第6話:黄金の液体を求めて(と、禁断の醸造生物学)
「……アリス、聞こえる? 私の喉が、サハラ砂漠より乾燥して、今にもひび割れて砂塵を巻き上げそうよ」
「聞こえるわエレン。というか、共有されている私の喉も、さっきから枯れ木のようにカラカラよ。……あの最高のお風呂の後に、ただの『ぬるい井戸水』を飲むという拷問。これは人道に対する罪だわ」
前世は三十代の理科教師、成瀬健一。
今、シルバーストーン家の庭で夕涼みをする双子の少女の脳内では、かつての記憶にある「キンキンに冷えたジョッキ」と「弾ける泡」の映像が、4K画質でリピート再生されていた。
この世界にも「酒」はある。だが、その多くは酸っぱいワインか、発酵が中途半端でドロドロとした、炭酸の抜けた麦汁のようなもの。
「キレ」も「コク」も、そして「喉越し」もない。
「いい、エレン。ビール造りは科学よ。デンプンを糖に変える『糖化』、そして糖をアルコールと二酸化炭素に変える『発酵』。この精密な生物学的プロセスを、私たちの『二心同体』で完全制御するわよ」
「望むところよ! 私の身体能力(と、執念)をすべて発酵タンクの温度管理に捧げてみせるわ!」
ターゲットは、領地の蔵に眠っていた「家畜の餌用の二条大麦っぽい何か」だ。
まず着手したのは『製麦』である。
麦を水に浸し、あえて発芽させることで、デンプンを分解する酵素「アミラーゼ」を引き出す工程だ。
「エレン、温度は15℃を維持。湿度は45%。芽が麦の粒の三分の二まで伸びた瞬間を見逃さないで」
「ラジャー! 左目でアリスの『理想の成長度AR』を透過表示して……右目で実物の芽を凝視! 完璧なタイミングで乾燥に移行するわ!」
アリスが脳内の理科室で、麦の細胞内で行われるα-アミラーゼとβ-アミラーゼの活性化をシミュレートし、エレンがその「理論値」に合わせて、庭に広げた麦を魔力で温めた風で乾かしていく。
一人が顕微鏡レベルの観察眼を、もう一人が精密なヒーターの役割を果たす。この双子、もはや「歩く醸造プラント」である。
「次は『糖化』よ。エレン、例のピザ窯を65℃の定温保持モードで点火して」
「了解! 前回の熱力学計算が火を噴くわよ!65℃は酵素が一番張り切るゴールデンタイムね!」
砕いた麦芽を湯に浸し、温度を一定に保つ。
ここで温度を上げすぎれば酵素が失活し、低すぎれば糖化が進まない。
アリスは共有視界の中に、水の屈折率から算出した「糖度グラフ」をリアルタイムで投影する。
「……今よ! 糖度、目標値に到達! エレン、裏山で密かに採取・乾燥させておいた『ワイルド・ホップ』を投入して!」
この世界では「ただの苦い雑草」扱いされていたホップ。だが、ビールの魂はこの苦味と香りにこそ宿る。
煮沸された麦汁が、独特の爽やかな、そしてどこか切ない香りを漂わせ始める。
「……アリス、この匂い……。泣きそう」
「落ち着きなさい、エレン。まだ最大の難関、……『発酵』が残っているわ」
二人は、ガラクタから錬成した密閉容器に麦汁を移した。
問題は「酵母」だ。この世界にドライイーストなんて便利なものはない。
だが、そこは元理科教師。
「昨日から、屋敷の裏の果樹園で『天然の蔵付き酵母』をハチミツで培養しておいたわ」
アリスが取り出した小瓶には、プクプクと命の鼓動(炭酸ガス)を刻む白い液体が詰まっていた。
「いくわよ……。私たちの夢と、炭酸への愛を……シュート!」
酵母が投入された。
ここからは、数日間の忍耐が必要だ。
アリスとエレンは、寝る時も、食事中も、常に意識の片隅を「発酵タンク」の温度計に向けていた。
「アリス……今、タンクの中で酵母たちが『わっしょい! わっしょい!』って糖を食べてアルコールを出してる感覚が伝わってくるわ……」
「そうね……。糖代謝の化学式C₆H₁₂O₆→2C₂H₅OH + 2CO₂が、私の脳内でオーケストラのように鳴り響いているわ……」
そして、一週間後。
「二次発酵」と「瓶内熟成(という名の炭酸ガス閉じ込め)」を経て、ついに運命の時が来た。
「……いい、エレン。抜栓は慎重に」
「分かってるわよ。……せーのっ!」
シュポッ……!!
その音は、屋敷の静寂を切り裂く「文明の産声」だった。
コップに注がれた液体は、少し濁りはあるものの、紛れもなく黄金色。そして、表面には細かな、真っ白い泡が層を作っている。
「「…………乾杯」」
二人は同時に、コップを煽った。
「「…………っっっっっ!!!!」」
弾ける炭酸。
喉を刺激する、ホップの鮮烈な苦味。
鼻に抜ける、麦の芳醇な甘み。
そして、何よりも――この「喉越し」!
「アリス……これよ。これのために転生したと言っても過言じゃないわ……」
「そうね……。没落貴族シルバーストーン家、本日、独立醸造所として建国を宣言するわ……」
二人は感動のあまり、庭の草むらにひっくり返った。
空には満天の星。喉には最高のビール。
だが、幸せな時間は長くは続かない。
「ちょっと! あなたたち、また何か怪しい匂いのするものを作って……って、その飲み物は何!?」
血相を変えて飛んできた母親。その手には、没落していても捨てられなかった「貴族の教育指針」が握られている。
「「お母様……これは、その……理科の実験の一環でして……」」
双子は慌ててコップを隠したが、そのツヤツヤとした、この世界ではあり得ないほど健康的な(そして少し酔った)笑顔を誤魔化すことはできなかった。
「……あら? なんだか、すごくいい匂いね。……少し、お母様にも味見させてちょうだい」
この日、シルバーストーン家の「禁断の醸造計画」は、家族を巻き込んだ「一大極秘プロジェクト」へと昇格したのであった。
没落領地の特産品が「世界を揺るがす黄金の液体」になるまで、あと数バッチ。




