第5章『出航』01
9月に入り、涼しい風が吹き始めてきた。この国は真夏でも酷暑というわけではないが、やはり秋の気配は別物の心地よさだ。
このところ二日に一回は王宮に参内している。
例の『選択ノ書』抜粋版は『勝利ノ書』というタイトルで一応完成した。
「オーバー・タグ」「アウスヴァール」「意図」の3つの要素に絞り込んで俺の注釈も入れ込んだもので、『選択ノ書』とともに現在は政府の極秘指定書とされ、厳重に管理されている。これまで広く購入されたものはいったん政府預かりとして回収。戦役が終わるまでは読んだ内容についても緘口令が敷かれた。
それにしてもこのベルがつけたタイトル……俺的には何だか後ろめたさがつき纏っている。
ベルにもレベッカにもそのつもりはないんだろうが、戦意高揚っていうか洗脳っていうか、そういう臭いがどうも拭いきれなくて。俺、日本人だからなぁ……。
繰り返すようだが、もちろんベルたちにはそんなドス黒い底意なんてないと思う。ベルは毎回の兵士たちや士官たち対象のレクチャーに積極的に参加してくれて、とても助かっている。手応えがあったときは、実に爽やかに喜びを共にしてくれている。ホントにいいやつなんだ。
レベッカを取り囲む環境は、このところ動きが激しくなっている。王宮内での影響力が、日に日に拡大しているようだ。メラニーの情報によれば、どうも王宮内には「急進派」という一派が存在するらしく、来るべき魔碯石枯渇に備えて魔法に頼らない国政へと改革するためにレベッカを担いでいるらしい。
今回の3国連合による侵攻を無事切り抜けることができれば、一気に急進派の勢力は増し、場合によっては内閣の総入れ替えやレベッカの入閣さえあり得ると、メラニーは言っている。なんだかレベッカがどんどん手の届かないところに運ばれていくようで心境複雑ではあるが、まぁとにかくこの国難を乗り切ることが、いまは先決だ。
メラニーがこんなことを言っていた。
「レベッカがすごいと思うのは、急進派にただ担がれているだけじゃなくて、うまいことコントロールしてることなんですよねぇ。彼らを後ろ盾にして、着々と自分の発言力を強めてるって感じなんですよぉ」
その背景には、クロンヘイムとかいう丞相の協力があるようで、このオッサン、今ではすっかり彼女に心酔して支援者みたいになってるとのこと。おまけに王様にも強い影響力を持つナントカ侯爵っていう曲者まで巧みに動かしてるっていうから……あいつ実はとんでもない男ったらし……じゃなかった、人たらしなのかも。でもオトナってのは怖いからな、下心……じゃなかった、二心には注意しねぇとな、レベッカのやつ。
一見すると、「私は、選べない」とか言ってメソメソしてたヤツとは思えない変わりようだが、人間、そうそう簡単に変われるもんじゃねぇだろう。どっかでムリしてるんだと思う。心がぶっ壊れなきゃいいんだが……いまはそんな心配もしてられねぇってことか。
とにもかくにも、彼女の描いた設計図の通りに王国はいま体制を整え、出航を始めたって感じだ。ただこの出航、戻ることも沈むことも許されない一方通行だ。嵐にビビって帰港しても、操舵を間違えたり船員が騒いだりして沈没しても、それはこの国の終わりを意味するだろう。
幸いなことに、『勝利ノ書』のレクチャーは、思いのほか順調だ。やはりこの世界の住人は、素直なんだ。特に大半が魔法使用者……「エレクトゥス(選ばれし者)」なだけに「アウスヴァール」の概念に対する理解が早い。目に見えないパラレル世界をあっさり受け入れるし、それへの疑いも皆無といっていい。『選択ノ書』は魔法を持つことが許されない庶民層から受け入れられたが、それでもいきなり食いついてきたわけじゃない。
最初の最初はパラレル世界なんていう得体の知れない概念がなかなか信じてもらえず苦労したんだ。その苦労が、兵士たちには、ほとんど無い。
「ほとんど」というのは、つまりこういうことだ。
レクチャーすると実感するんだが、質疑応答のとき必ずといっていいほどアウスヴァールについて尋ねてくるのは、受講者のほぼ2割。そう、ベルが言っていた非エレクトゥスの割合と符合する。
パラレル世界を選択するというのがアウスヴァールの本質だが、その前提となるパラレル世界のイメージがどうも非エレクトゥスには掴みにくいらしく、まさに庶民層のときと同じような苦労をいま俺はしている。
ただ、あのときとは明らかに状況が違う。その2割は、いま並行して魔碯石の配布と魔法使用のための訓練も進められているということだ。そしてそいつらは日々エレクトゥスに囲まれて生活してるから、魔法の習得も速いだろう。間違いなく庶民層より速くアウスヴァールを理解するはずだ。
というわけで、俺はいま先を見越して「オーバー・タグ」「意図」を中心にしたレクチャー・プランを作っている。
とりわけ戦争が始まれば最前線に立つ兵士たちにとって、勝利への過剰な思いや生還への執着なんかは大きくなって当然だ。オーバー・タグのコントロールは至難の業だろうし、これが成否を分けるカギになるのは間違いない。
短期で志望大学に合格させなくちゃならない予備校講師の心境だが、一生懸命レクチャーに臨む彼らの顔を見てると、こいつらの誰一人として戦場で散って欲しくない、みんな生きて帰ってほしいって思いが日毎に強くなってる。こんな俺を……三流自己啓発作家だった俺なんかを「教官」って呼んで信じてくれてるヤツらを、裏切ることなんてできない。
ガラにもなく熱くなっちまうが、この熱さを、真っ先に冷まさなくてはならない。これもまたオーバー・タグだから。
***
クラウス=ニコラ・フォン・メルケル将軍は、王国軍を統率する軍相である。
代々有能な将軍を排出してきた家系に生まれた根っからの軍人だ。
左右に張り出した見事なカイゼル髭はまさに彼の強靭な意志を象徴しているが、まだ50代とは思えない老成した印象を与えている。家柄だけで名ばかりの将軍も少なくない中、彼は筋金入りの名将で、これまで5度の戦役に出陣し大勝を遂げている。苦戦を強いられたときは自ら愛馬を駆って陣頭に立ち、兵士を奮い立たせて逆転勝利をもぎ取ってきた。国外にもその名は轟き、彼の姿が戦場に現れただけで敵軍が退散したこともあるという。
軍相に就任してからは軍制改革に取り組んできた。
秀でた軍人ではあるが政治や組織づくりを不得手とするメルケルは、この任を二人の部下に一任した。
一人はアルフレッド=ハンス・フォン・ローデン中将。
メルケルと同い歳のこの将軍は、士官学校も同期で長きにわたり戦場を共にしてきた盟友でもある。天性の組織運営の才があり、かねてからメルケルはそこに目をつけていた。現在、王国軍のエレクトゥス(魔法使用者)率が他国と比べて段違いに高く強力な戦力に育ったのも、ローデンの功績が大きい。
もう一人は異質な軍人エルムート=ラファエル・サリアン准将。
彼が異質といわれるのは、まずその弁舌の巧みさのためといってよい。厳格な軍の中でも彼が率いる部隊はいかにも自由である。妻や恋人、子供の肖像を持ち歩き、楽器の持ち込みも可。野営していても笑い声の絶えることがない。一歩間違えれば規律を失った無法状態に陥るところだが、決してそのようなことはなく、いざ戦闘状態になると見事な統率を見せる。
実力以上の力を集団に発揮させる術において、彼の右に出る者はいない。どのような窮地に立たされても、サリアンの笑顔がたちまち恐怖心をとろかし、こわ張った身体を緩ませて兵士たちに身体能力以上の奇跡的な力を発揮させるのだ。一名「笑う常勝将軍」といわれる所以だ。
彼の異才はそれだけではない。とにかく目端がきくというのか、数字にめっぽう強い。
綿密な確率論や統計で戦術を立て、あたかも自然法則に従って万物が動くように見事に敵を動かし、術中にはめていく。彼の指揮した戦いのほとんどは、敵方の全滅で終わっているが、それは戦術ばかりではなく味方の人心をも数字を活用して掌握する結果でもある。彼は、決して笑顔だけで軍を引っ張っているわけではない。
軍制改革は、この二人の天才によって着々と進められている。メルケルは、見抜き、任せ、責任を取る。まさに人の上に立つべくして立つ軍人なのだ。
執務室ではメルケルがサリアンからの報告を受けていた。
こたびの戦役は類を見ない大軍が相手という情報は士官クラスまで共有されている。兵士たちはその情報を知らされていないから意気高揚としてレベッカ王女の発案によるレクチャーを受けている。それを時折りサリアンが視察してまた士気は湧き立つ。知らぬがゆえの高揚感。兵士はそれでいい、とメルケルは思っている。一軍の将には非情さも必要なのだ。
いまの課題は、上級士官たちだ。正確な情報を持つことは指揮官として必要だが、心理面では両刃の剣である。今回のように圧倒的な戦力差は、多くの上級士官たちを不安のどん底に叩き落とす。士官学校を優秀な成績で卒業した彼らはの多くは「考える」クセを持っている。考えるから不安になる。不安はまた悲観的な考えを生み、不安の火にさらなる油を注ぐ。このループは、敗北の方程式だ。これをどうにかするのがサリアンの手腕なのだ。
「軍相閣下、以上のように佐官クラス3800名のうち、現時点では約80%が安定した精神状態を保っております」
「……君が発案した心の状態を測るテストと面談の結果、か。最終的には戦場に臨むまでわからぬものだが、まぁ現状では悪くはない数字ということか」
「残りの20%につきましても、2週間ほどで安定レベルまで引き上げられるかと」
「ふむ……」
メルケルは席を立ち、窓の外に目をやる。
「それも数字、か」
「組織の運営にも改革にも数字は必要ですよ、閣下」
メルケルは後ろ手に向き直る。
「重々わかっておる。だからこそ、君を抜擢したのだ」
「閣下、誤解のないよう申し上げますが、実のところ私は数字というものを信じ切っているわけではありません。ただ、兵たちの犠牲を最小限にするための有効な道具であることは、信じて疑いません」
いかめしい顔のメルケルにも、臆せず笑って見せる。
「それでよいのだ。信じるべき確固たるものを持つものこそ、信じられる」
「……閣下も、なかなかの弁舌家ですな。では、戻ります」
敬礼して、サリアンは退室した。
執務室のもう一つのドアが開き、ローデン中将が入ってきた。
「やれやれ、まったく……洗脳のようなものだな」
階級としてはメルケルは一階級上の大将だが、個人的には士官学校以来の旧友である。
「そう。彼のしていることは、一種の洗脳に近い。だが、彼には実績がある」
「やつの作り上げる軍もまた一つのあるべき姿、ということか」
「その通りだ。戦というものは、敗ければ全ての意味を失う。全て、だ。彼は、負けを知らぬ」
「クラウスらしいな。それでいいと思うよ」
メルケルは肩だけで笑い、また窓の前に立った。
「ときにクラウス、兵士たちの啓蒙も進んでいるようだが?」
メルケルの眉間に皺が寄る。
「私は、信用していない」
「おい、言葉には気をつけてくれよ。仮にも王女殿下の発案だぞ」
「兵に必要なことは鍛錬だ。座学などではない」
「ハハハ、かつて似たようなことを君から言われたな。軍に必要なのは鍛錬だ、魔法などではないと」
メルケルは振り向きながら言った。
「あの時とは違う。王女は、素人だ」
「……なるほど。だが、ここだけの話にしておくよ」
「クロンへイムが強行に決めたことに私は従っているだけだ」
「彼も、戦については素人だが?」
「やつは、丞相で、私は閣僚だ。拒めぬ。組織とはそういうものだ」
「それも、君らしいよ」
「我々武官は、あのようなものをアテになどせず、粛々と兵の鍛錬とエレクトゥス率の向上に務めればよい。頼りにしておるぞ、アル」
もちろんさ、とも、仕方ないな、とも取れるジェスチャーをしてローデンは退室した。
窓の外の風景を眺めながら、メルケルは独りごちた。
「軍のことは軍人に任せておればよい。私は、軍という聖域を守る。それだけは王女だろうと丞相だろうと口出しはさせぬ」




