第6章『SEVEN DAYS WAR』06
翌11月29日。朝10時の鐘が鳴るのと同時に、ランデルが入室してきた。
「いやはや、すっかり寝坊してしまいました。いつもは9時には仕事を始めるのですが。いえ、本当ですよ。私は本来、時間には厳しいのです。1分1秒が貴重な人生の一部ですからな。そうお思いになりませんか、殿下」
レベッカはベッドの上で目を覚まし、寝乱れた衣服の裾を整え、太腿を隠す。
「おやおや、寝着に着替える間もなく布団もかけずに眠り落ちてしまわれたようで……お風邪など召しませんでしたかな?」
「……女性の寝室に許可なく入ってくるとは、ずいぶん不躾ね」
「ノックはしたのですけどねぇ。お返事がなかったので、何かあってはいけないと心配のあまり入ってしまいました」
「自決でもしたと思ったのかしら? こんな刃物も何もない部屋で」
「ハハハ! やろうと思えば舌を噛み切ることぐらいはできるでしょう?」
「馬鹿馬鹿しい。必ず生還できるとわかっているのに、そんなことするものですか」
「興味深いことをおっしゃる。この状況から脱出して帰還できると?」
「帰還できるできないという話ではなく、帰還するのよ」
「うははははは! どうやって? 魔法でも使うつもりですか? あぁこれは失礼……殿下には酷な話でしたなぁ」
「方法は知らないし興味もないわ。でも、私が選択したのよ」
「そうですかそうですか。もちろんあなたが何を選択するかは自由です、どうぞご勝手に……」
待てよ? 選択……『選択ノ書』とこれは何か関わりがあるのか? ランデルの眉がわずかに動いた。
「まぁいい。お二人には朝食をご用意しておりますが……どうなさいますかな?」
レベッカは、ベルに目をやった。ベルは、うつむいたまま首を横に振った。
「この後のことを考えれば、私も無理にはお勧めしません。召し上がったところで、どうせすぐに嘔吐してしまうでしょうからなぁ……うむ、召し上がらない方がよいかもしれません」
言いながら、二人の様子をランデルはうかがっている。恐怖というものは、こちらから与えるより相手の想像力に訴え、相手が自ら育てる方が大きく深くなる。が……
(妙に落ち着いてるな。それとも、虚脱してるのか?)
「ではお二方、30分差し上げます。まずは着替えをなさってください。お化粧もどうぞ。淑女の身だしなみを妨げることは致しませんから……たとえすぐにズタズタになるとしてもね」
(……フゥム……まただ……反応が薄い……)
涼しい顔を崩さないまま、ランデルは部屋を出て行った。
軽食を済ませ、お茶を賞味した後、きっちり30分後にランデルは戻って来た。室内のレベッカとベルの姿を見て、彼は思わず息を呑んだ。うかつにも、美しいと思ってしまった。
(もっと悲壮な顔をしていると思ったが……)
ランデルの眼に一瞬苛立ちの光が差し、すぐにそれは残虐な光に取って代わった。
「さて、ベル殿、隣室へどうぞ。今日は殿下もご一緒に……」
レベッカの表情は変わらない。ただまっすぐにランデルの眼を見ている。
「ご心配なく。王族の方に無体なことは致しません。殿下には、見物をしていただきます」
まだ、見ている。視線をはずすこともなく、視線が泳ぐこともなく、心の底を射るように見ている。
(上等だ。その小生意気な態度、叩き壊してくれる。泣き叫びながら命乞いでもするがいい)
ベルが複数の男に支えられながら足を引きずって出ていく。レベッカは悠然とその後に続く。
隣室は、壁石がむき出しになった殺風景な部屋……というより、屠殺場と呼んだ方がよいかもしれない。床も冷たい石、部屋の四隅には排水溝が設けられている。部屋の奥には拘束具がついた巨大な十字架。周りには目をそらしたくなるような凶々しい道具が、いくつも架けられている。男たちは黙々と手際よく、ベルを十字架に保定する。手に足に拘束具を嵌める硬質な音が、室内に響く。ベルの大きな身体が、余計に悲壮感と痛々しさを強調させる。
ランデルは、入り口付近に椅子を2つ用意させ、1つを指差す。
「さあ殿下、こちらへどうぞ」
レベッカは座らない。無言のまま、立っている。
「好きになさるがよろしい。ところで殿下、まだお考えは変わりませんか?」
「……」
「そうですか。ではやむを得ませんな」
ランデルが目で合図すると、ベルの両脇に立つ男たちが小さく薄いペンチのような工具を手に、ベルの左右の足の親指の爪を挟む。ベルは目をつむり、唇を噛んでいる。
工具がゆっくりと爪を湾曲させる。どんどん湾曲させる。なんともいえないイヤな音がする。ベルの悲鳴がそれをかき消す。
バリッ!
拍子抜けするほど軽い音がして、爪が剥ぎ取られた。爪のあった場所に血が滲み玉となる。
「殿下、お気持ちが変わったらいつでもおっしゃってください」
工具が次の人差し指を挟む。またジワジワと湾曲させてから――
バリッ!
「やれやれ、足の指の爪が全部無くなってしまいましたなぁ」
男たちはまるでエステシャンが淡々と仕事をするように、今度は手の親指を――
バリッ!
ベルは、悲鳴を噛み殺し、全身をのけ反らせる。目にはうっすら涙が滲んでいる。
「さぁて、次はどうしましょうかねぇ」
横目でレベッカの様子をうかがう。レベッカは直立したまま、胸の前で手を合わせ、目を閉じている。その目が開き、ランデルを見据える。
「あなたは……勘違いをしている。こんなこと……すればするほど……ベルは強くなる。たとえ首を刎ねられたって……彼女は屈しない。だから……私も……屈しない……彼女のために」
ベルが、うつむいて髪が覆い隠す口元で、微かに笑った。
「……姫さま……よくぞ……おっしゃいました……それで……いい……」
そこまで言うと、渾身の力を込めて顔を上げ、ランデルを睨めつける。
「ランデルっ! あいにくだったな。お前のおかげで私の意志はいや増した! この痛みはっ……私を冷静にする! お前への怒りなど、お前に力を与えるだけだ。そんなこと、してやるものか! 次はどうする? 目をえぐるか? 舌を切るか? 私の心はすでにそんな茶番の外にある。私の肉体を痛めつければ痛めつけるほど、私の心は望む世界に飛んでいく! お前など存在しない世界へ! 私がそれを選択したんだ! お前がどれほど私の肉体を虐もうと……私の意図を凌辱することはできない!」
(笑っていやがる……こいつ……狂ってるのか? )
ベルの眼が爛々と光を増している。いまにも大声で笑い出しそうだ。
(狂っていやがる……狂人相手に強行手段を続けるのは得策ではない……か)
「殿下……我々はベル殿を癒すことができます。治癒魔法を使えば、爪も元通りにすることができるのですが……いかがでしょうなぁ」
ベルは、薄ら笑いをやめない。レベッカの様子も変わらない。胸の前で手を合わせ、瞑目している。その頬に一筋、涙が落ちた。取り乱すでもなく、嗚咽するでもなく。ただ静かに、涙は一筋だけ流れた。まるで、悲しみも怒りも憎しみも手放すための単なる儀式のように。
レベッカの眼が、開いた。その眼に光はなかった。希望も絶望もなかった。何も見ていなかった。見ているのはその眼ではなく、頭の上のどこかにある彼女の意識だった。
「ベル、私は誤っていたわ。オーバー・タグに陥っていた。重要度を上げすぎていた」
「……気づかれましたね……仰せの通り……です……姫さま」
「私は……ベル……私はね……」
レベッカのまなこに、涙が溜まっている。だが、それは、落ちない。
ベルが、その涙を見ているから。
ベルの涙も、レベッカの眼に映っているから。
「私はね……ベル……ベル……」
ベルが、うなずいている。すべてわかっています、と眼が伝えている。
「ベル……私は……」
「おやおや、困りますなぁ、勝手にお喋りなどしてもらっては」
「ーー私はもう逃げない。私は、選ぶ! 私は、決める!」
「おいっ、いい加減に……」
「ベル……アウスヴァールしてるわ、いま……」
「気が……合いますね……私もですよ……姫さま」
ベルが、不敵にニィッと笑う。
ランデルは、怒りを押し殺すように深呼吸すると、静かな声で言った。
「困った方々だ……よろしい。罰として、目玉を抉って差し上げます」
ランデルは右手を挙げ、下ろす。ベルの傍らの男が、壁に架けられた細い錐のような鉄具を手に取ろうとして……小さな声を上げた。鉄具が何かに引っ掛かり、無理やり外そうとして自分の指を切ってしまったらしい。
「何をしてるっ! 」
傍らのもう一人が駆け寄り、鉄具を外そうとする。
「待て……」
ランデルが制止した。
「……手当てした方がいい。行け」
男の傷は思いのほか深いようで、血がポタポタ落ちている。もう一人の男に連れられて退室したその通り道に、転々と血の跡が残った。
「興醒めだな……責める方が血を流すなど……」
ランデルがハンカチで口を押さえる。
「仕切り直すぞ」
残った配下4名に命じて慎重に鉄具を取り外させ、そのうちの一人がそれを手にしてベルに近づく。
「お待たせしてしまいましたな。不手際をお詫びします。さぁ、再開しましょう」
見ると、ベルは薄笑いをやめていない。レベッカも、つまらない劇でも眺めているように、顔色ひとつ変えずに鉄具の男に目をやっている。
(……どうなってるんだ。こやつら、本当に気が触れたんじゃないのか。忌々しい……)
「ベル、アウスヴァール……続けるわよ」
「よろしい……ですね……私も……お供……致します」
ランデルは露骨に不快を示す。
「ええい、わけのわからんことを! やれっ! 両目を抉ってしまえっ!」
一人がベルの髪を掴んで顔を上げさせ、無理やり左目をこじ開ける。もう一人が、鉄具の鋭利な尖端を近づける。ベルは渾身の力で頭を振る。一人が力づくで押さえようとするが、なかなかベルの顔を保定できない。何度か鉄具の尖端が左目を捉えようとするが、すんでのところで顔が動き、狙いが外れて頬や額に突き刺さる。
「何をしてるっ! しっかりやらんかっ!」
痺れを切らせ、自らやろうと歩を進めたとき、窓の外から怒声のような音が割り込んできた。ランデルが窓を開け階下をうかがうと、守衛同士が何やら揉めているようだった。互いの腕を掴み合いながら罵り合っている。
「貴様らっ! 何をしてるっ!」
守衛たちはどんどん激昂し、殴り合いを始めた。このままでは剣まで抜きかねない勢いだ。
「くそっ!馬鹿どもめ……おいっ、お前らもついて来い!」
怒り心頭で階下に向け飛び出そうとしたとき、背後から鋭い声がした。
「ランデルっ!」
ピタリと足を止め、振り返る。声の主、レベッカが、真っ直ぐに立ち睨みを利かせていた。二人の視線と視線がぶつかり火花を散らす。
「い、いけません……姫……さま。ヤツをいま……刺激しては……」
しかしレベッカは、おとなしくするどころか、一歩前に足を踏み出す。それに気圧されるようにランデルが一歩、下がる。
「お、お前……」
それまで氷のように表情を変えなかったレベッカが、ニィッと嗤った。ランデルは何かに気づいたかのように顔をこわばらせた。
「まさか……」
「望み通り見せてやったぞ。これが、『選択ノ書』だ」
「きっ、貴様ぁ……」
ベルは残った力を振り絞って拘束具をはずそうともがく。手足に血が滲む。だから言わぬことではない……ランデルを逆上させてしまった……姫さまが危ない……。しかし拘束具は無慈悲にベルの体を離さない。そこに――
ぎゃあああああああっ!
階下から凄まじい悲鳴が聞こえた。尋常な声ではない。
ランデルは踵を返し、猛然と外へ駆け出した。慌てて配下の男たちがそれを追った。
しんと静まり返った拷問部屋に、レベッカとベルだけが残された。レベッカはベルに駆け寄ると拘束具を外し、倒れ掛かってきたのを抱いて受け止めた。
「……す、すみません……」
「いいから! 歩ける?」
足を踏み出したベルは、足の指の激痛で膝をついた。
「……姫さま……私に構わず……行ってください」
「バカ言わないの!」
ベルに肩を貸し、ヨロヨロと歩く。が、大柄なベルは重い。たまらずレベッカも膝をつく。
「お願いです……姫さま……行ってください」
「おあいにく様ね、ベル、私はあなたと二人で生還するって……意図……しちゃってるの……よっ」
両足を踏ん張って、再びベルを支える。
このままでは、逃げ切れるはずがない。すぐにランデルたちが戻ってくる。そうなれば二人とも取り押さえられて……今度はレベッカも……。
ベルは、残る力を込めてレベッカを突き放し、舌を噛み切ろうとする。レベッカが慌ててベルの口に手を突っ込み、それを阻止する。レベッカの指を吐き出したベルが、懇願する。
「姫さまっ、死なせてくださいっ! 私さえいなければ……」
「バカっ! そんなことできるわけないでしょっ!」
「バカは姫さまですっ! 逃げて……逃げなさいっ!」
ガタン! と扉の外で音がした。
「……戻って……来た……」
ベルはレベッカの盾になろうと前に立ち、レベッカが入れ替わってベルの前に立つ。また、ベルがレベッカを押しのけて盾になる。
ガチャッ……
扉が開いて立っていたのは、先ほどベルの眼に鉄具を突き刺そうとしていた配下の一人だった。ベルが大の字になってレベッカを背中に隠す。
と、そのとき――。
男の体がグラッと揺れ、床に倒れた。代わりに現れた男が剣を手に尋ねる。
「ベルどの……か?」
見覚えのない顔を、ベルは凝視する。
「レベッカ殿下は?」
ベルは、警戒し、大の字の手足を伸ばす。
「ご安心ください。お救いに参りました」
レベッカが、ベルの体越しに顔を出す。
「殿下! ご無事で……」
「名を……名乗りなさい」
男は、その場で跪き、恭しく名乗った。
「フェルセン軍、特務将校のグスタフ=マグヌス・フォン・キルケ少佐であります! 私の部下が、すでにここを制圧しております。さ、敵の援軍が来ないうちに、早く!」
レベッカとベルは、全身の力が抜け、床に座り込んだ。




