第8章『Fin』01
純白のいでたちをしたレベッカが、単騎で疾走する。
剣を手に、それを天に掲げて。
士気が下がって進軍速度が落ちていた全軍を、彼女が立て直し、引っ張っている。
レベッカが駆る白馬は、見事な馬鎧に身を包み、彼女の衣服と同じような純白の立て髪と尻尾を風に靡かせて、ぐんぐん進んでいく。
数馬身遅れて、騎士団が続き、さらにその後をサリアン准将率いる独立遊撃隊2万が追う。最後尾には第二軍の残存歩兵部隊2万。重装備を軽装備に変え、全力疾走して先発を追っている。それを率いているのはメルケル総司令だ。……が、総大将にしては貧相な馬に乗っている。
「あいつ……レベッカのやつ」
きっとメルケルの愛馬を借りたか掠め取ったかして、自分が乗ったんだ。速いわけだ。フェルセン全軍の士気が異常に昂まっているのが、遠目にもわかる。レベッカが扇動してるんだ。
レベッカが、待ち構える敵軍の直前で馬を止め、振り返って剣を敵に向け振り下ろす。突撃の合図だ。騎士団と遊撃隊の騎馬が、次々とレベッカの横を抜けて敵軍に突っ込む。レベッカの号令が、ここまで聞こえてくる。
「行けぇぇっ! 行けぇぇっ!」
両軍が衝突して、剣がぶつかり合い、火花が散る。勢いを取り戻したフェルセン軍の勢いに、敵軍が蹴散らされている。10倍の敵が、押されている。たった一人の少女が、戦さの流れを変えている。
「……ジャンヌ・ダルクみてぇだ……」
言ってしまってから、俺は慌ててその言葉を呑み込んだ。
古今、たった一人の少年少女が大の男どもを奮い立たせ、神が降りたごとく奇跡の勝利へと導いた例は、たしかにある。ジャンヌ・ダルクしかり、北畠顕家しかり。
年端のいかない少年少女や子供には、戦において不思議なカリスマ性が宿ることがあるのだ。
しかしーー。
「冗談じゃねぇ……ダメだ……ダメだ、レベッカ!」
俺が知ってる限り、その先には悲劇が待っている。
神懸りは、突如として、落ちる。
神があまりに無邪気な遊びをしているとしか思えないほど、容赦なく。
レベッカは、敵味方入り混じる中で、しきりに剣を掲げては振り下ろし、自軍を奮起させている。
時折、混戦を抜け出た敵兵が彼女に剣を向け、味方がそれを斬り倒す。また次の敵兵が彼女に忍び寄り、味方が間に合わずに危ういところを彼女が慣れない剣裁きで斬り捨てる。
じわりじわりと、敵兵が彼女の周りに集まり始める。
フェルセン軍の異様な勢いの源が彼女であることに、気づき始めている。
「レベッカ、ダメだ! 下がれ! いったん下がれ!」
まだ間に合う。
敵兵どもは、まだ彼女を囲み切ってはいない。
まだその間には距離もある。
誰か近くにいるヤツ、レベッカに言ってやれ! いまならまだ……。
ーー乾いた音がした。
間の抜けたぐらいの、パァンッ! という乾いた音。
と同時に、レベッカが……不自然に胸を突き出した格好で、馬上でフワリと宙に浮いた。胸の尖端から、体を貫いて何かが飛び出し、その後から、鮮血が噴き出す。
「……あ……ああ……」
落馬したレベッカは身体を捩りながら跳ね、転がる。うつ伏せに動かなくなった彼女の胸の辺りから、雪がみるみる紅く染まっていく。
「あ、あああ、あああああああああああああああっ!」
自分でも判別できない言葉を叫びながら、俺は、レベッカの元へ走った。
視界がブレる。上に、下に。足がもつれる。もちなおす。音という音が一切耳に入らない。無音の世界。こめかみのあたりで血管が脈打つ。その音だけが聴こえはじめる。それは鼓動と連動している。時間が止まっているのか短縮してるのか曖昧だ。コマ送りのように目の前の風景が移ろう。
彼女のすぐ近くまでたどり着いて、足が止まる。早く顔を見たい気持ちと、見てしまったらもう終わりだという気持ちが、せめぎ合う。もはや手も足も勝手な動きをしながら、ゆっくりと進み、彼女の傍に立つ。
キレイな顔で、目を瞑っている。
――レベッカ
味方の騎士たちが手分けして彼女の手足を持ち、馬を棄て徒歩で移動している。そうだよ。離れたところに移さないと首を取られる。
――レベッカ
キレイなままにしてやってくれ。首なんか取らないでくれ。頼むよ。頼むよ……。
「レベッ……くふっ……レベッカぁっ!」
穏やかな顔してやがる。眠ってるみてぇだ。疲れただろ? もうクタクタだったんだろ? けど起きてくれよ。目を開けて笑う顔、見せてくれよ。
誰かに後ろから押された。いや、ぶつかられたのか? 左腕に、熱さを感じた。指先から生ぬるいものが垂れ、遅れて激痛がやってきた。振り向くと、敵兵が血のついた剣を持っていた。
――お前も……レベッカを狙ってきたのか……もう、いいだろう? もうこの子をそっとしてやってくれよ。恨みとかあるわけじゃねぇんだろ? おんなじ人間だろう? おい、首、首って……やめろよ、ふざけんなよ……俺の……俺の大事な……人なんだ。もう動かねぇけど……動かねぇ……こんなキレイな顔で眠ってんだからよぉ……傷つけんじゃねぇよ……なぁ、おんなじ人間……じゃ……ねぇのかよ、お前ら、人間じゃねえのかよ、そんなケダモノみてぇな顔で……レベッカに寄って来るって……首、取るとかって……そんなもん……そんなもんはなぁ……
「ニンゲンじゃねぇんだよぉぉおおおおおっ!」
転がってた誰かの剣を拾う。振り回す。メチャクチャに振り回す。唾を飛ばして喚きながら。自分でも何を言ってんのかわからねぇ。知ったことか! この虫ケラ野郎をぶっ殺す。ゆるさねぇ! 叩き潰す! 虫ケラを叩き潰す! ゆるさねぇえっ! ゆるさねぇえっ! ゆるさねぇえっ!
「イサクどのっ! い、イサクっ!」
誰かに……羽交締めに……されてんのか? 背中に、硬い鉄の鎧越しに、やわらかい、あたたかい感触が伝わる。
「ベル……」
「イサクどの……もういい……もう、いい」
足下に肉塊が転がる。もう顔も判別できない。ヒトのカタチも怪しくなってやがる。
ベルが俺の手から剣を取り外そうとするが、俺も手放そうとしてるが、離れねぇ。手がいうことを聞かねぇ。
「もういいから……それより……姫さまのところへ……」
血液とは別のなまぬるいものが、俺の顎からポタポタ落ちてる。そいつもまた、いうことを聞かねぇ。
離れたところから、鬨の声とは違う、狂気の声が聞こてくえる。金属がぶつかり合う間抜けな音が聞こえてくる。
なんだかもう呆れてきた。バカバカしくなってきた。
騎士たちに囲まれて、レベッカが横たわってる。ホントにキレイな顔だ。真っ白い服の胸元に薔薇みてぇに滲む血の跡さえなければ、どう見たって、眠ってるようにしか見えねぇよ。
「姫さま……」
ベルが、レベッカの髪を撫で、整えてやってる。手巾を胸に当ててやっても、すぐにまた血が滲んでくる。
ベルは、涙でくしゃくしゃになった顔を、いっぱいに歪めて、微笑む。
「私も……一緒に……」
短剣を抜き喉に突きつける。やめろ……よせ……そんな声も出ねぇ。止める気力もねぇ。ベルも……ベルまで逝っちまうのか。もう、いやだ。いやだよ。なんでこんな……。
「なんなんだよこの世界は……この世界線はっ! くそっ、くそっ!」
「そうなんですよ、師匠」
アンディが、ベルから奪い取った短剣を手にして立っていた。ベルは、呆けた顔で座り込んでる。
「ここは、こういう世界線なんですよ」
「世界……線」
俺は、その言葉を口の中で噛み潰す。
「師匠、時がありません」
アンディが指差す方を見ると、乱戦場から抜け出した一群が、雪煙を上げて迫って来ていた。
「7、800はいますかね。こっちは僕を入れて……疲れ切った騎士が4人。馬も無く……魔法もマトモに使えそうにありませんが、何とかしてきます。ベル君は……戦える状態じゃなさそうなので、置いていきますよ。さて、と……」
剣の刃こぼれを確かめてから、また鞘に納めた。たった4人で、剣だけでどうやって何とかするってんだよ。
「あ、師匠、僕らもかなりムリしてくるので、師匠も頼みますよ」
「頼むって……何をだよ……もう、やれることなんか……」
「なぁに言ってるんですか。忘れたんですか? 例の仮説ですよ」
「カセツって……」
「パラレル・スライド仮説ですってば」
「ああ……ハッ……ハハ……お前、何言ってんだ、こんな状況で」
「ホントに、不思議ですね。僕は意図した通り、完全に並行世界の僕に入れ替わったみたいです。以前の僕なら、いまの状況、頭に血が昇ってかなりアツくなってたでしょうに。面白いぐらい冷めてるんですよ。またメラニー殿にリクツっぽい冷血漢とか言われそうですけど」
たしかに、軽口は叩いてるが、こいつ、眼が冷め切ってやがる。
「兵たちの中にもいたでしょう? 人格が豹変した連中。街中でも例の『豹変現象』、多数報告されていましたよね。もう間違いないですよ。上手く意図できれば、入れ替わりは可能です。師匠の仮説は、正しいと思います。師匠、おっしゃっていましたよね。この世界では意図が現象化する純度が高くスピードも速いって。この世界とかあの世界とか、僕にはいまひとつピンとこないのですが……そもそも、師匠が打った策が大当たりしたのも、要するにそういう理由なんじゃないですか? おかげで敵だけじゃなく、味方までメチャクチャになってしまいましたけど」
……どのみち、このまま何もしなければ、このくそ忌々しい現象のまま……詰みってこと、か。
「けど、もうレベッカは……意図なんかできなくなっちまって……パラレル・スライドなんて……入れ替わりなんて……」
「え? 何言ってるんですか。パラレル・スライドするのは、師匠ですってば。その後で……」
「……そっか! アウスヴァールだ!」
「まったく……しっかりしてくださいね。じゃ、ちょっと行ってきますので、よろしく頼みますよ、師匠。また、最高の世界線で会いましょう!」
言うだけ言って……行っちまいやがった。最高の世界線か……。本当の意図か。俺の本当の意図って、そりゃお前、決まってるさ……。
「レベッカ……」
傍に座る。
あいつらが置いて行った真新しい手巾に替えてやる。髪を手で梳いてやる。初めてだな、お前さんに触れたのは。柔らかい髪だ。まだ……温かいんだ……温かい……温かい?
「……レベッカ?」
――まだ、息がある。消えちまいそうなほど微かだが、息をしてる。まだ生きてる! 生きてる!
「いや……待て」
一気に昂まる動悸を抑えるように深呼吸する。ダメだ。重要度を上げるな。絶対に助けるとか考えるな。オーバー・タグが発生しちまう。意図するんだ。いや、もっと力を抜いて意図……してみよう。軽く、思ってみよう。俺の本当の意図は……。
レベッカの顔を静かに見下ろす。
キレイだ。生きていて欲しいとか助かって欲しいとかそういうのとは全然カンケイなく、ただ、ホントに……キレイだ。
俺の意図は……この子の笑顔の……近くにいたいってことか。それだけでいい。いや、そうじゃねぇな。この子に……微笑んでもらえたら……俺に向かって……いやそれも違う……俺だけのために、微笑んでもらえたら……そうだな、そりゃあ最高だ。
俺もこの子に……この子のためだけに笑うんだ。とんだ高望みかもしれねぇ。そんなもん、わかってるけど、それが俺の本当の意図なんだ。この子と、お互いのためにだけ笑い合う。まずは俺がそれにふさわしい男になる。どこかの並行世界には、そんな俺もいる。いや、もうそんな俺になっている。高望みなどと言ってハナから諦めていたのが、過去のことのように思えてきた。いや、思う。もう思っているな。アンディたちで実証済みだから。もう、疑う余地などない。
ーーそうか!
この世界でパラレル・スライドは、簡単なことだったんだ。さぁ、あらためて意図しよう。
「……レベッカ。レベッカ……」
まだ息があるんだ。この子と、語り合い、囁き合い、笑い合っているエンドフレームがリアルに感じられる。それはそうだ。そうだった。そういう並行世界も、もう存在しているのだ。期待でもなく、願望でもなく、もう存在している世界を選択するだけのことだ。アウスヴァールするだけだ。レベッカ、レベッカ……。
「俺は、君を……愛している」
天にも昇る心地だ。
地響きのような音を立てて、黒い塊が近づいてくる。
アンディたちが迎え撃ちに行った一群などとは比べものにならない数の、おそらく何千では収まらない……何万という規模の大軍が、凄まじい速度で迫ってくる。
レベッカと、俺と、ベルのたった3人を、それが取り囲む。
俺は、雪の上に横たわるレベッカの上に覆いかぶさり、彼女の盾となる。いや、ただ抱きしめる。もう俺たちの次の最高の世界線が見えているから。
取り囲む大軍の中から、一人、歩いてくる。兵たちが恭しく道を開ける。顔を上げると、男が立って見下ろしていた。
逆光でその顔が判別できない。黒い影のように見えるその男が、少し甲高い声で言った。
「レベッカ殿下……ですな」
影絵のようなその男は、額のあたりに手をやっているように見えた。
「拝見します」
男は膝を突き、レベッカの顔を覗き込む。脈をとる。
「ふむ……虫の息だな」
やっと顔が判別できた。しきりと額に垂れた巻き髪を指で巻いている。
「おい、やってくれ」
男の後ろで直立していた法衣のようないでたちの男がしゃがみ込んで、レベッカの胸に手をかざした。頭巾に覆われた顔は、深くシワが刻まれていて、老哲学者を思わせる。
「どうだ?」
「……まだ何とも言えませんが……」
頭巾の男の手から、新緑のような淡い光が発せられている。
男はしばらくレベッカに光を当ててから、巻き髪の男に向かって言った。
「心臓は外れていたようです。弾も貫通しております」
「ふむ、ならば……」
「何とかなるかもしれません」
巻き髪の男はわずかに眉を上げ、立ち上がって、俺に手を差し出した。
「ベルマン王国軍、ランデル少将です。殿下の手当をしているのは、ヴィド・ヴィルク。我が国でも最上位の治癒魔導士ですよ」
ランデル? どこかで聞いたような……。握手を求めているようだが、敵の将軍がなぜ?
「ああ、これは失礼した。ゆえあって、駆けつけた次第」
「よく、意味がわからないんだが……」
一応、握手に応じながらも、俺は怪訝な顔を見せた。
「……う、ううん……」
「レベッカっ!」
彼女が、うっすらと目を開ける。
「……イ……サク……?」
「そうだよ、俺だ。俺だよ……レベッカ……レベッカ……」
大粒の涙が立て続けに落ちる。抱きしめたい衝動を必死に抑える。
「イサク……わかってた……そこに……いてくれてるの……フフ……」
俺はレベッカの頬にそっと手を添える。もう、彼女に触れることを、ためらわない。彼女がイヤがらない限り。
「どうした? 何が……可笑しいんだい?」
何だっていい。彼女が笑ってさえくれれば、それでいい。
「イサク……少し……変わった?」
「かも……しれないな。こっちはこっちで……なかなか、大変な思いをしたからね」
そうだよ。一生分じゃないかってぐらい……あのときの俺は、悲しい思いをしたんだよ、レベッカ。
頬に当てた俺の手に、彼女が手を添える。胸の傷が痛むのか、時折ツラそうに顔を歪めるが、眼に力が戻ってきてる。その眼が、ジッと俺を見る。俺も、もう眼をそらしたりしない。見つめ返す。
「……不思議……たしかにイサクなのに……違う人みたい」
彼女が添えてくれた手を、俺は、もう片方の手で包み込む。
「そうさ。キミを……失いたくなかったから……守りたかったから。前の俺の方がよかったかい?」
レベッカが、少し困った顔をして、微笑んだ。
「ううん……どっちも……」
「オホンッ! ああ〜、たいへん無粋なマネをして恐縮ですがぁ」
ランデルが横向きに片目をつむっている。
「お久しぶりです、殿下」
「……ランデル……辺境伯……やはり……来ましたね」
「おやおや……」
ランデルは、バツが悪そうに巻き髪を弄る。
「すっかりお見通しだったようで」
「意図……して……いましたから」
「ハハハッ! これは……敵いませんな。恥ずかしながら、まんまと術中にハマりましたよ。いやぁ、ヒスカルであなたの……あのような脱出劇を目の当たりにしてはねぇ」
「『選択ノ書』……通り……でしょう? 私が……こうして……無事なのも……」
「ハハハ、無事といえるほどご健勝ではないようですが……確かに、ええと、アウスヴァールの権能なのでしょうなぁ」
ランデルが懐から出したのは、まさしく『選択ノ書』。
どれぐらい熟読したのか、表装がかなり使い込んだ感じになっている。それを小脇に抱え、ランデルは背筋を正した。
「バルタサール・フォン・ランデル、我が配下の兵2万を引き連れ、寝返って参りました!」
それを聞いたレベッカが、身体を起こそうと力をこめる。
「で、殿下、まだ無理です!」
ヴィド・ヴィルクが彼女を押し戻し、緑色の照射を続ける。
「ランデル辺境伯……寝たままの非礼をお許しください。ご助力、感謝します」
ランデルは、いいからいいから、といった風に手を動かしながら、頭巾の男に尋ねた。
「ヴィド・ヴィルク、どうだ、傷の状態は」
「概ね、ふさがりました。ですが、少し血が足りませぬので……」
傍に置いた袋から小瓶を取り出す。
「さぁ、殿下。霊木の実を、摂取しやすく液状にしたものです。たちどころに血液を増やしてくれるでしょう」
老魔導士に頭を支えられ、レベッカはコクリと喉を鳴らして液体を飲みながら顔をしかめる。
「ハハハ、ひどい味でしょう。先にお伝えしておくべきでしたな」
ゆっくり頭を雪面に戻されながら、彼女の顔にみるみる血色が戻るのがわかった。
「うむ、拒否反応もない。ランデル閣下、どうやら一命は取り留めましたぞ」
「ら、ランデルさんっ!」
俺は思わず両手でその手を取り、強く振った。
「ありがとうっ! ありがとう……」
「当然です。当代随一の治癒魔導士なのだから」
「魔導士さんも、ありがとう……本当に……」
勢いよく肩を揺すってしまったため、頭巾が脱げ、顔も頭部もあらわになった。雪のように見事な白髪を掻き上げながら、老魔導士は少し照れたような表情を浮かべたが、眼光は鋭いままだ。
レベッカが、ふたたび起きあがろうとしている。俺は老魔導士の方をうかがうと、彼はうなずいて見せた。
「但し、まだ無茶はできませぬぞ」
レベッカは立ち上がりたそうにしている。
「手を貸して……イサク」
肩を貸してやると、フワリと彼女は立ち上がった。軽いけれど、血も肉もしっかり生きている重さがある。
「あらためて……お礼を申します、ランデル辺境伯……それから魔導士の……」
「ヴィド・ヴィルクです、殿下」
畏まった姿勢で膝をつく。
「辺境伯、まずはこの戦を収集しなくてはなりませんが……」
そうだ。まだ戦闘中だった。戦況はどうなったんだろう。10倍もの敵を相手に……。
しかし、不思議と不安はない。以前のような絶望的な恐怖感もない。俺は、最高のエンドフレームを選択……アウスヴァールしたのだから。
「辺境伯……私の命を助けていただいて、その上、無体なお願いなのですが……直ちにあなたの兵を我が軍の救援に向かわせていただけないでしょうか!」
「……」
「再び渦中に……あなたの大切な手兵を……死地に向かわせるような……虫のよいお願いというのは重々……」
「殿下、お言葉ではありますが……」
ランデルは、前髪をクルッと巻いた。
「その要請には、応じかねます」
「そこを……そこをなんとかっ! この通りです」
深々と頭をさげるレベッカを前に、ランデルとヴィド・ヴィルクが顔を見合わせた。
「……と、申しますか、殿下」
ランデルは、レベッカの頭を戻させながら言った。
「もう、終わったのです」
「……え?」
「寝返ったのは、我が軍のみではないのですよ」
戦場の方に目をやると、逆光の中、こちらに向かってくる4つの騎馬の影があった。それは、みるみる大きくなり、やがてはっきりと顔が識別できるまでになった。
アンディと3人の騎士たちは、馬から降りると真っ先にレベッカの下へ駆け寄り、ひざまずいて臣下の礼をとった。
「姫、信じておりました。必ずお元気になられると」
「心配をかけました。ここにいる皆さんが、助けてくれました」
アンディたちは、ランデルとヴィド・ヴィルクに深々と頭を垂れて謝意を示すと、俺に声をかけた。
「師匠、やりましたね」
「お前もな、アンディ。大人数相手に、よく無事だったな」
「ああ、造作もなかったですよ」
「おいおい、自慢かよ」
「いえ、そうではありません。あれは、逃亡兵たちだったのです。敵軍は、次々と寝返りが出て総崩れとなり、完全に戦意を失っていましたから、ラクなものでした」
「……そういうことか」
「そういうことです」
ランデルが、話に割り込んできた。
「考えてもごらんなさい、戦の途中であれば、戦場を抜け出してこんなに悠長にしているものですか!」
「それはそうだが……もっと早く……言ってくださいよ」
ヘタヘタと、崩れ落ちる。
「何を言ってるんですか、師匠。そうなるようにアウスヴァールしたんでしょう?」
「……あのなぁアンディ、お前、まだ解ってないよ。アウスヴァールするのは、プロセスじゃない。あくまでエンドフレーム……最終結果だけだ。プロセスがどう進むのか、戦況がどう進むのかは、わからないし意識も向けないんだ」
「そうですよ、アンディ殿とやら」
ランデルがまた入ってきた。
「『選択ノ書』にしっかり書いてあるじゃないですか。プロセスに意識を向けてしまうと、それが執着となり、オーバー・タグが発生して、意図が現象化しない、と」
「す、素晴らしい! ランデルさん、よく理解されていますね!」
「いやはや、恐縮です……そういうあなたも、よくご存知ではありませんか」
「あら当然ですわ、辺境伯。この人は、イサク・トキ……『選択ノ書』の著者ですよ?」
「で、殿下、いま何と? えっ? えええっ?」
「え? ご存知なかったの?」
「殿下が先ほどからおっしゃっていた、イサク、イサクって……そういうことですかぁ……これは私としたことが」
「すみません、ランデルさん……ちゃんと名乗っていませんでした」
「なるほど……そういうことか……あなたがねぇ……するとあの偽情報を流してオーバー・タグを起こさせたのも……」
まずい……寝返ったとはいえ、元自軍に大混乱をもたらしたんだ。親しい仲間だっていたかもしれない。場合によっては逆上して……仕返しとか……。前に聞いたところでは、このランデルという男は、相当狡猾なヤツということだった。寝返りの裏に何か目論見があることだって……。もしその手兵2万が牙を剥いたら……ヤツに加担して寝返った他の軍も合流して襲ってきたら……。いまここで俺の素性を明かしたのは、レベッカの失策じゃないのか。
「そういう……こと……だったのか」
ランデルは、顎に手を当てて、しきりに納得している。
アンディもマズイということに気づいたのか、しきりにランデルと俺を見比べている。そのランデルが、うつむいて、肩を振るわせ始めた。
「なるほど……なるほどねぇ……そうなると……話が変わってくる……」
まずい、俺も重要度が上がりかけている……まずいまずい、下げよう下げようという重要度も上がってしまう……もう一度、エンドフレームを……。
「イサク……トキ……殿」
ランデルが、腰の剣に手をかけた。それを見てアンディも身構えた。ダメだアンディ。そいつを斬ったら、2万の兵がいる。囲まれているんだぞ。
「いや、いやいや、ランデルさん……まず落ち着いて」
「この……このぉぉおおおおっ! 」
「待て待て待てっ!」
「この私をぉおおおっ! 弟子にしてくだされっ!」
「ーーはいぃぃっ?」
剣を置き、正座して土下座したランデルから、俺は一歩飛び退いた。
「な、なんて?」
「ぜひ、私を弟子に! 師匠!」
アンディの他にもう一人、俺を師匠と呼ぶ男が……できてしまった。
「見事な策でした、師匠。この私めも、策謀において自負する者ですが、いや、あれは見事だった!さしもの私も、あれほどの大軍をあのように……手玉に取ったことはない! お見事です!」
そっちか! 『選択ノ書』読解の師匠じゃなくて、そっちか!
「ちょっ、誤解です! 俺はほら、プロの軍人でも何でもないし、作戦参謀とかでもないから」
「なればこそです。戦術論だの定石だの、そういうものに毒された軍人からは出てこない発想! それをぜひ学ばせてくだされ!」
なんだか前にどこかで聞いたようなセリフだ。無理だ、これは無理だ。思い直してもらうにはどうすれば……。
「顔を上げてください、ランデルさん。じゃあ、こうしましょう。『選択ノ書』を一緒に学びませんか。ここにいるあのアンディという騎士も、その仲間なんです。あと、ベルっていう……あれ? そういえば、ベルは?」
見ると、先ほどまでレベッカが横たわっていたところからそう離れていない場所で、ベルは気を失っている。
「ランデルさん、ちょっと失礼!」
ベルに駆け寄り、揺り起こす。
「うーん……姫さまぁ」
「おいっ、寝ぼけるな、俺はイサクだ!」
「……んん、イサク……イサク? えっ、イサクどの?」
ガバッと立ち上がったベルは、俺の向こう側にレベッカの姿を認めると、目を見開いて突進し、彼女を抱きしめた。勢い余って、レベッカは尻餅をつき、ベルも彼女に覆い被さるようにして押し倒し、大泣きし始めた。
あんぐりと口を開けているランデルに、俺は近寄る。
「あのですね、ランデルさん、あのでっかいヤツも仲間なんですよ。いまはその、あんな状態ですが、彼女も『選択ノ書』をよ〜く理解していて……」
わんわん泣き崩れる姿を見て、訂正したくなったが、とりあえず続ける。
「じきに落ち着きますので……いまはほら、あんなですけどね……普段は、それはもう気丈で腕も立って……それはですね、『選択ノ書』で自己変革したからなんですよ。いや、ホントに。ホントのホントに……」
「ハッ……ハハハッ!」
大笑いするランデルの後ろで、ヴィド・ヴィルクも笑いをこらえている。
「……わ、わかりました。わかりましたよ、トキ殿。ぜひ……私も末席に加えてください。まずは、『選択ノ書』を学ぶ仲間として」
胸を撫で下ろすと同時に、何やら妙な気分になってきた。何と奇妙なことだ。ジコケイハツなんてしょうもない本が……ずっと、しょうもないと思っていたものが、何だかよくわからないうちに、人を変え、人を集め……現象を変え……そして……。
レベッカが、こっちを見ている。
彼女こそが、最後まで信じていたに違いない。仲間たちが変わり、こうやって新たな仲間も集まることを。このエンドフレームを。
俺も、こうやって変わっていくことを。そうだろ、レベッカ。
彼女は、俺の心の中を見通しているかのように、しっかりと、うなずいた。




