第5話 責任という名の廃棄物 前編
廃食品工場の正門は、チェーンで閉ざされていた。
夜空には、煙突の跡だけが残っていた。爆発で上半分が吹き飛んだままになっている。十年前の事故の痕跡だった。工場は閉鎖され、そのまま放置されていた。跡地の売却交渉が何年も続き、その間に建物だけが朽ちていった。
その跡地の売却が、今週決まった。
橘がフェンスの外で待機していた。
「残響反応が急増しています。15.7です。ここ二時間で三倍以上になりました」
「トリガーは何だ」
「おそらく解体工事の入札が始まったことだと思います。昨日付けで入札公告が出ました」
「場所が終わることを感知した」
橘が少し言葉を止めた。
「残響体って――そういうことを感知するんですか」
「わからない。ただ、残響体の活性化が建物の解体や区画整理のタイミングと重なることは多い。場所と感情が結びついている個体は、場所の変化に反応しやすい」
「十年間、この場所に縛りついていた、ということですか」
「そういうことになる」
橘が黙った。久住はその沈黙の中に、橘が言葉にしない何かを感じた。だが、それを待った。言葉にするかどうかは、橘が決めることだった。
「……十年間、というのは長いですね」と橘はようやく言った。
「そうだ」
「今夜はどのフォームを使いますか」
「WRAITHで入って、状況次第でMOURNに切り替える」
「切り替えを想定しているということは、WRAITHだけでは難しい可能性があるということですか」
「この規模の個体で、膨張型の攻撃を使ってくる場合、WRAITHでは受け切れない。ただ、WRAITHの方が核の位置特定が速い。先に速度で間合いを作って、膨張が来たらMOURNで受け切る。それが今夜の方針だ」
「WRAITHからMOURNへの切り替えは、後遺症が重複する可能性がありますが」
「わかっている」
久住はチェーンを外し、正門をくぐった。
「工場内の圧力釜が残っているそうです。金属素材が多い、規模が大きい個体の可能性があります」
「わかっている」
工場の中は広かった。
ラインの機械が残っていた。コンベアは錆びたまま止まっていた。天井の高さは十五メートル近い。その上部に、残響の密度が集中していた。
見えた。
すでに形があった。
高さは四メートルを超えていた。圧力釜の一部が胴体に組み込まれている。ドラム缶が腕に取り込まれていた。コンベアのベルトが腕の延長線上で揺れている。脚部にはフォークリフトの残骸が使われていた。そのせいで移動は遅い。だが、質量は莫大だった。
顔の位置に、制御盤があった。表示パネルがまだ発光している。十年前のままの点滅が、今も繰り返されていた。アラートを示す赤い点滅だ。何かを知らせようとし続けている。十年間、誰にも届かないまま。
核の位置はわかった。圧力釜の中心だ。あそこに凝縮している。
久住はデバイスに手を当てた。
心拍が一拍、落ちた。
「変身」
二重の声が工場の天井まで響いた。
「ギアレブナント」
装甲が展開する。マスクが顔を閉じる。スリットが赤く灯った。
フォームシフト。WRAITHだ。
装甲が細身になった。末端感覚が遠くなる。体が軽くなった。ノイズの尾を引くように動ける。
残響体が動いた。
フォークリフトの脚が、床を削りながら前に出た。遅い。重い。だが、前進してくる間にも、コンベアのベルトが宙を飛んでいた。
久住は壁を蹴り、天井近くまで跳躍した。制御盤の発光パターンを確認する。アラートだ。何か問題があった時の状態が固定されている。あの夜の十年前、この制御盤が何かを知らせようとした。誰かが確認しなかった。あるいは確認されたが、無視された。
流れ込んできた。
まだ処置していないのに来た。この工場の残響密度が高すぎて、WRAITHの感受性で拾ってしまっていた。
怒りだった。
燃えるような怒りではなく――冷えた怒りだった。正しいことをしていた。手順通りにやっていた。それでも全部、自分のせいにされた。証拠は処理された。会社は書類一枚で自分を切り捨てた。裁判をしようとしたが、弁護士が見つからなかった。同僚は証言してくれなかった。家族が離れた。冷えた怒りが、十年かけて固まっていた。
流れ込みを受けながら動いた。
圧力釜に向かって飛んだ。コンベアのベルトが追いかけてきた。右腕で弾いた。ドラム缶の腕が横薙ぎに来た。WRAITHの体を低くしてくぐった。直後、圧力釜の側面に取り付いた。
短刃を展開した。装甲の右前腕部から出た。圧力釜の外壁に差し込もうとした。
爆発が来た。
膨張だ。圧力釜が内圧を高めて、外壁を一瞬だけ膨張させた。久住は吹き飛んだ。工場の壁まで飛ばされ、装甲の背部から叩きつけられた。
床に落ちた。
痛みが来た。WRAITHの装甲は薄い。背部の損傷が大きかった。肋骨が軋んだ。折れてはいない。ただ、痛む。
「…………」
立ち上がった。体を確認した。動ける。
WRAITHでは無理だ。この質量と膨張に対応するには、受け切る必要がある。
フォームシフト。MOURNに。
装甲の配置が変わった。重さが来た。肋骨の痛みが少し遠くなった。感情も、遠くなった。
さっきまで流れ込んでいた冷えた怒りが、フィルターの向こうに引いた。
圧力釜が膨張した。また来た。MOURNの装甲が圧力を分散した。後退したが、吹き飛ばなかった。一歩前に出た。押し返した。
フォークリフトの脚が踏み込んできた。左腕で受けて、右腕で側面を叩いた。金属の軋む音がした。
圧力釜の胴体に亀裂が入った。
そこだ。
右腕を亀裂に差し込んだ。金属の抵抗があった。MOURNの力で押し込んだ。熱い。圧力釜の内圧の余熱が、装甲を通して伝わってきた。
核に触れた。
感情が来た――MOURNの鈍麻越しだ。それでも来た。冷えた怒りだ。
だがその奥に、もう一つあった。
悔しかった。
怒りではなく、悔しさだった。正しかったのに、という悔しさではなかった。正しいかどうかよりも先に――誰かに信じてもらいたかった、という悔しさだった。一人でいいから、信じてほしかった。証言してほしかった。あの夜、自分がそこにいたことを、誰かに確認してほしかった。
それが叶わないまま、十年が経っていた。
「……」
グレイヴ・ブレイク。
核を引き剥がした。圧力釜の壁が崩れた。核が浮いた。
右拳を固めた。打ち込んだ。消えた。
圧力釜が崩れた。ドラム缶が落ちた。コンベアが床に倒れた。制御盤の発光が消えた。
十年間続いていたアラートの点滅が、今夜で終わった。
工場が暗くなった。
変身を解除した。フォームが外れた。発光ラインが消えた。マスクが外れた。
WRAITHとMOURNの両方を使った後遺症が来た。
指先の感覚がない。それと同時に、橘の声が現実感を持てなくなる感覚も来た。その両方が、同時に来た。
久住は工場の床に膝をついた。
背中の痛みを確認した。肋骨は折れていないと思う。内出血はあるかもしれない。
MOURNが解けた今、工場の感情密度が少し鮮明になっていた。
信じてほしかった。
それだけが、まだ残っていた。怒りは消えた。悔しさも薄くなった。ただ、信じてほしかったという形だけが残っていた。
立ち上がった。ゆっくりと、痛む背中をかばいながら。
工場の外に出ると、橘が走ってきた。
「久住さん、大丈夫ですか、顔色が――」
「片づけ班を入れろ。核は消滅した。設備との融合も解けている」
「怪我は――」
「背部の打撃傷。自分で処置できる」
「でも――」
「WRAITHからMOURNに切り替えた。後遺症が二種類同時に出ている。今は橘の声の現実感が落ちている。問題ない」
橘が止まった。
「今、橘の声の現実感が――」
「今は途中だ。落ちかけている」
「……一緒に帰りましょう」
「要らない」
橘がもう一度言いかけて、止まった。何かを決めた顔だった。
「今夜は私が運転する。乗らなくていい。ただ、同じ方向を走る。アパートに着くまで外から確認する」
久住は橘を見た。
「……好きにしろ」
久住は封鎖テープを跨いだ。夜の道に出た。空気が冷たかった。指先の感覚がない。橘の声が少し遠い。
信じてほしかった、という感情の残像が、まだ残っていた。
橘の車のエンジン音が聞こえた。約束通り、同じ方向を走っていた。
久住はそれを確認して、歩き続けた。
電車に乗った。シートに座った。目を閉じた。後遺症は二時間で抜けた。
二日後に橘から電話が来た。
「昨夜遅くまでアーカイブを確認していました。桂木さんが関わった案件を調べていたら――十年前のこの工場事故について、第九の処置記録が出てきました」
「処理担当者の名前は」
「黒塗りになっています。文書の大部分が墨塗りで、残っているのは日付と『処理完了』という記録だけです。ただ、文書の番号体系が、桂木さんの初期適合者記録と同じシリーズのものでした」
「つまり処理担当者が桂木の可能性がある」
「可能性として、です。ただ――担当者欄の墨塗りの下、解像度を上げて確認したら、名前の文字数がたぶん二文字だということだけわかりました。桂木は二文字なので一致します」
「他には何も」
「もう一つあります」
橘の声が、少し変わった。
「工場の事故の原因について、当時の内部報告書が一部だけアーカイブに残っていました。公式の事故報告書ではなく、第九が独自に作成したものです。そこに――工場の元管理者が、事故前日に制御盤のアラートを上司に報告していたという記録があります。報告は握りつぶされた。翌日に爆発事故が起きた。元管理者は全責任を負わされて、会社を去った。その後、裁判を起こそうとしたが、証言者が現れなかった」
久住は電話を持ったまま、窓の外を見た。
「その記録は誰が作ったのか」
「作成者欄は黒塗りです。ただ、記録のスタイルや語彙が、他の第九の文書と少し違います。第九の職員が作ったものではないかもしれないと思っています」
「EX‐07が作った可能性がある」
「はい」
久住は電話を切った。
部屋の中が静かだった。
十年前の工場で、桂木は信じてほしかった、という感情を受け取った。
受け取って、記録を作った。
作ったが、その記録は黒塗りになった。封鎖された。第九のアーカイブに眠ったまま、今夜橘が掘り起こすまで十年間、そこにあった。
信じてほしかった、という感情は、今も久住の中にある。今夜もまだ、その感情の残像がある。
桂木の声の形を確認した。
ある。
今夜もある、ということを久住は確認した。
確認して、その意味を今夜は考えなかった。
翌朝、鈴村に連絡した。
「桂木が十年前の工場の処置記録を残していた可能性がある。作成者欄が黒塗りになっているが、文書の体裁が第九の標準フォーマットと違う。外部の人間が書いた可能性がある」
鈴村が少し間を置いた。
「……そうだな」
「そうだな、とは」
「確認だ。否定はしていない」
「あなたが黒塗りにしたんですか」
「そうだ」
「なぜですか」
「今は言えない」
「言えない理由は」
「ある。そしてその理由の内容も、今は言えない」
久住は少し間を置いた。
「鈴村さん、一つだけ聞かせてください」
「聞いてみろ」
「桂木が十年前の工場で受け取った感情は、何でしたか」
鈴村が長い間を置いた。
「……信じてほしかった、という形だったと、桂木は言っていた」
久住は動かなかった。
「桂木が、それを」
「処置した後の夜に、俺に言ってきたことがある。信じてほしかった、という感情を受け取った、と。それが誰のものかを確認する方法がなかった、と。そのことを俺に伝えてきた」
「なぜあなたに」
「俺にしか言えなかったからだと思う。第九の中で桂木が言えたのは、俺だけだった」
「その話を聞いて、あなたは何と言いましたか」
鈴村がまた間を置いた。
「……何も言えなかった。その時は、何も言えなかった」
電話を切った。
部屋の中が静かだった。
桂木が十年前の夜に、信じてほしかった、という感情を受け取った。受け取って、誰かに伝えようとした。伝えられたのは鈴村だけだった。鈴村は何も言えなかった。
それから三年後、桂木は消えた。
久住の体内に、桂木の核があるかもしれない。
今夜も、その核が振動していた。




