要だった。


 その役目が好かれるはずもない。


⸻


「私も散々、煮え湯を飲まされた」


「嫌いだったのか」


「危険な御仁だった」


「答えになってない」


⸻


 景時が目を開ける。


 口元に、笑いとは違うものが僅かに残っていた。


⸻


「だが、皆があの御仁を好いていた」


「アンタもか?」


「皆が、だ」


⸻


 また答えになっていなかった。


 だが、今度は分かった。


 義盛は大声で泣く。


 景時は欠点を並べる。


 違うやり方で、同じ男のことを惜しんでいる。


 景時の言葉が、義経を追い詰めたのかもしれない。


 正しかったのかは、シンには分からない。


 それでも、目の前にいるのは、義経の破滅を喜ぶだけの悪役ではなかった。


 勝手に駆ける天才の後ろで、崩れた命令と置き去りにされた者を拾い続けた男だった。


⸻


 幕の外から声がした。


⸻


「父上」


⸻


 景季だった。


 景時が入るよう命じる。


 景季はシンへ一度だけ目を向け、父の横へ膝をついた。


 耳元で何かを告げる。


 シンには聞こえなかった。


⸻


「二人だけ、と?」


⸻


 景時が確かめる。


 景季が頷いた。


 それ以上は何も尋ねず、帷幕を出ていく。


⸻


 景時は報告の束を整えた。


 机の端へ揃えて置く。


 それから、シンを見た。


⸻


「鎌倉殿がお会いになる」


「本当か」


「ただし、一対一だ」


「問題ない」


⸻


 シンは立ち上がった。


⸻


「望むところだ」


⸻


 景時が先に帷幕を出た。


 外では義盛が腕を組んで待っていた。


 ワカレは隣で、何事もなかったように夜空を見ている。


⸻


「通ったよ」


「俺の役目は、まだ終わってない」


 ワカレが言った。


「頼朝の前までだからね」


⸻


 四人で、鎌倉方の中央へ向かった。


 陣の奥へ進むほど、灯が減った。


 暗いのではない。


 余計な火を置かないのだ。


 人影を見分けるだけの篝火。


 顔を確かめるための松明。


 必要な場所に、必要な明かりだけがある。


⸻


 一つ幕を越えるたび、名を問われた。


 景時が答える。


 次は武具を改められた。


 義盛が侍所別当の名で通す。


 その次では、景季の使いが待っていた。


 頼朝の許しを記した札を示す。


⸻


 違う家の武者たちが、幾重にも頼朝を囲んでいる。


 誰か一人が裏切っても、その次で止める。


 誰か一つの命令が乱れても、別の者が確かめる。


 鎌倉殿という一人を守るため、御家人たちが壁になっていた。


⸻


 途中で、八幡大菩薩の白旗が見えた。


 風はない。


 二羽の鳩が、暗闇の中でじっと向かい合っている。


 シンは足を止めなかった。


 モモはいない。


 今度は、自分で頼朝まで行く。


⸻


 中央の陣は静かだった。


 阿津賀志への総攻撃を決める声も、ここまでは届かない。


 白い幕が四方を囲んでいる。


 その前に、鎧を着た武者が並んでいた。


 誰も眠っていない。


⸻


 義盛が止められた。


⸻


「ここから先は、許しを受けた者だけだ」


 警護の武者が言った。


「俺は侍所別当だぞ」


「鎌倉殿の御命令です」


⸻


 義盛は不満そうに鼻を鳴らした。


 だが、無理に進もうとはしなかった。


⸻


「シン」


 大きな手が肩へ置かれた。


「戻ってこい。九郎殿の話が途中だ」


「分かった」


「約束だぞ」


⸻


 ワカレも、そこで足を止めた。


⸻


「道は、ここまで」


「頼朝の前までじゃなかったのか」


「この幕の向こうは、もう一本道だよ」


⸻


 いつもの笑みが戻っていた。


 だが、シンを見送る目だけは真剣だった。


⸻


「行ってらっしゃい」


「行ってくる」


⸻


 景時だけが、最後の幕まで同行した。


 入口でシンの袖と腰を改めさせる。


 武器はない。


 フツも、今はモモと共に遠くにある。


⸻


「ここから先で、無礼は許されぬ」


「分かってる」


「分かっている者は、その返事をしない」


「じゃあ、どう返せばいいんだよ」


⸻


 景時は小さく息を吐いた。


 幕へ手をかける。


⸻


「入れ」


⸻


 シンは、源頼朝の帷幕へ入った。


 中は広くなかった。


 灯が一つ。


 低い机。


 畳まれた鎧。


 奥州の地図。


 何万もの兵を動かす場所なのに、余計なものは何もない。


⸻


 奥の影が動いた。


 一人の男が、灯の中へ出る。


 大きくはない。


 鎧も着ていない。


 それでも、外で見たどの武者より重く見えた。


⸻


 男が座る。


 シンを見た。


 逃げ道を塞ぐような、静かな目だった。


⸻


 男は机の前へ目を落とした。


 座る場所を示す。


⸻


「まぁ、座れ」


⸻


 源頼朝が、目の前にいた。


⸻


(第百十五話へ)


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