番外編 おばあさんと小さな白い塊
それは、今から数年前の、ひどく冷え込んだ冬の日のことでした。
その日の空は朝から分厚い鉛色の雲に覆われ、午後を過ぎるころには、山から吹き下ろす凍てつくような突風に混じって、雨とも雪ともつかない、氷のように冷たい霙が山のふもとの小さな町を白く染め始めていました。
星屑堂の店内も、普段よりずっと冷え込んでいました。
店主であるおばあさんは、冷気でズキズキと痛む膝をさすりながら、裏庭へ続く古い木戸を閉めようとしていました。
からから、と建具が頼りなく鳴る音。
いつもならそれで終わるはずの静かな夕暮れでしたが、その日は違いました。
激しい風の音の隙間から、どこか遠くで、獣の赤ん坊が潰されたような、あるいは小さな命が最後の力を振り絞って上げるような、ひどくか細い鳴き声が聞こえた気がしたのです。
おばあさんは動きを止め、木戸に手をかけたまま、目を細めて霙に煙る真っ白な裏庭の隅をじっと見つめました。
枯れ果てて黒ずんだ紫陽花の根元、泥と氷が混ざり合う、凍てついた地面の上に、それはありました。
人間の手のひらにすっぽりと収まってしまうほどの、小さな、小さな、白い毛玉のような塊。
それは、まだ生まれたばかりの、全身の毛が硬く凍りつきかけている白いきつねの子でした。
子狐は、自身の小さな身体を容赦なく襲う猛烈な寒さと飢えに耐えかねて、ただじっと丸まっていました。
親とはぐれて迷い込んでしまったのか、その細い身体は雪混じりの雨に濡れそぼり、すでに自力で立ち上がる力も、目を開ける力すら残されていないようでした。
子狐は死を待つだけの暗闇の中で、上空から絶え間なく落ちてくる冷たい氷の粒を、せめてもの抵抗のように小さな朱色の舌で受け止めていました。
そのとき口に含んだ霙は、あまりの冷たさに頭が痛くなるほどで、凍え死んでいく絶望の味がして、けれどなぜか、泣きたくなるほどにほんのりと甘かったのを、彼は今でも鮮明に覚えています。
「おや、おや……こんなところで、凍えてしまって。寒かったろう、可哀想にねえ」
不意に、絶望に震える子狐の上空から、全ての冷たい氷を遮るような温かい影が降ってきました。
気がつくと、子狐の身体は、長年使い古されて角の擦り切れた、木綿の温かい座布団に優しく包み込まれ、冷たい泥の上からそっと引き上げられていました。
人間の、皺だらけで硬くて、けれど驚くほどに温かい、大きな手が、その硬く強張った背中を何度も、何度も、壊れ物を扱うように撫でてくれます。
星屑堂の奥の、炭が赤々と熾った火鉢の傍。
温かいほうじ茶の湯気が立ち上る静かな部屋の中で、子狐は生まれて初めて、自分以外の他者がもたらしてくれる「本物のぬくもり」というものを知りました。
火の粉がパチパチと爆ぜる音を聴きながら、おばあさんは、人間が食べるような干し肉や甘く煮た小豆を皿に盛って差し出しましたが、子狐はそれらには一切目もくれず、ただ、おばあさんの着物の袖からぽつり、ぽつりと滴る、外の雨の雫だけを欲しそうに必死に舐めるのででした。
「そうかい、そうかい。おまえは、ご飯じゃなくて、雨を食べるんだねえ」
おばあさんは驚く風でもなく、すべてを察したように目元を優しく細めて笑い、子狐のまだ濡れている額をそっと撫でました。
「ちょうど、外はしぐれているよ。おまえの名前は、今日から『しぐれ』だ。ここにいていいんだよ」
冷たい地面で死を待つだけだった名もなき白い塊が、初めて「しぐれ」という尊い名前をもらい、自分が生きてもいいのだという確かな居場所を貰った瞬間でした。
火鉢の赤い光に照らされながら、しぐれはおばあさんの膝の上で静かに目を閉じ、自分を包み込んでくれている人間の手の温もりを、世界が終わるその日まで絶対に忘れないようにと、小さな胸の奥に深く、深く刻み込んでいたのでした。




