第7話:隣の演奏会
ロビーの隅。
ゴエモンの試合を見たばかりで、胸の奥がまだざわついていた。
シュートを決めた瞬間の笑顔。コートに立つ背中。その全部が、頭の中でぐるぐる回っている。
「……なんか、吹っ切れたかも」
私がそう言うと、ひよりちゃんが顔を向ける。
「吹っ切れた?」
「うん。アヤカちゃんや一年生にどう思われようと、もういいやって。私は、自分が楽しむために演奏する。それだけで、十分だなって思った」
言葉にしてみると、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
ひよりちゃんは、少しだけ笑って言った。
「どう思われようと、ね」
その言い方が、どこか含みを持っていて、何かを続けようとしていた――そのとき。
「ゴエモン、試合出れていいなー」
その言葉に、私は思わず顔を上げる。
ひよりちゃんも、同時にそちらに目を向けた。
ロビーの反対側で、バスケ部の一年生たちが話している。
その会話の中に、ゴエモンの名前が混ざっていた。
「なんか、大荷物持って張り切ってるの先生が見て、“やる気あるんなら”って出してくれたらしいよ」
「結局、2年だからでしょ? 始めたの俺たちと一緒で、練習も一緒だったのに、2年ってだけで試合出れるんだよ」
その言葉に、胸がきゅっと痛んだ。
でも、次の言葉がその痛みをかき消すように響いた。
「でも、ゴエモン上手かったよ。2年だからじゃなくて、ちゃんと実力で出たんだと思う」
「……佐伯がゴエモン褒めるなんて珍しいじゃん」
「いや、ほんとに。動きキレてたし、声も出てたし。練習でも、そういうとこ先生ちゃんと見てたんだろ。だから、試合に出たんだと思う」
「まあ、言われてみればそうかな……」
本気で妬んでたわけじゃないらしい。
その空気が少しだけ落ち着いたところで、次の声が続いた。
「でもこれから、ゴエモン2年の方に練習行っちゃうかもね」
「……それはちょっと、さみしいかも」
佐伯って子がそう言った瞬間、会話がふっと静かになった。
そのまま、3人は言葉を交わさずにロビーを通り過ぎていった。
「ゴエモンって、一年生に慕われてるんだね」
私がそう言うと、ひよりちゃんが少しだけ首をかしげた。
「そう聞こえた?」
「え?」
「さっきの子達、ゴエモンのこと慕ってるように見えた?」
私は、少しだけ考えてから答えた。
「……そりゃそうだよ。佐伯って子なんて特に。最後、ちゃんと庇ってたし。“実力で出たんだと思う”って、あれ、すごく素直だった」
ひよりちゃんは、私の顔をじっと見て、少しだけ間を置いて言った。
「……アヤカちゃんも、同じだよ」
その言葉に、胸の奥がふっと鳴った。
「え……?」
「マミは、“どう思われてもいい”って言ってたけど、アヤカちゃんも、さっきの子たちと同じで――マミのこと、ちゃんと見てるよ。尊敬してるし、慕ってるって思う」
私は、言葉が出なかった。
「その気持ちは、わかるよね?あの子、悔しいって言いながら、“実力だ”って言ってたんだよ? それって、めっちゃちゃんとしてるじゃん」
ひよりちゃんの声は、いつもより静かで、でも強かった。
私は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
嫌われてるって、勝手に思い込んでた。
だから、「どう思われてもいい」なんて言って、自分を守った。
でも、それはただの逃げだった。
アヤカちゃんの本当の気持ちに、気づこうとしてなかった。
私は、少しだけうなずいた。
「……うん。そうだよね」
その言葉に、ひよりちゃんがにこっと笑った。
「そうそう。マミは、そういうとこ、ちゃんとしてるから」
ロビーの空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
演奏会まで、あと少し。
でも、もう迷ってはいなかった。
私は、自分の音を――自分のために、ちゃんと響かせたいと思った。
※※※
ステージ裏。
本番直前の空気が張りつめていて、みんな静かに準備をしていた。
楽器を持って、譜面を確認して、深呼吸をして――音は出さずに、ただ気持ちを整えている。
私も、アルトサックスのリードをそっと指でなぞりながら、胸の奥がざわついていた。
代表として吹くこと。
それよりも――アヤカちゃんのことが、頭から離れなかった。
ずっと誤解してた。気づこうとしてなかった。
でも、今ならちゃんと向き合える気がする。
ふと、視線を上げると、アヤカちゃんと目が合った。
彼女も、楽器を持ったまま、こちらを見ていた。
お互い何かを言おうとして、口が少しだけ動いた――その瞬間。
ステージから、サックスの音が響いてきた。
地元の社会人楽団の演奏。その中で、ひときわ跳ねるソロ。
音が、空気を変えた。柔らかくて、力強くて、まっすぐで。
私は、思わずステージ脇へと歩き出していた。
音に引かれるように、そっと覗き込む。
サックスの人は、目を閉じて吹いていた。
誰かに見せるためじゃなくて、ただ音を楽しんでいるように見えた。
その姿に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
横を見ると、アヤカちゃんも同じようにステージを見ていた。
目がまっすぐ音に向いていて、少しだけ口元がゆるんでいた。
音に引き込まれてるのが、見てすぐにわかった。
私と同じだ――そう思った瞬間、目が合った。
彼女は、少しだけ笑っていた。
私も、自然に笑い返す。
「……今日は、楽しもうね」
そう言うと、アヤカちゃんが少しだけうなずいて、静かに答えた。
「はい。全力で」
その声は、音よりも静かだった。
でも、その言葉は、ちゃんと私の胸に届いていた。
※※※
ステージに出て、譜面台の前に立つ。
照明が少しまぶしくて、客席の空気が遠くに感じる。
深呼吸をひとつ。胸の奥が、静かに鳴っている。
ふと、視線を客席に向ける。
前列の中央――まっすぐ目が届く場所に、ゴエモンの姿があった。
一瞬、息が止まった。
本当に来てくれた。
それだけで、体の力が抜けていくのがわかった。
私は、自然に口元がゆるんだ。
彼は、じっとこちらを見ていた。
目が合った気がした。その瞬間、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
先生の合図。演奏が始まる。
音が跳ねる。流れる。重なる。
その中に、自分の“楽しさ”を込めた。
誰かに見せるためじゃなくて、誰かに届けるためでもなくて、
ただ、自分が楽しいと思える音を。
それが、ちゃんと響いている気がした。
曲の中盤。代表パートの入りが近づく。
先生の合図で、前に出る。
譜面台の位置が少し変わって、空気が張りつめる。
ひとりで立つ。
でも、怖くはなかった。
音を出す。柔らかくて、力強くて、まっすぐで。
今の私が、今の気持ちで吹いている音。
最後の音が終わった瞬間、拍手が響いた。
その音が、空気を揺らす。
たくさんの手の音が重なって、ホール全体が少しだけ跳ねた。
私は、譜面台を見つめたまま、深呼吸をひとつ。
音が、ちゃんと出せたことだけを確かめていた。
客席の方は、まだ見られなかった。
誰かの顔を探すよりも、今は自分の音の余韻に浸っていたかった。
※※※
演奏会が終わって、少し時間が経っていた。
ホールの熱は落ち着いて、空気が静かに戻ってきていた。
私は、ロビーの隅で水を飲みながら、さっきの音を、胸の奥でゆっくり反芻していた。
ちゃんと吹けた。
代表としての責任も、音の流れも、全部が自分の中で繋がっていた。
誰かに見せるためじゃなくて、誰かに届けるためでもなくて、
ただ、自分が楽しいと思える音を。
それが、ちゃんと響いていた気がする。
拍手の音も、客席の空気も、全部が“届いていた”って教えてくれた。
今なら、胸を張って言える。
私は、自分の音を――自分のために、ちゃんと響かせた。
ふと視線を上げる。
その先に、ゴエモンの姿が見えた。
一瞬、胸の奥がふっと鳴った。
自分でも驚くくらい、嬉しかった。
気づいたら、彼の方へ歩き出していた。
「ゴエモン、来てくれたんだ。ありがとう」
その言葉が、思ったより静かに口からこぼれた。
でも、ちゃんと届いていた。
彼は、少しだけ視線を逸らしながら言った。
「……来れたから、来た」
その言い方が、ちょっと照れ隠しみたいで。
でも、それがなんだか可愛く思えて、私は言った。
「なにそれー。ゴエモンって、そういう言い方するんだ」
思わず出たその言葉に、ふっと笑ってしまった。
少しだけ沈黙があって――
その時、初めて気づいた。
ゴエモンの隣に、誰かが立っている。
「……あれ?その人」
その瞬間、記憶がよみがえる。
サックスケース。肩のストラップ。さっきの演奏。目を閉じて吹いていた、あの人。
ゴエモンが言う。
「うちの、姉ちゃん」
その言葉で、全部が繋がった。
「えっ……ええ!?ゴエ…石川くんのお姉さん!?」
思わず声が跳ねた。
「さっきの楽団の人ですよね!? サックス、すっごくかっこよかったです! 音がすごく伸びてて、ソロのところとか鳥肌立ちました!」
彼女は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「ありがと。あんたも吹奏楽部なんだっけ?」
「はい!同じサックスです! あんなふうに吹けたらいいなって、ほんと憧れます!」
「そっか〜。じゃあ、これからも頑張ってね。音って、気持ちが乗ると全然違うから」
「はいっ!」
彼女はゴエモンの顔をちらっと見て、ニヤリと笑った。
「……じゃ、私は先に帰るね」
そう言って、彼の肩をぽんと叩く。
彼女は、何も言わずに歩き出した。
数歩進んだところで、振り返らずに片手をひらひらと振る。
私とゴエモン、二人だけが残っていた。
彼の手元に、何かが見えた。
花束だった。
包み紙の色が柔らかくて、リボンが少しだけ揺れていた。
「それ……花束?」
「……うん。姉ちゃんに騙されてさ。演奏会って花束持ってくのがマナーだって言われて……」
「えっ、そうなの?」
「いや、それは嘘だったんだけど…でも……」
彼は少しだけ視線を落として、何かを考えているようだった。
「さっきの演奏、ほんとに良かった。音が、なんていうか……山口の“楽しい”が全部詰まってる感じで。聴いてて、胸が熱くなった」
一瞬、息が止まった気がした。
それはまさに、今いちばん欲しかった言葉だった。
音が伝わっていた。
そのことが、信じられないくらい嬉しくて――
「……ありがとう。そんなふうに言ってもらえるの、すごく嬉しい」
彼が、そっと花束を差し出す。
私は、少し驚きながらも、丁寧に受け取った。
「こんなのもらったの初めて。大事にするね」
その瞬間、彼が少しだけ照れたように笑った。
その笑顔に、胸の奥がふっと鳴った。
今なら言えるかもしれない――そう思って、スマホを取り出した。
「ねえ、LINEやってる?」
声が、少しだけ震えていた。
「……うん」
「よかったら、交換しよ?」
彼がうなずいて、スマホを取り出す。
自分のスマホに、ゴエモンの名前が並んだ瞬間――
さっきの勇気が、ちゃんと報われた気がした。
※※※
夜、自宅。
リビングに入ると、従兄弟のタケルくんがソファに座っていた。
「マミ、おかえり。演奏、良かったよ。代表パート、ちゃんと響いてた」
「……ありがと」
「社会人楽団の人達もすごかったね。特にあのサックスの……」
そう言いかけたところで、タケルくんの声が止まった。
「……え、それ、花束?」
私は、手に持っていた包みをそっと持ち直す。
「チューリップって……え、誰にもらったの?演奏会で?男子?知ってる人?」
「……うん、まあ、ちょっとね」
「ちょっとって何?誰?え、まさか……」
「タケルくん、うるさい」
慌てて部屋に入って、扉を閉めた。
机に花束を置いて、スマホを手に取る。
――チューリップって、そんなに驚く花だったっけ?
気づいたら、検索窓に指が動いていた。
「チューリップ 花束 意味」
画面にはチューリップの花言葉が並んでいた。
「思いやり」「誠実な愛」「愛の告白」
その瞬間、胸の奥がふっと鳴った。
ゴエモンが、そんな意味まで考えてくれたとは思ってない。
でも、もし――ほんの少しでも、そんな気持ちが込められてたなら。
そう思ってしまうくらいには、嬉しかった。




