第6話 言えない理由の形 前編
鈴村から連絡が来た。
呼び出しではなかった。
「話したいことがある。都合を聞かせてくれ」
そう書かれていた。
鈴村らしくなかった。いつもの鈴村なら、「来い」か「行く」か、そのどちらかだ。
久住は翌日の夜を指定した。
夜を選んだのは、昼よりも夜の方が、何かが言いやすい気がしたからだ。根拠はない。だが、鈴村が「話したい」と連絡してくること自体が珍しかった。
待ち合わせは高架下の喫茶店だった。古い店で、深夜まで開いている。場所は鈴村が決めた。
向かう途中で、案件が入った。
橘から電話が来た。
「久住さん、地下鉄の出口付近で残響反応が出ています。数値は6.2、小規模です。封鎖班が出るほどでもないと思いますが、帰宅ルートだったので」
「わかった」
現場は駅の出口から三十メートルほどの場所だった。
壁の広告の文字が、一か所だけ消えていた。そこに核があった。
まだ形は作られていない。初期段階の個体だ。自分の形を持てずにいる。
「変身。ギアレブナント」
装甲が展開した。素体のまま。
核に近づいた。壁の広告の消えた部分に手を当てる。グレイヴ・ブレイクをかけた。
感情が来た。
後悔だった。
今日、言えなかった何かへの後悔だった。
具体的な内容は来ない。ただ、今日という日に言えなかったことがある――その輪郭だけが届いた。まだ固まりきっていない核だ。最近ここで死んだ。
核が浮いた。打ち込んだ。消えた。
変身を解除した。十分もかからなかった。
喫茶店まで歩いた。
夜道に、後悔の感情が少し残っていた。今日、言えなかった何かへの後悔。誰の後悔かは、もうわからなかった。
久住自身が今日言えなかったことがあるとすれば――橘へのことだったかもしれない。橘が調べていることのリスクについて、もっと明確に伝えるべきだったかどうか。あるいは、今夜鈴村と会うことを橘に話すべきだったかどうか。
後悔ではない、と思った。保留だ、と思った。
それは同じことかもしれなかった。
鈴村は先に来ていた。
窓際の席でコーヒーを飲んでいた。眼鏡のレンズが、店の暖かい空気で少し曇っていた。久住が向かいに座ると、鈴村が久住のコーヒーをすでに注文していたことに気づいた。
「早かったな」
「途中で案件が一件」
「小さいやつか」
「6.2。素体で終わった」
鈴村が頷いた。
しばらく、何も言わなかった。
鈴村にしては珍しい。いつもなら、すぐ用件に入る。何かを言うかどうかを、もう一度確かめているような沈黙だった。
「話したいことがあると言ったのは、お前の方でしたね」
久住が言った。
「……ああ」
鈴村がコーヒーカップを置いた。
「桂木のことを、調べているな」
久住は答えなかった。
「橘が動いていることも、わかっている」
「橘の行動は私の指示ではなかった」
「お前が最初に名前を出したのは事実だろう」
否定はできなかった。
「橘の閲覧申請は、上には上げていない。俺の段階で止めた」
久住は鈴村を見た。
「止めた理由は」
「橘がまずいことになる前に」
鈴村が眼鏡を外した。外して、机の上に置いた。
「俺が話したいのは――桂木について、お前が調べる前に、俺の方から言っておきたいことがあるということだ」
「聞きます」
「全部は言えない。言えない理由が、まだある。ただ、お前が調べながら辿り着く答えと、俺が言う答えは、中身が違う場合がある。調べながら辿り着いた答えの方が、正しいとは限らない」
「どういう意味ですか」
「記録は、意図して作られている場合がある。第九の記録は特にそうだ。誰かを守るために書かれた記録もある。誰かを守るために、一部を欠かせた記録もある」
「桂木は第九の外部協力者だった」
「そうだ。EX‐07として登録されていた。十五年前から三年前まで。外部協力者の中でも特殊なカテゴリだった。ギアレブナントの適合者として、第九と契約関係にあった。現場任務もこなしていた。ただ、組織の中枢ではなかった」
「十年前の工場事故の案件も」
「そうだ」
「三年前の事故まで、その契約は続いていた」
「そうだ」
久住は右手を膝の上で握った。
「三年前の事故の夜――あなたも現場にいた」
「いた」
「何故ですか」
鈴村がコーヒーカップを持った。だが、飲まなかった。
「桂木が連絡を入れてきた。現場の状況が予測よりも悪いと。俺が確認のために行った。現場に到着した時、お前はもう倒れていた」
「桂木は何と言ってきたのですか」
「……それは」
「言えない理由がありますか」
鈴村が少し止まった。
「言えない理由がある、とだけ言っておく」
久住は鈴村を見た。
「俺が体内に持っているこの核は、桂木のものですか」
鈴村の表情が変わった。
驚きではなかった。確認しているような顔だった。このことを聞かれるのを、待っていたような顔だった。
「それは――」
「今夜答えられますか」
「……今夜は、答えられない」
「ではいつ」
「それも言えない」
「言えない理由は」
「ある」
久住は下を向いた。
机の傷を見た。古い喫茶店の、古い机だった。いくつもの傷が刻まれていた。
「一つだけ聞かせてください」
「聞いてみろ」
「桂木は――消滅した、と記録にあります。残響体に取り込まれた、という意味だとすれば。取り込まれた先が、わかっていますか」
鈴村は長い間を置いた。
今夜一番長い間だった。
店のBGMが聞こえた。古い音楽だった。
「お前が今持っているものが、それかもしれない」
久住は顔を上げた。
「桂木は――久住の体に入ることを、選んだ可能性がある。その意図があったかどうかを、俺は確認できていない。ただ、偶然ではないかもしれない、と思っている」
「なぜそう思う」
「桂木が、お前のことを話していたからだ。三年前の夜より前から」
久住は何も言えなかった。
「お前のことを話していた、というのは――どんな内容でしたか」
「それは今夜は言えない」
「なぜですか」
鈴村が眼鏡を手に取った。かけた。
「今夜これ以上言うと、俺が言えない理由の、言えない部分に触れる。それが今夜お前にとっていいかどうかを、俺は判断できない。だから今夜はここまでだ」
「俺が判断します」
「お前が判断できると、俺も思っている。ただ――判断する準備ができているかどうかは、今夜はわからない」
久住は鈴村を見た。
嘘はついていない。それだけはわかった。この組織の問題は、嘘をついていないことだ。
「次の案件が入ったら連絡する」
鈴村が立ち上がった。財布を取り出し、二人分の代金を机に置いた。
「久住」
「はい」
「桂木が――お前のことを話していた時の桂木の顔を、俺は今も覚えている。覚えているが、今夜はそれを話す場所じゃない」
「では――」
「いつか、話す場所になった時に、言う」
鈴村が外套を手に取った。着ながら扉に向かった。
「お前が調べることを、俺は止めない。ただ、調べながら辿り着いたことを全て正しいと思うな。それだけだ」
鈴村が店を出た。
久住は席に座ったまま、コーヒーを見ていた。まだ飲んでいなかった。
飲んだ。冷たかった。
桂木が、久住のことを三年前より前から話していた。その話の内容が何だったのか、どんな顔で話していたのか、鈴村は「覚えている」と言った。
久住には、想像する材料がなかった。
桂木の声の形は今夜もある。顔の輪郭はある。名前はある。その桂木が、久住のことを話していた場面の記憶だけが、久住にはない。
「その人は――」と沖野が言いかけて止まった。
沖野が知っている。鈴村が知っている。
久住だけが、まだ知らない。
久住は店を出た。
夜の空気が冷たかった。
高架の下を電車が走った。その音が遠ざかっていった。
胸の残響核が、今夜は静かだった。
静かすぎて、かえって落ち着かなかった。
後悔だった、という今夜処置した個体の感情の残像が、まだ少し残っていた。今日言えなかった何かへの後悔が。
その後悔が誰のものかを、久住は今夜も確認できなかった。
翌朝、橘に連絡した。
「昨夜の鈴村との話を、伝えておく」
「はい」
「桂木が俺の体に入ることを選んだ可能性がある、と鈴村が言った。偶然ではないかもしれない、と」
橘が静かになった。
「……それは」と橘が言った。「久住さんにとって、どういう意味ですか」
「まだわからない。ただ、知っておいた方がいいと思った」
「私に教えてくれたんですか」
「そうだ」
「……ありがとうございます」
「もう一つある。鈴村は、桂木が俺のことを三年前より前から話していたと言った。その内容は今夜は言えなかった、とも言った」
「内容はわからないままですか」
「わからない。ただ、鈴村はいつか言う、と言った。その言葉は嘘ではないと思う」
「わかりました」と橘は言った。「一緒に待ちます」
「お前が待つ必要はない」
「あります」と橘は言った。「久住さんが知ることを、私も知りたいので」
久住は電話を持ったまま、しばらく黙った。
「わかった」と久住は言った。
「今夜の案件は入っていますか」
「まだ入っていない」
「今日は少し休んでください」
「休み方がわからない」
橘が少し笑った。
「じゃあ、好きなことをしてください」
「好きなことも、わからない」
「……それは少し問題ですね」
「そうかもしれない」
電話を切った。
部屋の中は静かだった。
桂木の声の形は今朝もある。
あることを確認した。確認して、その形が少しずつ変わってきていることに気づいた。声の形が、以前より少し近い。以前より、少し鮮明だ。
鮮明になっていくことが、久住には少し落ち着かなかった。
落ち着かない理由を、今日は確認しなかった。
午後に案件が入った。
橘から電話が来た。
「久住さん、今日は休んでくださいと言ったんですが」
「案件が入ったなら行く」
「……はい。廃工場のそばの空き地です。数値は8.1。一週間前から記録されていましたが、今日急増しました。空き地に工事の看板が立ちました」
「また解体のタイミングだ」
「はい。解体というより、新しい建物の建設が始まる、という看板です。更地になって何年も経っていた空き地で、ついに工事が決まった」
「更地になった時に、何かがあったか」
「調べてみます。場所を送ります」
空き地は廃工場から二百メートルほどの場所にあった。
看板が立っていた。工事は来週から始まる予定だ。
残響はコンクリートの基礎の残骸に凝縮していた。更地になっても、地面の中に残った古い基礎に、感情が染みついていた。
久住はデバイスに手を当てた。
「変身。ギアレブナント」
心拍が一拍、落ちた。装甲が展開した。素体のまま。
基礎の残骸に手を当てた。グレイヴ・ブレイクをかけた。
感情が来た。
諦めていた。
何かを。長い間、諦めていた。諦めることに慣れていた。ただ、最後まで完全には諦められなかった。完全に諦める前に、ここが終わった。
核が浮いた。打ち込んだ。消えた。
変身を解除した。
諦めていた、という感情の残像が残っていた。
橘が来た。
「今夜の感情は」
「諦めていた、という形だった。完全には諦めきれなかった」
「それは」と橘が言った。「何を諦めていたんでしょう」
「内容は来なかった。形だけだ」
「形だけでも、久住さんには届くんですか」
「届く」
「それは――つらくないですか」
久住は少し考えた。
「つらいかどうかを確認する前に、次の動作に移っている。それだけだ」
「つらいかどうかを確認しないということは、つらいかもしれない、ということですか」
「そうかもしれない。確認する時間がないだけかもしれない」
橘が黙った。
「久住さん」と橘が言った。
「何だ」
「確認する時間を作ってもいいと思います。桂木さんがそうしなかったから、今の久住さんに届いているのかもしれない。だから久住さんは、そうしなくていいと思います」
久住は橘を見た。
「どういう意味だ」
「桂木さんは確認する時間を作れなかった。あるいは、作らなかった。だから十五年分の感情が全部、次の人間に届いた。久住さんに届いた。それは桂木さんの処置が不完全だったということではなくて――桂木さんが持ち続けたということだと思います。だから今、久住さんに届いている。でも久住さんは、確認してもいいと思います。つらいかどうかを」
久住はしばらく橘を見ていた。
「橘はつらいか」と久住は言った。
「何がですか」
「俺が確認する時間を作らないことが」
橘が少し止まった。
「つらいです」と橘は言った。「久住さんが忙しすぎると思います。一人で処置して、一人で後遺症と戦って、一人で桂木さんのことを考えている。私は隣にいますが、久住さんが確認しないから、何も言えないことが多い」
「隣にいてくれれば十分だ」
「十分ではないと思っています」
久住は橘を見た。
「何が必要だと思う」
「久住さんが、少しだけ確認することです。つらいかどうかを。困っているかどうかを」
「確認したとして、つらかった場合は」
「言ってください。それだけでいいです」
久住は少し間を置いた。
「……わかった」
「今夜はどうですか」
「諦めていた、という感情を受け取った後の手が、少し重い。毎回そうなるわけではない。ただ今夜は重かった」
「それはつらいですか」
「……少し、そうかもしれない」
橘が頷いた。
「ありがとうございます」と橘は言った。「教えてくれて」
久住は答えなかった。
夜の道を歩いた。
諦めていた、という感情の残像がある。手が少し重い。その重さが、今夜は久住の中にある。
桂木の声の形もある。
今夜はそれら全部が、久住の中にある。全部が同時にある。
それだけを確認して、今夜は歩いた。




