第3章『ウェイク・アップ』01
「おい」
リンド商会の執務室で、彼女は一心に書類の処理に集中している。
彼女の今の立場は会長補佐。実質ナンバー2だ。『選択ノ書』関連事業で巨利をもたらした実績が評価されてのことらしい。愛娘だからというだけでこのポジションにつけるほど、ここの会長は甘くはない。
「……おい、メラニー」
あ〜忙しい忙しい、と呟きながら書類を繰るメラニー。こいつは時折こうして聞こえないフリをする。
「今日も来るんだろ、スケジュールに入ってたぞ……っていうか、もう来てるし!」
ベルが、晴々とした顔で俺の背後に立っていた。
「ったく、どんだけうまく気配消してんだっての。魔法なのかこれ」
「何を言ってるんだ、魔法など使っていないよ」
「あ〜そう。そうですか。魔法なんかもう必要ないんじゃないですかね。せんっぜん気づかなかったし」
「ハハハ、足音を消して近づくなど、剣の基本中の基本だよ。これでも一通りの基本は修業で身につけている」
「修業! そうそう、そーだとも。あのなぁベル、こうやって毎日のように俺のとこなんかに通ってないで、ちゃんと剣の修業を必死にやった方がいいんじゃないか? 御前試合、決勝戦までもう5日しかないんだろ?」
あのヒュルンゼルト戦で受けた手痛い完敗の雪辱を果たすべく、彼女は御前試合への参加を決意した。
王国内の名だたる剣士たちが一堂に会するこの大会にはヒュルンゼルトも名乗りをあげ、それがベルの参加を決定づけた。まさに最強剣士を決めるイベントと言っていいが、ベルの目的はそんな称号ではなく、ただ一つ。公式の場でヒュルンゼルトを打ちのめすこと、それだけだ。
順当にトーナメントを勝ち続けたベルは、ついに決勝までこぎつけた。
相手は、予想通りヒュルンゼルト。しかしこの決勝戦は、逆を言えば、公衆の面前で返り討ちにあうかもしれないことを意味する。だというのに、ベルは頻繁に俺のところを訪ねては『選択ノ書』の読書会みたいなことをやっている。剣のことは何も知らない俺でさえ心配になってくる。
「必死に、とはまたイサクどのらしくないことを言う。『選択ノ書』によれば、それは結果への重要度を上げてしまい、意図の純度を下げて、望まない現象を選択してしまうことになるのでは?」
「あ〜はいはい。そうです、そうだよ、その通り。意図っていうのはあくまで軽く、力を抜いて重要度を下げなきゃならない、おっしゃる通りです」
よく読んでるよ、まったく。本質的な理解もしてる。さすがだよ。
「さぁイサクどの、今日もお聞きしたいことがたくさんある。部屋はどこにするんだ? 私は、ここでも構わないが」
「あ〜ダメダメ! あたしが困ります。ご覧の通り、いまとーっても忙しいので。先生、応接室が空いてるから、そこ使って!」
「承知した。イサクどの、さ、行こう」
ベルは鞄から『選択ノ書』を取り出し、俺の腕を引く。おいおい、また付箋が増えてないか? どんだけ読み込んでるんだよ。
応接室に入るや、ベルは立て続けに質問を投げてきた。このところの彼女の関心は、オーバー・タグ。『選択ノ書』でも核になる概念だ。この書では、平衡力という考え方が大前提となっている。全てはバランスを保とうとし、その均衡が崩れると、バランスを取り戻すために現象が変化するというものだ。ベルは、この概念を復習するために、紙に天秤の頭を書いた。
「天秤の両端に乗るオモリは同じ重さで釣り合ってる。ところが、片方のオモリを倍の重さにすると、このように天秤は傾く……」
ベルは、片方に傾く天秤の図を描く。
「この天秤がふたたびバランスをとって釣り合うためには、ここの長さが2倍に伸びる……」
ベルは、支点から軽い方のオモリまでの長さを2倍にした図を描いた。よく理解している。
「そういうことだ。その軽い方のオモリが『望む結果』ってわけで、それ、離れて行ったよな。これが、オーバー・タグってことだよ」
まさに、あの交番の一件で俺も体験したことだ。あんなに速攻で効果があるとは思わなかったけど。やっぱりこの世界は、俺が元いた世界に比べてビックリするぐらい思考の現象化が速い。ちょっと戸惑うぐらいに。
「私が御前試合でここまで順調に来られたのも、この概念の応用が大きいと実感している」
そうみたいだな。この世界の住人たちはもともと魔法という目に見えないチカラを「現実」として受け入れているから思考の純度も高く現象化も速い、という仮説は、ベルのこの成果が示してくれたわけだ。
「さてと、ベル。問題なのは、次の相手がヒュルンゼルトだってことだ」
「承知している。禍根のある相手だからな、オーバー・タグが発生しやすいはずだ。現にいまも、あのときのことを思い出すと……」
机の上で、彼女はギュッと拳を握った。
「そもそも今回の御前試合の出場も、ヤツを叩き潰すためだったわけだ」
「その通りだよ、イサクどの」
ベルは、肩を上下に動かしてから、フゥ〜ッと息を吐いた。
「悔しいが、ヒュルンゼルトは紛れもなく王国で一二を争う強者だ。それは彼の不断の努力の結果でもある。それに魔法も格段の差……」
「そうだな。ヤツは絶対に手を抜かない。ベルが相手であっても、全力で魔法を使ってくるだろう」
「フフフ……」
心なしか、嬉しそうに見える。
「それでいい。全力を出す彼に勝ってこそ、本懐を遂げるというものだ」
俺は、正直、複雑な思いだった。ベルはまだ勝ち負けにこだわってるんじゃないかと。心のどこかで、善戦しても敵わないイメージを持ってるんじゃないかと。そしてそれを受け入れる潔さみたいなものを意図してるんじゃないかと。
彼女の覚悟や思いは一見、チカラが抜けた自然体にみえる。しかし心の奥底、最も深い部分で、勝てないということが前提になってはいまいか。もしそうだとしたら、その前提こそが「真の意図」となってしまう。魔法や目に見えないものを信じられても、自分を信じ切っていなければ、おそらく彼女の望む結果は……現象化しないだろう。
次の質問をするために『選択ノ書』のページを繰るベルの姿は、誠実で前向きな生徒のようで微笑ましく思えてくる。だが、情が湧いてくればくるほど、真っ直ぐに勉強を続けても試験に落ちてしまう生徒の姿が、どこかで重なってしまう。
偏見かもしれないが……試験に受かるヤツ、試験が得意なヤツってのは、もっと不遜で図々しいんだ。美しくて好ましいヤツとは限らないんだ。だから試験だの試合だの……そういうものの残酷さが、俺は好きじゃない。
「……どうした、イサクどの」
「あ、いや……なんでもないよ。次の質問はなんだい」
この後も、ベルは毎日俺に……俺なんかに教えを乞いに通った。




