第65話:湿気を吸い取る虚無の魔穴(と、大気の水分を強制隔離して人間を干からびさせる気圧崩壊デシケーター)
「……エレン、聞こえる? 私の脳内QOL防衛ガイドライン(衛生部門)が、このジメジメした空気のせいで、かつてない非常事態警報を鳴り響かせているわ」
「聞こえるわアリス。というか、共有されている私の大臀筋も、昨日干したはずのハルシオン風シーツ(第47話)が湿気でズッシリ重くなっている事実に、怒りのあまりピクピク痙攣しているわよ。しかも、第32話でお気に入りになったあの傑作娯楽漫画のページが、湿気でヨレヨレになってるじゃない! このままだとカビが生えるわ! これはQOLに対する明確な宣戦布告よ!」
シルバーストーン領の梅雨時。
しとしとと降り続く雨のせいで、没落(元)屋敷の室内は、大浴場の脱衣所も真っ青な湿気に包まれていた。
前世は三十代の理科教師、成瀬健一。
その知識とチート能力を「だらだらと快適に過ごす」ことに特化させてきた双子の姉妹にとって、不快指数80%を超えるジメジメ空間など、一秒たりとも許容できるものではなかった。
「いい、エレン。部屋の湿気を取り除くには、ただ空気を温めるだけじゃダメ。絶対湿度を物理的にハックするのよ。多孔質材料の微細な穴に水分子を閉じ込める『毛管凝縮』を起こすわ。物理化学におけるケルビン式はこうよ」
ln(p/p₀) = 2γVm/rRT
(ここでp/p₀は相対蒸気圧、γは水の表面張力、Vmは分子容、rは細孔半径よ! ゼオライト鉱石(第40話)のナノメートル単位の細孔rを調整して、空気中の水分子(H₂O)だけを物理的・選択的に物理吸着する『ハニカム回転式デシカントローター』をDIYするわよ!)
(さすがアリス、理論はバッチリロックしたわ! だったら、私の『超精密魔力クラフト・一体延伸成形(120,000 rpm)』で、ゼオライトをミクロン単位のハニカム構造に成形して、真鍮の回転円盤にギッチリ敷き詰めてあげる!)
エレンの指先から、バチバチと凄まじい魔力火花が放たれる。
アリスが脳内スパコンで計算した「吸着効率を最大化する空気流路」の3D幾何学設計図に沿って、エレンの指先が、チタン製の超薄型フレームとゼオライトローターを完璧な精度で削り出し、噛み合わせていく。
さらにアリスは、熱力学の吸着・脱着サイクルを構築した。
「エレン、水分を吸ったゼオライトを無限に再生(乾燥)させるために、太陽光温水タワー(第46話)の廃熱を別棟から引き込みなさい! 煙突効果(ドラフト効果)による強制対流熱を利用して、吸着した水分を瞬時に強制蒸発・屋外放出させる『熱力学的再生サイクル』を接続するのよ!」
「了解! 排気ファンはライデン瓶(第35話)の静電力で駆動する超小型静音ファンね! 回路接続、完了!」
一人が「毛管凝縮・界面化学シミュレーター(ソフト)」、一人が「ナノ精度放電カッター&ギヤ組み立て(ハード)」。
双子の超絶同調により、コタツの横には、漆黒の真鍮ドラムがキィィィンと静かに回転し、室内の水分を貪り食う『魔導ロータリー除湿エアコン・ドライスパイダー』が爆誕した。
◇
その頃。
シルバーストーン家の裏庭。
雨に濡れる茂みの中に、漆黒の隠密服を着た女性が潜んでいた。
王都アストレア公爵家の令嬢であり、超エリート特務監察官、イゾルデ・フォン・アストレアである。
「……アルド。貴様、本当に正気なのか?」
イゾルデは、隣に立つ男を冷徹な眼差しで睨みつけた。
そこには、シルバーストーン家から支給された、お気に入りの「おぞましいサウナハット(第51話仕様)」を被り、雨の中でのんきに「掃除用木製ロボ(第36話)」をメンテナンスしている元・超一流隠密アルドの姿があった。
「イゾルデ様、声を落としてください。正気も何も、私は今、人生で最もQOL(生活の質)が高い状態にあります。こちらの温泉とサウナ、そしてビールは、王都のいかなる贅沢をも凌駕する天国……」
「黙れ、哀れなアルド! 完全に洗脳呪術によって脳を初期化(第62話)されているな……! 可哀想に、不気味なフェルトの帽子まで被らされて……。安心しろ、私がその魔王の双子を縛り上げ、貴様を救い出してやる!」
「いや、本当に洗脳されてないんですが……あ、待って、そこは踏んじゃダメです!」
「ふん、敵地に潜入するエリート騎士が、罠に引っかかるはずが――」
カチャ。
イゾルデが足を踏み入れたのは、別棟の窓下。
その瞬間、イゾルデは窓の中から響く、この世の終わりとしか思えない「不気味な作動音」を耳にして、全身の血が凍りついた。
キィィィィィィィィン……。
「な、何だこの、空間を物理的に引きちぎるような超高周波の金属音は……!?」
イゾルデが窓の隙間から中を覗き込む。
薄暗い部屋の中で、怪しげな真鍮の巨大な円盤が凄まじい速度で回転していた。
そして、その機械の下から伸びる不気味な排気管の先から、
「ボタ……ボタボタ……」と、塵や煤が混ざった『ドロドロの茶色い不気味な液体(※ただの除湿された結露水とチリです)』が、粘り気を持って不気味に吐き出されている。
部屋の空気は、不自然なほど密閉され、外のジメジメした雨を拒絶している。
「お、おい……嘘だろ……。奴ら、ついに大気から『概念』を奪い去る兵器を……!」
イゾルデの額から、滝のような冷や汗が噴き出した。
「間違いない……。あの高速回転する真鍮の魔穴は、大気中の水分(魔力を伝達する媒体)を強制的に吸い上げて、部屋全体に『無の領域(真空)』を作り出しているのだ……! そして、あの排気管から吐き出されているドロドロの液体は……あの領域に侵入し、空間の気圧崩壊によって一瞬で体内の水分をすべて吸引・隔離され、ミイラにされた兵士たちの体液に違いない……!!」
ただの「除湿機が吐き出す結露水」なのだが、王都のエリート堅物騎士にとっては、城壁を丸ごと真空にして中の人間を干からびさせる、広域気圧崩壊兵器――『デシケーター・デス・ホール』にしか見えなかった。
「お、恐ろしい……。アルドを操る双子の魔王、世界を乾いた死の大地に変えるつもりか……! だが、私がここで阻止せねば、王国が……ぐっ、胃が痛い……!」
あまりの恐怖と大誤解によるストレスで、イゾルデは胃を痙攣させ、膝をついた。
「イゾルデ様、本当にただの除湿機です。中に入れば分かりますから、さあ」
「無礼者、私をその真空の罠に引きずり込む気か! 離せ、アルド……はぅっ!?」
アルドに半ば強引に背中を押され、イゾルデは別棟のドアを突き破るようにして室内に飛び込んだ。
「死ぬ……! 私の体液が一瞬で吸引され、アストレア家の歴史がミイラで終わる……!」
覚悟を決めて目を閉じたイゾルデ。
しかし。
数秒経っても、皮膚が弾けることも、眼球が飛び出すこともなかった。
「……あれ?」
イゾルデは、そっと目を開けた。
そこにあったのは、世界の終わりではなく――驚異的な『快適さ』の暴力だった。
「な、何だこの……この、サラサラとした空気は……!?」
室温は摂氏24℃、湿度は完璧に管理された45%。
外のジメジメした不快感が一瞬にして消え去り、まるで高原の澄み切った秋の風に包まれているかのような、圧倒的な清涼感。
着ていた重い鋼鉄の鎧が、汗を吸うどころか、一瞬で乾いてサラサラとした極上の着用感へと変わっていく。
「あ、頭が……脳が、このサラサラな空気の心地よさで、戦う意志を急速に失っていく……!」
「あら、野良の監察官さんが、私の快適ドライゾーンに迷い込んできたわね」
コタツ(冷却送風モード)の中から、アリスが冷たいハチミツレモネードをストローで啜りながら、にやりと笑った。
「お姉様、ちょうどいいわ。彼女、鎧を着たまま雨の中を歩き回って、メタルスーツの関節が錆びかけてるよ。今すぐこのドライ空間で乾燥させてあげよう!」
エレンがパチパチとハイタッチを交わす。
「ひ、ひぃぃ……! 身体が……身体が、このコタツという名の『魔力のブラックホール』に吸い寄せられて……」
イゾルデは、極上のサラサラ空気と、コタツから漂う甘いレモンの香りに抗うことができず、
「ふにゃあああああん……快適すぎるぅぅぅ……」
と、エリート騎士のプライドを完璧にハックされ、鎧を着たままコタツに倒れ込み、白目を剥いて爆睡してしまった。
「よし、デバッグ完了ね、エレン」
「ええ、アリス。やっぱり絶対湿度45%の完全ドライ空間は、異世界の堅物騎士をも一瞬で敗北させるわね」
窓の外では、月明かりの下、木製お掃除ロボ(第36話)と並んでサウナハットを被ったアルドが、
「だから言ったでしょうに……」
と、幸せそうなため息をつくのだった。
新章を迎えたシルバーストーン領には、目に見えない「極限の界面化学・熱力学技術」と、隣領の貴族たちを「逆らったら一瞬で干からびてミイラにされる、恐るべき気圧崩壊デシケーターの噂」が、優しく、そして最高にドライにお気楽に広がり続けるのだった。




