『1つの空席』
それは、とある居酒屋の片隅で交わされた他愛のない会話だ。
男は、向かい合わせに座る友人から、一つの妙な都市伝説を聞かされていた。
「なぁ、小説家だけが狙われる怪談って知ってるか?」
友人はジョッキを置き、声を潜めて言った。
「普通の人、つまり小説を書かない人がその話を聞いても、何も起こらない。だけどな、過去に一度でも小説を書いたことがある人間がその怪談を聞くと、一週間以内に怪異にさらわれて、この世から消えちまうんだそうだ」
「なんだそれ。小説家だけを拉致するお化けか?」
「ああ。だけど不気味なのはここからさ。その小説家が消えた後も、なぜかその作家のアカウントからは、新しい小説が投稿され続けるらしい。行方不明になっているはずなのに、作品だけが出続けるんだ」
男は、持っていた箸を突き出し、嫌そうに顔を顰めた。
「おいおい、勘弁してくれよ。そんな不吉な話、現役で小説を書いてる人間にわざわざ聞せるなよな」
「はは、悪かったよ。お前が喜びそうなホラーのネタかと思ってさ」
「喜ぶわけないだろ。趣味が悪い。……あーあ、なんだか急に、背筋が寒くなってきたじゃないか」
それから少しして
「ちょっとトイレに行ってくるわ」
そう言って友人が席を立った。
残された男は一人、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。
画面が、暗闇の中で静かに冷たく光っている。
……数分後、トイレから戻ってきた友人は、誰もいない席を見て小首を傾げた。
テーブルの上には、男のスマートフォンが置かれたままだ。
「あれ……? どこ行ったんだ?」
居酒屋の喧騒のなか、友人はポツンと残された男のスマートフォンを、ただ見つめていた。




