第39話:いつものカウンター
カビと古い紙、そして僅かな機械油の匂いが混ざり合った、冷たく静かな空気。
王都の中央司令部の地下深くに位置する『第8魔導記録保管庫』は、私が最前線のゼフィール基地へ厄介払いされる前と何一つ変わらぬ、絶対的な静寂に包まれていた。
「……ふむ。やはり、私の居場所はここ以外にはあり得ませんね」
私は可憐な少女の顔に深い安堵の息をこぼし、薄暗いランタンの光に照らされた木製のカウンター席に腰を下ろした。
手には、出張前に読みかけていた分厚い旧世代の戦術書。
パラシュートで王都の空からこっそりと逃亡し、誰にも見つからないように裏口からこの地下室へ潜り込んでから、すでに三日が経過していた。
地上では今もなお、隣国軍の陰謀を打ち砕き、軍の腐敗を一掃した『救国の銀髪少女』の行方を捜して、軍の広報部と報道陣が血眼になって走り回っているらしい。
だが、ここは軍の中枢でありながら、誰も近寄らない「ゴミ捨て場」だ。
まさか救国の英雄が、カビ臭い地下室の定位置で悠々と読書に耽っているなど、上層部の馬鹿どもには想像もつかないのだろう。
(……やれやれ。英雄だの救世主だの、背中がむず痒くなるような称号はお断りだぜ)
(俺はただ、俺の私物を勝手に売り飛ばしたコソ泥に落とし前をつけさせ、俺の特許を騙るパチモンをぶち壊しただけだ。……そこに国を救うだのといった、崇高な理念なんて一ミリもねえ)
心の中の老兵は、戦術書のページをめくりながら、呆れたように肩をすくめた。
前世の泥水と血にまみれた戦場を駆け抜けてきた傭兵にとって、名誉や勲章など、弾除けの装甲板一枚ほどの価値もない。
本当に必要なのは、明日の飯を食うための『現金(報酬)』と、確実に死線を越えるための『実弾』だけだ。
ギィィッ……。
静寂を破って、アーカイブ室の重い鉄扉が控えめに開かれた。
「……レイ。またこんな暗いところで本を読んでいるのか。少しは外の空気を吸ったらどうだい?」
入ってきたのは、分厚い書類の束を抱えたルーク監査官だった。
彼の白衣は相変わらずヨレヨレだが、その表情はどこか晴れやかで、長年の宿敵(バルバレス将軍の一派)を完膚なきまでに叩き潰した充実感に満ちていた。
「いらっしゃいませ、監査官殿。……外の空気は、マスコミと無能な上層部の香水が混ざって、ひどく悪臭がしますので」
私は本から視線を上げず、冷ややかに応対した。
「ははっ。相変わらず辛辣だな」
ルークは苦笑しながら、カウンターの上に仰々しい桐の箱を置いた。
箱には、王家の紋章と軍の最高位を示す金色の装飾が施されている。
「軍の最高司令会議からの通達だ。レイ管理官、君に『救国特級従軍章』を授与することが正式に決定した。……君が式典から逃亡したせいで、私が代理で受け取ってここまで運ばされる羽目になったんだがね」
ルークが箱の蓋を開けると、そこには眩いばかりの光を放つ、巨大なダイヤと魔導石で飾られた勲章が鎮座していた。
一生遊んで暮らせるほどの年金と、貴族と同等の特権が約束される、軍人ならば誰もが喉から手が出るほど欲しいであろう最高の栄誉。
だが、私はその煌びやかなガラクタを一瞥しただけで、すぐに視線を戦術書へと戻した。
「いりません。そんな金メッキの文鎮を置くスペースは、私のデスクにはありませんから」
「……文鎮。おいおい、軍の歴史上でも数人しか授与されていない特級勲章だぞ? 少しは喜ぶふりくらいしてくれないか」
「喜ぶ理由がありません」
私は本をパタンと閉じ、サファイアの瞳でルークを真っ直ぐに見据えた。
「名誉をもらえば、それに付随する『責任』と『義務』を負わされます。式典に駆り出され、プロパガンダの顔として使われ、挙げ句の果てには厄介な政治の派閥争いに巻き込まれる。……百害あって一利なしの、最悪の不良債権です」
(俺はもう、誰かの命令で死地に立たされるのはごめんだ。これからは、俺が読みたい本を読み、俺が寝たい時に寝る。そのための『静寂』を、こんなガラクタで売り渡す気はねえよ)
「……君は本当に、ブレないな」
ルークは呆れ果てたように天を仰ぎ、パタンと桐の箱の蓋を閉めた。
「分かったよ。この勲章は監査部の金庫で『一時保管』という名目で塩漬けにしておこう。上層部には、君が極秘任務のショックで療養中だとでも伝えておくさ」
「助かります。……それで、私が本当に要求したものはどうなりましたか?」
「ああ、これだろう?」
ルークが懐から取り出したのは、一枚の薄い羊皮紙の封筒だった。
私はそれをひったくるように受け取り、中身を確認する。
そこに入っていたのは、ゼフィール基地での出張手当、危険手当、そして特別残業代が合算された、ズッシリと重い『特別給与の明細書』だった。
「……ふむ。額面通りですね」
私は可憐な少女の顔に、今日一番の輝かしい笑みを浮かべた。
「これこそが『本物の勲章』ですよ、監査官殿。労働に対する正当な対価。これさえあれば、私はあと半年は引きこもって本を買い漁ることができます」
「……はははっ! 英雄の欲しがるものが、書類の束と小銭だとはね!」
ルークはついに耐えきれず、腹を抱えて笑い出した。
「君という少女は、本当に……軍の常識も、世間の価値観も、何もかもを論破してしまう存在だな。監査部としては、君を味方につけておいて本当に良かったと心底思っているよ」
「勘違いしないでください。私は誰の味方でもありません。ただの記録係です」
私は明細書を大切に制服のポケットにしまい込み、再びランタンの火を少しだけ落とした。
「そうだな。君はただの記録係だ。……ああ、そうだ。例の『エリート騎士』たちだがね」
ルークが思い出したように言う。
「君が帰還したと聞いて、またこの保管庫に押しかけようとしていたんだが……監査部の権限で『管理官は面会謝絶』と叩き出しておいたよ。連中、君の泥臭い教えをもっと請いたいと、まるで捨て犬のように泣きついてきたがね」
「賢明な判断です。あのお坊ちゃんたちが来ると、この部屋の空気が騒がしくなって本に集中できませんからね」
私は心底ホッとしたように息を吐いた。
最前線で私の論理に感化された連中が、王都に戻ってきてまで付き纏ってくるのは御免だ。私の教官としての仕事は、あの雪原で完全に終了している。
「では、私は仕事に戻るよ。軍の再編で、監査部はこれから徹夜続きだ」
ルークは踵を返し、鉄扉へと向かった。
「ゆっくり休むといい、レイ管理官。……君が守ってくれたこの静寂の時間は、誰にも邪魔させないから」
「……お気遣い、感謝します」
鉄扉が閉まり、再び地下室は完全な静寂へと包まれた。
私はコトリと音を立てて、ティーカップから冷めた紅茶を一口飲む。
戦場での火薬の匂いも、エンジンの爆音も、もうここにはない。
過去のデータを完全に消し去り、現在の私を証明したことで、心の中の老兵の魂も、かつてないほどの穏やかな眠りについていた。
(……これでいい。これが、俺の望んだ平和な老後だ)
(何も起きない、誰も死なない、静かなカウンター。……退屈だが、悪くねえ)
十三歳の美少女は、薄暗い地下室で一人、誰にも見せることのない柔らかな微笑みを浮かべ、再び分厚い戦術書のページをめくった。
時計の秒針の音だけが、平和に時を刻んでいく。
第一部の激動の物語は、このいつもの静かなカウンターで、一つの完璧な結末を迎えたのだった。
……そう。
もし、新たな「貸出カード」が持ち込まれなければの話だが。




