第24話:隣の思い出
「珍しく早いじゃん。何かあんの?」
キッチンの前を通りかかったとき、姉がパンをかじりながら声をかけてきた。
俺はカバンの中の筆箱をぎゅっと握りしめ、適当に答えた。
「別に。ちょっと早く行きたいだけ」
姉がまだ何か言いかけていた気がするが、最後まで聞かずに家を出た。
今は――手紙のことで頭がいっぱいだった。
筆箱の中には、今朝、震える手で書き直した短い手紙が入っている。
『今日の放課後、体育館横のミニコートに来てください』
これを誰にも見られずに山口の机に入れるには、朝一番で教室に入るしかない。
終業式の日。人が少ない時間を狙って、俺は急ぎ足で学校へ向かった。
教室の扉を開ける。まだ誰もいない。
俺は山口の席へ向かい、そっと筆箱から手紙を取り出すと、机の中へ静かに滑り込ませた。
――その瞬間、ガラッと教室の扉が開いた。
肩が跳ねた。反射的に手を引っ込め、何事もなかったかのように自分の席へ戻る。そのまま机に突っ伏して寝たふりをした。呼吸を整える暇もなく、足音が近づいてくる。
「おはよー」
誰かが何気なく挨拶をして通り過ぎていった。特にこちらを気にする様子もなく、自分の席へ向かっていく。
……セーフだ。
だが、手のひらはじんわりと汗ばんでいた。今の一瞬で、全身の神経を使い果たした気がした。
とにかく手紙は入れた。……あとは、待つだけだ。
しばらくすると、教室の扉が開く音が何度も続いた。一人、また一人と生徒が登校してくる。
「おはよー」
「終業式って短くてラッキーだよな」
そんな声が教室のあちこちで交差する。俺は寝たふりをしたまま、耳だけでその空気を感じていた。
これなら気づかれない。誰が手紙を入れたかなんて、誰にもわからないはずだ。
ざわめきが少し落ち着いた頃、教室の扉がまた静かに開いた。足音が、それまでの誰とも違うテンポで近づいてくる。その空気だけで、誰なのかわかった。
山口だ。
彼女は前の方にある自分の席へ向かいながら、俺の席の前で一瞬だけ足を止めた。顔を覗き込むように、少しだけ身をかがめて言う。
「おはよう。……って、今日はずいぶん早いね?」
その声はいつもより少し近くて、少しだけ笑っていた。
俺はカバンの中の筆箱を握ったまま、しどろもどろに答えた。
「……あ、うん。なんか、ちょっと……その、早く来たくて」
自分でも何を言っているのかわからない。声のトーンもテンポもバラバラだった。それでも、山口の声だけは鮮明に胸に残った。
山口はくすっと笑った。
「今日のゴエモン、なんか変だね」
そう言って、前方の席に腰を下ろした。
俺は視線をそらし、机の上の何もない場所を見つめた。
視界の端で、山口が机の中に手を入れる。
その動きが、ふと止まった。
……見つけた。
山口は手紙を取り出し、じっと見つめた。それから周囲をキョロキョロと見回すと、誰にも見られないようにそっと手紙をしまった。
俺は何も見ていないふりをして、再び机に突っ伏した。
心臓の音が、さっきよりも速くなっていた。
それから放課後まで、俺は一度も山口の方を見ることができなかった。寝たふりをして時が過ぎるのを待ち、話しかけられても気づかないふりをした。
……ただ、心の中ではずっと、山口のことだけを考えていた。
※※※
放課後。
気づけば、終業式もホームルームも終わっていた。
何を話していたのか、誰が何を言っていたのか――全く覚えていない。
ずっと、頭の中はこれからの告白のことでいっぱいだった。
そして今、俺はその場所に向かっている。
体育館横のミニコート。
あの日、そこでひとり黙々と練習していた俺を、山口は見つけてくれた。
「上手だったじゃん」
――その一言で、俺は恋に落ちた。
それから、少しずつ距離が近づいて、いろんな瞬間が積み重なっていった。
席替えで、隣になった日。
授業中、一緒に教科書を覗き込んだ時間。
演奏会の後、花束を渡した瞬間。
地震の夜、電話越しに聞いた声。
マックで、隣に座るように席をポンポンしてくれた手。
「私、ゴエモン好きなの」と冗談めかして言われ、驚いた夜。
姉ちゃんに担がれて、俺の誕生日だと勘違いして焼いてくれたホットケーキの匂い。
文化祭の準備中、二人きりだった教室の空気。
再びバスケに本気になるきっかけをくれた言葉。
キーホルダーを受け取って、「お揃いだね」と言ってくれた声。
その一つ一つが、さらに山口を好きにさせてくれた。
その一つ一つが、俺を成長させてくれた。
だから今日、ちゃんと伝えたい。この気持ちを、言葉にして。
体育館の脇を抜けて、ミニコートが見えてくる。
午後の光が、フェンスの影を静かに地面に落としていた。
その奥に、人影が見えた。
一歩、足を踏み出す。
呼び出した場所に、山口がいた。
制服のまま、フェンスの前に立っている。
いつも以上に嬉しそうな笑顔が、そこにあった。
山口が、ふと視線を動かす。
その笑顔のまま、ほんの少しだけ体の向きが変わった。
足元が、こちらに向き直ったように見えた。
光の中で、表情が柔らかくほどけていく。
そして、その視線の先には――
渡辺がいた。




