番外編 銀色のティースプーンの記憶
雨の降らない昼下がり、星屑堂の店内は、まるで琥珀色の蜂蜜の中に沈んだように静まり返っていました。
西日の傾きかけた格子窓からは、幾筋もの光が差し込み、宙に浮遊する微細な埃の粒をきらきらと金色に輝かせています。
帳場の奥では、店主であるおばあさんが使い古された老眼鏡を鼻先までずらし、古い帳簿を広げたまま、暖かな陽気に誘われるようにして穏やかな寝息を立てていました。
柱時計が刻む「こっ、こっ、こっ」という規則正しい音だけが、店内の緩やかな時間の流れを証明しています。
しぐれは、その埃の舞う光の筋を器用に避けながら、棚の最下段、薄暗い片隅にぽつんと置かれた一本の銀色のティースプーンの前で、静かに座り込んでいました。
そのスプーンは、最後に持ち主の手を離れてから途方もない年月が経っているのか、かつての華やかな輝きを失い、表面は薄黒く曇って、細かな傷が無数に刻まれていました。
けれど、その繊細な柄の部分には、職人が一針ずつ刻んだであろう、精緻な百合の花の刻印が、今も誇り高く静かに残っています。
しぐれは不思議な胸騒ぎを覚え、その冷たい銀の肌に向けて、濡れた鼻先をそっと触れさせました。
その、一瞬のことでした。
ごう、と耳の奥で激しい風の鳴る音が響き、しぐれの視界は一瞬にして、いつも見慣れた星屑堂の風景から、全く見知らぬ異国の景色へと切り替わりました。
それは、遠い異国の、石造りの大きな屋敷の窓辺でした。
部屋を囲む重厚な壁には色褪せたタペストリーが飾られ、窓の外では、日本で見かけるものとは全く違う、見たこともないほど激しく荒々しい、灰色の雨が石畳の街並みを激しく叩きつけています。
薄暗い部屋の中、白い繊細なレースの寝具に身を包んだ、金髪の長い一人の少女がベッドの上に体を起こしていました。
彼女の肌は陶器のように白く、病弱であることを物語っていましたが、その小さな手には、今しがたしぐれが触れたあの銀のスプーンがしっかりと握り締められていたのです。
少女は、手元の硝子のカップに注がれた、温かい蜂蜜入りの紅茶をゆっくりと混ぜていました。
カラン、カラン、と、硬質な銀と硝子が触れ合うような繊細な音が室内に響きます。
スプーンが回るたび、湯気とともに甘く芳醇な香りが立ち上り、彼女の寂しげな表情を優しく包み込んでいきました。
少女は窓の外をじっと見つめながら、誰に言うでもなく、けれど愛おしそうにぽつりと呟きました。
『憂鬱な雨の日にはね、このスプーンで魔法をかけるの。そうすれば、どんなに冷たくて寂しい雨だって、お砂糖みたいに甘くなるわ』
病弱で外に出られない彼女にとって、雨は世界を閉ざす退屈な障壁であり、同時に、外の騒がしさから自分を優しく守ってくれる静かなカーテンでもあったのです。
少女は雨粒が窓ガラスを伝う様子を眺めながら、どこか満足そうに、愛おしそうに微笑んでいました。
彼女にとっての雨の日は、決して孤独なだけのものではなかったのです。
はっと気がつくと、風の音は消え去り、しぐれの目の前には、やはりいつも通りの星屑堂の、埃っぽい薄暗い棚があるだけでした。
おばあさんは変わらず穏やかな寝息を立てており、柱時計の音だけが響いています。
遠い異国の地で、一人の少女が込めた「雨の日を愛おしむ祈り」。
それが何十年もの時を超え、道具の記憶となってこの古道具屋に流れ着き、そして雨を食べるきつねであるしぐれの元へと届いた。
そんな奇妙で、奇跡のような巡り合わせに、しぐれは静かに胸を震わせました。
しぐれは曇ったスプーンを見つめ、愛おしそうにその表面を一度だけそっと舐めました。
長年の埃と古い銀の味の奥から、遠い異国の、あの少女が愛した、少しだけ温かくて甘い、蜂蜜入りの雨の匂いが、確かにしぐれの口いっぱいに広がっていくような気がしました。




