第5章『出航』06
「レベッカ姉さま、このところあまり寝られていないんでしょう?」
ジョシュアは、まるで自分の部屋のようにレベッカの執務室に入ってくる。咎めようと思ったことは何度かあるが、輝かんばかりの美しい笑顔で来られると、つい許してしまうのだ。
「そうね。でもこういう状況下だから仕方ないわ」
「ダメですよぉ、睡眠不足は美容の大敵なんですからぁ。どんなときでもちゃんと寝ないと」
「はいはい。努力します」
「姉さま、ぜんぜんその気ないでしょう」
「その気はあっても本当に忙しいのよ……」
ジョシュアは、ソファに座りながらピョンピョン跳ねている。
「あ、知ってますよ、特任参謀の要請があったんですよね。すごいなぁ、さすが姉さま!」
「ちょっ、あなたどこでそれを……」
「いつも言ってるでしょう、ボク、軍にも友だちいっぱいいるって」
この話、まだ正式に通達されていないはずじゃなかったかしら……。まぁ、すぐに知られることで秘密というわけじゃないから問題ないとは思うけど……。
「で、引き受けるんですか?」
「まだ、迷っててね。もうちょっとよく考えないと……」
「姉さま、その話、どっちみちすぐに動くってわけでもないみたいですよ」
「どういうこと?」
「あれ? まだ知らなかったんですか? 次の侵攻、少し先になるらしいです。2〜3ヶ月ぐらいは先じゃないかなぁ」
「ジョシュア? それって……」
「はいっ! 不良クンたち情報です!」
実は、初戦の侵攻日が3日早まるという情報を最初に知ったのはジョシュアからだった。そのときは半信半疑だったが胸騒ぎがしてノルデンフェルトにカマをかけたところ、これから軍相に報告するところだったとのことで、急きょレベッカから報告することに切り替えさせたという経緯があったのである。ノルデンフェルトよりも早く、ジョシュアは情報を掴んでいたことになる。
「あのね、侵攻軍のヤツらはこっちが思ってる以上に初戦の負けが響いてるみたいで、かなり慎重になってるみたいだって友だちが言ってるんだ。ボクって、姉さまの役に立つでしょう? 」
やはり鵜呑みにはできない。が、前回のこともある……。
「ちょっと出てきます」
「あっ! ノルデンフェルト侯爵のところですね! ボクも一緒に……」
「だめっ! 子供はここにいなさい」
「ちぇっ」
駆け出して行くレベッカを、ジョシュアはうらめしそうに目で見送った。
ノルデンフェルトが驚いたのは、レベッカの急の訪問より彼女が持ってきた情報に対してだった。
「……まったく先日のことといい、一体どうなってるんでしょうねぇ」
「侯爵、どうなのですか。侵攻軍がしばらくの間は動けないというのは……」
「ふぅむ……ありますよ、確かにそういう情報は」
「侯爵! なぜそのことをあなたは……」
「殿下、勘違いをなさらぬよう」
「……」
「このような重要なこと、未確定な状態で軽々しく申し上げられるものではないのです。それは、お解りですね?」
「わかっています……つい大きな声を出して、ごめんなさい。侯爵、お約束いただけますか、確実な情報が入ったときは真っ先に私にお教えいただくと」
「心得ておりますよ、殿下。いまはあなたが軍や政府に対して発言力を増やすことが肝要でありますからなぁ。確定情報はぜひあなたから軍相や丞相にお伝えくださいな」
微笑んでいるようでもあり、腹に一物を含んでいるようでもある。いつもながら真意が読み取れない表情といでたちだ。
「ときに殿下、耳にしておりますよ……特任参謀の件」
ジョシュアといいこの男といい。どこから情報が漏れているのだろう。
「お受けするかどうかは……まだ検討中……です」
「おやぁ? ま〜た決められない病ですか。まぁいまはそれも結構でしょう。とりあえず火急の事態ってわけでもないですから。ただ、その話があったということが重要なのです。着実にやりやすい方に進んでいるじゃないですかぁ、殿下」
「私利ではありません……」
「もちろんですよ殿下! こう言ってはなんですが、他の王族の皆さまには残念ながら危機感というものが欠けておられる。唯一、殿下だけだと私は感じ入っているのです。殿下にはもっともぉっとお力を持っていただかないと」
ノルデンフェルトは、大仰な魔術師のような身振りをした。
「侯爵、頼りにしておりますから」
「これはこれは畏れ多い……ですが、どうかご安心を。いま殿下と私めは同じ利害の中にいると思っていただければ」
上目遣いの眼に光が刺す。
「殿下、こたびの特任参謀の件を機に、諸侯の間にとある動きが起きているのをご存知ですかな?」
「クロンへイム丞相から小耳にはさむ程度には。詳しくは知りません」
「殿下が思っておられる以上に、いま殿下を支持する諸侯は膨れ上がってきてるのですよ。そう、例の『選択ノ書』の浸透によってね」
「ルクス適性の恩恵を受けられなかった諸侯たちが、魔法に頼らない道を『選択ノ書』に見出したと私は理解していましたが……」
「それはキッカケ、ですよ殿下。彼らはいま、あなたに希望の光を見始めたのです。誰もが見て見ぬふりをしてきた魔碯石枯渇問題を真正面から見据え、具体的な解決策のひとつとして『選択ノ書』を仕掛けた殿下のことは、いまでは諸侯の間で知らぬ者はいない。ご無礼ながら……自らがルクス適性ゼロのあなたが、王族からの冷遇をものともせず道を切り拓いたことは、似た境遇の者たちには思いのほか響いているのですよ」
そんな立派なことではない。家族からの冷遇に一度ならず自暴自棄なってきた。諦めてもきた。逃げてだってきた。私自身が私のために、つらい現実をどうにかしたいとあがいて『選択ノ書』にすがってきただけのこと……。偶然イサクに出逢って、友や仲間に恵まれてその時どきを凌いできただけのこと。肝心なことはいまだに決められないしーーみんな私のことを買いかぶっている……。
「人はねぇ殿下、偶像を求めるのですよ」
ノルデンフェルトが時折見せる、すべてを見透かしたような視線。
「真実など知ったことではない。そんなものに興味などないのです。ただ己の境遇が上向きになり、つまらない現実が変わるのならなんだってよいのです。なんだって利用するのです。それが、偶像だ」
黒い影絵が、口元だけを三日月のように開いて弁舌を振るう。レベッカにはそんなふうに見えている。夢か現かわからないような、少し不愉快で少し心地よい曖昧な感覚。これはノルデンフェルトの魔法なのかもしれない。
「殿下は、偶像とされたのですよ」
レベッカはこの不透明な感覚を振り払おうとして頭を振る。
「しかしよいではありませんか。偶像はただ飾られていなければならない……そんな法はないのです。偶像は動くこともできる。動けばいい。あなたを利用する者たちを、あなたも利用すればよいのです」
「利用……する……」
「おやおや、殿下は本当にお人が悪い……はなからそのおつもりだったでしょうに」
「……違うっ、私はただ……」
自室に戻るや、レベッカはソファに崩れ落ちた。
――私はただ……
その先に何を言ったのか、覚えていない。
ソファに座り直して、プラチナ色の髪をワシャワシャと掻き回す。そういえば煮詰まったときや困ったとき、イサクがよくこうやっていたのを思い出し、レベッカは失笑した。無性にイサクの声が聴きたいと思った。
ベルやアンディはたしかに頼れる仲間ではあるけれど、騎士と王族という確固たる一線がある。彼女たちは騎士であることに揺るぎない誇りを持っている以上、どうやったってこの一線はついて回る。それはそれでよい。否定はしないし、むしろ真から頼れる証だ。
だがイサクは違う。彼にはどこかこの世界に対して冷めたところがあるように感じる。
――俺は……まぁ、あの……そう、異邦人みたいなもんだよ。
初めて逢ったとき、彼はそう言った。あのときは受け流したが、あれは彼の立ち位置のようなことを指していたのではないだろうか、いまとなってそんなふうに思う。
異邦人が異国を見るような目線。それは興味津々ではあるけれどどこか冷徹で、好意的ではあるけれどどこか他人事で、だからこそ純粋になりきれる目線だ。
その国の人たちが疑いもなく信じ込んでいるものを、彼は信じ切ってはいない。彼は、何も信じ切ってなどいない。いい加減でチャランポランな性格があることは否めないが、そういうことではない。人々が信じて疑わないものを誰よりもしっかりと見据えるのだ、誰よりも冷めた眼で。それはたぶん冷静といってもよいものだ。彼だけが、私を単なる一人の人間として見ることができているのだと感じる。
だから……いま、無性に彼の声が聴きたい。
彼がいつでもあの仕事場にいて、隣からメラニーも出入りして、思い立ったときにベルやアンディを誘って遊びに行けて、地方巡業で羽目をはずして……あのときとはあっという間に状況が変わってしまった。いまはイサクも私も、いつまた再来するかしれぬ脅威を前に、それぞれがやらなくてはならないことに追われている。最優先にしなくてはならないことが山積している。
ジョシュアが言っていたことが……しばらくは侵攻はないと言っていたことが事実であってくれたら、少しは心を休ませることもできるかもしれないのだけれど……。
レベッカは、ふたたびソファに身をなげ、髪をワシャワシャと掻き回した。




