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第10話:甘い誘惑と苦い悦び(と、没落領地のチョコレート革命)

「アリス、聞こえる? 私の三角筋さんかくきんが、この『謎の豆』をすり潰すという単調な往復運動に、そろそろ労働組合の結成を訴え始めているわ」

「聞こえるわエレン。というか、共有されている私の大脳皮質も、カカオバターが放つテオブロミン(C₇H₈N₄O₂)の香りに、理性のダムが決壊寸前よ……!」


シルバーストーン家の台所は、今、異世界で最も「罪深い香り」に包まれていた。

ノースポートの市場で「得体の知れない苦い種」として二束三文で売られていたそれを、アリスが魔法分析で「カカオ亜種」と断定したのが運の尽き(あるいは幸運の始まり)。

二人は今、前世のバレンタインデーすら遥かに凌駕する熱量で、チョコレート作りに挑んでいた。


「いい、エレン。チョコレートの命は『テンパリング』よ。油脂の結晶構造を、最も安定して口溶けの良い『V型(ベータ型)』に整える。摂氏27℃から32℃への精密な温度遷移……一秒の油断も許されないわ!」

「分かってるって! アリスは共有視界で『結晶成長のシミュレーション』に集中して! 攪拌かくはんのトルク管理は、私の腕に任せなさい!」


二人の『二心同体デュアル・コア』が、微細な熱の揺らぎを捉える。

アリスが赤外線感知のように鍋の温度分布を色分けして表示し、エレンはその「温度のムラ」を消すように、魔力で強化したヘラを神速で動かす。

一人が「分子レベルの観測」を行い、一人が「物理的な強制介入」を行う。

高級ショコラティエが一生をかけて習得する技術を、彼女たちは「理科の実験」として最短距離で再現していく。


「……今よ! 結晶が整ったわ! 型に流し込んで、第7話で作った『魔法冷却箱』へシュート!」

「ラジャー! 続いて……本命の『シルバーストーン・スタウト』の最終調整に入るわよ!」


今回の「第1回・シルバーストーン家大宴会」の目玉は、チョコだけではない。

市場で見つけた最高級ホップと、少し焦がした麦芽ローストモルトを使用した、黒く輝くビール――スタウトである。


「アリス、発酵タンク(ガラクタ改)の内圧、1.2気圧をキープ。炭酸ガスの溶存効率を最大化して」

「了解。エレンはホップの『アロマ成分』が飛ばないよう、仕上げの魔力封印をお願い。……完璧。これで『苦味』と『甘み』の核融合準備は整ったわ」


夕暮れ時。

屋敷の庭には、ピザ窯(第2話)で焼かれた香ばしいパンと、獲れたての獲物のロースト、そして主役の「黒い液体」と「茶色の小片」が並べられた。


「……さあ、父様、母様。没落領地の逆襲、第一弾です」

双子が声を揃えて告げると、恐る恐る手を伸ばした両親が、まずは漆黒のビールを口にした。


「……なっ、なんだこれは!? 苦い、だが香ばしい……! まるで焼いたパンを液体にしたような、重厚なコクだ!」

「あら……? そしてこの、アリスたちが『チョコ』と呼んでいたお菓子と一緒に食べると……嘘、ビールの苦味が、甘みを引き立てて……最高に贅沢な気分になるわ……!」


口の中で、チョコレートの脂肪分がビールの炭酸と苦味でさらりと流され、後にカカオの芳醇な香りとホップの爽やかさがマリアージュする。

これぞ、前世の成瀬健一が週末に自分へのご褒美として楽しんでいた、大人のQOLクオリティ・オブ・ライフの頂点。


「「…………っっっっっふ、ふおおおおおおおおおおお!!!」」


双子もたまらず(ノンアルコールの麦汁とチョコで)歓喜の声を上げる。

アリスの脳内では、ドーパミンの分泌グラフが右肩上がりに突き抜けていた。

エレンの全身の細胞が、糖分と幸福感によって「もう一回遊べるドン!」と叫んでいた。


「アリス……これ、商売になるわね。このチョコ一欠片で、金貨が動くわよ」

「ええ、エレン。でもその前に……見て。村の人たちが、この匂いに釣られて集まってきちゃったわ」


庭の柵の外には、香ばしい匂いと「幸せそうな叫び声」に惹かれた領民たちが、不思議そうな、それでいて期待に満ちた目でこちらを覗いていた。


「……アリス、どうする? 没落貴族としては、ここで秘匿して独占するのが正解?」

「いいえ、エレン。理科教師として……いえ、趣味人として教えなさい。娯楽のない人生なんて、出汁の入っていない味噌汁と同じだってことを!」


双子は顔を見合わせ、不敵に微笑んだ。

「みんな! 今夜は試食会よ! 没落領地シルバーストーンの『新しい味』、覚えて帰ってね!」


この夜、辺境の貧乏領地は、異世界で最も甘く、そして最も芳醇な香りに包まれた「祭りの地」へと変貌した。

そして、その中心でビールジョッキ(の中の麦汁)を掲げる銀髪の双子は、すでに次の野望を描いていた。


「アリス、次は……この文化を広めるための『メディア』が必要ね」

「そうね、エレン。市場で買ったあの『紙』と『インク』……。ガリ版印刷機を作って、異世界初の『グルメ漫画雑誌』を創刊するわよ!」


二人の開拓精神は、胃袋を満たしたことで、次なる「知的好奇心(と趣味)」の領域へと爆走を開始した。

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