第12話:隣のあだ名
ホールの客席。
開演前のざわついた空気の中、俺たち四人は並んで座っていた。
マックを出たあとも、自然と高橋・酒井さんペア、俺・山口ペアの形が出来上がっていて、ここでも俺は山口の隣にいた。
なんとなく落ち着かなくて視線を泳がせていると、高橋もそわそわと周囲を見回し始めた。
「てかさ、今日って何のコンサートなの? バンド? アイドル? グッズとか売ってないの?」
その声に、酒井さんが眉をひそめた。
「え、知らないのになんで来たの?」
酒井さんの声には、冗談とも本気ともつかない温度があった。
高橋が一瞬たじろぐ。
その空気を察して、俺は慌てて口を挟んだ。
「いや、ほら……高橋が前から『聴きたい』って言ってたから、ちょうどいいかなと思って」
「え?」と高橋が首をかしげる。
「うちの姉ちゃんが出るやつだよ。前に一度、姉ちゃんの演奏を聴いてみたいって言ってたじゃん」
「え、あの姉ちゃん? ポテチの? ……アイドルやってんの?」
……台無しだ。
酒井さんが吹き出しそうになり、山口は苦笑い。
俺は静かにため息をついた。
「吹奏楽だよ、社会人楽団のやつ」
「ああ、吹奏楽か。まだ続けてたんだな。そういえば昔から演奏上手かったよな、あの姉ちゃん。怖かったけど」
酒井さんが「え、怖かったの?」と笑い、山口が興味深そうに身を乗り出す。
高橋は懐かしそうに言った。
「昔、子供会のキャンプで一緒だったことがあってさ。ゴエモンが犬に吠えられて泣きそうになってた時、姉ちゃんが助けに来たんだよ」
「……え、それ本当?」
俺は顔をしかめる。正直、記憶が曖昧だ。
「マジだって。姉ちゃん、犬の前に立って『この子に吠えないでくれる?』って言ったんだ。あれ、めっちゃかっこよかったよな」
酒井さんが「え〜なにそれ、ドラマじゃん!」とはしゃぎ、俺は顔をそむける。
「……小一とかだろ。覚えてなくていいから」
高橋はニヤニヤしながら追い討ちをかけてくる。
「いやいや、あれは伝説だって。姉ちゃん、マジでヒーローだったもん」
ポテチの袋を抱えた今の姉を思い出し、俺はそっとため息をついた。
……でも、あの頃から姉ちゃんは「助けてくれる人」だったんだな。
今はからかってばかりの姉だけれど、ほんの少しだけ誇らしい気持ちが胸の奥に残った。
高橋がふと思い出したように続けた。
「そういえばさ、あの頃からだよな? お前が『ゴエモンって呼んで』って言い出したの」
突然の黒歴史暴露に、俺は動揺して言い返した。
「なんでその頃の俺が、大泥棒の石川五右衛門なんて知ってるんだよ」
「そっちじゃなくて、ルパンの五右衛門だろ? 棒を振り回しながら言ってたじゃん、『斬鉄剣で斬るぞ』とか」
さらに刻まれる歴史。
俺はこれ以上、山口に恥ずかしい過去を聞かれまいと必死で誤魔化した。
「……そんなの覚えてないし、どうでもいいし。てか、石川五右衛門なんてダサいあだ名、自分から呼んでなんて言うはずないだろ」
言いながら、山口の方を見た。
絶対笑われている。そう思った。
しかし――。
山口は笑っていなかった。
怒っているような、悲しんでいるような。
どこか寂しげで、瞳が少しだけ遠くを見ているような気がした。
……なんか、悪いこと言ったかも。
俺の言葉が、彼女の何かを傷つけたのかもしれない。
胸の奥がじわっと重くなる。
言葉を探して、山口に声をかけようとした――その瞬間。
予鈴のブザーが鳴った。
場内がすっと静まり、照明が落ちる。
コンサートが始まった。
酒井さんはリズムに合わせて小さく体を揺らし、高橋は演奏者の動きに目を輝かせながら「すげぇ……」とつぶやいている。
山口も音に耳を傾けているようだった。
楽しんでいるようには見える……けれど、さっきの表情が頭から離れない。
聞いてみようか。
でも「怒ってる?」なんて聞いたら、追撃メッセージみたいで逆効果かもしれない。
タイミングを見失ったまま、音だけが静かに流れていく。
そのとき、一層大きな楽器の音が響いた。
姉のソロが始まった。
空気を震わせながら、まっすぐに届いてくる音。
力強くて、どこか優しい。
俺は素直に感動していた。
隣を見ると、山口も同じように聴き入っていた。
目を細めて、音に包まれている。
ふと、姉の言葉を思い出した。
「LINEを送る時は、隣にいるような気持ちで」
実際に隣にいる今なら、聞けるはずだ。
帰りに、ちゃんと話そう。
もし怒らせたなら、ごめんって言おう。
そう決めて、俺は音に身を委ねた。
※※※
帰り道。
高橋と酒井さんは、演奏会の余韻に浸りながら楽しそうに話していた。
「トランペットの人、めっちゃ上手かったよな」
「あの曲、映画で聴いたことあるかも」
そんな会話が、夜の空気に溶けていく。
山口も、俺の方を向いて言った。
「お姉さん、かっこよかったねー。ソロ、すごかった」
その声はいつも通りだった。
さっきの沈んだ表情が嘘みたいに、穏やかで柔らかい。
今なら、聞ける。
俺は少しだけ歩幅を落として、山口の横顔を見ながら言った。
「……さっき、なんか変なこと言ったかも。怒らせたなら、ごめん」
山口は一瞬だけ考えるような顔をして――
それから、ふっと笑った。
「私、ゴエモン好きなの」
その言葉に、俺は思わず立ち止まりそうになった。
頭の中が真っ白になる。
……え? 今、俺のこと好きって言った?
どういうこと? 本気?
心臓が跳ねた。
楽器の音よりも大きく、自分の中で鳴っていた。
そんな俺の様子を見て、山口が笑いながら続けた。
「昔から、ルパン三世が好きでね。その中でも石川五右衛門が一番好きなの。あの無口で真っ直ぐな感じが、なんかいいなって」
俺は黙って聞いていた。
「だから、ゴエモンのあだ名も気に入ってたのに……ダサいとか言われたから、ちょっとだけ怒っちゃった」
山口は照れくさそうに笑った。
「でも、お姉さんの演奏とか聞いてたら、どうでもよくなっちゃった。なんか、全部がすごくよかったから」
胸の奥がじんわりとほどけていくのを感じた。
「……ごめん。山口の好きなものをバカにしたみたいになって。そんなつもりじゃなかったんだけど……本当に、ごめん」
山口は「ううん」と首を振って、また前を向いた。
その横顔が、さっきより少しだけ近く感じた。
少し歩いてから、俺はぽつりと口を開いた。
「……さっきはあんなふうに言ったけど、ゴエモンってあだ名、嫌いじゃないんだ」
山口がこちらを見て、静かに耳を傾けてくれる。
「高橋に『ルパンの五右衛門の方だろ』って言われてさ。なんか、余計にしっくりきたっていうか……」
夜風に吹かれながら、俺は続けた。
「昔からよく棒を振り回して遊んでたし。斬鉄剣ごっことか、意味もわかんないままやってた。たぶん、あの頃から好きだったんだと思う。五右衛門のことも、このあだ名も」
山口は、ふっと笑った。
「覚えてないけど……自分で『呼んで』って言い出したのも、本当なんだろうなって。今ならそう思える」
山口は何も言わず、ただ優しくうなずいた。
歩きながら、山口がぽつりと言った。
「もうすぐ二学期だね」
俺もうなずく。
ふと、席替えのことを思い出した。
また隣の席になれたらいいな――。
そんなことを考えていたら、山口が前を向いたまま言った。
「また隣の席になれたらいいね」
驚いた。
嬉しかった。
それだけで、夏が終わってもいいと思った。
長かった夏休みが、終わろうとしていた。
しばらくして、山口がふと俺の方を見て言った。
「ゴエモン、宿題終わった?」
……まだ、終わらない。




