第26話(最終話):隣の未来
小学校に上がる前の夏休み。俺は子供会のキャンプに参加した。
一緒に行った高橋とは班が分かれ、ボランティアスタッフとして来ていた姉は忙しそうで、俺の相手はしてくれなかった。
最初の説明会の時点で、俺はすでに「つまんないな」と退屈していた。
そのとき、俺の隣に一人の女の子が座った。まるでそこに座ることが最初から決まっていたみたいに、迷いのない足取りで。
髪は短くて、表情は少しだけ緊張していたけれど――目が合った瞬間、彼女はふわっと笑った。
すぐに仲良くなって、自由時間はずっと一緒に遊んだ。俺は木の棒を振り回して、「必殺技ー!」とか叫びながら、意味もなく走り回っていた。
ふと、彼女の視線が俺の背後に向いた。その目が、驚きに微かに見開かれる。
振り返ると――そこには、一匹の犬がいた。
一瞬、足がすくみそうになった。けれど俺は木の棒を握りしめ、女の子の隣に駆け寄った。
怖かった。足だって震えていた。でも――逃げなかった。
守らなきゃ、と思って、彼女の隣で必死に踏ん張った。
……それでも、怖さに耐えきれず涙がこぼれた。声が震えて、情けなく泣いてしまった。
その瞬間、姉ちゃんが駆けつけて、俺たちの前に立ちはだかった。
制服の裾を揺らし、犬の前に凛として立つ。そして、静かに言った。
「この子に吠えないでくれる?」
姉の声が静かに響いた。
犬はしばらくじっと姉を見つめていたが――やがて鼻を鳴らして、くるりと向きを変えた。
そのまま、ゆっくりと遠ざかっていく。地面に残った足音だけが、しばらく耳に残っていた。
俺は泣きながら、隣の女の子に「ごめんね」と言った。
すると、その子が笑って言ったんだ。
「五右衛門みたいで、かっこよかったよ」
「……ごえもん?」
「うん。私の好きなアニメに出てくる石川五右衛門。刀で戦って、すごくかっこいいんだよ」
俺は涙をぬぐいながら、答えた。
「……僕、石川だよ」
その瞬間、女の子がぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、本物の五右衛門だね!」
その笑顔がなんだかすごく嬉しくて、俺はすぐに泣き止んだ。
それ以来、俺は周りに「ゴエモンって呼んで」と言うようになった。
あの子が言っていたアニメもチェックするようになったし、棒遊びもいつの間にか「斬鉄剣ごっこ」と呼ぶようになっていた。
まるで、あの子から新しい名前をもらったみたいで、誇らしかったんだ。
「かっこいいサムライ」のつもりだったのに、姉ちゃんに「泥棒になりたいの?」と言われて、真剣に怒ったこともある。
小学校に上がってしばらくする頃には、“ゴエモン”というあだ名はすっかり定着していた。
でも――。
※※※
「その子は、キャンプ以降、どこにもいなかったんだ」
俺は静かに、今の山口に語りかけた。
「同じ小学校にもいなかったし、町内の行事にも出てこなかった。名前も聞いてなかったから、探すこともできなかったんだ」
山口は少しだけ目を伏せてから、顔を上げた。
「ゴエモン、北小でしょ? 私、南小だったから」
「え?」
「キャンプは、北小の校区にある親戚の家に遊びに来ていた時に、『せっかくだから一緒に行こう』って誘われて参加したの」
俺は思わず息を呑んだ。
「じゃあ……あの時だけだったのか?」
山口は、ふっと笑って頷いた。
「うん、あの夏休みだけ。でも、すごく楽しかったから、ずっと覚えていたよ」
その笑顔は、懐かしさと愛おしさが混ざったような、どこか誇らしげな表情だった。
俺は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、もう一度、山口の顔を見つめた。
山口は少しだけ空を見上げるようにして言った。
「小学3年生のとき、町民体育館で『ゴエモン』って呼ばれている子を見かけたの。ミニバスの練習をしていて、すぐにわかったよ。あの時の子だって」
「犬に吠えられて泣いていたけど、私の隣で踏ん張ってくれた、あの子だって」
「……あの時から、ずっと好きだったから」
俺は静かに息を呑み、そして言った。
「……じゃあ、俺たちの初恋は、あのキャンプの隣の席から始まっていたんだな」
山口は、ふふっと笑った。
その笑顔を見て、俺は続けた。
「これからも、ずっと隣にいてほしい。俺、隣に山口がいると、ちょっと強くなれる気がするんだ」
それを聞いた山口は、どこか照れくさそうで、でも、最高に幸せそうに笑った。
「……うん。隣、空けておいてね」
午後の光が、静かに揺れていた。
昔の記憶と、これからの時間が、ゆっくりと重なっていく。




