第12話:隣のあだ名
ホールの客席。
開演前のざわついた空気の中、私たち四人は並んで座っていた。
マックからの流れで、自然にペアができていた。
高橋くんとひよりちゃん、ゴエモンと私。
気づいたらそういう並びになっていて、今も私はゴエモンの隣に座っている。
ゴエモンは少し落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
その隣で、高橋くんがふと口を開いた。
「てかさ、今日って何のコンサートなの? バンド? アイドル? グッズとか売ってないの?」
その声に、ひよりちゃんが眉をひそめる。
「え、知らないのになんで来たの?」
私は一瞬、空気がピリッとするのを感じて内心焦った。
ひよりちゃん、音楽のことになると真剣だから。
軽く扱われるのが苦手なのを知っている。
その空気を察してか、ゴエモンがすぐにフォローを入れた。
「いや、ほら……高橋が『前から聴きたい』って言ってたから、ちょうどいいかなって思って」
高橋くんが「え?」と首をかしげる。
「うちの姉ちゃんが出るやつだよ。前に一度、姉ちゃんの演奏を聴いてみたいって言ってたじゃん」
「え、あの姉ちゃん? ポテチの? ……アイドルやってんの?」
……え? ポテチって何?
私は思わず口元を押さえた。
ひよりちゃんが吹き出しそうになっている。
その笑顔を見て、ちょっとだけ安心した。
空気がほどけた。
高橋くんの言葉は時々予想外すぎるけれど――ひよりちゃんが笑ってくれるなら、それでいい。
「吹奏楽だよ、社会人楽団のやつ」
ゴエモンがそう言うと、高橋くんは少しだけ真面目な顔になって言った。
「……吹奏楽か。まだ続けてたんだな。そういえば昔から演奏上手かったよな、あの姉ちゃん。怖かったけど」
ひよりちゃんがすぐに反応する。
「え、怖かったの? どんな感じ?」
その声に続けるように、私は口を開いた。
「どんな人だったの? ゴエモンのお姉さん」
前に町民ホールのイベントで聴いたお姉さんの演奏。
あの時のソロがすごく印象に残っていて、今日紹介された時も、演奏にぴったりの格好良くて優しそうな人に見えた。
だから「怖かった」と言われるのが、ちょっと意外だった。
あの音を出す人が、そんなふうに見えていたなんて。
もう少し、話を聞いてみたいと思った。
「昔、子供会のキャンプで一緒だったことがあってさ。ゴエモンが犬に吠えられて泣きそうになってた時、姉ちゃんが助けに来たんだよ」
高橋くんの言葉に、胸の奥がざわついた。
キャンプ。犬。泣きそうになっていた男の子。
……まさか、こんな形でその記憶が出てくるなんて。
あの夏の日。
棒を握って、私の前に立ってくれた子。
怖くて泣きそうだったのに、「ごめんね」と言った顔。
ひよりちゃんにしか話したことのない、大事な思い出だった。
それが突然、他人の口から語られて――私は息を呑んだ。
「……え、それ本当?」
ゴエモンが記憶をたどるように顔をしかめる。
でも、私にははっきり残っている。
あの夏の日の空気も、彼の涙も。
「マジだって。姉ちゃん、犬の前に立って『この子に吠えないでくれる?』って言ったんだ。あれ、めっちゃかっこよかったよな」
酒井さんが「え〜なにそれ、ドラマじゃん!」と笑う。
私も笑ったけれど、心の中では別のことを考えていた。
――あれって、ゴエモンのお姉さんだったんだ。
「……小一とかだろ。覚えてなくていいから」
ゴエモンはそっけなく言うけれど、私は忘れていない。
あの時、彼が私の隣に来てくれたこと。
怖くても、守ろうとしてくれたこと。
高橋くんが続ける。
「そういえばさ、あの頃からだよな? お前が『ゴエモンって呼んで』って言い出したの」
私は静かに息を止めた。
あの時、私が言ったんだ。
「五右衛門みたいで、かっこよかったよ」って。
彼は涙をぬぐいながら、「僕、石川だよ」と言って。
私は思わず「じゃあ、本物の五右衛門だね」って笑った。
その言葉が、あだ名になった。
自分でもちょっと照れくさいけれど、でも――嬉しかった。
「なんでその頃の俺が、大泥棒の石川五右衛門なんて知ってるんだよ」
ゴエモンが慌てて言い返す。
高橋くんが笑いながら言う。
「そっちじゃなくて、ルパンの五右衛門だろ? 棒を振り回しながら言ってたじゃん、『斬鉄剣で斬るぞ』とか」
私はそっと笑った。
あの時の彼は、確かにそんなふうに棒を振っていた。
ふざけているようで、でも――私を守ろうとしてくれていた。
私の隣で、あの場面で。
その時、ゴエモンが言った。
「……そんなの覚えてないし、どうでもいいし。てか、石川五右衛門なんてダサいあだ名、自分から呼んでなんて言うはずないだろ」
……ダサいあだ名。
そう言われた瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
自分から「呼んで」と言っていたって、今聞いたばかりなのに。
その気持ちまで、なかったことみたいにされた気がした。
名前じゃなくて――その時の彼の気持ちごと、否定されたみたいで。
笑おうとしたのに、うまくできなかった。
ブザーが鳴り、照明が落ちる。
ざわついていたホールが、すっと静まり返った。
演奏が始まった。
けれど、私はいまいち集中できなかった。
さっきの言葉が、まだ胸の奥に残っている。
ゴエモンの隣にいるのに、少しだけ遠く感じた。
音が重なっていく。
金管の響き、木管の柔らかさ。
けれど、どこか上の空だった。
その時だった。
サックスのソロが始まった。
吹いているのは、ゴエモンのお姉さん。
静かな旋律。
一音ずつ、丁寧に紡がれていく。
まっすぐで、優しくて、でも芯がある音。
空気が変わった。
ホール全体がその音に引き込まれていく。
私も気づけば息を止めて聴いていた。
さっきのことなんて、もうどうでもよくなっていた。
ただ、音が胸に届いてくるのを感じていた。
――すごい。
素直にそう思った。
演奏が終わる頃には、私はすっかりその世界に浸っていた。
隣に誰がいるとか、何を言われたとか、全部忘れて。
拍手が鳴り響く。
私も手を叩いた。
心から。
※※※
帰り道。
夜の空気が少しだけ涼しくなっていた。
高橋くんとひよりちゃんが、演奏会の余韻に浸りながら楽しそうに話している。
「トランペットの人、めっちゃ上手かったよね」
「映画で聴いたことあるかも」
そんな会話が、歩く足音に混ざって流れていく。
私は自然に口を開いていた。
「お姉さん、かっこよかったねー。ソロ、すごかった」
音がまだ胸の奥に残っていて、その響きの中で話すのがなんだか心地よかった。
ゴエモンが少しだけ歩幅を落として、私の隣に並ぶ。
それから、ためらうように言った。
「……さっき、なんか変なこと言ったかも。怒らせたなら、ごめん」
一瞬、何のこと?と思って――
それから、ふっと思い出した。
「ダサいあだ名」……そう言われたんだった。
勝手に傷ついて、勝手に悲しくなって。
でも演奏を聴いたら、そんなことすっかり忘れていた。
本当は、私の中だけの話。
ゴエモンは何も悪くない。
それなのに、気にして謝ってくれるなんて。
その顔を見ていたら、自然に言葉がこぼれた。
「私、ゴエモン好きなの」
言った瞬間、自分でもびっくりした。
……え? 今のってどういう意味?
私、何を言ってるの?
慌てて、言い訳みたいに続けた。
「昔から、ルパン三世が好きでね。その中でも石川五右衛門が一番好きなの。あの無口で真っ直ぐな感じが、なんかいいなって」
少しだけ視線をそらした。
照れ隠しのつもりだったけれど、ゴエモンは黙って聞いてくれていた。
その静けさが、なんだか心地よかった。
「だから、ゴエモンってあだ名も気に入ってたのに……ダサいあだ名とか言われたから、ちょっとだけ怒っちゃった」
そう言いながら、少し胸が痛んだ。
ゴエモンのせいじゃないのに、責めるような言い方になってしまって、後悔した。
「でも、お姉さんの演奏とか聞いてたら、どうでもよくなっちゃった。なんか、全部がすごくよかったから」
あの音が、全部を包んでくれた。
今はただ、こうして話せていることが嬉しかった。
ゴエモンが言った。
「……ごめん。山口の好きなもの、バカにしたみたいになって。そんなつもりじゃなかったんだけど……本当に、ごめん」
その声が、少しだけ真剣で、少しだけ優しかった。
私は「ううん」と首を振って前を向いた。
でも、胸の奥がじんわりと熱くなった。
誠実に謝ってくれる彼の姿に、心が動いた。
そのまま歩きながら、彼の気配を感じていた。
さっきより少しだけ、近くなった気がした。
少し歩いてから、ゴエモンがぽつりと口を開いた。
「……さっきはあんなふうに言ったけど、ゴエモンってあだ名、嫌いじゃないんだ」
私は彼の方を見た。
その言葉が嬉しかった。
「高橋に『ルパンの五右衛門の方だろ』って言われてさ。なんか、余計にしっくりきたっていうか……」
夜風が少しだけ吹いた。
彼の声が届いてくる。
「昔からよく棒を振り回して遊んでたし。斬鉄剣ごっことか、意味もわかんないままやってた。たぶん、あの頃から好きだったんだと思う。五右衛門のことも、このあだ名も」
私はふっと笑った。
なんだか全部がつながった気がした。
「覚えてないけど……自分で『呼んで』って言い出したのも、本当なんだろうなって。今ならそう思える」
言いながら、少しだけ胸があたたかくなった。
歩きながら、私はぽつりと言った。
「もうすぐ二学期だね」
彼がうなずくのを見て、ふと席替えのことを思い出す。
また隣の席になれたらいいな――
そう思ったら、自然に言葉がこぼれた。
「また隣の席になれたらいいね」
彼が驚いたようにこちらを見た。
その顔を見て、少しだけ嬉しくなった。
……それだけで、夏が終わってもいいと思った。
長かった夏休みが、静かに終わろうとしていた。




