第4章『逆流』02
発禁処分施行当日の朝。
いつもよりかなり早く起床した。夜型の俺にしては日の出を寝室から眺めるなんてことは異例中の異例だ。状況が好転して安心したわけじゃない。突如逆流に襲われたような危機的な現実は何も変わっていない。
あれからメラニーは親父さんに俺たちの立てた仮説を伝え今回の処分の首班者の特定に力を尽くしてもらったが、結局確たる情報は掴めずじまい。なんら打つ手もなく今日を迎えてしまった。
だからといって緊張で眠れなかったわけじゃない。不思議なぐらい爆睡した。実に健康的な早寝早起きだ。早朝の寝起きって、こんなにアタマがスッキリするんだな。
来客用のお茶を丁寧に淹れて、朝陽を浴びながらゆっくりと味わう。
昨日、王宮から役人が来て今日の午前10時に処分が執行されることを伝えて帰っていった。今日の没収対象はリンド商会の蔵に保管してある『選択ノ書』の在庫500冊ほど。それに俺の仕事部屋にある原稿類、これは一抱えの箱2つに収まる程度だ。あとは印刷屋に預けてある版木だが、そっちはそっちで役人が行くらしい。案外、あっさり没収作業は終わるんじゃないのか。絶対手伝ってなんかやらねぇけど。
お茶を飲み終えたあと、風呂に入った。大事を前にして身を清めるとか、そういう特別な意味なんかない。単純に朝風呂っていうのをやってみたかっただけだ。朝風呂は思いのほか心地よく、かなり時間をかけて楽しんだ。
湯船に浸かりながら思い出した。これまでに『選択ノ書』関連で上がった収益も取り上げられる可能性があったなぁ。検討中とかいってたから、今日明日ってわけじゃないだろうけど、考えてみりゃあ俺の場合は元に戻るだけのことだ。またゼロからやり直すだけのことだ……けど、何をどうやってやり直すんだ? へへへ、すぐには思いつかねぇや。ただ、メラニーには悪ィことしたなぁ。あいつはほんと、ケツの毛まで商人だからなぁ。あ、やべぇ、こんな表現使っちまったらまた怒られるな。あ、待てよ……ひょっとしてこの家も取り上げられんのか? そりゃ困るな。でもまぁそれも元に戻るだけか。しばらくメラニーんとこに厄介になればいいな。まさかいきなりリンド商会も倒産なんてことはないだろう……とは思うんだが。
風呂から上がって、水を飲む。
この世界っていうか、この街の水は美味い。地下水を石とかで自然濾過してるってことだ。東京の水は不味かったからなぁ。水も不味かったしシゴトもキツかったし仲間みてぇなヤツもいなかったし……けど、一応法治国家だったから今回みてぇな理不尽はなかったかもな。
どうやら今回ばかりは万事休す、みたいだな。
この苦境を脱してみんなで笑ってる世界を意図もした。何度も何度もアウスヴァールした。けど状況は変わらなかった。アウスヴァールって叫んでもみた。もしかするとこの言葉が、望むパラレル世界にシフトするキーワードじゃないかって思うこともあった。だが考えてみれば、以前ベルがヒュルンゼルトに叩きのめされたとき、アウスヴァールしたのに世界は変わらなかった。今回だってそうだ。もうわかんなくなっちまった。この世界に来てから、詰んだと思った状況が好転したことは確かにあった。けど変わらねぇときは無慈悲なまでに変わらねぇんだ。もう、わかんねぇよ。
街中に出て、ぶらぶらしながら市場で朝飯を買った。この市場、惣菜とかサンドイッチみたいな弁当まで売ってるからほんと助かるんだ。こんな朝っぱらから売ってくれてるし。中央公園で芝生に座り、弁当を開く。陽射しが気持ちいい。小鳥の囀りも聴こえる。こういうの、初めてだな。もっと早くにやっとけばよかった。メラニーとかレベッカとか誘ってやっときゃよかったなぁ。ベルやアンディも誘えば絶対来たよな……もう、あいつらにも会えないのかなぁ。王宮関係者だからさすがに俺には会いにくいだろうなぁ。
空を仰ぐ。
晩夏の抜けるような青空には、一片の雲もない。
『選択ノ書』が発禁になったとしても、俺がこの世界に持ってきたあの原稿だけはこっそり残しておいてやる。元々俺の持ち物なんだ、誰にも奪う権利はない。思えば、この世界であまりに受け入れられたんで、ちょっとやりすぎたのかもしれねぇな。
あれからずっと原稿を読み直してたけど、どうも『選択ノ書』の本質ってのは「意図の広さ」なんじゃないかって思えてきたんだ。自分のためだけに行なった意図はそれなりに現象化するけど、過剰な利己に陥りやすくなる。利己になっちゃいけねぇわけじゃないが、過剰な利己は執着につながってオーバー・タグを引き起こす。だから意図が不安定になるんだ。
たぶん『選択ノ書』が本来説いてるのは、自分だけが利を得るって発想じゃなく、自分が関わるヤツ、もっといえば直接関わらねぇヤツらも含めて、すべてのヤツらが満たされることで、その「すべて」に含まれる自分も結果的に利を得る……そういうことなんじゃねぇのかなぁ。意図を自分だけに向けるんじゃなくて、もっと広い範囲に向ける……ま、俺が言うとウケるけどな。
そういう視点に立ってみれば、あの小憎らしい役人どもにもきっとそれなりの立場とか思いとかがあるってことになるな。あいつらも、それからその後ろにいる首謀者どもも、俺たちも、みんな笑ってるパラレルを意図するって……思ってもみなかったけど、そういう世界があってもいいわけか。
な〜んか聖人みてぇなキレイゴト言ってる感じだけど、気分は悪くない。とりあえず……役人どもにお茶ぐらい出してやってもいいかもな。ねぎらいの言葉でも言ってやるか。
さてと……そろそろ……時間だな。
このとき俺は皮肉にも、初めて不安のない心境というものを体験していたのかもしれない。
仕事部屋に戻って、役人たちに出すお茶の用意をしていると、外に数台の馬車の止まる音が聞こえた。
「……来た、か」
玄関の扉を開けると、あの王宮で会った役人が「執行書」という紙を見せて立っていた。
「ああ、おつかれさんです。お茶、用意してますんで、よろしければ……」
意外に思ったのか、役人の眉がわずかに動いた。
「い、いえ。そういうことは無用で願います。禁じられていますので」
軽く頭を下げると、部下たちを引き連れて役人は建物の中に入った。
「没収物は、運び出せる用意ができていますか」
「ああ、こっちは箱が2つだけなんで。2階の仕事部屋に置いてありますよ」
「了解しました。こちらの没収が完了後、隣のリンド商会に向かいます」
「あの、俺も行っていい……ですかね。世話になった連中なんで」
「構いませんが、会話は慎んでください」
部下たちが一人一箱を持ち出すと、役人が言った。
「ここは、これで全てということで間違いないですね。もし隠蔽していた場合、重大なる違法行為となり、追加徴収されます」
一瞬、隠してある俺用の原稿が頭をよぎったが、平然を装った。
「ないですよ。いまさら隠し立てするつもりはないんで。これで全部です。あのぅ、この家とかも没収になるんですかね」
「それについては、現在まだ上の方で検討中です。後日、あらためて通達します」
「できれば、お手やわらかに頼みます」
役人は答えずに一礼だけして部屋を出、階下の玄関に向かった。俺も後に続いたが……先を行く役人が階段の途中で急に止まり、玉突き衝突みたいになった。おいおい、危ねぇだろ……。役人に注意しようとすると、意外なセリフが聞こえてきた。
「で、殿下……」




