↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋は隣の席から  作者: 水無月菜乃花
山口編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/54

第1話:隣の空席

「あれ、あそこにいるのって……」


アルトサックスのリードが、わずかに震えた。


音楽室の窓から見える、体育館の裏手。午後の柔らかな光の中、誰かが必死に動いているのが見える。


私は譜面から目を離し、吸い寄せられるようにそちらへ視線を向けた。


「山口さん、集中して」


顧問の先生の声が、音よりも鋭く響く。私は慌てて姿勢を正し、譜面台に目を戻した。


「すみません……」


サックスの音が少しだけ揺れる。


でも、窓の向こうでボールを追う彼の姿が、網膜に焼き付いて離れなかった。


「マミ、どうしたの?」


隣の席のひよりちゃんが、心配そうにそっと声をかけてくる。


「ううん、なんでもないよ」


そう言いながら、私はもう一度だけ窓の外を盗み見た。


誰かが、ひとりでバスケットボールをしている。


「……やっぱり、ゴエモンだ」


ボールを追い、汗を流すその後ろ姿を見た瞬間、胸の奥がふっと鳴った気がした。


石川洋平。同じクラスの男子。みんなからは“ゴエモン”と呼ばれている。


私の初恋の人。


※※※


小学校に上がる前の夏休み。親戚の家に遊びに行っていた私は、地元の子供会のキャンプに参加した。


説明会のとき、私はある男の子の隣に座った。その子は少し前のめりになって、退屈そうに床を眺めていた。


知らない子ばかりで緊張していたけれど、その子がふと顔を上げて、私にふわっと笑いかけてくれた。その笑顔だけで、張り詰めていた心が少しだけほどけた気がした。


すぐに仲良くなって、自由時間はいつも一緒にいた。


その子は木の棒を剣のように振り回して、「必殺技ー!」と叫びながら走り回る、元気な子だった。


けれど、途中で大きな犬が近づいてきたとき。


その子は棒を握ったまま、真っ先に私の隣に駆け寄ってきてくれた。私の前に立って、必死に踏ん張っていたけれど……怖さに耐えきれず、結局泣いてしまった。


すぐに大人が来て、犬を追い払ってくれた。


その子は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「ごめんね」と言った。


でも、私には彼が誰よりもかっこいいヒーローに見えた。


怖くても、逃げずに私の隣に来てくれた。私のために踏ん張ってくれた。


だから、私は言ったんだ。


「五右衛門みたいで、かっこよかったよ」


「……ごえもん?」


「うん。私の好きなアニメに出てくる石川五右衛門。刀で戦って、すごくかっこいいんだよ」


その子は涙をぬぐいながら、不思議そうに呟いた。


「……僕、石川だよ」


私は、思わず声を弾ませた。


「……じゃあ、本物の五右衛門だね」


その子は目を丸くして、それから照れくさそうに、静かに頷いた。


私の住んでいた家は別の校区だったから、小学校に上がっても彼に会うことはなかった。


けれど小3の時、町民体育館で「ゴエモン」と呼ばれている子を見かけて、すぐに分かった。


あの夏の日。犬に吠えられて泣きながらも、私の隣で踏ん張ってくれた、あの子だ。


あの日から、私の心の中にずっと居座り続けている男の子。

挿絵(By みてみん)

※※※


翌日の昼休み。


教室の空気はざわざわとしていて、でも私はその喧騒から少しだけ浮いているような気分だった。


ゴエモンが、机に突っ伏している。


肩をかばうような不自然な姿勢。昨日の練習のせいだろうか。体育館の裏で、たったひとりでボールを追いかけていた彼の姿が、鮮明に思い出される。


私は教室の後ろから、そっと歩き出した。


足が少しだけ重い。心臓の音がうるさい。でも、今ここで止まったら、もう二度と話しかけられない気がして、無理やり足を前に進めた。


「ゴエモン、何やってんの?」


声が、思ったより大きくて、少しだけ跳ねた。


彼が顔を上げる。目が合う。その瞬間、心臓が一回だけ、強く跳ねた。


「……体中が痛くて」


ぶっきらぼうな返事。でも、ちゃんと返してくれた。


私は彼の隣の空いた席に、すっと腰を下ろした。座るまでのわずかな沈黙が、自分でも恥ずかしいくらいに長く感じた。


机と机の間に、静かな空気が流れる。


私は小さく息を吸って、思いきって声を出した。


「そりゃそうだよ。昨日、あんなに1人で練習してたんだもん」


彼が驚いたように、勢いよく顔を上げた。


「えっ……見てたの?」


その反応に、また胸が小さく鳴った。


どう返せばいいのか分からなくて、口元が微かに動く。それがちゃんと笑顔になっていたか、自分では自信がない。


ゴエモンが少しだけ視線を逸らしながら、照れ隠しのように言った。


「いや、まあ……下手だから。ちょっと自主練でもしようかなって」


その言葉を聞いた瞬間、反射的に言葉がこぼれた。


「えー? そんな風に見えなかったけどな。すごく上手だったよ、ゴエモン」


言った直後、少しだけ後悔した。褒めるつもりだったけれど、変な言い方になっちゃったかも。


でも、彼の顔がほんのり赤くなった気がして、それ以上は言葉にならなかった。


少しの沈黙の後、私は思い切って聞いてみた。


「ゴエモンって、バスケ部だったっけ?」


彼は机に突っ伏したまま、顔だけこちらに向けて答えた。


「うん。2年になってから入ったんだ。今流行ってるアニメ見て、やりたくなってさ。ミーハーでしょ?」


そう言って、少しだけ笑った。


「だから、まだ始めたばっかのにわかバスケ部だよ」


その瞬間、私はすぐに気づいた。


でも、理由を聞くことはしなかった。ただ、彼の言葉を受け止めながら思った。


力になりたい──そう思った。


恋は、隣の席から再び動き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。