第5話 責任という名の廃棄物 後編
その夜も、案件が入った。
橘から電話がかかってきた。
「久住さん、駅前の地下通路で残響反応が出ています。数値は7.8、増加傾向です。通行人が二名、記憶錯乱で保護されました」
「今夜行く」
「フォームは」
「素体だ。今夜の規模なら素体で十分だ」
「WRAITHからMOURNの切り替えで、後遺症は」
「二日経った。問題ない」
「……わかりました」
駅前の地下通路は、終電が過ぎ、人の流れが細くなっていた。第九の封鎖班がすでに出口を押さえている。久住が着くと、そのうちの一人が短く告げた。
「中にいます。端の方に」
地下通路の奥、非常口の近くだった。
壁に、何かが貼り付いていた。
ポスターの残骸だった。何かのイベント告知ポスターが貼られていて、それが剥がれかけ、残骸だけが残っている。その紙片が、壁からわずかに浮き上がっていた。
まだ形はない。密度も低い。ただ、感情の輪郭だけは妙に明瞭だった。
「変身。ギアレブナント」
素体のまま入る。
装甲が展開した。
ポスターの残骸に近づき、手を当てる。グレイヴ・ブレイクをかけると、小さな核が浮いた。
感情が来た。
間に合わなかった。
それだけだった。何かに間に合わなかった、という形だけが、そこにあった。イベントの告知だったのかもしれない。誰かに会いに行くためだったのかもしれない。そこまでは流れてこない。ただ、間に合わなかった、という事実だけが、鮮明に残っていた。
右拳を打ち込む。核は消えた。
変身を解除した。
間に合わなかった、という感情の残像だけが、体の奥に残っていた。
橘がやってきた。
「終わりましたか」
「終わった。後遺症はない」
「今夜の感情は」
「間に合わなかった、という形だった」
「……何に間に合わなかったんでしょう」
「わからない。内容は来なかった」
二人で地下通路を出た。
「久住さん」と橘が言った。
「何だ」
「鈴村さんから聞きました。今朝、電話したと」
「そうだ」
「何を話しましたか」
「桂木が十年前の工場で受け取った感情のことを」
橘がわずかに足を止めた。
「それは……信じてほしかった、という形でしたよね」
「そうだ」
「久住さんが昨夜受け取ったものと、同じ形です」
「そうなる」
橘は黙った。
間に合わなかった、という感情の残像がまだある。信じてほしかった、という昨夜の残像も、まだ薄く残っている。その二つが、今夜の久住の中に並んでいた。
「久住さん」と橘が言った。「桂木さんは十五年間で百件以上の感情を受け取った。その感情は、どこへ行くんでしょうか」
久住は少し考えた。
「核が消えると、感情も消える。ただ、処置した人間の中に残像が残る。俺の中に今夜のものが残っているように」
「それは、久住さんの中にある間は、その人の感情が存在している、ということですか」
「そういう言い方もできる」
「桂木さんが受け取った感情は、今はどこにあるんでしょう」
久住は橘を見た。
「わからない」と久住は言った。「ただ――消えたかどうかは、わからない」
橘は静かに頷いた。
「それは」と橘が言った。「慰めにはなりませんか」
「慰めかどうかを、まだ確認していない」
橘がかすかに笑った。夜道に、その小さな笑い声だけが浮いた。
「わかりました」と橘は言った。
二人で夜の道を歩いた。
間に合わなかった、という感情の残像がある。
桂木の声の形がある。
今夜は、それだけを抱えて歩いた。
*
翌朝、事務所で沖野と顔を合わせた。
珍しいことだった。沖野が事務所に来ることは少ない。来る時は、たいていデータの確認か、久住への直接計測がある時だ。
「今朝は計測ではありません」と沖野が言った。「話があって来ました」
「聞きます」
沖野が椅子を引き、机を挟んで向かいに座る。
「昨夜の感情は何でしたか」
「間に合わなかった、という形だった」
「昨日は信じてほしかった、という形でしたね」
「そうだ」
「二日連続で、似た形の感情を受け取っています。これは、久住さんが意識的にそういう案件を選んでいるわけではないですよね」
「ない。案件は橘が報告してくる」
「そうです。ただ、私の分析では――久住さんの感受性が、最近特定の感情の形を引き寄せやすい状態になっている可能性があります」
「どういう意味ですか」
「核の共鳴です」と沖野が言った。「体内の核が、外部の核の感情の形を感知する時に、共鳴しやすい形というのがあります。久住さんの核が、誰かを必要としている形の感情、届かなかった形の感情を、特に強く感知している可能性があります」
久住は沖野を見た。
「それは、体内の核が持っている感情の形と、似ているから共鳴する、ということですか」
沖野が少し言葉を切った。
「……そういう仮説が成立します」
「体内の核が持っている感情の形が、信じてほしかった、間に合わなかった、に近いということですか」
「仮説の段階です。ただ、データ上はその可能性を示しています」
久住は黙った。
「それは――桂木という人間が持っていた感情の形だということですか」
「確認はできません。ただ、可能性として、あり得ます」
沖野は端末に何かを記録した。
「久住さん、一つだけ聞かせてください」
「何ですか」
「桂木という人間の声の形が、今もありますか」
「ある」
「今朝も」
「ある」
「それは今朝、大きくなりましたか、小さくなりましたか」
久住は少し考えた。
「大きくはなっていない。ただ、変わっていない」
「変わっていない、というのは」
「昨日と同じ大きさで、ある。それだけだ」
沖野は頷いた。
「ありがとうございます。今日の分はこれで十分です」
席を立ち、出ていこうとして、沖野は振り返った。
「久住さん、以前桂木さんが言っていたことがあります。処置した後に、受け取った感情の残像を持ち続けることについて」
「何と言っていましたか」
「持ち続けることが、処理か鎮魂かを決める、と言っていました。捨てれば処理になる。持ち続ければ鎮魂に近くなる、と」
「捨てる方法はあるんですか」
「桂木さんは、捨て方を知らなかった、と言っていました」
沖野は出て行った。
事務所が静かになる。
久住は自分の手を見た。
信じてほしかった、という感情がまだある。薄くなってはいるが、消えていない。間に合わなかった、という感情も、同じように薄く残っている。
捨て方を知らなかった。
それは、今の久住と同じだった。
受け取った感情を、久住も捨てたことがない。捨て方を知らない。
ただ、それを処理と呼ぶのか、鎮魂と呼ぶのか――まだ決めていなかった。
桂木は決めたのだろうか。十五年間の処置の末に、何と呼んでいたのだろうか。
その答えは、今夜もまだ来なかった。
*
午後、別の案件が入った。
橘から電話が来た。
「久住さん、廃アパートで残響反応が出ています。数値は9.3です。来週から解体工事が始まる予定の建物で――昨日、入札が完了したそうです」
「また解体のタイミングだ」
「はい。このエリア、再開発が続いていて、廃工場も廃アパートも同じタイミングで動いています」
「場所を送れ。今夜行く」
「フォームは」
「MOURNで入る。解体前の建物は素材が豊富だ。単発でも大きくなる可能性がある」
廃アパートは昭和の終わりに建てられた三階建てだった。十年前から空き家のままだ。外壁は剥がれ、窓ガラスはすべて割れていた。
橘が車を停めた。
「私は外で待機します」
「わかった」
建物に入る。
においがした。
カビと雨染みと、長い時間人が住んでいなかった建物特有の匂い。それに加えて、もう一つあった。感情の密度だ。HOWLを使っていなくても、この濃度ならわかる。
二階だ。
階段を上がり、二階の廊下に出る。奥の部屋から密度が流れてきていた。
部屋の扉は半開きだった。
中に入る。
残響体が、すでに形を作っていた。
部屋に残されていた家具の残骸が素材になっている。木材の棚、金属のパイプ、プラスチックの収納ケース。それらが人型に組み合わされ、部屋の中央に立っていた。高さは二メートルほど。
核は胴体の中心だ。
「変身。ギアレブナント」
心拍が一拍、落ちた。装甲が展開する。フォームシフト。MOURNだ。
重さが来る。感情が遠のく。
残響体が動いた。棚の腕が振り下ろされる。MOURNの装甲で受けた。衝撃が走るが、分散した。一歩、前へ出る。
踏み込んだ。残響体の胴体に手が届く。
グレイヴ・ブレイク。
感情が来た。MOURNのフィルター越しに。
消えたくなかった。
また来た。この形が。昨日ではない。一昨日の路地裏の案件で受け取ったものと、同じ形だった。消えたくなかった。ここにいたかった。もう少しだけ、ここにいたかった。
核が浮いた。右拳を固める。打ち込む。消えた。
残響体が崩れた。棚の木材が床に落ち、パイプが倒れ、収納ケースが散らばった。
変身を解除する。MOURNが外れ、感情が少し戻ってきた。
消えたくなかった。
その形だけが、残っていた。
久住は部屋を見回した。十年間、空き家だった部屋だ。最後に誰かが住んでいた痕跡が、まだ残っている。壁の傷。床の染み。窓際には、小さな子供が書いたような落書きまであった。
消えたくなかった。
その感情は、ここにいた誰かのものだ。核は消えた。だが、感情の残像だけはまだ久住の中にある。
外に出ると、橘がすぐにやってきた。
「終わりましたか」
「終わった。今夜の感情は」と久住は自分から言った。「消えたくなかった、という形だ」
「また、同じ形ですね」
「そうだ。三日間で三回目だ」
「沖野さんが言っていた共鳴ですか」
「わからない。ただ、続いている」
橘が久住を見た。
「久住さんは消えたくないですか」
「ない」
「今も」
「今も」
「それは」と橘が言った。「桂木さんがいるからですか」
久住は少し間を置いた。
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。ただ、消えたいとは思わない。それだけだ」
橘は頷いた。何かを考えている顔だった。
「わかりました」と橘は言った。「今夜もありがとうございました」
「礼を言う必要はない」
「あります」と橘は言った。「今夜教えてくれたことに対して」
久住は答えなかった。
夜の道を歩く。
消えたくなかった、という感情の残像がある。
桂木の声の形もある。
その声の形が、今夜はこれまでよりも近いところから来ていた。
なぜなのか、久住にはまだ言葉にできなかった。
*
翌朝、桂木の声の形を確認した。
ある。
昨日より、少し近い。
近い、というのは距離の話ではない。感覚の話だ。どこから来るかという方向はある。ただ、その方向が今朝は昨日よりも鮮明だった。
久住は窓の外を見た。
捨て方を知らなかった、と桂木は言っていた。受け取った感情を捨てる方法を、桂木は持っていなかった。
だから十五年間、感情を持ち続けたのか。
それとも――持ち続けることを、桂木は選んでいたのか。
選んでいたとすれば、それは何のためか。
久住には、まだ答えがなかった。
ただ、今朝は桂木の声の形が近い。
それだけだった。
それだけで、今日は動ける気がした。
*
翌日、鈴村に呼ばれた。
「先日の工場の報告書を読んだ。WRAITHからMOURNへの切り替えは想定通りか」
「想定通りだ。膨張型にはMOURNが必要だと判断した」
「背部の損傷は」
「固定した。問題ない」
「後遺症は」
「二種類が同時に出た。指先の感覚喪失と、橘の声の現実感の低下。二時間で抜けた」
「WRAITHとMOURNの重複後遺症が二時間というのは短い」
「回復が早くなっているかもしれない。または今夜の組み合わせが軽かったか」
「沖野に確認させる」と鈴村が言った。「今後WRAITHからMOURNへの切り替えが必要な案件は、切り替えのタイミングをもう少し早める検討をしてくれ。膨張が来る前に切り替えれば背部損傷を防げる」
「切り替えが早すぎるとWRAITHでの核の位置特定が不十分になる」
「そこのバランスを事前に考えておけ、ということだ」
「わかりました」
久住は席を立ちかけて、止まった。
「一つ聞いていいですか」
「聞いてみろ」
「橘が桂木の処置記録を調べている件、上に上げていないと言いましたね」
「そうだ」
「あなたはいつまで止めるつもりですか。橘がアクセスした記録が残っているとしたら、いつか上に気づかれる」
「気づかれる前に、俺の方から言う機会を作るつもりだ」
「機会を作るとはどういう意味ですか」
「桂木について、お前に話すべき時が来る。その前後で、上層部の一部には先に話しておく必要がある。今はまだその時期ではない」
「理由は」
「理由は今は言えない」
「言えない理由がある、と」
「そうだ」
久住は鈴村を見た。
「わかりました。ただ、橘のリスクが高まる前に動いてください」
「わかっている」
「約束できますか」
「……できる、と思う」
事務所を出た。
廊下の窓から外の空が見えた。今日も曇っていた。
信じてほしかった、という昨夜の感情の残像が今朝もある。薄くなってはいるが、まだある。消えたくなかった、という一昨日の残像も、さらに薄くなっているが、やはり残っている。
それらが今日の久住の中に、重ならず、並んでいた。
それぞれ別々の人間の感情だ。だが、受け取ったのは久住だ。久住の中で、並んでいる。
桂木も同じように、感情を受け取って並べていたのかもしれない。十五年間分を。
その重さがどれほどのものだったのか、久住はまだ知らなかった。




