第1話:隣の空席
「あれ、あそこにいるのって……」
アルトサックスのリードが、わずかに震えた。
音楽室の窓から見える、体育館の裏手。午後の柔らかな光の中、誰かが必死に動いているのが見える。
私は譜面から目を離し、吸い寄せられるようにそちらへ視線を向けた。
「山口さん、集中して」
顧問の先生の声が、音よりも鋭く響く。私は慌てて姿勢を正し、譜面台に目を戻した。
「すみません……」
サックスの音が少しだけ揺れる。
でも、窓の向こうでボールを追う彼の姿が、網膜に焼き付いて離れなかった。
「マミ、どうしたの?」
隣の席のひよりちゃんが、心配そうにそっと声をかけてくる。
「ううん、なんでもないよ」
そう言いながら、私はもう一度だけ窓の外を盗み見た。
誰かが、ひとりでバスケットボールをしている。
「……やっぱり、ゴエモンだ」
ボールを追い、汗を流すその後ろ姿を見た瞬間、胸の奥がふっと鳴った気がした。
石川洋平。同じクラスの男子。みんなからは“ゴエモン”と呼ばれている。
私の初恋の人。
※※※
小学校に上がる前の夏休み。親戚の家に遊びに行っていた私は、地元の子供会のキャンプに参加した。
説明会のとき、私はある男の子の隣に座った。その子は少し前のめりになって、退屈そうに床を眺めていた。
知らない子ばかりで緊張していたけれど、その子がふと顔を上げて、私にふわっと笑いかけてくれた。その笑顔だけで、張り詰めていた心が少しだけほどけた気がした。
すぐに仲良くなって、自由時間はいつも一緒にいた。
その子は木の棒を剣のように振り回して、「必殺技ー!」と叫びながら走り回る、元気な子だった。
けれど、途中で大きな犬が近づいてきたとき。
その子は棒を握ったまま、真っ先に私の隣に駆け寄ってきてくれた。私の前に立って、必死に踏ん張っていたけれど……怖さに耐えきれず、結局泣いてしまった。
すぐに大人が来て、犬を追い払ってくれた。
その子は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「ごめんね」と言った。
でも、私には彼が誰よりもかっこいいヒーローに見えた。
怖くても、逃げずに私の隣に来てくれた。私のために踏ん張ってくれた。
だから、私は言ったんだ。
「五右衛門みたいで、かっこよかったよ」
「……ごえもん?」
「うん。私の好きなアニメに出てくる石川五右衛門。刀で戦って、すごくかっこいいんだよ」
その子は涙をぬぐいながら、不思議そうに呟いた。
「……僕、石川だよ」
私は、思わず声を弾ませた。
「……じゃあ、本物の五右衛門だね」
その子は目を丸くして、それから照れくさそうに、静かに頷いた。
私の住んでいた家は別の校区だったから、小学校に上がっても彼に会うことはなかった。
けれど小3の時、町民体育館で「ゴエモン」と呼ばれている子を見かけて、すぐに分かった。
あの夏の日。犬に吠えられて泣きながらも、私の隣で踏ん張ってくれた、あの子だ。
あの日から、私の心の中にずっと居座り続けている男の子。
※※※
翌日の昼休み。
教室の空気はざわざわとしていて、でも私はその喧騒から少しだけ浮いているような気分だった。
ゴエモンが、机に突っ伏している。
肩をかばうような不自然な姿勢。昨日の練習のせいだろうか。体育館の裏で、たったひとりでボールを追いかけていた彼の姿が、鮮明に思い出される。
私は教室の後ろから、そっと歩き出した。
足が少しだけ重い。心臓の音がうるさい。でも、今ここで止まったら、もう二度と話しかけられない気がして、無理やり足を前に進めた。
「ゴエモン、何やってんの?」
声が、思ったより大きくて、少しだけ跳ねた。
彼が顔を上げる。目が合う。その瞬間、心臓が一回だけ、強く跳ねた。
「……体中が痛くて」
ぶっきらぼうな返事。でも、ちゃんと返してくれた。
私は彼の隣の空いた席に、すっと腰を下ろした。座るまでのわずかな沈黙が、自分でも恥ずかしいくらいに長く感じた。
机と机の間に、静かな空気が流れる。
私は小さく息を吸って、思いきって声を出した。
「そりゃそうだよ。昨日、あんなに1人で練習してたんだもん」
彼が驚いたように、勢いよく顔を上げた。
「えっ……見てたの?」
その反応に、また胸が小さく鳴った。
どう返せばいいのか分からなくて、口元が微かに動く。それがちゃんと笑顔になっていたか、自分では自信がない。
ゴエモンが少しだけ視線を逸らしながら、照れ隠しのように言った。
「いや、まあ……下手だから。ちょっと自主練でもしようかなって」
その言葉を聞いた瞬間、反射的に言葉がこぼれた。
「えー? そんな風に見えなかったけどな。すごく上手だったよ、ゴエモン」
言った直後、少しだけ後悔した。褒めるつもりだったけれど、変な言い方になっちゃったかも。
でも、彼の顔がほんのり赤くなった気がして、それ以上は言葉にならなかった。
少しの沈黙の後、私は思い切って聞いてみた。
「ゴエモンって、バスケ部だったっけ?」
彼は机に突っ伏したまま、顔だけこちらに向けて答えた。
「うん。2年になってから入ったんだ。今流行ってるアニメ見て、やりたくなってさ。ミーハーでしょ?」
そう言って、少しだけ笑った。
「だから、まだ始めたばっかのにわかバスケ部だよ」
その瞬間、私はすぐに気づいた。
でも、理由を聞くことはしなかった。ただ、彼の言葉を受け止めながら思った。
力になりたい──そう思った。
恋は、隣の席から再び動き出した。




