第7章『さよならの向こう側』10
帝暦555年12月24日、早朝。
朝日を浴びたフェルセン王国北境ノルドヴェルル平原は、静まりかえっている。
よく晴れた真冬の空は、一面、抜けるように青い。
澄み渡った早朝の空気を、山間から昇った太陽が黄金色に照らす。
清々しい朝の光景、になるはずだったであろう……この、鼻を突くような血の匂いさえなければ。
広大な平原には、夥しい数の死体が転がっている。雪が、血で染まっている。数える気にもなれないほどの、敵味方入り混じった兵士たちの骸。
それを、俺は丘陵の総司令部から見下ろしている。
何度も嘔吐し、もう、吐くものも腹の中にはない。
昨日、メルケルのところに進言しに行った直後、伝令が飛び込んできた。敵軍に動きが見られると。遅れをとってしまったが、いまならまだ出鼻をくじけると、メルケルは直ちに攻撃命令を出した。あの爺さんは、やはり俺が進言しようとしたことに、すでに気づいていた。
ダミー部隊を先頭に突入させ、騎士団が続き、第三軍・第四軍の騎馬隊、その後から第一軍と第二軍が突っ込んだ。
騎士団はその強力な攻撃魔法で次々に敵を撃ち倒し、みるみるうちに敵軍深くまで入り込んで行った。第五軍・サリアン率いる独立遊撃部隊2万は、敵に最大のダメージを与えるべく、一番手薄なところを見極めようと戦況分析をしていたーー。
予定通りだった、ここまでは。
異変は、そこで発生した。
騎士団が活路を開いた後、第三軍・第四軍がそれに続いて一斉に攻撃魔法で敵を撹乱するはずだったのだが、まずこの両部隊、合計4万が、動きを止めた。
それに後続する第二軍は、蜘蛛の子を散らすように無秩序な動きで混乱し始めた。
それは敵軍も同じで、戦場はもはや何十万という兵たちの乱闘状態となった。
状況を立て直そうと敵味方の将軍たちは躍起になったが混乱は増すばかりで、そのうち一人、また一人と討ち取られていった。
将軍を失った軍は烏合の衆と化し、ただただ無茶苦茶に武器を振り回し、同士討ちまで出始めた。やがて、数で圧倒的に勝る敵軍がフェルセン軍を無理やり包囲し始め……そこからはもう、戦などではなく、屠殺に近かった。
夕方にかけて、それはもう目を覆うような凄惨な殺し合いが続き、夜になる頃には、第一軍・第三軍・第四軍の計10万が、ほぼ壊滅した。
第二軍は約四分の三を失い、敵軍中に孤立した騎士団は、善戦して渦中から脱したものの、ほぼ半数を失った。
フェルセン軍の大混乱の原因、それは、オーバー・タグだった。
敵軍に対して放った策は、水面下で自軍をも蝕んでいたのだ。
完全に、油断していた。
フェルセン軍のとりわけ下級兵士たちは、侵攻軍を迎え撃つために、急仕立てで魔碯石を配布されていた。
魔法を使い慣れていなかった上に、魔法に関する知識も信頼も中途半端な状態だったということだ。
いっそ従来通り、下級兵士には下手に魔碯石など持たせなければ、こんな混乱にはならなかったのかもしれないが、もう、取り返しがつかない。
敵軍も多くを失ったことに変わりはないが、それでも希望的にみてまだ30〜40万は残っているというのが、斥候からの報告だ。
対するフェルセン軍で残った兵力は、第二軍・重歩兵部隊が約2万、サリアン准将の独立遊撃部隊が2万、それに1000名ほどの騎士団。
数の上では敵軍のおよそ十分の一ほどという絶望的な状況になったところで、夜を迎え、いったん戦闘は終了した。
あのとき――俺やレベッカやベルが急いでメルケルのところに走ったとき、アンディが何か言っていたのは、まさにこのオーバー・タグのことだった。
あの時点ではまだ明確ではなかったようだが、胸につかえていたらしい。なぜもっと話を聞かなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。
――そして、一夜明けた、この目の前の光景。
どうするんだ、これ。
とてつもなくイヤなイメージしか湧いてこない。
総司令部のテントに入る。メルケルの爺さんは、不敵に笑っている。だが、どう見ても、イヤなイメージしか湧いてこない。
「諸君、我々に、撤退はあり得ない」
ジジイ、無茶言うんじゃねぇぞ……。
「そしてまた、ここで我らが敵に突破されれば、王都は……王宮は蹂躙され窮地に陥るであろう」
作戦机を囲む副将だの参謀だのが、どいつもいつも辛気臭い顔つきでうつむいている。中でも副将の2人は、この世の終わり、みてぇに青ざめている。その一人がメルケルに言った。
「総司令、いかがでしょう、ここで和議を持ち掛けては……」
もう一人がそれに続く。
「敵も相当な被害を受けております。これ以上の犠牲は望まないのでは?」
メルケルは、目を見開いて怒鳴りつけた。
「たわけたことを言うなっ! この期に及んで和議など、あり得るものかっ!」
「しかし総司令……極力、戦闘が避けられるものなら避けよというのが、国王陛下からの要請ですぞ」
「そうです、兵たちを無駄死にさせぬためにも、和議に持ち込むべきです」
バンッ! と机を叩いてメルケルが立ち上がった。
「何を言うかっ! ここで戦を止めればそれこそ死んでいった者どもは……犬死にではないかっ!」
メルケルの剣幕に、副将たちは背を丸め、口をつむいでしまった。
こいつら、レベッカから聞いたところでは国王から目付役として派遣されたようで、テキトウなところで停戦を持ちかけるよう言い含められているらしい。そもそも総司令部が一枚岩じゃねぇって……軍としてどうなんだ?
メルケルは伝令を呼びつけると、ついに命令を下した。
「総攻撃をかける。目指すは敵本陣。狙うは、総大将のみ。それ以外には目もくれるな。たとえ最後の一兵になっても、総大将の首を取れ! 儂も打って出る!」
言っちまった。イヤなイメージの通りになっちまった。
「馬引けいっ!」
メルケルが出口に向かい、参謀たちがそれに続く。副将たちも渋々それを追う。ちょっと待て、それって俺もか? 俺も戦場に駆り出されるってことか? 馬にも乗れねぇし武器なんかマトモに使えねぇぞ!
あたふたしてる俺に、メルケルが言い残した。
「貴様はよいっ! 足手まといだ、そこにおれ。殿下も!」
言い放つと、メルケルたちは全員テントを出た。
「……だってよ、レベッカ」
見ると、レベッカは席から立ち上がって拳を握っている。
「しょうがねぇさ、俺たちはもともと戦闘要員じゃねぇし」
レベッカはテントから駆け出した。
「お、おいっ、待て」
彼女は、丘陵から平原を見下ろしていた。
やがてフェルセン軍が動き出し、時の声を上げて突き進んでいく。
そこに騎士団の姿はない。彼らはレベッカの指揮下だから、彼女が攻撃命令を出していない以上、勝手には動けないのだ。そりゃそうだろう。こんな無茶な突撃に、大切な手兵はもちろん、友であるベルやアンディを巻き込めるはずがない……って、え? おい、待て、待てレベッカ!
「よ、よせ、やめろ!」
レベッカは高々と右手を掲げたかと思うと、それを敵軍の方に振り下ろした。騎士団への攻撃命令だ。
「お前、何を考えて……」
制止しようとした俺に向かって、彼女は振り向いた。
「レベッカ……」
息を呑むほど、美しかった。この世のものとは思えないぐらいに。
慈母のような微笑みを浮かべてから、彼女は言った。
「今日まで、本当にありがとう、イサク。あなたは、私が守る」
「はぁ? え? 何を言って……」
微笑んで、うなずき、口を動かして……ある言葉を囁くと、彼女は俺を突き飛ばしてから走っていった。
力いっぱい突き飛ばされた俺は、勢い余ってテントに押し戻され、迂闊にも作戦机の脚に頭を打ってしまった。
「……テテテ」
よろよろとテントから出たときには、もう彼女の姿はなかった。不覚にも涙が出そうになった。頭を打った痛みのためなんかじゃねぇ。最後に彼女が言った言葉のせいだ。
「何でだよ……なんで……サヨナラなんて言うんだよ……」
血に染まった雪原に、放たれた矢の如く、騎士団を率いて一直線に馬を駆るレベッカの姿があった。
さよならの向こう側に行ってしまった彼女に、俺は何度もその名を叫んでいた。




