第5話:隣の会話
休み時間。俺は机に突っ伏して、寝息を立てる。
目は閉じているが、耳はフル稼働だ。
隣の席から聞こえる山口の声が、心地いい。
どんなに他愛もない話でも、つい聞き入ってしまう。
――弟がいること、週に二回塾に通っていること。
スマホは春に機種変更して、アニメはルパン三世が好き。
朝は、チーズ蒸しパンと牛乳。
聞こうとして聞いているわけじゃない。
ただ、山口に関する情報は、俺の脳が勝手に最優先事項として取り込んでしまうのだ。
今日も俺は、寝たふりをしながら隣の世界の音を聞いていた。
今日の話題は、吹奏楽部の夏休みイベントについて。
同じ吹奏楽部の酒井さんと、町民ホールでの演奏会の話をしている。
チラシやポスターの準備で忙しいらしい。
「それにしても」
そのあたりで、突然酒井さんが話題を変えた。
「ゴエモンって、いつも寝てるよねー」
……やばい。聞いてたのがバレる。
俺はゆっくりと顔を上げた。
あくび混じりに伸びをして、寝起きっぽく目をこする。
「ん? 今、何か言った?」
「わざとらしい。本当は聞いてたんじゃないの?」
酒井さんがニヤニヤしながら詰め寄ってくる。
「聞いてないって。今起きたんだよ。ちょっと夢見てたし」
俺はなるべくフランクに返す。
以前より、不思議と肩の力が抜けていた。
「で? なんの話してたの?」
興味津々なのを悟られないよう、できるだけ自然なトーンで聞く。
「夏休みに吹奏楽部の演奏会があるんだよ」
酒井さんが答え、山口が続ける。
「町民ホールでやるんだ。今、ポスターとか作って宣伝してるんだけど」
「町民ホールって、あそこ? 家から近いな……」
「そりゃそうだよ。あんな町のど真ん中にある建物、うちの中学の生徒なら誰でも『近い』でしょ。近いんなら来れば?」
酒井さんが笑いながら言う。
山口も、少し期待を込めた表情で俺を見た。
「お客さん多いほうがいいし、来てよー」
「……行けたら行く」
そっけなく答えたが、内心は大荒れだった。
「ほんとに? 来てくれたら嬉しいな」
山口が、少しだけ照れたように微笑む。
その一撃で、俺はもう逃げ場を失った。
「……行けたら行く」
今度は、少しだけ強めに。
自分への誓いも込めて、そう答えた。
※※※
その日の夜、自宅。
「演奏会」って、いくらくらいかかるんだろう。
ホールでやるとなると、チケット代が必要な気がする。
俺は頼りない財布の中身を確認してから、リビングでテレビを見ている姉に声をかけた。
「ねえ、千円くらい貸してくんない?」
「急にどうしたの? 何に使うのよ」
「演奏会に行きたくて。町民ホールのやつ」
「町民ホール? それ町内イベントでしょ。私も出るし、あんなの無料に決まってるじゃん」
「……え、姉ちゃんも出るの?」
「言ったでしょ。社会人楽団でサックスやってるって」
サックス。
山口と同じ楽器。
その単語だけで、顔が緩みそうになる。
姉はコップを片手に、面白いものを見つけたみたいな顔で俺を覗き込んできた。
「ていうかさ、中学生男子がいきなり吹奏楽の演奏会なんて、どう考えても女子目当てでしょ?」
「違うし!」
思わず声が大きくなる。
「ふふ。昔は犬に吠えられて泣いてたくせに。あんたも成長したねぇ」
「それ、小学校上がる前の話だろ!」
「まあいいわ。演奏会に行くなら、花くらい持っていくのがマナーだからね」
「花!?」
「団体用でもいいけど、できれば個人に渡したほうがカッコいいし、喜ばれるよ。演奏者って、そういうの気にするもん」
……マジか。
俺は、その言葉を真に受けてしまった。
その夜、俺はスマホで「花束 吹奏楽 演奏会」と検索し続けた。
色はどうするか、ラッピングはどう頼むか。
頭の中は、完全に花束のことでいっぱいだった。
そんなとき、部活のグループLINEに佐伯から通知が入る。
『夏休みの試合、会場が町民体育館に変更だって』
――そうだ。
吹奏楽部の演奏会の日は、バスケ部の試合がある日だった。
でも、町民ホールと町民体育館は隣同士だ。
移動は簡単だし、時間も午前と夕方で被っていない。
「よかった……これなら行ける」
そう思った直後、別の考えが頭をよぎる。
会場が隣同士ということは、誰かに見られる可能性も高い。
体育館からホールへ向かう、わずか数十メートルの道。
そこは部の連中にとって、絶好の“目撃ポイント”になる。
午前中に試合。
そのあと、花束を持って隣の演奏会へ向かう。
俺のような立ち位置の人間にとって、それがどれほど冷やかされる対象になるか……。
スマホを握る手が、少し震えた。
冷静に考えれば考えるほど、ハードルは高い。
でも――
あのとき、山口に言ったんだ。
「行けたら行く」と。
だから、俺は絶対に行く。




