第20話:隣の試合
放課後の音楽室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
譜面台を立てる音。 ケースの留め具が外れる音。 チューナーの電子音が、あちこちで鳴っている。
私は、サックスのネックを取り出しながら、アヤカちゃんの背中を見ていた。
彼女は、いつも通りに楽器を組み立てていた。 手の動きは滑らかで、無駄がない。 でも、私の心臓は、ずっと騒がしかった。
今言わなきゃ、また言えなくなる。 そう思って、私は立ち上がった。
「アヤカちゃん、話があるの」
彼女は少しだけ驚いた顔をして、でもすぐに落ち着いた声で言った。
「……なんですか?」
私は、息を整えてから言った。
「勝負のやり直しをしたい。あの時の結果に、納得がいってないから」
一瞬、周囲の空気が止まった気がした。
アヤカちゃんは、眉を寄せて言った。
「今さら何を……もう代表は決まったんですから」
私は首を振った。
「そっちじゃない。この曲で、勝負したい」
譜面を手に取って、はっきりと言った。
「『宝島』」
その瞬間、アヤカちゃんの目が揺れた。 手が、ほんの少しだけ止まった。
「……この曲」
「2年前のジュニアクラブで、ミニバスの応援演奏した時に吹いた曲。 あの時、選抜オーディションの課題曲だった。覚えてる?」
アヤカちゃんは、ゆっくりと頷いた。
「もちろんです。あの時は……」
私は、言葉を重ねた。
「あの時、誰が聴いてもアヤカちゃんの方が上手だった。 でも、選ばれたのは私だった。 理由は『六年生だから』――そんな理不尽な理由を、私は拒否できずに受け入れてしまった」
「だから、あの時のやり直しをしたいの。ちゃんと、今の私で、向き合いたい」
アヤカちゃんは、何も言わなかった。 でも、その目は、私の言葉を確かに受け止めていた。
音楽室の空気が、少しだけ張り詰めた。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女は顔を上げた。 その瞳には、まだ少し迷いが残っていたけれど―― その奥に、確かに火が灯っていた。
「……わかりました。やりましょう」
その一言に、胸の奥が熱くなった。 空気がわずかに震える。 周りでチューニングしていた一年生たちが、思わず手を止めた。
「えっ、今のって……勝負、ってことですか?」
「マミ先輩とアヤカが?」
ざわめきが走る。 誰かが小さく笑い、誰かが息をのむ。
そんな中、アヤカちゃんは譜面を整えながら、まっすぐ私を見て言った。
「勝敗は……どうやって決めますか?」
その時――部室の奥から、静かな声がした。
「――私が審判する」
振り向くと、そこにひよりちゃんが立っていた。 譜面を抱えたまま、いつの間にかこちらを見ていたらしい。
「でも、それじゃ不公平じゃないですか?」
一年の一人が声を上げる。
「ひより先輩、マミ先輩の味方でしょ?」
ひよりちゃんは少しだけ目を細めた。 けれど、その声は落ち着いていた。
「そんな贔屓はしないよ」
そして、ほんの一呼吸おいて言葉を継いだ。
「私だって――あの時の結果に、納得いってなかったから」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。 ざわめきが消え、誰もが息をひそめた。
アヤカちゃんも、私も、思わず目を見合わせた。 あの“2年前の結果”を知る数少ない人のひとり―― ひよりちゃんが、今ここで、それを口にした。
ひよりちゃんは、譜面を見つめたまま、静かに言った。
「この曲は、応援歌だからね。 誰かを応援するつもりで吹くと、音が変わるよ」
その声は、穏やかだけど、芯が通っていた。
「ただ上手く吹こうとするより、 誰かの背中を押すつもりで吹いた方が、ずっと強い音になる」
そのまま、ひよりちゃんは私の方を見た。 何も言わず、ただ視線を向けてくる。
私は、彼女の目を見返した。 ほんの一瞬だけ、静かな間が流れる。
それから、私はわずかに頷いた。 ひよりちゃんも、何も言わずに視線を外した。
それだけで、十分だった。
ひよりちゃんはアヤカちゃんの方へ向き直ると、少しだけ柔らかい声で言った。
「アヤカちゃんは……タケルくんの試合を応援する気持ちで吹いてみたら?」
アヤカちゃんは、目を見開いた。 そして、ほんの一瞬だけ、頬が赤くなった。
「えっ……そ、それは……」
言葉に詰まりながらも、譜面を見つめ直す。 そして、少しだけ笑って、言った。
「……はい。やってみます」
ひよりちゃんは静かに譜面台を置くと、低く、それでいてはっきりした声で言った。
「……時間ないから、もう一緒に吹いちゃって。 その方が、たぶん、わかると思う」
私は、首を振った。 アヤカちゃんも、真剣な顔で頷いた。
音楽室が、静かになった。 誰もが息をひそめ、音のない時間が流れる。
こうして、“本当の勝負”が決まった。 過去のやり直しでも、ただの挑戦でもない。 あの冬に置き去りにした音を、今、取り戻すための――試合。
最初の音が鳴った。
アヤカちゃんと私。 ふたりのサックスが、同時に音を放った。
譜面通りのイントロ。 でも、空気はすでに違っていた。
音が、ぶつかる。 でも、壊れない。 むしろ、互いを押し上げるように、跳ねる。
アヤカちゃんの音が、少しだけ前に出る。 私の音が、それを追いかける。 そして、次の小節では、私が先に跳ねて、アヤカちゃんが重ねてくる。
競い合ってるのに、揃っている。 ぶつかってるのに、響いている。
音楽室の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
ふたりの音が、だんだんと変わっていった。 勝負の緊張が、少しずつほどけていく。
アヤカちゃんが、ほんの少しだけ音を遊ばせた。 私も、それに応えるように、リズムを揺らした。
ふたりとも、譜面を見ていない。 でも、音は止まらない。 むしろ、どんどん自由になっていく。
勝負だったはずの演奏が、 いつのまにか、ただのセッションになっていた。
アヤカちゃんが、笑ってる。 私も、吹きながら笑っていた。
その音に、ひよりちゃんの肩が、ぴくりと動いた。
そして、次の小節の直前。 ひよりちゃんが、ぽつりとこぼした。
「……あーもう無理。聴いてるだけなんて、できない」
その声は、誰に向けたものでもなかった。 でも、音が彼女を呼び込んだ。
次の瞬間――フルートの音が、加わった。
ひよりちゃんが、吹いていた。
誰も驚かなかった。 むしろ、当然のように、音が彼女を迎え入れた。
その音に、一年生たちがざわめいた。 誰かがクラリネットを構え、誰かがトランペットを持ち直す。
そして、次の小節―― 音楽室が、爆発した。
クラリネット、トランペット、ユーフォ、ホルン―― あちこちから音が飛び出し、 譜面も見ずに、みんなが「宝島」を吹き始めた。
誰も止めなかった。 誰も指示しなかった。 でも、音は揃っていた。
それは、勝負でも演奏でもなく―― ただの、祝祭だった。
音が、音楽室を満たしていく。 誰かが笑いながら吹いていた。 誰かが涙ぐみながら吹いていた。
そして、ドアが開いた。
「ちょっと!何やってるの!」
顧問の先生が入ってきた。 手には書類、顔には驚きと怒りが混ざっていた。
音が、止まった。 一瞬で、静寂が戻った。
先生は、部室を見渡して、眉をひそめた。
「なんの騒ぎ?……って、あら」
少しだけ間を置いて、山口の方を見た。
「この曲、前にも山口さんがいきなり吹き出したことあったわよね。 よっぽど好きなのね」
私は、何も言えなかった。 でも、誰かが小さく笑った。
先生は、譜面台の間を歩きながら、ぽつりと言った。
「それにしても、今の演奏――素晴らしかったわね。 みんな、気持ちが入ってた。 普段からこうしてくれたら、言うことないんだけど」
部室に、笑いが広がった。 誰かが「すみません」と言いながら吹き出した。
先生は、書類を整えながら言った。
「とりあえず、片付けて。廊下まで響いてたわよ」
そう言って、先生は部室を出ていった。 ドアが閉まる音が、静かに響いた。
そのあと、誰かがぽつりと言った。
「……で、結局どっちが勝ったの?」
みんなが顔を見合わせる。 私も、アヤカちゃんも、何も言わなかった。
ひよりちゃんが、譜面を整えながら言った。
「……あっちの2人に託そうか」
その意味がわかったのは、私とひよりちゃんだけだったけど、 部室に静かな笑いが広がった。 誰も否定しなかった。
※※※
部活での大合奏から、数日後。
私は、教室で机に突っ伏しているゴエモンを見ていた。 昨日の試合の疲れがまだ抜けないらしい。
体育の授業――男子はバスケの最終日。 一組対二組。
私は女子のバレーをそっちのけで、その試合を見ていた。
終盤、ゴエモンとタケルくんが正面からぶつかった。 ゴエモンが抜いて、シュートまでいったけれど、 高橋くんにカットされて、そのまま一組の勝利で終了。
どっちが勝ったのかなんて、もうどうでもよかった。 ただ――最後まで諦めずに走る彼の姿が、まぶしかった。
私は、机に突っ伏す背中を見つめながら、静かに声をかけた。
「ゴエモン、何やってんの?」
彼が顔を上げる。 眠たそうな目で、私を見た。
「……身体中が痛くて」
ぶっきらぼうな声。 でも、どこか満ち足りたような響きがあった。
私は、自然に隣の席に腰を下ろした。 机と机の間に、ほんの少しだけ空気が流れる。 でも、私の声はその距離を越えていく。
「そりゃそうだよ。あれだけ試合頑張ったら、痛くもなるよ」
彼が少しだけ顔を上げる。
「……見てたの?」
「うん。ちゃんと見てたよ」
「まあ……負けたけどね」
私は、首をかしげて言った。
「でも、すごくカッコよかったよ」
その言葉を言えたのは、たぶん―― あの日、音で応援できたからだ。
あの音が、ちゃんと届いたかどうかはわからない。 でも、彼の動きに、少しだけ重なった気がした。
ゴエモンは、ポケットに手を入れた。 指先で何かを探るようにして、やがて、そっと言った。
「……あのさ」
私は、顔を上げた。
「誕生日、もうすぐだったよね。これ、プレゼント」
彼が机の上に置いたのは、小さなキーホルダー。 五右衛門のキャラクターが、ちょこんと笑っていた。
私は、思わず目を見開いた。
「ありがとう。かわいい。これ、どうしたの?」
「くじで当てた。……本当はフィギュア狙ってたんだけど、俺には無理だった」
“フィギュア”という言葉で、 ふとタケルくんにもらった五右衛門のフィギュアが頭をよぎった。
くじのフィギュアって、もしかしてあれの事?
そう考えながら、すぐに目の前のキーホルダーに視線を戻した。
「でも、こっちの方が好きかも。いつも持ち歩けるし」
私はスマホを取り出して、丁寧にストラップをつけた。 その動きが、少しだけ慎重になってしまうのを、自分でも感じていた。
そのとき、彼のポケットから、もうひとつのキーホルダーが転がり落ちた。
私はそれを拾い上げる。
「これも?」
「うん。2つ当たったから」
私は、キーホルダーを見つめて、ふっと笑った。
「じゃあ、お揃いだね」
彼は、少しだけ照れたようにうなずいた。
「……うん」
昼休みのざわめきの中、 隣の席だけが、静かに満ちていた。




