第18話:隣のライバル
白石アヤカ。
国寺中学吹奏楽部、アルトサックス担当。
ジュニアクラブの頃から一緒にやってきた後輩。
いつも明るくて、礼儀正しい。
でも、勝負になると負けん気が強くて、目の色が変わる子。
努力家で、真面目で、音に対してとても真っ直ぐ。
私にとっては、可愛い後輩であり、 いつも刺激をくれる存在だった。
……そう思ってた。
そんなアヤカちゃんに、負けた。
負けた瞬間、頭が真っ白になった。
「え、私が負けるの?」
その言葉が、真っ先に浮かんだ。
悔しいとか、悲しいとか、そういう感情よりも先に―― 信じられない気持ちだった。
その反応をした自分に、私は驚いた。 いつの間にか私は、 “自分が勝つのが当たり前”だと思ってたんだ。
アヤカちゃんがどれだけ上手くなっても、どれだけ成長しても、 どこかで「まだ自分の方が上」と思い込んでいた。
そんなつもり、なかったのに。 心の奥で、私はずっと“勝つ前提”でいた。
だから、負けたことよりも―― 「自分がそう思ってた」という事実が、いちばんショックだった。
あの瞬間、音が止まった気がした。 アヤカちゃんの澄んだ音色が、私の中の“何か”を静かに崩していった。
※※※
数日後。
部活の時間、私は譜面を見ているふりをしていた。
「先輩、お疲れさまです」
アヤカちゃんの声が、いつもより少し硬かった気がした。
「……お疲れ。アヤカちゃん、今日のソロ、すごく良かったね」
「ありがとうございます」
笑ってはいるけれど、どこか張り詰めている。 この子も、きっと色々考えてる。
「負けちゃったな、私」
自分でも驚くほど、素直に言葉が出た。 アヤカちゃんの目が、少しだけ見開かれる。
「でもね、あの音を聴いたときに思ったの。 “ああ、もう私が背中を見せてあげる立場じゃないんだな”って」
本心だった。 悔しさも、寂しさも、ちゃんとある。
でも、それ以上に、純粋に“すごい”と思えた。
「これからはアヤカちゃんの時代だね」
笑って言ったつもりだった。 でも、その瞬間――
アヤカちゃんの表情が、一瞬だけ強張った。
「……そういうの、やめてください」
「え?」
「“これからはあなたの時代”って言われると…… 先輩がもう勝負する気ないみたいで、すごく悔しいです」
その言葉が、静かに胸に刺さった。
「私、先輩に勝ちたかったんです。 でもそれは、“先輩が私を本気で見てくれてる”って思いたかったから。 なのに、先輩がそんなふうに言ったら…… 私、ただ“譲られた”みたいで嫌です」
アヤカちゃんの声が、震えていた。 怒っているというより、泣きそうな声だった。
言い返そうとしても、言葉が出てこなかった。
私は、ただ“反省してる”つもりだった。 でもそれは―― 彼女から見れば、“見下し”だったのかもしれない。
「……ごめん」
そう言うしかなかった。
アヤカちゃんは少し黙って、それから小さく頭を下げた。
「いえ……私の方こそ、言い過ぎました」
そのあと、ほんの少し間をおいて、アヤカちゃんが続けた。
「私……ずっと、マミ先輩のこと、ライバルだと思ってました。 でも、先輩はそうじゃなかったんですね」
その言葉に、息が詰まった。
部室の空気が、静かに沈んでいく。 譜面台の影が長く伸びて、どちらの影がどっちかわからなくなった。
※※※
その夜、私はなかなか寝つけなかった。 アヤカちゃんの「ライバルだと思ってました」という言葉が、頭から離れなかった。
私は、ずっと“後輩”だと思ってた。 可愛くて、真面目で、頑張り屋で――
でも、どこかで“自分より下”だと決めつけていた。
そんな私に、あの言葉。
“ライバル”って、なんだろう。 勝ったり負けたりすること? 張り合い続けること? それとも、もっと別の何か?
答えは出ないまま、翌日を迎えた。
※※※
体育の時間。
ジャージに着替えて、体育館に移動すると、女子はバレーの準備を始めていた。 ペアを組んで、ボールを持って並ぶ。 ネットの向こうでは、男子がバスケの1対1を始めるらしい。
ボールを手にしたまま、近くの女子たちの会話が耳に入った。
「渡辺くん、今日も見れるかな」
「石川くんとまた当たるかもね。最近よくぶつかってない?」
「渡辺くん、ほんと強いよね。バスケ部じゃないのに、あの動き……」
「顔もかっこいいし、運動もできるし、完璧すぎ」
渡辺くんと石川くん―― タケルくんとゴエモンのことだ。
そんなふうに言われるような関係だったなんて、知らなかった。
隣で髪を結んでいたひよりちゃんに、そっと声をかける。
「ねえ、ひよりちゃん。ゴエモンとタケルくんって、そんな仲良かったっけ?」
ひよりちゃんはゴムを口にくわえたまま、少しだけ目を細めた。
「……最近よく勝負してるみたいよ。毎回ゴエモンが挑んでるんだって。 高橋くんが順番いじって、面白がって協力してるらしいし」
「え、何でそんなことに?」
「負けたくない理由があるんじゃない?……ゴエモンの方が、特に」
ひよりちゃんは髪を結び終えると、少しだけ間を置いて言った。
「……ああいうの、ライバルっていうのかもね」
その言葉が、胸に残った。
ライバル――。 昨日のアヤカちゃんとのやりとりが、ふと頭をよぎった。
女子のパス練習が始まる。 二人一組で向かい合って、ボールを交互に打ち合う。
体育館の中央にはネットが張られていて、隣のコートでは男子の1対1が始まっていた。
視線を向けると、タケルくんとゴエモンが向かい合っていた。 またこの組み合わせ―― ひよりちゃんの言ってた通りだ。
笛が鳴って、男子の試合が始まる。
タケルくんは静かに構えていて、ゴエモンは何度も仕掛けていた。 ぶつかる場面が多くて、周囲の空気が少し張りつめる。
他のペアよりも動きが速くて、どこか本気の匂いがした。 ただの体育の試合じゃない。 何度も同じ相手に挑んで、何度も受け止めて―― 何かが積み重なってるような、そんな感じ。
私は、練習の合間に目を向けていた。 パスを返しながら、ちらちらと視線がそっちに向いてしまう。
勝ち負けよりも、二人の間にあるものが気になった。
ゴエモンは、タケルくんのことをどう見てるんだろう。 それが、ずっと引っかかった。
試合が終わって、男子たちは水を飲みに動き出す。 ゴエモンは一人でタオルを首にかけて、壁際に向かっていた。
少しだけ背中が沈んで見えた。
私は、その背中を見ながら思った。
――話してみたい。 タケルくんのこと、どう思ってるのか聞いてみたい。
※※※
教室に戻ると、ゴエモンが机に突っ伏していた。 腕の間に顔を埋めて、動かない。 呼吸だけが、静かに上下している。
私は、少しだけ立ち止まった。 さっきの試合のことが、まだ頭に残っていた。
何度も挑んで、何度も止められて、 それでも向かっていく姿が、ずっと目に焼きついていた。
私は、机に近づいて、声をかけた。
「ゴエモン、おつかれー。タケルくんとの対戦、話題になってるね」
ゴエモンが顔を上げる。 いつもの調子で笑ってみせたけど、目の奥に疲れがにじんでいた。
「……まあ、勝てないけどね」
私は、机の端に手を置いて、少しだけ身を乗り出す。
「タケルくん、昔からなんでも器用にこなすから。 運動も勉強も、全部そつなくて」
ゴエモンの目が、少し伏せられる。
「……もういいよ。どうせ勝てないし。 俺なんかバスケ部って言っても、アニメの影響で始めたばっかのミーハー部員だし。 あんなパーフェクト超人に勝てるわけないって」
まただ。
“ミーハー部員”。
彼はバスケの話になると、いつもそう言う。
前は、ただの照れ隠しだと思ってた。 でも、今は違う。 その言い方には、何かを遠ざけようとする響きがあった。
まるで、自分の過去ごと切り離そうとしてるみたいで。
―― それが、どうしても許せなかった。
私は、知ってる。 彼がどれだけ楽しそうにボールを追いかけてたか。 どれだけ夢中で走ってたか。
ずっと見てきた。 ずっと、言えなかった。 でも、今は違う。
気づいたら、口にしていた。
「違うでしょ」
ゴエモンが顔を上げる。 その目が、わずかに揺れていた。
私は、まっすぐ彼を見て言った。
「ゴエモンがバスケ始めたの、アニメの影響じゃないじゃん」
彼の表情が止まる。 その目が、私の言葉を追いかけていた。
胸の奥にしまっていた思いが、静かにほどけていく気がした。
「だって、ゴエモン、小学生の頃からバスケやってたじゃん」
彼の目が、何かを思い出すように揺れた。 その瞬間、空気が変わった。




