第4章『逆流』03
フェルゼン王国丞相・クロンへイムの朝は早い。起床から朝食までの3時間の質がその日の質を決める、それが彼の自論である。
〝鋼の丞相〟ルーカス=ラース・フォン・クロンへイム……長らく経済不振に落ち込んでいた王国を劇的に再生させた不屈の英雄。おのれの信念を突き進み、いかなる者の惑言にも耳を貸さぬ高邁侯。目的のためには手段を選ばぬ卑しき鉄面皮という者もいた。強引なる政治手腕を危ぶみこれを排そうと画策する者もいた。しかしそのことごとくを彼は退け、ときに抹殺し、苛烈な政争を生き延びてきた。
いまや絶大なる権力と国王からの信頼を手にしている〝鋼の丞相〟ではあるが、実はその出自は平民である。王侯貴族の証である「フォン」という冠詞は、数年前、叙勲を受けて伯爵となったときからの使用だ。一介の商人から身を起こし、政商から政治顧問、財相へと駆け上り、ついに丞相にまで成り上がった男なのである。
この男には、信じているものと信じていないものが、一つずつある。信じているものは「利」。人はどんな者も例外なく「利」で動く。協力してくれる者は「利」を失えば離れていき、敵対する者は「利」を与えれば味方になる。好き嫌いという感情でさえ「利」によって簡単に左右される。「利」ほど信じられるものはなく、それ以外のものをうかうか信じるから人は迷うし間違いをおかす。彼にとって「合理性」は「合利性」なのだ。
信じていないものは、「血」である。血筋、血縁、血盟、熱血……そんなものを彼は微塵も信じていない。そんなものはすべて「利」で簡単に動かせるし、また簡単にひっくり返る。中でも血筋などというものは無意味の極みだ。こんなもの信頼するなど愚の骨頂だし能力の証にもならない。むしろ無能の証になるケースの方が多いと、彼は思う。
これは王侯貴族、いや王制そのものの否定にもなりかねない思想だが、無論そんな思想を彼は表には出さない。そんなことをしても「利」がないからである。どれだけ肚の底では王族や諸侯を軽蔑していても、彼は迷うことなく臣下の礼をとり、敬意を表する。それがヤツらに「利」を与えることになり、ひいては自分にも「利」が返ってくる上策だからである。
朝の一仕事を終え、いつもの朝食をとる。毎朝同じ品目同じ分量、同じ時間をかけた朝食、その終わりの10分で秘書ヒルダ=クリスティン・フェルドが傍に立ち、一日の予定を伝える。
「……以上です、閣下」
ナプキンで口を拭いながらクロンへイムが独言る。
「今日であったか」
『選択ノ書』の処分執行のことは、聞いている。文化大臣から上がってきた案件だが、元々は第一王子レオン=ハンス、第二王子スティーグ=トマスが発案者らしい。直接自分に相談すればよいものを王族のいいなりである文化大臣を通して進言してくるなど、小賢しい限りだ。これだから血筋などというものは……。王族の既得権益を守るためだけの姑息な進言だろうが、それもわからぬではない。却下するより承認した方が「利」がある案件だから、好きにさせておいたのだ。
食事を済ませ腰を上げようとしたところに、使用人が一礼して入室し、メモ書きをフェルドに手渡して下がった。
「なんだ、フェルド」
「閣下、急きょ面会希望が入ったようです。第4王女から」
ピクリ、とクロンへイムの眉が動いた。フェルドはそれを見逃さない。彼女にとってクロンへイムは平民の自分を引き上げてくれた恩人であり、崇拝の対象なのだ。
あぶれ者の王女様か……この私に急の面会希望とはまた非常識な。
「いかが致しますか。夕方までお待ちいただきますか」
「今日最初の予定は新規開梱地の視察だったな……視察時間を15分縮めよう。王女には15分でよろしければすぐにお目にかかるとお伝えしてくれ。さっさと済ませたい」
「かしこまりました」
フェルドは一礼して部屋を出たが、すぐに戻ってきた。ずかずかと入室してきたレベッカを追いかける形で。
「ひ、姫様! 困ります! わたくしがご案内してからお入りください!」
「クロンへイム丞相、無礼なお願いをお聞き届けいただき、感謝します」
「いえいえ、こちらこそ畏れ多い」
片膝をつき、礼を返すクロンへイム。
「15分だけとのことなので、要件に入りますね」
レベッカは、大きく息を吸い込んだ。
その数時間前ーー。
このところふさぎ込み気味だったレベッカの元へ、黒ずくめの長身の男がただならぬ情報を持ち込んだ。
「取次もなく、いきなりお訪ねした非礼をお許しください、殿下」
片膝をついて恭しくしてはいるが、この男は、許可なく王族に会うことができる身分ということである。
シモン=ミカエル・フォン・ノルデンフェルト侯爵――国王を決める際の投票権を持つ「選立侯」にして王政に物申す権限を有する「王政評議会」の主要メンバー。そのいでたちから「黒衣侯」の異名を持つ変人諸侯でもある。
「なんですって? それは確かな情報ですかっ」
「殿下、他ならぬこの私めの情報ですよ」
ノルデンフェルトは、肩まで伸ばした美しい金髪越しに眼を光らせる。
「そうですね……失礼しました。それで、『選択ノ書』の発禁処分が施行されるのは……」
「本日とのこと」
「き、今日……ですか」
混乱している。すぐにでもどうにかしたいのに、どうしていいかわからない。いや、わかったところで、もう自分には……。
そんなレベッカの様子にはまったく関心がないという感じで、ノルデンフェルトはすっくと立ち上がり、微笑を浮かべた。
「では、私めはこれで退散致します」
「……え?」
「殿下も『選択ノ書』に少しは関わっておられたと聞きましたので、一応お耳に入れておこうと思っただけですから。それともーー」
少し、意地の悪い笑みに変わる。
「何か、して差し上げようとでも?」
「わ、私は……」
「ああ〜そうでしたねぇ。もう殿下は、何もなさならないとお決めになったのでした。それも、漏れ聞いておりますよ」
「……」
「それがよいでしょう。ええ、よいでしょうとも。何もしないに越したことはございません。それが王族たるものの……いえ、いまの王族たるもののお姿ですからねぇ」
小声で、「……嘆かわしい限りです」と続く言葉を耳にしても、レベッカは、ただうつむいている。
ノルデンフェルトは何を考えているのか、しきりにニヤニヤしている。レベッカの感情を揺さぶって楽しんでいるようにも見える。
「ただ、少々残念ですなぁ……」
もしここに誰か他の者がいたら、黒い影絵がヌゥッと、うつむくレベッカに覆い被さるような幻覚を見たかもしれない。
「殿下には、畏れながら期待申し上げていたのですが……」
ピクッと、レベッカの肩が反応する。
「失礼ながら、殿下こそが唯一、他の王族の方々とは違っていると……王国の民のために動ける方だと……まぁそのような大それた期待をしていたのですがねぇ」
退散すると言っておきながら、ノルデンフェルトはまるでその素振りを見せず、部屋の中を歩き回っている。
「しかしまぁ、民といったところで、王族の皆様にも我々貴族にも、正直ピンと来ません。所詮は下々の者、家族でもなければ友でもない。現実味のない輩です。『選択ノ書』が彼らの希望だなどと言われたところで、我々には知ったことではない。殿下もそうでしょう?」
「私には……何の力もないのです……何も……」
「選べない、と?」
「そう……その通りよ。私は、選べないの。選んではいけないの」
「……と、いうことを選んでいらっしゃる」
イサクにも、同じようなことを言われたことがあった。
「所詮、人は選ぶことしかできないのですよ、殿下。選ばないことさえ、選んでいる。私も、選んでおります。選んだ結果がどうなるかなど、知ったことではない。ただ……選ぶのが遅すぎたということもある」
レベッカは、イサクたちのことを思い浮かべている。
「遅すぎた挙句、その犠牲になる者もいる。選ばなかった結果、犠牲になる者もいる。しかし……選んだことで、救えることもある」
「救う方法がない、ことだってあるでしょう」
「それは、選んでみなければわかりませんよ、殿下」
「そんなっ……そんな無責任なこと……」
「クロンへイムを動かしてみてはいかがですかな?」
「……!」
「選ばなくても、選んで失敗しても、結果は同じ。ただ、選べば救えるかもしれない……違いますかな?」
イサクを……メラニーを、救えるかも、しれない?
「よろしければ、私めも協力して差し上げますが」
「狙いは、なんですか……侯爵……」
「狙いなどございません。ただ……殿下が動かれると、いささか面白いことになりそうだと……私めは、面白いことがたまらなく好きなだけでございます」
「あなたの案を……聞かせていただけますか」
「よろしいですよ。ただ……殿下には、演技をしていただく必要がございます。いや、ご心配なく。殿下には、その才がおありですから」
ノルデンフェルトは、レベッカにあるシナリオを伝えた。
クロンへイムに向かい、レベッカは大きく息を吸ってから、一気呵成に言い下した。
「要件というのは、『選択ノ書』発禁処分の件です。これは、今後の王国にとって希望の芽を摘み取る所業であり、卿の輝かしい経歴にも傷を残しかねない失策と考えますが、いかがですか」
「……殿下、少々結論を急がれているようにお見受け致します。この処分は、私が深く信頼する閣僚が十分に検討した結果、決定したものであり、しかるべき手続きを経て私が承認したものであること、ご理解いただいておりますかな?」
「十分な検討? 本当にそうでしょうか? 私の眼には、兄上たちにそそのかされた文化大臣が、検討などそこそこに言われるがまま従っただけの……およそ政策などとはかけ離れた媚びへつらいの結果にしか見えませんが」
「これはなかなか手厳しいですな。殿下のご意見は、最終承認を出したこの私めを全否定なさっているようにも聞こえますが……」
「否定ではありません。諫言と受け取っていただけますか」
「だまらっしゃいっ!」
凄まじい怒声に、成り行きを伺っていたフェルドがビクリッと肩をすくめた。素晴らしい、閣下はこうでなくては。こんな世間知らずの王女などに侮られるお方ではない。
「どうやら殿下は勘違いをなさっておられるようだ。殿下は、私に諫言などできる立場ではない。私は国王陛下から国政をお預かりする丞相だ。私に意見できるのは陛下のみ。あなたの出る幕ではない!」
まったく困ったお嬢さんだ。単に国王の身内というだけの無位無官の「あぶれ姫」め。自分の立場というものをまるで解っていない。これだから血などアテにならんのだ。小娘め、肩を震わせておるな。こうしてまともに叱られたこともないのだろう。
「フフッ……」
何だ? こやつ、笑っておるのか? 呆れた小娘だな。まぁ無理もないか、王族といったところで長らく放置されておったらしいからな、まともな礼儀も教わっては……
「聞いていた通りの頑固なお爺さんね」
「なっ……」
フェルドが拳を握る。
「曲がりなりにも一国の丞相まで上りつめた人だもの、きっと秀でた方だったのでしょうね、お若い頃は!」
「……殿下、お戯れもほどほどになさった方がよいですぞ」
「人間、歳をとるとこうまで前後不覚に陥るものなのね。それとも権力のぬるま湯に長く浸かっているとそこから出られなくなって、熱湯になりかけていることにも気づかなくなるのかしら?」
「やれやれ……お口の悪いお姫様だ、もうお気は済みましたかな。私を罵るだけでしたら、もうお時間も迫っておりますので……」
「無礼者っ! のらりくらりと空言を吐くのはやめなさい! 」
くっ、不覚にも背筋を正してしまった。この華奢な体のどこからあのような声が……。
「クロンへイム! この国を滅ぼす気ですか!」
「殿下、穏やかじゃありませんな」
「魔碯石の枯渇問題は王国始まって以来の国難です。あと30年は持つとか100年は大丈夫とかいう話ではありません。確実に枯渇するのですよ。そんなことはもう随分前から言われてきたことにも関わらず、いまだに代案も決まらぬ有様。挙げ句の果てには、他国は30年で枯渇し、その後も我が国は20年から70年は採掘できるだけの埋蔵量があるから、他国が枯渇するのを待って一気に魔法を独占する我が国が侵攻すれば六国の頂点に立てるなどという愚策まで出てくる体たらく。なんたる無策、なんたる不始末」
「ですから殿下、私の政策はそのような絵空事ではなく、30年の長期計画で確実に代替技術を開発し……」
「愚か者ですかっ、あなたは!」
まただ。忌々しい。なぜこのような小娘の恫喝にいちいち身がすくむ……この私が。
「『選択ノ書』を活用すれば、すぐにでもその代替ということが実現する可能性がある、それをあなたは……あなた方は、みすみす摘み取ろうとしているのですよ!」
「しかし殿下、そのような怪しげなものを……」
「試しもしないうちに何をいうの! そも、あなたはご自身で『選択ノ書』を1行でも読まれたことはあるのですか?」
閣下が……追い詰められているの? そんなことはあり得ない、あってはならないことだ。閣下こそが……閣下だけがこの国を牽引できるお方。この国になくてはならないお方。なんぴとたりとも、なんぴとたりとも……
「答えなさい、クロンへイム! さあ、答え……」
ドスン、とレベッカが尻餅をついた。その白いドレスが赤く染まっていく。
「っ……」
レベッカは左腕を押さえ苦悶の表情を浮かべている。見下ろすように立つフェルド。手には、鮮血がしたたる果物ナイフを握っている。その眼は常人のそれではない。
「消えてしまえええええええっ」
ナイフを振りかぶる。
「待てっ、いかん……待て、ヒルダ!」
クロンへイムの制止もきかず、ナイフが振り下ろされる。
――と。
硬質なものが骨に当たる音がしたかと思うと、フェルドは後方に跳ね飛ばされた。
「何とまぁ剣呑なことじゃあありませんか」
鞘に納まったままの剣を手にした黒ずくめで長身の男が、飄々と言った。
「ふぅむ……大した傷じゃないですな」
レベッカの傷を確かめ、スカーフを巻きつけて止血するその男に、クロンへイムが声をかけた。
「ノルデンフェルト侯爵……」
「いけませんなぁ丞相どの。飼い犬はちゃんと躾けておかなくては」
「なぜ侯爵がこのような場に。滅多に御領地の外に出ることのないあなたが……」
「丞相!」
金髪を手で弄びながらノルデンフェルトがさえぎった。
「我が領地は国境地帯。王都より生々しい情報が入ってくるのですよ、真っ先にねぇ。生々しいというのか、禍々しいというのか……」
国王でさえ細心の扱いを余儀なくされるのは、この男が独自に持っている情報網のためにほかならず、クロンへイムもそのことをよく知っている。
「おやぁ? ご存知ない……などということはありませんよね。今、我が国に迫っている外憂のことは」
「ダリアン王国の動向のことですかな。無論承知して……」
「プラント王国、ベルマン王国も巻き込んだ3国連合が侵攻してきますよ、間もなくね」
クロンへイムは、言葉を失った。事態はそこまで進んでいたのか。
「まぁご存知なくても仕方がないか……この私でさえつい最近入手した情報ですから。ただ……」
目つきが、変わった。
「ほかでもない、この私の情報だということ、お忘れなく」
今度は、クロンへイムの目つきが変わる。
「……なるほどな。選立侯を動かしたか」
膝まづき左腕を押さえながら見上げているレベッカと目線が交差する。
若いな……だが、いい眼だ。嫉妬するほどに。
「見かけによらず、噂に違うお方のようですな……姫様」
「どんなひどい噂なのか気になるところですね、丞相閣下」
柔らかい微笑みに、クロンへイムの頬がわずかに緩む。
「承知した。『選択ノ書』への処分は撤回しましょう」
「よろしいのですか、お父様からの……国王陛下からのご承認を得ずに閣下の一存でお決めになっても」
「白々しい……どうせ私が拒絶すれば侯爵から陛下に直言する手筈になっているのでしょう? 選立侯からの直言であれば陛下も呑まざるを得まい。交渉事は交渉の前の根回しでほぼ決まる……姫様は食えないお方だ」
「余計な時間をかけたくなかっただけですわ、閣下」
クロンへイムは、素早く視線をノルデンフェルトに移した。
「侯爵、それで3国連合への対抗策はご用意されているのでしょうな」
「まぁ〜一応、とりあえず、差し当たってぇ……」
「もちろんありますわ。メルケル軍相のご協力が必要となりますが」
「うむ、そちらの方は私が何とかしましょう」
言いながらフェルドに指示を出す。
「すぐにメルケル軍相と打ち合わせる。段取りをつけてくれ」
「はっ」
部屋を出ようとしたフェルドにノルデンフェルトがウィンクを送った。
「手荒なことをして悪かったね」
ムスッとした表情で目礼を残し、フェルドは退出した。
レベッカとノルデンフェルトも退室する。長い廊下を歩きながらレベッカが頭を下げた。
「感謝します、侯爵。ちょっと来るのが遅かったけど」
「ハハハ、紳士は身支度に時間がかかりますのでねぇ」
「数時間前とまったく変わらない真っ黒のお姿ですけど」
「心外ですなぁ、一つとして同じ衣装はないのですけどねぇ」
「……侯爵のお力がなければ、丞相を動かすことはできなかったでしょう」
「まぁ、同類から頼まれれば邪険にはできないですよ」
「同類? どういう意味かしら」
「我が家のような辺境貴族など、所詮は厄介払いされ左遷された“あぶれ者”にすぎません。だから私はねぇ……その家系の恥辱を特権に変えたのですよ。いつかはまた王都に返り咲いてやろうという一心でね。ま、ちょうどいい頃合いだったということです」
「なるほど」
納得など、していない。
この男には2枚も3枚も舌がある。肚の中には何層もの「裏」がある。レベッカは直感的にそう感じとっているが、いまは欠かせない協力者なのだ。
肩を並べて歩く二人だったが、その間には、微妙な距離があった。




