第25話:隣の告白
コートの中で話している二人は、どこから見てもお似合いだった。
笑い合うタイミングも、交わす視線も、絶妙な距離感も――全部が自然で、全部が綺麗だった。
そこには、俺が入り込める隙間なんてどこにもなかった。
山口の笑顔は、渡辺に向いている。俺がずっと見たかったその表情は、俺のものではなかった。
……また、渡辺に負けたんだ。
足が、ゆっくりとコートの外へ向く。何も言わずに、何も残さずに、ただこの場から消えてしまおうとした。
でも――その時だった。
「好きなことって、勝てなくても続けるもんだよ」
山口の声が、頭の中でよみがえった。あの日、俺が「勝てるわけない」と弱音を吐いたとき、彼女が静かに言ってくれた言葉。
勝ちたいからじゃない。付き合いたいからでもない。
ただ、伝えたい。この気持ちを、ちゃんと言葉にして、届けたいんだ。
俺は立ち止まった。深く息を吸い込み、もう一度コートの方へ歩き出した。
午後の光が、フェンスの影を長く伸ばしている。その先にいる二人の姿が、少しずつ近づいてくる。
今度こそ――ちゃんと、向き合うために。
渡辺が俺の動きに気づき、こちらへ向かって歩いてきた。山口が、ほんの一瞬だけ渡辺の袖に手を伸ばしかける。
けれど渡辺はそれに気づいて、軽く首を振るだけで歩みを止めなかった。山口は少し離れた場所、フェンスの端の方に立ち止まった。
距離にすれば、わずか数メートル。でも、その距離が今の俺には果てしなく遠く感じられた。
渡辺が俺の前に立ちはだかる。
「……なんか用?」
いつも通り静かな声だったが、そこには確かな圧があった。
俺は喉を震わせながら、どうにか言葉を絞り出す。
「山口に、話があるんだ」
渡辺はちらりと山口の方を見た。彼女は心配そうな表情で、こちらを見つめている。
渡辺が少しだけ眉をひそめた。
「今、俺と話してるんだけど。後にしてくれない?」
その一言に、一瞬だけ足がすくみそうになった。心臓が、冷たく沈む。
でも――俺は、踏み出した。
「……番号順だ」
「は?」
渡辺が怪訝そうに顔をしかめる。
「出席番号順だろ! こういう時は出席番号順にするべきなんだ。俺は石川、お前は渡辺。俺の方が先なんだよ!」
渡辺は呆れたように吐き捨てた。
「……なんだそれ。意味わかんねえよ」
俺は深く、深く息を吸い、胸の奥に溜まった言葉をすべてぶつけた。
「俺は顔も、頭も、運動も――お前には何一つ勝てない。でも、出席番号と……!」
渡辺の鋭い視線が刺さる。俺は拳を握りしめ、一度だけ息を止めた。
「山口を好きな気持ちだけは、絶対に誰にも負けない!」
声は震えていた。情けないくらいに。でも、ちゃんと届くように、まっすぐに叫んだ。
渡辺は、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、少し離れた場所にいる山口がこちらを見ていた。
目元がほんのりと滲んでいる。それでも彼女は、笑っていた。
その笑顔はまっすぐで、どこか誇らしげだった。
午後の光がフェンスの影を静かに揺らす中、俺の言葉だけがはっきりと響き渡る。
すると渡辺は、ふっと笑った。
その笑顔には、どこか安心したような柔らかさがあった。
まるで、最初から答えを知っていたかのように。
「……マミも、同じようなこと言ってたよ」
「え?」
思わず顔を上げる。渡辺は少しだけ口角を上げて続けた。
「さっきからずっと、お前のことばっかり話してる。すごく嬉しそうにさ」
俺は、思わず息を呑んだ。
渡辺はフェンスの向こうに立つ山口をちらりと見やってから、静かに言った。
「……俺の従兄弟を、頼んだよ」
そう言って、彼は背を向けた。午後の光の中、フェンスの影を踏みながら、静かに歩いていく。
「……従兄弟?」
え、ちょっと待て。幼馴染じゃなかったのか? というか、今さらそんな重大情報をさらっと出すのか。
遠ざかる渡辺の背中を見つめながら、俺は思った。
……あいつ、カッコよすぎるだろ。人格のレベルが違いすぎる。本当に同じ中学生か? 出席番号でゴリ押しした自分が馬鹿みたいじゃないか。
そんなことを考えていると、足音が近づいてきた。
制服の裾が揺れて、西日の中に山口が現れる。
俺の前に立つと、彼女は少しだけ首をかしげて笑った。
さっき叫んだ自分の言葉を思い出し、顔が一気に熱くなる。
喉が詰まりそうになりながら、俺はなんとか声を振り絞った。
「……聞いてた?」
山口は、ふふっと笑って頷いた。
「聞こえたよ。ちゃんと」
その笑顔は、どこか楽しそうだった。
「すき……焼きのタレ、だっけ?」
俺は一瞬固まり、慌てて笑って誤魔化した。
「いや、あれは予測変換の奇跡っていうか……」
山口は少し笑ってから、言った。
「……あの言葉の意味、ずっと聞きたかったんだ」
その一言で、張り詰めていた緊張がふっとほどけた。
俺は深く息を吸い、改めて言葉を届けた。
「前にさ、ここで一人で練習してた時、山口が見ててくれて――褒めてくれたよね」
「うん。だって本当に上手だったから」
「……あの時から、ずっと好きだった」
「……ありがとう。嬉しい」
山口は少しだけ目を細めて言った。
「でも、私が見ていたのは、もっと前からだよ」
「ミニバスをやってた頃……?」
山口は、首を横に振った。
「違うよ。もっと前」
その言葉に、俺の記憶のパズルがぴたりとはまった。
「……子供会のキャンプ、だよね?」
山口の目がぱっと見開かれる。一瞬だけ息を呑んだように固まり――すぐに、顔がふわっとほころんだ。
「……思い出してくれたんだ。嬉しい」
俺は静かに頷いた。
「この間、写真を見て思い出したんだ。写真の中にいたのは小学生の山口だったけど……」
そのとき、俺の脳裏に浮かんだのは、それよりもさらに前。まだ入学前の、もっと幼い頃の光景だった。
「子供会のキャンプで、俺が犬に吠えられて泣いてたとき――俺の前には、助けてくれた姉ちゃんがいた」
でも、あの時……もう一人。
「……隣にいたのは、山口だったんだね」
山口は何も言わずに、ただ愛おしそうに微笑んだ。
午後の光がフェンスの影を静かに揺らしていた。その中で、遠い日の記憶が、今、優しくほどけていく。




