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ハチマンボサツ

第百十三話 ハチマンボサツ


⸻


「いざ、鎌倉」


⸻


 ワカレは、鎌倉方の陣へ向かって歩き出した。


 気負いがない。


 夜の散歩へでも行くような足取りだった。


⸻


「待て」


 シンが小声で呼び止める。


「そのまま行くのか?」


「そのまま行くよ」


「見張りがいるだろ」


「いるね」


「見つかるだろ」


「見つからないように歩けばいい」


⸻


 答えになっていなかった。


 ワカレは振り返らない。


 モモが先に続いた。


 シンも、仕方なく二人を追った。


⸻


 林を出る。


 すぐ目の前に、鎌倉方の陣があった。


⸻


 外側には荷車が並んでいた。


 米俵。


 矢束。


 替えの弓弦。


 鍬と鋤。


 馬の飼葉。


 壊れた車輪を直す者がいる。


 釜の底を洗う者がいる。


 泥だらけの馬の脚を確かめる者がいる。


 眠っている兵の横で、明日の干し飯を数えている者もいた。


⸻


 戦う者だけではない。


 戦を北へ運ぶ者たちがいた。


⸻


 言葉も一つではなかった。


 坂東の荒い声。


 西から来た者の、少し違う調子。


 どこかの国の名を呼び、米俵の数を確かめる声。


 故郷の言葉で寝言を言う兵もいる。


 互いの言葉が通じにくい者まで、同じ北を向いて集められていた。


 その間を、書きつけを持った者が走っている。


 人の声が違うぶんだけ、命令は短くなっていた。


 進め。


 止まれ。


 運べ。


 掘れ。


 明日の朝までに。


⸻


 その内側に、兵の陣がある。


 篝火。


 幕。


 白旗。


 同じ白でも、全部が同じではなかった。


 旗の上へ扇を付けたもの。


 色の違う布を結んだもの。


 長さの違う尾を垂らしたもの。


 夜目にも、どの兵が誰に従うか分かるようにしている。


⸻


「一つの軍じゃない」


 モモが言った。


 声が少し低い。


⸻


「国ごと。家ごと。主従ごとに集まった軍」


「でも、皆頼朝に従ってる」


「今は」


⸻


 短かった。


 その二文字だけに、何か別の意味があった。


⸻


「今は?」


「頼朝は、この違う軍を一つの命令で動かそうとしてる」


「戦の後も?」


「そのための戦でもある」


⸻


 モモは陣の奥を見た。


⸻


「奥州を討てば、鎌倉に従わない大きな土地はほとんど残らない」


「勝った者へ土地を与える。守る者を置く。争いを裁く」


「戦で集めた主従を、戦が終わった後の仕組みに変える」


⸻


 シンは、並んだ白旗を見た。


 今は同じ風に吹かれている。


 だが、旗の下にいる者たちは、それぞれ違う場所から来た。


 違う土地へ帰る。


 帰った後まで、頼朝の命令が届くようにする。


⸻


「……国を作ってるのか」


「まだ途中」


⸻


 モモの足が止まった。


⸻


「どうした?」


「何でもない」


⸻


 すぐに歩き出す。


 だが、右手の指がわずかに震えていた。


 シンは見た。


 モモは、その手を袖の中へ隠した。


⸻


 最初の見張りが近づいてきた。


 二人。


 槍を持っている。


 ワカレは速度を変えなかった。


⸻


「止まれ。どこの者だ」


「梶原殿へ急ぎの報せ」


「名を申せ」


「遅れたら、君が景時くんに怒られる名前」


⸻


 見張りの眉が動いた。


 怒るより先に、後ろから荷車が来た。


 俵を積みすぎている。


 車輪が窪みへ嵌まり、男たちが声を上げた。


 見張りが一瞬だけ振り向く。


⸻


「今」


⸻


 ワカレが横を抜けた。


 モモも続く。


 シンは慌てて後を追った。


⸻


「これ、入ったことになるのか?」


「なったなった」


「絶対あとで騒ぎになるぞ」


「その時には、もっと中だよ」


⸻


 ワカレは、見張りの目が外れる時だけを知っていた。


 馬が横切る。


 火へ薪が足される。


 伝令が駆け込む。


 夜番が交代する。


 誰かが誰かを見る、その僅かな間を歩いた。


 隠れているわけではない。


 堂々と歩くから、見る者は別の誰かが通したのだと思う。


 疑われる前には、もう次の幕の陰へ入っている。


⸻


 陣の内側へ進むほど、音が変わった。


 笑い声が減る。


 代わりに、低い声が増えた。


 兵の数。


 矢の残り。


 負傷者。


 堀を埋めた場所。


 阿津賀志山の泥の深さ。


 話しているのは、明日の殺し方だった。


⸻


 伝令が何人も同じ方角へ走っていく。


 報告が内へ集まっている。


⸻


「あの先が、頼朝の本陣?」


「まだ外」


 モモが答えた。


「外なのかよ」


「本陣の外側を守る陣」


⸻


 シンは振り返った。


 林はもう見えない。


 幾つもの火と幕を抜けてきた。


 それでも、まだ外だった。


⸻


 大きな白旗が見えた。


 ほかの旗とは違う。


 細長い布の上へ、糸で文字が縫われている。


 下には、向かい合う二羽の鳩がいた。


⸻


「伊勢大神宮」


 モモが上の文字を読んだ。


 その下へ目を移す。


⸻


「八幡大菩薩」


⸻


 その言葉を口にした瞬間だった。


 モモの足が止まった。


⸻


 風が吹いた。


 白旗が膨らむ。


 二羽の鳩が、夜の中で羽ばたいたように見えた。


⸻


「モモ?」


「……近い」


⸻


 色硝子のような目が、旗を見ていた。


 焦点が合っていない。


⸻


「何が近い?」


「神託」


⸻


 シンは旗を見上げた。


 ただの布だ。


 文字と鳩が縫われているだけに見える。


⸻


「八幡は源氏の氏神」


 モモが途切れながら言った。


「石清水。鶴岡。源氏の戦と一緒に広がった」


「神なのに菩薩なのか?」


「どちらでもある」


「どっちなんだよ」


「どちらでもあるのが、この時代」


⸻


 モモの声が、少し遠かった。


⸻


「国を守る神。弓矢の神。源氏を守る神」


「この旗は、鎌倉を出る前に鶴岡で祈りを受けた」


「この軍は、八幡大菩薩に守られて奥州を討つ」


⸻


「モモを押さえてるのも、その八幡か?」


「名はもはや無意味」


 間があった。


「でもおそらく、同じ意思」


⸻


「八幡は、源氏より古い」


 モモは旗から目を離せないまま続けた。


「最初は宇佐。国を守る神として都へ入り、石清水へ移った」


「神なのに、一切の人を救うまで仏にならないと誓った。だから大菩薩」


「源義家は石清水で元服して、八幡太郎を名乗った」


「頼朝は鎌倉へ八幡を移した」


⸻


「じゃあ、ずっと源氏を守ってきたのか」


「人が、そう信じてきた」


⸻


 モモの指が、また大きく震えた。


⸻


「信じる人が増えれば、声は太くなる」


「同じ名を呼ぶ人が増えれば、遠くまで届く」


「今、この陣には、その声が多すぎる」


⸻


 それ以上は言えなかった。


 モモが頭を押さえる。


 白桃になった時と同じだった。


⸻


「モモ、戻ろう」


 シンは言った。


「無理なら、頼朝は別の方法で止める」


「行く」


「でも……」


「行く」


⸻


 二度目は強かった。


 モモが自分で足を前へ出す。


 震える指を、もう片方の手で握った。


⸻


「私はモモでいられる」


⸻


 誰へ言ったのか分からなかった。


 シンはモモの隣へ立った。


 肩が触れる距離を歩いた。


⸻


 ワカレが一度だけ振り返った。


 笑っていなかった。


 すぐ前を向いた。


⸻


 梶原の陣は、さらに奥にあった。


 派手な旗はない。


 幕も大きすぎない。


 だが、人の出入りが絶えなかった。


 泥だらけの斥候が入る。


 書きつけを持った者が出る。


 使い終えた木簡が積まれている。


 誰がどれだけ進み、どこで止まり、何を失ったか。


 戦場で起きたことが、ここへ集められていた。


⸻


「景時くんは、鎌倉殿の目と耳だからね」


 ワカレが言った。


「皆が嫌がる話も、ちゃんと拾う」


⸻


 幕の前にいた若い武者が、こちらを見た。


 すぐに立ち上がる。


 年は三十に届いていない。


 戦場を知る身体だった。


 それでも、鎧の横には矢立が置かれている。


 武だけの男ではなかった。


⸻


「止まれ」


 若武者の手が太刀へ下りる。


「何者だ」


「夜分にどうも」


 ワカレが片手を上げた。


「景時くんに会いに来ました」


「父は不在だ」


⸻


 父。


 シンが若武者を見る。


 モモが小さく言った。


⸻


「梶原源太景季」


⸻


 景季の目が、モモへ移った。


「なぜ俺の名を知っている」


「白河の関で、頼朝に歌を求められた」


「答えになっていない」


「宇治川では、源義経の軍にいた」


⸻


 宇治川で先陣を争った武者。


 その同じ男が、白河の関では馬を止め、頼朝の求めへ即座に歌で応じた。


 槍と歌を、同じ手で扱う。


 景季は、そういう時代の武者だった。


⸻


 空気が変わった。


 景季の手は太刀から離れない。


 だが、抜かなかった。


⸻


「九郎殿の名を、軽々しく口にするな」


「軽くないよ」


 ワカレが言った。


 笑っていなかった。


⸻


「この二人は、九郎殿の最後を知ってる」


⸻


 景季が止まった。


 シンを見る。


 頭から足まで見た。


 武者ではない。


 鎌倉方でもない。


 それでも、嘘かどうかを見ようとしていた。


⸻


「名は」


「シン」


「それだけか」


「それしかない」


⸻


 景季の眉が寄った。


 モモを見る。


⸻


「そちらは」


「モモ」


「……二人とも、それだけか」


「覚えやすくていいでしょ」


⸻


 ワカレが口を挟んだ。


 景季は無視した。


⸻


「九郎殿は、本当に衣川で討たれたのか」


⸻


 低い声だった。


 問いというより、長く胸へ置いていたものが漏れた声だった。


⸻


「その答えを、景時に直接話すために来た」


 シンは答えた。


「俺は衣川にいた。何が起きたかを知っている」


⸻


 景季の手が太刀から離れた。


 代わりに拳を握る。


⸻


「父でなければ話せぬのか」


「鎌倉殿まで届ける話だからだ」


「ここでは言えない」


⸻


 景季は目を閉じた。


 ほんの一瞬だった。


 宇治川。


 一ノ谷。


 九郎義経と共に戦った時間が、その顔を通ったように見えた。


 目を開けた時には、もう梶原の武者へ戻っていた。


⸻


「中へ入れ」


⸻


 景時の帷幕へ通された。


 中も整っていた。


 中央に低い机。


 阿津賀志山と国見宿を描いた紙。


 重ねられた報告。


 墨。


 筆。


 血のついた矢が一本、布に包まれて置かれている。


 戦が言葉と数に変えられる場所だった。


⸻


 入口には梶原の兵が二人残った。


 景季はシンたちの向かいへ座る。


⸻


「父は鎌倉殿の近くにいる」


「戻るまで待てるか」


「待つ」


「話は、父へ直接せよ」


⸻


 景季が一度、モモを見た。


 顔色が悪いことに気づいている。


⸻


「その娘は大丈夫か」


「大丈夫」


 モモが答えた。


「私が話す」


⸻


 声が少し震えていた。


 景季の目が細くなる。


 それでも追及しなかった。


⸻


「源太くん、俺も行くよ」


 ワカレが立った。


「一人より二人の方が、景時くんを早く連れてこられる」


「お前がいると、話が遅くなる気がする」


「信用ないなぁ」


「あると思ったのか」


⸻


 景季が立つ。


 幕の入口で一度振り返った。


⸻


「ここを動くな」


「父を呼んでくる」


⸻


 景季とワカレが出ていった。


 幕が閉じる。


⸻


 急に、音が遠くなった。


⸻


 外には何万もの兵がいる。


 馬がいる。


 火がある。


 それなのに、この帷幕だけが切り離されたように静かだった。


⸻


「モモ」


⸻


 返事がない。


 俯いている。


 両手を膝の上で重ね、右手首を左手で掴んでいた。


 強すぎる。


 指の跡が白く残っている。


⸻


「外へ出よう」


「駄目」


「でも震えてる」


「分かってる」


⸻


 モモが顔を上げた。


 目の色が薄い。


 桃の香りも、ほとんどしなくなっていた。


⸻


「ここは、声が集まる場所」


「頼朝へ届く命令。報告。祈り。勝ってほしいという願い」


「全部、内へ向いてる」


⸻


「神託も?」


 モモが頷く。


⸻


「阿津賀志山では、人の願いが分かれてた」


「勝ちたい。生きたい。家族を守りたい。土地を残したい」


「ここは違う」


⸻


 モモが自分の胸を押さえた。


⸻


「前へ進め」


「北を討て」


「鎌倉殿を勝たせろ」


「同じ方を向いた声が多い」


⸻


 シンはモモの隣へ移った。


 肩へ手を伸ばす。


 触れる直前、モモが身を引いた。


⸻


「触らないで」


⸻


 怯えていた。


 シンを拒んでいるのではない。


 自分が何をするか分からない顔だった。


⸻


「私が私でなくなるかもしれない」


「なら、戻るまで待つ」


「近くにいないで」


「それは無理」


⸻


 モモの眉が歪んだ。


 怒ったのか。


 泣きそうなのか。


 分からなかった。


⸻


「効率が悪い」


「知ってる」


「死ぬかもしれない」


「七回死んだ」


「そういう意味じゃない」


⸻


 そこまで言って、モモが止まった。


⸻


 声がした。


⸻


 低い声だった。


 男の声。


 老人にも、若者にも聞こえる。


 帷幕の外からだった。


⸻


「南無、八幡大菩薩」


⸻


 祈りだった。


 戦の前に、兵が唱えていてもおかしくない。


 入口の兵も気にしていない。


⸻


「護国鎮守、八幡大菩薩」


⸻


 今度は反対側から聞こえた。


 文言は違う。


 それなのに、同じ声だった。


 同じ高さ。


 同じ速さ。


 息を吸う場所まで同じだった。


⸻


「弓箭の威徳、怨敵を伏せよ」


⸻


 三つ目は、帷幕の後ろ。


⸻


「朝敵降伏、北を鎮めよ」


⸻


 四つ目は、地面の下から聞こえた。


⸻


 シンは立ち上がった。


 入口の兵も、ようやく異変に気づく。


⸻


「誰だ!」


⸻


 返事はなかった。


 経だけが続く。


⸻


「国家鎮護」


「征討成就」


「北を伏せよ」


「異なるものを除け」


⸻


 声が増えた。


 十。


 二十。


 もっと。


 大勢がいるはずなのに、声は一つだった。


 一つの喉を、何十人もの口で使っている。


⸻


 やがて、経の端が潰れた。


 言葉だったものが、意味を持たない音へ崩れていく。


⸻


「ͦͷ――」


「ྺ࢙Λ――」


「……修正」


⸻


 モモが頭を押さえた。


⸻


「違う」


 小さく言う。


「私は、モモ」


⸻


「……対象、白桃」


⸻


 経の中に、その名が混じった。


⸻


「白桃、定まれ」


「……優先度、最大化」


「戻れ」


⸻


「黙れ!」


 シンが叫んだ。


⸻


 全ての声が止まった。


⸻


 静かだった。


 不自然なほど、何も聞こえない。


 外にいたはずの馬も、兵も、火も消えたようだった。


⸻


 幕の入口に、人影が立った。


⸻


「景季様か?」


 梶原の兵が聞いた。


 人影は答えない。


⸻


「名を申せ」


⸻


 幕が開いた。


 鎌倉の兵が立っていた。


 鎧を着ている。


 白旗を背負っている。


 どこにでもいる兵に見えた。


⸻


 ただ、旗に何も付いていなかった。


 扇も。


 色布も。


 家を示すものが、一つもない。


⸻


「どこの手の者だ」


⸻


 梶原の兵が槍を向けた。


 所属のない兵は、口を開いた。


⸻


「護国鎮守、八幡大菩薩」


⸻


 矢が飛んだ。


 梶原兵の喉へ刺さる。


 声も出なかった。


 もう一人が槍を突き出す。


 所属のない兵は、穂先を脇腹へ受けた。


 深く入った。


 それでも止まらない。


 槍の柄を両手で掴み、自分から前へ出る。


 肉の中を穂先が進む。


 顔だけは動かなかった。


⸻


 目から涙が流れていた。


⸻


 泣きながら、梶原兵の首を斬った。


⸻


「何なんだよ、こいつら……!」


⸻


 幕の左右から、さらに兵が入ってくる。


 五人。


 七人。


 後ろにもいる。


 どの白旗にも、所属を示すものがない。


⸻


 鎧も揃っていなかった。


 新しい大鎧。


 継ぎを当てた腹巻。


 泥に濡れた狩衣の上へ、胴だけを着けた者。


 若者がいる。


 髭の白い男もいる。


 別々の家から、別々の道を通って来たはずだった。


 それなのに、全員が同じ側の足から踏み出す。


 同じ角度で首を傾ける。


 同じところで息を吸う。


⸻


 一人の口から血が流れていた。


 舌を噛んでいる。


 経を止めようとしているように見えた。


 それでも顎は動いた。


 血を吐きながら、ほかの者と一つの声を出した。


⸻


「朝敵降伏」


「異形消除」


「……修正、実行」


「……白桃、定まれ」


⸻


 シンは机を蹴った。


 紙と墨が宙へ舞う。


 机が先頭の兵へ当たる。


 一人が倒れた。


 その後ろが、倒れた仲間を踏んで進む。


 助けない。


 避けもしない。


 同じ歩幅でモモへ向かってくる。


⸻


「モモ、逃げるぞ!」


⸻


 返事がない。


 モモは座ったままだった。


 右手が、フツの柄を握っている。


 左手が、その右手首を押さえていた。


⸻


「抜かないで」


 モモが言った。


 自分の手へ言っていた。


⸻


「私は、斬らない」


⸻


 右手が動く。


 鯉口が切れた。


 白い光が、指一本ぶんだけ現れる。


 左手が押し戻す。


 刃が鞘へ戻る。


⸻


「私、はモモ」


⸻


 兵の一人が、シンへ斬りかかった。


 身を引く。


 刃が胸元を掠めた。


 衣が裂ける。


 次が来る。


 シンは墨の入った硯を投げた。


 兵の顔へ当たる。


 黒い墨が目を覆った。


 それでも兵は、正確にシンのいる方へ刀を振った。


 見えていないはずだった。


⸻


「……対象、観測者」


⸻


 全員の口が同時に動いた。


⸻


「ਖ਼͘͠、؅ཧ͢Δ」


「……誤差、排除」


⸻


 モモの右腕が震える。


 震えが肩へ上がる。


 背中が反る。


 喉から、息ではない音が漏れた。


⸻


「シン」


⸻


 モモが呼んだ。


 助けを求める声だった。


⸻


 シンは兵の間を抜けた。


 刃が背中を掠める。


 熱いものが流れた。


 それでもモモへ手を伸ばす。


⸻


「今行く!」


「来な、いで!」


⸻


 初めて聞く叫びだった。


 シンの足が止まる。


⸻


「私、から離れ、て!」


「できない!」


⸻


 また一歩、近づいた。


 モモの左手が右手首から外れた。


 外したのではない。


 指が一本ずつ、見えない何かに剥がされていった。


⸻


「違う」


 モモが泣いていた。


「違う。私は、モモ」


⸻


 フツが抜けた。


 帷幕の中が白くなる。


 所属のない兵たちが、同時に膝をついた。


 刀を置く。


 頭を垂れる。


⸻


「八幡大菩薩、白桃を鎮めたまえ」


⸻


 拝んでいた。


 モモを。


 白桃を。


⸻


「モモ」


⸻


 シンが手を伸ばす。


 色の抜けた目が、シンを見た。


 その奥で、モモだけが泣いていた。


⸻


「逃げ、て」


⸻


 口は、そう言った。


 身体は違う命令に従った。


⸻


 一歩。


 速かった。


 二歩目は見えなかった。


⸻


 フツが、シンの胸を貫いた。


⸻


 冷たかった。


 すぐに熱くなった。


 目の前にモモがいる。


 近かった。


 七度死んでも届かなかった場所に、今は手が届く。


⸻


 シンは、その頬へ触れた。


 濡れていた。


⸻


「……モモ」


⸻


 呼べた。


 モモの唇が震えた。


 声は出なかった。


 フツを握る手だけが、さらに深く刃を押し込んだ。


⸻


 八幡の経が、帷幕を満たしていた。


⸻


「護国鎮守、八幡大菩薩」


「朝敵降伏、異なるものを除け」


「ͦͷྺ࢙Λ、ਖ਼͘͠؅ཧ͢Δ」


⸻


 桃の香りが、白に消えた。


⸻


 八度目の死は、モモの手から来た。


⸻


(第百十四話へ)


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