第23話:隣の手紙
放課後。
すっかり日が短くなった薄暗い校舎に、私はひとり残っていた。
ひよりちゃんは高橋くんと付き合い始めて一週間、毎日一緒に帰っている。 「今まで通りマミと一緒に帰りたい」と言ってくれたけど、私は「高橋くんと帰ってあげて」と背中を押した。
四人で――私とゴエモンも一緒に、なんて提案もあったけど、それはまだ恥ずかしくて。 それに、高橋くんとひよりちゃんのことはもうすぐに噂になっていて、もし私とゴエモンまで並んで帰ったら……きっと同じように囁かれる。
そう思うと、少し気まずくて、結局私はこうしてひとりで校舎を出ることになった。
玄関を出たところで、見慣れた人影に気づいた。
「――あれ?お姉さん……どうして学校に?」
ゴエモンのお姉さんがにこっと笑って答える。
「明日のイベントの打ち合わせでね。マミちゃんは一人?いつものあの子は?」
「まあ……ちょっと」
「ああ、そっか。高橋くんと一緒なのね」
「えっ、知ってるんですか?」
「まあ、色々とね」
お姉さんは肩をすくめて笑うと、ふと表情を和らげた。
「でも、ちょうどよかった。マミちゃんに話があったの。少しカフェに寄っていかない?お姉さんが奢るから」
「え?でも……」
「遠慮しないの。保護者同伴なら寄り道も大丈夫でしょ?」
その言葉に私は思わず笑ってしまった。 ――安心する誘い方だ。自然と頷いてしまう。
※※※
カフェに入って、温かい飲み物を注文してから少し他愛ない話をしたあと、私は切り出した。
「それで……話って何ですか?」
お姉さんはカップを両手で包みながら、少し照れたように笑った。
「うん、実はマミちゃんにお礼が言いたくて」
「お礼?」
「最近、弟がすごく調子いいのよ。ミニバスのことも吹っ切れたみたいで、昔に戻った感じで。あれ、マミちゃんのおかげでしょ?ありがとう」
私は慌てて首を振った。
「いや、私は別に何も……」
「ミニバスのこと、聞いたんでしょ?」
「はい」
「……あいつ、あれでも当時はそれなりに荒れてたの。すぐに落ち着いたんだけど、ミニバスのことになるとずっとウジウジしててね」
「そうなんですか」
「私や両親が何を言っても変わらなかったのに、マミちゃんと話しただけでああなんだから。ほんと単純というか……」
お姉さんは苦笑しながらも、目の奥に安堵の色を浮かべていた。 そして少し間を置いて、声を柔らかくして言葉を重ねる。
「とにかく母もすごく喜んでたの。本当にありがとう」
私は返す言葉を探しながら、カップの中の紅茶を見つめた。 胸の奥がじんわりと熱くなって、簡単な言葉では返せそうになかった。
けれど、心の中にずっと伝えたい思いがあった。私は顔を上げて、そっと口を開いた。
「……実は、私もお姉さんにお礼を言いたくて」
「マミちゃんも?」
「はい。昔、私に初めてサックスを吹かせてくれたの、お姉さんだったんですよね。ずっと忘れてて……ごめんなさい」
「ああ、そのことね」
お姉さんは少し目を細めて笑った。
「それなら大丈夫。私もつい最近になって、あの子がマミちゃんだったって思い出したばかりだから」
「そうだったんですね……。私、あのおかげで吹奏楽を始めることができました。サックスが大好きになったのも、あの時のお姉さんのおかげです。本当にありがとうございます」
お姉さんは首を横に振り、静かに言った。
「そのことに関しても、お礼を言うのは私の方なの」
「え……?」
「だって、あの時のマミちゃんが私を救ってくれたんだから」
お姉さんの声は柔らかく、けれど確かな重みを帯びていた。 私は思わず息を呑み、カップの中の紅茶が揺れるのを見つめた。
お姉さんは少し遠くを見るようにして、静かに語り始めた。
「……あの頃ね、高校を出たばかりで色々悩んでた時期だったの。吹奏楽をやめようかまで考えてたくらい」
「え?そうなんですか!?」
「そう。だから昔お世話になった、私が一番尊敬してるジュニアクラブの田中先生に相談したの。そしたら『気晴らしに手伝いに来てみたら』って言われてね」
お姉さんは少し笑みを浮かべる。
「子どもって本当に可愛いのよ。あの子たちが楽しそうに楽器を演奏する姿を見ていたら、私も吹奏楽を始めたばかりの頃の気持ちを思い出して、だいぶ落ち着いてきてね」
そして、ふっと私を見て言った。
「で、極めつけがマミちゃんだったの」
「え?私ですか?」
「そう。あの時、あなたが本当に興味深そうに楽器を見ていたから、ちょっと声をかけて吹かせてあげたの。そしたらすごく喜んでくれて……その顔を見て、やっぱり吹奏楽を続けようって思えたのよ」
お姉さんは柔らかく微笑んで、静かに言葉を結んだ。
「ありがとう、マミちゃん」
私は胸が熱くなり、言葉を失った。 お姉さんはそんな私の様子を見て、少し照れたように笑う。
「……そういえば、ね、あの後のことも覚えてる?マミちゃんが私の社会人楽団での初めての演奏会に来てくれたこと」
「え?」
「終わった後にマミちゃんがお花と手紙を渡してくれて、すごく嬉しかったのを覚えてる。だから今でもいろんな人に『演奏会には花束を持っていくのがマナーよ』って教えてるの。もちろん弟にもね」
私は夏にゴエモンからもらった花束のことを思い出していた。
「で、この前あの子がマミちゃんだったって気付いてから、急いで手紙を書いたのよ。あの時の返事。受け取ってくれる?」
「もちろんです」
お姉さんは鞄から封筒を取り出し、私の前に差し出した。
「じゃあ、帰って読んでみてね」
私は両手でそれを受け取り、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
カフェを出ると、夕暮れの街はすっかり灯りに包まれていた。 お姉さんは「さ、もう暗いし送っていくわ」と軽く笑い、私の隣に並んで歩き出す。
手紙の重みを確かめながら歩く帰り道は、いつもより少しだけ特別に思えた。
家に着くと、お姉さんは「じゃあまたね」と手を振ってくれた。 私は深く頭を下げてから、封筒を胸に抱えて家の中へ入った。
※※※
部屋に戻り、机の上に鞄を置く。 静かな空気の中で、封筒の存在だけがやけに重く感じられた。
私はそっと椅子に腰を下ろし、封を切った。
中から現れた便箋には、丁寧な字でこう綴られていた。
◆◆◆
マミちゃんへ
まずは、弟のことを救ってくれて本当にありがとう。 あの子がまた前を向けるようになったのは、間違いなくマミちゃんのおかげです。
そして、私自身も昔マミちゃんに救われたことを思い出しました。 あの時、楽器を吹いて喜んでくれた笑顔に、私はもう一度吹奏楽を続けようと思えた。 だから今でも感謝しています。ありがとう。
思えば――十年前のキャンプ、五年前のジュニアクラブ、そして今年の再会。 こうして振り返ると、私たちって本当に縁が深いのね。
前に「弟に好きな人がいるか」ってあなたに聞かれて、その時私は「知りたかったら本人に聞きなさい」って言ったの、覚えてる? あの時の気持ちは今も変わらないし、弟の気持ちがどうこうは私からは言えない。
でもね、私個人の気持ちとしては――あなたたち、本当にお似合いだと思うの。 だから、さっさとくっついちゃいなよって感じなのよ。 あいつの行動を待っていたら、いつまで経っても進まないかもしれない。だから、マミちゃんから動いてみてもいいんじゃない?
これからも、あなたの気持ちを大事にしてね。
――“ゴエモンの姉”より
◆◆◆
便箋を読み終えた私は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「これからも、あなたの気持ちを大事にしてね」
その言葉が、静かに心に響いていた。
その瞬間、先日の出来事が次々と頭に浮かんでくる。
ーーー
「俺、本気なんだよ。ゴエモンのお姉さんに」
「酒井さん……この前はごめん。言いすぎた。……でも、やっぱり好きなんだ。俺と――付き合ってください!」
「……うん。よろしくお願いします」
『私、渡辺先輩のことが好きなんです!』
ーーー
みんな、それぞれが誰かを好きだって、ちゃんと口にしていた。 その声が胸の奥で重なっていく。
――私だって、ゴエモンのことが好き。
その想いを、もう隠しておく必要はない。 待っているだけじゃ、何も変わらない。
私は机の上の手紙をそっと閉じ、強く心に決めた。
次は、私がゴエモンに想いを伝える番だ。




