第7章『さよならの向こう側』09
フェルセン王国軍は、メルケルを総大将に、五軍編成で布陣している。
第一軍はローデン中将率いる6万の軽歩兵部隊。機動力を誇る各1万の兵からなる6個師団を6人の将軍が指揮しローデンが統帥する。
第二軍はグランマン中将率いる8万の重歩兵部隊。敵軍を崩し突破し活路を開くための8個師団・各1万を8人の将軍が指揮しグランマンが統帥する。
第三軍はローセンダール少将率いる2万の騎兵部隊。6王国中でも1、2を争う騎馬隊は急襲と撹乱を得意とする。少将は副官と共に2個師団のうち一つを指揮しつつ全体を統帥する。
第四軍はノイマン少将率いる2万の騎兵部隊。第三軍と連携して戦場を縦横に移動し、戦局をコントロールする。ノイマンが副官と共に2個師団のうち一つを指揮しつつ全体を統帥。
そして第五軍。サリアン准将率いる2万の独立遊撃部隊である。他の四軍から完全に独立した自由行動をメルケルから許可されており、神出鬼没、最も戦局を左右する戦場に出現して勝機をつかむ。サリアンがそのすべての指揮権を掌握する。
総大将メルケルは、全軍の動きが一望できる丘陵に総司令本部を置き、副将2名、レベッカを含む作戦参謀5名が机を囲む。イサクは、レベッカの背後に椅子を用意され、そこに控える。
レベッカは作戦参謀ではあるが、特例で正式な軍制には属さず、メルケルのみを命令者とするが、そのメルケルは発言も行動も自由でよいと保証している。
イサクがその任に就いている特任参謀は、以前レベッカが内定していた役職だが、今回の戦役では彼女を補佐する役割である。
ただ……このところ二人はろくに話もできていない。レベッカは直接言葉にはしていないていないが、どうもイサクを避けているようなのだ。
イサクはクロンへイムを通じ、メルケルに直談判して特任参謀という肩書を許可させたのだが、それは結果的に、レベッカの頭越しの勝手な行動という形になった。
イサクのこの行動は、レベッカが頑なに彼の同行を断るためにやむなくそうしたものだっただが、そのことがレベッカには遺憾だったらしい。
彼女としては、イサクに危険な場所に来てほしくないという思いが無にされた心持ちなのだろう。
二人の間の微妙な空気はメルケルも感じ取っていたが、20万もの兵を統括する立場の彼には、そのような瑣末事に関わる時間は無く、懸念しながらも、ただ見守るしかなかった。
そのような中、戦いの火蓋は、第二軍の進軍で切られた。
侵攻軍は、80万の大軍を四軍に分けて左右に展開。
広大なノルドヴェルル平原の地形を利用して弧を描くように広がっていて、いわゆる「鶴翼の陣」という陣形に近い。
フェルセン軍の両脇に小山があるため、囲い込むところまで入っていないが、もしこれだけの大軍で囲まれた場合、フェルセン軍に勝機はない。なにしろ、四軍の一つだけで約20万の兵力、フェルセン側の全軍に等しいのだ。
定石としては、ある程度時間をかけて敵を揺さぶり陽動しつつ四軍を一軍ずつ崩していくか、魚鱗の構えをとって20万の兵を一枚岩とし中央突破、一気に敵本陣を攻める短期決戦か、というあたりだが……メルケルは少々違う戦術を懐に隠している。
それは、イサクがメルケルに直言したものだった。定石をどう用いたところで、圧倒的な戦力差を埋めることはできない。まともな戦い方では勝ち目がないことは、おそらく誰よりもメルケルがわかっている。
今回の戦役でメルケルがレベッカやイサクを陣に入れたのは「まともではない」発想に期待したからだったが、その「まともではない」策は、すでに打ってあった。
(さて、この素人策、どう出るか……)
第二軍には、極力ゆっくり進軍するよう指示してある。いかに一点突破を得手とする重歩兵隊といえども、20万もの兵が築いた防御壁を突き破ることは困難だろう。相当の犠牲も出るはずだ。敵軍と衝突する前に、策が効いていなくてはならない。
ジワジワと第二軍が敵の防御壁に近づく。このまま先頭どうしが衝突し、敵軍がその数に見合う抵抗をしてきた場合、策は失敗したことになる。
第二軍の先頭が敵方の目と鼻の先まで達した。
相手に比べてケタ違いに少ない兵力とはいえ8万もの兵を自在に動かすことは容易ではない。
第二軍統帥のグランマン中将は、実に巧みにそれをやってのけている。
まるで微生物がその触手を繊細に動かすように、8万の兵が有機的に動いている。もし策が失敗し、敵軍が全力で抵抗する素振りを見せた瞬間に、伸ばした触手を引っ込め、急速後退する必要がある。それはそれで難度の高い用兵術が問われるだろう。
軍を後退させる場合、それに乗じて敵方が攻勢に転ずれば、それを防ぎつつ後ろに下がることとなる。一手でも指揮を間違えれば、総崩れとなり全滅もあり得る。そのあたりのことも考えて、メルケルは第二軍をグランマン中将に任せたのである。
ここまでは敵軍にまったく動きはない。
重歩兵を迎え撃つ場合、射的距離に入り次第まず飛び道具で牽制するのが定石の一つだ。少しでも接触する前に相手の兵力を削いでおきたいという狙いもあるが、夥しい数の弓が飛んできてバタバタと仲間が倒れることで心理的動揺を誘うことができる。初戦は多分に心理戦の性質が強いのだ。ここまでその動きがないということは、まずその恐れは無いと考えてよい。これぐらい接近してしまってから飛び道具を用いることは、同士討ちのリスクにも及ぶからだ。
しかし、もう一つ定石がある。
相手とぶつからずに退くだけ退き、敵を引き込むだけ引き込んで、周囲を取り囲み、一斉に殲滅するという策だ。
兵力差がある場合、こちらの定石の方が有効ともいえる。メルケルは、それを警戒していた。
もしこのまま敵軍が抵抗しなくとも、それが例の策の効果なのか、それとも定石でそうしているのか、しばらくは判別できないのだ。相手の陣地に侵入できたとしても、周囲を取り囲まれぬよう細心の注意を払いながら進む必要がある。それも極めて高度な用兵術だ。
第二軍の触手が、敵軍の先頭に、接した。まだ敵軍は抵抗してこない。メルケルの手に汗がにじむ。
(さぁ、どっちだ……)
この後の戦局を大きく左右する瞬間だ。例の策が効いていない場合、まちがいなくこの後の戦いは、苦戦となる。
第二軍は慎重に前進を続ける。もともと中央突破が目的だから、無駄な攻撃はしない。下手に攻撃をすれば相手が逆上して反撃してくる恐れがある。
敵軍に、動きが現れた。
第二軍の左右に分かれていた敵軍は、取り囲むような動きはせず、そのまま後退している。それも整然と退いているのではなく、ワラワラと乱れながら先を争うように撤退している。
メルケルは身を乗り出す。四人の参謀たちも、思い思いに膝を叩き、口々に叫ぶ。
「よしっ! よしっ!」
メルケルは悠然と息を吸い込むと、よく通る声で伝令に指示を伝える。
「騎兵部隊を投入する。第三軍、第四軍を第二軍の両翼から、敵に突入させい!」
フェルセン軍の騎馬は、すべて北国産の、寒さに強い長毛種だ。身体も大きく脚も太い。南国産に比べると速度で劣るとされるが、フェルセンの操馬術は定評があり、よく訓練されていてこの欠点を補っている。雪原での戦においても十分な機動力を発揮する。
雪煙を下ながら合計4万の騎兵が敵軍を目掛けて疾走する。狼狽する敵兵たちにとっては、押し寄せる津波のごとく、恐怖を煽るに違いない。
第二軍が突進の速度を上げて攻撃に移り、その両脇から怒涛のごとく騎馬隊が突っ込んで敵を撹乱する。
敵兵たちは、防御壁を作っていた盾を放り投げ、闇雲に槍を振り回しながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、次々に騎馬隊の槍の餌食となっていく。槍を逃れた者には馬の蹄が襲う。屈強な戦士たちも重量級の馬に踏みにじられてはひとたまりもない。
敵軍の将が陣を立て直そうと馬上から叫んでいるが、いったん崩れ始めた大軍というものは少人数よりもタチが悪い。完全にパニック状態と化している。
「な、何なのだ……一体何が起きて……」
その言葉を最後に、敵将はフェルセン軍騎馬隊により、首となった。
「敵将を討ち取った! 討ち取ったぞ!」
友軍から勝鬨が上がる。
勝鬨が渦となる。
指揮官を失ったことを知った敵兵たちは、呆然と立ち尽くし、あるいは膝を突き、あるいは逃亡する。フェルセン軍は追討の手をゆるめず、みるみる敵の大群を掃討していく。
ものの数時間で、カタはついた。
20万もの敵兵はわずかに数千を残し消滅した。
「すげぇな……ヤツら……ほぼ自滅じゃねぇか」
「一度あのように恐怖のどん底に叩き込まれた兵は、もはや役には立たぬ。他の軍に合流して再起を図ることなどできんのだよ。そのほとんどは敵前逃亡し、二度とは戻って来ぬ」
メルケルは、涼しい顔をしている。戦場における兵の心理というものを熟知しているのだ。
「深追いはさせるな。いったん兵を引かせ、陣形を整えるよう伝えい」
その命令が届く前に、第二軍、三軍、四軍は悠々と撤退し始めた。メルケルは満足そうに髭をさする。
「トキ特任参謀よ、まんまとお主の策が当たったな」
「あ、そっか……」
そうだった。あまりの戦場の迫力にすっかり忘れていた。
イサクがメルケルに進言したこと。それは、一言でいうなら「相手をオーバー・タグに陥らせる」というものだった。
メルケルは、イサクが書いた次のようなシナリオを、両軍が対峙布陣して対峙しているときから、間者を使って敵軍に流していた。
――魔碯石が枯渇する前兆として、石の効力が誤作動を起こし始めている。
実はこの偽情報を流すだけではなく、その信憑性を上げるため、第二軍の最前列……最も敵軍の目にさらされる部隊をダミー部隊とし、魔法が肝心のときに発動せず混乱してパニックに陥るという演出をしてみせていた。
この演出が功を奏するかどうかは、事前に流していた偽情報がどれぐらい浸透しているかにかかっていた。
この情報が、ワクチンのように敵軍に沁みわたり、連鎖的に不安を煽って相乗効果を発揮すれば、ダミー部隊の演出はダメ押しとなる。下ごしらえが十分であればこそ、仕上げが大きな力を発揮できるのだ。
しかしもし事前情報が偽情報と見抜かれた場合、あるいは信じさせたとしても彼らが冷静さを保つだけの強い理性を持っていた場合、ダミー部隊の演出はまったく力を持たず、冷ややかに見下げられたまま、一糸乱れぬ20万の兵の前に第二軍は壊滅していたことだろう。
以前からイサクは、この世界の人間たちがもともと魔法という超越的なものを信じている土壌があるために、元いた世界よりも比較にならないほど『選択ノ書』を信じる純度が高いと実感していた。
しかし何かを強く信じる力が強いということは、それが揺らいだ場合に受ける心理的なダメージも大きいのではないか、そう考えて今回の進言となったのである。
この世界では戦で魔法に依存することがまだまだ普通であり、魔碯石へのルクス適性の高い兵士が戦で戦功を上げ、昇進しやすいという現実を知ったイサクは、そこにこそ「揺さぶり」をかけるスキがあると考えたのだ。それが、見事に当たったわけだ。
「見事だ、トキ特任参謀。あのような方向性で敵に揺さぶりをかけるなどという発想は、私を含め軍人から出てくるものではなかった」
「総司令のおっしゃる通りだ。我々が学んできた軍略論とはまるで性質が違う発想だったよ、トキ君」
……メルケルのおっさんも、参謀も、何を言ってやがる。
「そうですね、たしかに我々軍人の発想というものは、国が違えど、本質的に異なるものではありません」
「まぁ言ってみれば、同じ食材を使って違う料理を作るようなものですかね。どんなに異なった料理を作り競ったところで、それは料理であることに変わりはない。どれほど奇抜な料理を考案したところで、同じ料理人ならある程度察しがついて、その裏を書くこともできるでしょう。しかし、トキどのがやってのけたのは、料理とはまるで別のものを作り上げたようなものでしょう」
……この参謀たちは、何を言っているんだ? なんでこんなに楽観的なんだ? 軍人なんだろ?
「我々専任の参謀も学ぶべきだが……まずはこの戦役で、トキ君の発想を大いに参考にしようじゃないか」
……やめてくれ、違うだろ、それ。
「総司令、彼の発想は、我が王国の軍幹部養成にも活かすべきです。特別教官として士官学校への招聘を提案します」
……やめろ、違う、そうじゃない。そうじゃないだろ!
「まぁそう先走るな。いまはまず、目の前の敵を撃破することだけに専念せよ。貴様らも専任の参謀として、いまこの場で、実地でトキ特任参謀に学ぶのだ」
「はっ! 我々にも作戦参謀としての誇りがあります。まず我らが、彼から学びます!」
「面白くなってきました。まずは、トキどのの次の策に期待するところ大、ですね」
「……ちょっと、風に当たってきます」
俺は、もう耐えられなくなり、外に出た。
丘陵に吹き上げてくる風が、熱くなった俺の顔を冷やす。だが、頭の中はまだ熱いままだ。それは、勝利の高揚感からなんかじゃない。もちろん賞賛されたからでもない。得体の知れない……いや、そうじゃない、得体なら知ってる。リアルな……生々しい恐怖からだと思う。たぶんあの軍人たちにはまったく理解も共感もできない恐怖。俺が「戦の素人」に他ならないがゆえの、恐怖。
俺は、初めて現実の戦場というものを垣間見た。
人間が、あっという間に矢に射抜かれ、剣で切られ、馬蹄に踏みつけられて、一瞬のうちに屍となる。そんな光景を、ここから――遠く離れた丘陵の総司令本部から目にしたんだ。遠目からだとその光景は、まるで人形がバタバタ倒れるように見え、それがかえって……生々しさをもたらした。
あの中には、ついさっきまで飯を喰っていたヤツがいたかもしれない。恋人の話をしていたヤツがいたかもしれない。レベッカを取り囲み白い歯を見せて笑っていたあの少年たちのようなヤツだって、いたかもしれない。
そして……途方もない数の敵の軍兵。
非常識なぐらい広大な平原に見渡す限り続く人の群れ。あの巨大な生物みてぇに息をひそめる大軍が、いっせいに押し寄せてきたなら、終わりだ。絶対に終わる。ひとたまりもないだろう。
手にした『選択ノ書』を見る。
あんなものをマトモに相手した日にゃあ、こんなもん……。
俺は『選択ノ書』を放り投げ出したい気分になった。
背後から声がした。なんだか妙に懐かしいっていうか、甘美っていうか……甘美? まだそんな感情が残ってたのか。こんな生きるか死ぬかっていう場所でさえ。
「あの……いいかしら、お話ししても」
レベッカは、遠慮がちにっていうか、バツが悪そうにっていうか、モジモジしながら立っている。
「まぁ、座れよ」
俺もその場に座った。軍支給の防寒コート越しに、雪の感触が伝わる。
「あ、あの……さすがにこの寒さじゃあ、いつものスーツというわけには……いかないわね」
「ん? でも……ねぇよ」
俺はコートの前を開け、中に着込んでるいつもの黒いスーツを見せた。
「フフッ……アハハハッ!」
素の笑い声だ。久々にレベッカの本当の声を聴いた気がして、なんだかずっと胸に溜まっていた澱みのようなものが、スーッと落ちていった。
「ウフフフ……さすがだわ。こんなところに来ても、イサク……変わらない」
「ばーか。変わってたまるかよ」
と、息巻いてはみたが……。レベッカに対する心のシコリみたいなもんは多少和らいだものの、依然として黒いタールみてぇな不安と恐怖は、消えやしない。そりゃそうだろう。目の前には、相変わらず化け物のような大軍が控えてるんだから。
「あのね……私、あなたに謝らなきゃって、思ったのよ」
少し距離を置いて、レベッカは三角座りしている。うっかり座れよなんて言っちまったが、こいつが着てるのは軍の防寒・防水の衣服じゃねぇ。戦場には似つかわしくない純白の、首周りと手首にフワフワのついた、いかにも王女様って感じの冬服だ。雪が溶けて浸みたりしねぇのかなぁ、冷たくはねぇのかなぁ……なんて、しょうもないことを俺は考えている。
「本当は、あなたにはこんな危ない場所に来てほしくなかった……だから、あなたには黙っていたの、私が戦場に向かうってこと。私なりに……配慮したつもりだったのだけど……」
「俺は、勝手についてきちまった。クロンへイムのおっさんに直談判して。お前の思いを無にしたことになるんだよな」
「……ええ。だから、腹が立ったわ。どうしてわかってくれないの、私の気持ちを受け取ってくれないの……って」
「悪かったって思ってるよ、それについては。けどなっ……」
「ううん、だからね、謝りたいと思ったのよ。あなたは、逆に私を案じて……危ぶんでくれて……」
「危ぶむっていうか、守らなきゃって……」
あれ? うっかり口から出ちまった。守るって……いや、でもそっか、それがしっくりくるな。
「え? あ、ありがとう。そうね、これまでだって私、みんなに守られてたものね。危なっかしいものね……。あのね、私、ずっとあぶれ者だったじゃない? 家族に……親に守ってもらった覚えがないの。でもベルやメラニー、アンディにも助けてもらって、守ってもらってたのよね……もちろんイサクにも」
「まぁ、なんていうか……仲間だからなぁ。あ、でもあいつらにとっちゃ、お前さんは兄妹とか姉妹とか、そんな感覚かもなぁ。歳も近いからさ……俺以外は」
「そうね、イサクは兄妹という感じじゃないわね。頑固な父親と危なっかしい娘、かな」
「あ〜そうかい、俺は頑固親父かい」
いや、ちょっと違うな……違うんだよな。守りたいっていうのは、そういう感情じゃなくて……。
「話がそれてしまったけど……あの、ごめんなさい。心配してくれてたのに、腹を立てるなんて……親不孝な娘みたいなマネをして」
いや、そういうんじゃなくて……。ああ、何なんだ、このモヤモヤ感は……。
「それに、ちゃんと考えて行動してくれてたのよね。ただ単に後先構わず飛び込んできたのじゃなくて、あんなすごい策をちゃんと用意してたなんて!」
ズキンッ! と心臓を鷲づかみされたような痛みが胸を刺した。
脂汗が滲むのを感じる。
心臓も冷や汗を垂らしているみたいに、冷たい動悸を打っている。
思い出しちまった。あのぽっかりと口を開けた底無し井戸みたいな真っ黒い恐怖を。
「さすがだわ、イサク。やっぱり『選択ノ書』の作者よね」
「……やめてくれ」
「20万もの敵軍を、ほぼ無傷で壊滅させたのだもの!」
「そうじゃ……ねぇ……だろう」
「メルケル将軍や参謀たちの言う通りだわ。あんな策、あなたのほかに誰も思いつかないわよ」
「だからっ! やめてくれって言ってんだろっ!」
……わかってんだよ、いろいろと気づかってくれてんだろ? 俺の身勝手な行動を許して、意味づけしようとしてくれてんだろ? けど、それだけじゃねぇよな? お前だって不安なんじゃねぇのか? 希望らしいもんを、拾い集めてぇんじゃねぇのか? それだけ絶望的な状況だってこと、感じ取ってんだじゃねぇのか?
「ごめんなさい……私、何か気に障ること……言った?」
「いや……そうじゃないんだ。悪かった、怒鳴っちまって」
「私ね、心からすごいなって思ったの。あなたが書いた『選択ノ書』で私は変わったのだもの。ベルだってアンディだって変わったわ。たくさんの人も読んで変わった。ううん、変わっただけじゃないわ。私があの囚われの身から助かったのだって『選択ノ書』のおかげだもの!」
「そんな……たいそうなモンじゃねぇんだよ」
「でも! 実際に……」
「いいか? ジ・コ・ケ・イ・ハ・ツ・本だぞ……俺が元いた世界で……平和ボケした世界で……命のやり取りなんかとっくの昔に忘れちまった世界で、願望実現だの自分探しだの本当の自分になるだの……死ぬ気でやる気もねぇヤツらがちょっとカジっては別の本、別の本って簡単に渡り歩いて、ああ何も変わらねぇとか言って、ヌクヌクやってるような……」
「なにを……言ってるのかわからないけど……でも実際に、戦果を上げたじゃない? 戦で結果を出したんだもの。これで次の手が……」
「次の手なんかっ……ねぇんだよっっ!」
「……イサク?」
「見てみろよ、あれを! 何なんだよ、あれは! あんな化け物みてぇな大軍を……60万だぞ? 3倍だぞ? あんなモンを相手にして……ジ・コ・ケ・イ・ハ・ツ・本だぞ? こんなもの……こんなものっ……通用するわけねぇだろうが!」
「そんなこと……」
「怖くねぇのか? 俺は……怖い……あんな化け物……怖ぇよ、俺は……」
「あなたは……信じてないの? 自分が書いた……生み出したものを……」
「俺が書いたものなんかじゃねぇ! どっかのよく知らねぇヤツが書いたものを……カネになるかもしれねぇって、所詮は横流ししただけだ! 」
「……」
「フッ……呆れたか? こんなモンを持ち込んだ当の本人が、実は作者なんかじゃなく、しかもこの期に及んで……信じられなくなっちまってんだからなぁ」
「……」
「けどよぉ……戦場だぞ? 人形みてぇにバタバタと人が……簡単に死んでんだぞ? さっきは敵のヤツらがほとんどだったけど……あんな化け物が一斉に攻めてきたら、今度はこっちの番だろうが。皆殺しだろうが……たまたま打った手が当たっただけで、次の手なんかねぇ俺たちが、マトモにあんな化け物とぶち当たったら……もう終わりだろうが」
「……怖い……のね」
「怖くねぇはずねぇだろ……お前だって……」
「私は、怖くないわ」
「ウソつけ……」
「私は、もう怖くない。信じてるもの」
「……はぁ?」
「私は、信じると、決めたから」
レベッカは、『選択ノ書』を胸に抱いた。
「私は、変われたもの。命を救われたもの。『選択ノ書』のおかげで……教えてくれたイサクのおかげで」
「買いかぶらないでくれ……それは、お前が自分の力でやったことだ。お前にその力があったんだよ」
「違う。私一人じゃ何も変わらなかった……」
「そんなことはねぇって。人はな、変われるか、変われないかじゃねぇ。結局、変われたか、変われなかったか、なんだよ。お前は変わった、つまり、元から変われる力のあるヤツだったんだ」
「わかったようなこと、言わないでっ!」
ビクッ! 俺は反射的に肩をすくめた。
「私のことを勝手に決めつけないで! 何も知らないくせに!」
威厳を持ったその強い口調に、うっかり俺は平伏しちまいそうになった。
「初めてあなたと逢ったとき……私は、逃げることしかできなかった。私のいる世界を変えたかったけど、どうしたらいいか、わからなかった。ずーっとわからなかった。何をしてもダメだったから」
「プッ……クククッ」
思わず吹き出してしまった俺を、レベッカが怪訝そうに見る。
「なっ、何なの」
「ククッ……ハッ! アハハハハ!」
「ちょっと! 人が真剣に話して……いるときは……ちゃんと聞かないとダメなんだからね」
怒ろうと思ったのに、後半は拍子抜けしたのか、子供に言い聞かせるような口調になった。
「わ、悪ィ悪ィ……思い出しちまったんだ。お前と初めて逢ったときにも、こんな感じのことがあったなぁって……」
そうだ、あのときも、こんな感じだった。
異世界転移だか何だかしらねぇけど、この世界に放り込まれて……右も左もわからねぇ状況で最初にマトモに話をしたのが、この子だった。
ただキレイでカッコいい子だと浮かれてたら、そうじゃなかったんだ。
あのときも、俺はこの子の持つ威厳みてぇなモンに、やられちまった。
後になってそれが本当の王族の威厳ってヤツだと知ったが、そんなもん、俺の元いた世界じゃあせいぜいテレビとかSNSぐらいでしかお目にかかれないシロモノで……。そう、あれは衝撃的だった。すっかりやられちまった。
いや、考えてみりゃ、俺はずっとやられっぱなしだったのかなぁ。威厳……だけじゃねぇな。それは入り口にすぎねぇか。要するに……俺は、ずっとこの子に、惹かれてたんだ。どストライクな外見に、声に……凛としていながらどこか抜けていて、けど、キメるときは人を膝まづかせるほどの威風を示す……もうこの子のすべてに、どうしようもなく、こんな狂気じみた戦場にまで追っかけてくるぐらい、惹かれてたんだ。こんなオッサンが……ブザマだなぁ。カッコ悪ィなぁ。
「ねぇっ! 何なのよ、急に黙り込んで……それって、失礼なことなのよ?」
「すまん!」
俺は雪の上にあぐらをかき、体を折り曲げるようにして頭を下げた。
「申し訳ないっ!」
「ちょっ……なに? 何に対してのごめんなさいなの???」
顔をあげて、笑って見せる。
「ま、いろいろさ。いろいろ、悪かった」
単純なことだった。
好きな女の前じゃ奮い立つんだ。こんな狂気じみた、恐ろしい場所でだって。
歳なんかカンケイねぇ……と、俺は思ってる……っていうか、思いたい。とにかく、奮い立つんだ。
「なんつーか、アレだ、昔のサムライってのもきっと、こういう思いで戦に出たんだろうなってことさ」
「さむ、らい? 何なの、それ」
「何でもいいよ。俺の世界……国じゃ、まぁ騎士みてぇなもんかな」
「騎士が、どうしたって?」
雪を踏み締める音をさせながら、ベルとアンディがやってきた。
「あれっ? そういえばお前ら、ずっと見かけなかったけど、どこにいたんだ?」
「われわれ騎士団は、ついさっき後続で到着したんだよ」
ベルは、すっかり傷も癒えたようだ。
「本来僕ら騎士は、国王陛下のもと、王宮の守りが任務ですからね。今回の戦役は総力戦ということで、半数をここに派遣することになっていたんですが、その人選に思わぬ時間を取られまして……」
「急がなきゃならねぇときに時間を取られたって……揉めたのか?」
「はぁ、国王陛下や王族の方々が、その、いろいろと……」
「なるべく精鋭は置いてゆけ……そういうことかしら? そもそも騎士団の派遣にも、きっと反対だったのでしょうね」
「仰せの通りです、姫」
「し、しかしまぁ気持ちはわかるよ。王様や王族の皆さんは、きっと不安で余裕がなかったんだと思うぜ」
表情を曇らせるレベッカを見て、俺は慌てて取り繕った。
「僕は、陛下も王族の方々も、間違ったことをなさったわけではないと思います」
えっ? という顔でレベッカもベルもアンディを見る。
「騎士団にとって王族、とりわけ国王陛下の命令は絶対です。騎士団は本来、国王陛下の私兵であり、それは設立の主意書にもはっきり書いてあることですから」
「それはそうだが、この緊急時に、国難というときに……」
ベルが食ってかかる。
「緊急時であろうと平時であろうと、主意書がすべてだよ。それをないがしろにしてしまっては、もはや騎士団ではない」
最近なにかというとリクツっぽいんだから……というベルの独り言が俺のところまで聞こえてきた。
「ま、まぁでもな、王様たちの気持ちもよくわかるよ。そりゃ心配だろうさ。俺だってついさっきまでは、不安だとか怖ぇとか駄々こねてたんだから」
「ほぅ、師匠がそんなことを」
「イサクどのが、乳飲子のように駄々を!」
「乳飲子まではいってねぇから。この歳で乳飲子って、そっちの方が怖ぇから」
横目でうかがう。レベッカが少し表情を和らげてくれたようだ。
「……で、騎士団はどれぐらいの数なんだ?」
「約2000です」
「2000……か」
「師匠、ただの2000じゃありませんよ。一騎当千の騎士の2000です。誤解なさらぬよう」
「単純計算で200万人って……そりゃもはや、お釣りがくるどころの話じゃねぇな」
正直、焼け石に水だ。いくらツワモノといったって、10人20人で一気に群がられたら……。少しでも戦力が欲しいところに鍛え抜かれた騎士団2000人の援軍……ありがたいことに変わりはねぇが。
「で、騎士団は誰の指揮下に入るんだ? メルケル直轄とか?」
「我々は、姫さまの下に入る。もともと王族警護が任務だからね。メルケル閣下にもその旨、許可をいただいているよ」
ベルのやつ、嬉しそうだ。ホントにこいつは「姫さま命」なんだな。
「それにしてもイサクどの、初戦は見事に策が奏功したそうだね」
またズキッというあの胸奥の痛みがきたが、もう、さっきほどじゃない。
「やはり『選択ノ書』の力は偉大だな。マトモに攻めていたら先陣は攻撃魔法戦が定石だ。あの20万の軍が攻撃魔法で迎撃してきたら、こちらは相当の被害が出ていたはずだよ」
「攻撃魔法……か、そっか……アレだろ? 前に御前試合でアンディがやってたカミナリみてぇなやつだろ? あんなのを、軍人どもも使えるのか?」
「いや、騎士団に比べれば軍人たちが使えるのは単純な魔法だけといっていい。基本的には全面の敵を直線的に攻撃する類のものだね……」
「銃、みたいなもんか?」
「銃は装填できる弾丸数も少なく、せいぜい5発程度。混戦になれば弾込めしている余裕などないから、あまり有効な武器とはいえない。攻撃魔法は高熱の光を相手に照射して、ルクス適性による個人差はあるが、銃に比べれば長時間攻撃できるから、戦での有効性は段違いだ。士官クラスになれば、光の照射範囲も威力も格段に上がるしね」
「レーザー光線とかミサイルみてぇなもんか……そりゃ物騒だな」
俺は、いまさらながら、内心で胸を撫で下ろした。
「ちなみにベル、我らが騎士団の皆さんは全員使えるのか、アンディがやってたようなレベルのヤツを?」
「さすがにあそこまでのものを使えるのは限られているが、それでもあれに近いものや、また別の攻撃系なら、たいていの騎士は使えるし、その威力や多様性は軍人たちの比ではないだろうね。特に我が王国騎士団の攻撃魔法は帝国でも段違いだから、他国の軍人なら知らぬ者はないだろう……まぁ、私はルクス適性が極端に低いからほぼ使えないが……その代わり、剣技なら誰にも引けは取らない!」
たしかにベルの剣なら10人や20人を一気に倒せそうな勢いだし……それにほぼ全員が凄まじい攻撃魔法を使えるっていうんなら……これはあながち……。このタイミングで騎士団の援軍が来たっていうのは……思ってたよりデカい希望かもしれねぇぞ。
「先ほどアンディどのがいっていた一騎当千という言葉は、決して誇張じゃないということだよ、イサクどの」
「師匠、騎士団には騎士団の情報網があるんです。互いに国王をお守りするという誇りがあり敬意を持ち合っていますから、互いに各国の騎士団の実力は把握しています。侵攻軍に参加している騎士団はすべて合わせても、正直、我が王国軍には遠く及ばないでしょう」
「遠く及ばないって……どれぐらいの力の差なんだ?」
「まぁ、大人と子供、といって差し支えないかと。無論、これも誇張などではありません」
……いけるんじゃねぇのか?
こっちの騎士団が本気を出しゃあ、あの雲霞みてぇな数の大群も蹴散らせんじゃねぇのか。
「ベル、アンディ! よく駆けつけてくれた! 」
二人の手を取る。心強いったらねぇ!
「それに、希望は、まだ他にもあるわ」
レベッカが立ち上がった。
「初戦で放ってくれたイサクの策は、まだ生きているのじゃないかしら? 巨体に毒が回るみたいに」
「あ、そうですね、姫さま。イサクどのの打った手は、やはりとてもよい手でした。もう次の手なんか無い……などと泣き喚く必要が無いぐらいに」
「……そこから聞いてたんだね。恥ずかしいところからしっかり聞いてたんだね。お願い。忘れて」
「初戦で敵軍が一切攻撃魔法を使わなかったということは、魔碯石が誤作動を起こしてきている、という情報がまんまと鵜呑みにされ……ダミー部隊が演じた同士討ちや肝心なときに魔法が発動しないという演技がそのまま信じ込まれた可能性が高い。その結果20万の兵が壊滅したのなら……」
「そうよ、ベル。敵軍は、次に攻撃したときも怖くて攻撃魔法が使えないはず」
「いけるぞ、いける! 魔法が機能しないヤツらに対し、こっちはふんだんに魔法を駆使できる精鋭の騎士団だ。ヤツら、パニックに陥るぞ。そこへこっちの軍を投入すれば……いける! 戦力差は決定要因じゃなくなる!」
「……しかし、こちらが魔法を駆使すれば、敵も早晩、偽情報に気づくでしょう。そこまでが、勝負かと」
「だな、ベル。速攻で仕掛け、速攻で掻き乱す。ヤツらが気づいたときには手遅れ……ってとこまで行けるかどうかが、勝負の分かれ目だ」
「イサクどの、閣下に進言を!」
「行きましょうイサク。私もメルケル軍相にお伝えしたいことがあるし」
「急がねぇとな……」
「我々も同行するよ、イサクどの」
「ああ、助かるよベル。お前たちも来てくれりゃ、説得力が違うぜ」
メルケルの爺さんのことだ、すでにこのぐらいのことは気づいて、具体策を立案してるかもしれねぇ。戦巧者だからな、この機を逃さねぇはずだ。……面白くなってきたぜ。
走り出した俺たちの後ろでアンディが何か言おうとしてたようだったが、ベルが「いまはリクツをいっている時間は無い! 」と言い放って捨て置いた。
後からそのことを、俺は死ぬほど後悔することになる。




