第6話 言えない理由の形 後編
翌日の昼、沖野から電話が入った。
「昨日の案件の後、橘さんから感情のレポートを受け取りました。『諦めていた』という形だったと。久住さんの手が重かったとも聞いています」
「橘が報告したのか」
「私が聞いたんです。久住さんに、今どんなものが残っているのかを。久住さんの核との共鳴について、データを補完したかったので」
「何がわかりましたか」
「久住さんの核は、完全に諦めきれなかった感情と、特に強く共鳴しているようです。信じてほしかった、間に合わなかった、来てほしかった、消えたくなかった、諦めきれなかった――そうした感情はすべて、何かに届かなかった形の感情です。届かなかった感情と、久住さんの核が共鳴しやすい状態になっている」
「体内の核が持っている感情の形が、届かなかった形に似ているから、ということですか」
「そう仮定しています」
「桂木が持っていた感情の形が、届かなかった形だった、ということですか」
沖野は少し間を置いた。
「……久住さんに、今お伝えしていいかどうか、判断しかねています。ただ、データはそれを示しています」
「今すぐでなくていい。ただ、いつか教えてください」
「はい。必ず」
電話を切った。
桂木が、届かなかった感情を持っていた。
その感情が、久住の核に入っている。
届かなかった感情が、久住の体の中にある。
それがどういう意味を持つのか、久住は今日は確かめなかった。
ただ今日は、桂木の声の形を確かめた。
ある。
昨日より、少し鮮明だ。
鮮明になっていくことが、今日は落ち着かなかった。
その理由が、少しだけ見えかけていた。
夜、また案件が入った。
現場は川沿いの廃倉庫だった。橘が言った。
「解体が決まった建物です。数値は11.4。急増中です」
現場に着いた。
倉庫の入口が開いていた。内側から押し開けられたように見えた。
中に入る。
高い天井に、残響の密度が集まっていた。形が作られかけている。天井に張りついたまま、素材を集めていた。金属のラック、電動フォークリフトの残骸、電灯の枠。
降りてこない。高い位置に留まり、そこで形を固めようとしている。
WRAITHで行く。速度なら天井まで届く。
「変身」
心拍が一拍、落ちた。
「ギアレブナント」
装甲が展開する。フォームシフト。WRAITHだ。
装甲が細身に変わる。体が軽くなる。ノイズの尾を引くように動ける。
壁を蹴った。天井に向かって跳ぶ。一度、梁を掴んで勢いをつける。もう一度跳んだ。
残響体が反応した。ラックの腕が、下に向かって伸びてくる。
躱す。右へ飛ぶ。電動フォークリフトの残骸が、スクリューのように回転してきた。腕で弾く。WRAITHの装甲が凹んだ。
天井近くの梁に取りついた。残響体は目の前だ。
核の位置を確認する。
電灯の枠の中心。密度が集中している部分がある。あそこだ。
右腕を伸ばし、干渉する。
グレイヴ・ブレイク。
感情が流れ込んだ。WRAITHは感情が素直に届く。フィルターが薄い分、鮮明だ。
何かが完成しなかった。
ここで作っていた何かが、完成しなかった。完成する前に、ここが終わることになった。完成しなかったことが、最後まで残った。
核が浮く。
右拳を固める。打ち込む。消えた。
残響体が崩れた。ラックが落ちる。フォークリフトの残骸が床に散らばった。
久住は梁から飛び降りた。着地する。変身を解除した。
WRAITHの後遺症が来る。指先の感覚が薄い。
何かが完成しなかった、という感情の残像が残っていた。
倉庫を出ると、橘が来ていた。
「今夜の感情は」
「何かが完成しなかった、という形だった」
「何が完成しなかったんでしょう」
「内容は来なかった」
橘が少し言葉を切った。
「久住さん、今夜も手が重いですか」
「少し、そうかもしれない」
「わかりました」と橘が言った。「伝えてくれてありがとうございます」
「……以前は言わなかった」
「はい」
「何が変わったのかわからない」
「変わったんじゃないと思います」と橘は言った。「もともとあったものが、少し出てきているだけだと思います」
久住は橘を見た。橘は視線を外さなかった。
「そうかもしれない」
そう言って、久住は歩き出した。
二人で夜道を歩く。
何かが完成しなかった、という感情の残像がある。
桂木の声の形がある。
届かなかった感情が、久住の核に共鳴している。
それらが今夜の久住の中に、全部ある。
全部が同時にある状態が、今夜は少し重かった。
重いと感じることを、今夜は否定しなかった。
なぜそうなのかは、確かめなかった。
ただ、橘が隣を歩いていた。
翌日、事務所に来た橘の顔が、いつもと少し違っていた。
何かを持ってきた時の顔だった。
「昨日の廃倉庫について調べました。川沿いの倉庫で、十二年前まで地元の建設会社が資材保管に使っていました。廃業した後、そのままになっていたようです」
「建設会社が廃業した理由は」
「工事中の事故が原因らしいです。建設現場で作業員一名が重傷を負った後、会社が傾いて廃業しました」
「何かが完成しなかった、という感情の形と繋がる」
「そう思います。完成しなかった建物か、あるいは完成しなかった何かが、ここに残ったのかもしれません」
久住は黙っていた。
「久住さん、桂木さんはこのエリアで何件も処置をしていたと、記録にあります。廃倉庫も、その一つかもしれません」
「可能性はある」
「桂木さんも、何かが完成しなかった、という感情を受け取っていたかもしれない、ということですか」
「そうなる」
「……桂木さんは十五年間で、何種類の感情を受け取ったんでしょう」
「わからない。ただ、届かなかった形の感情を受け取り続けていた可能性はある」
橘は端末を閉じた。
「久住さんに聞いていいですか」
「何だ」
「桂木さんが体内に入ることを選んだかもしれない、と鈴村さんが言っていました。もしそれが本当なら、桂木さんは何のために久住さんを選んだと思いますか」
久住は少し間を置いた。
「わからない」
「今はわからなくていいと思います。ただ、考えてほしいと思って」
「なぜ」
「答えが出た時に、久住さんが一人でその答えを持つんじゃなくて、誰かに言えるように」
久住は橘を見た。橘は端末を自分の前に向けたまま、久住の方を見ていなかった。
「……わかった」
「答えが出たら、教えてください」
「出たら」
「出なくても。出かけた時も」
「わかった」
午後に案件の連絡はなかった。
久住はアパートに戻り、桂木の声の形を確かめた。
ある。
昨日より、また少し鮮明だ。
鮮明になっていく理由が、今日は少し見えかけていた。
届かなかった形の感情が、久住の核と共鳴している。桂木が持っていた感情の形が、届かなかった形に近いのかもしれない。
届かなかった、ということは――誰かに届けたかった、ということだ。
桂木が届けたかった感情が、久住の核の中にある。
久住に向けていた感情が。
その感情の形が何だったのか、今夜は確かめなかった。
確かめる前に、今夜も夜が来た。
夜、小さな案件が入った。
数値は6.5。繁華街の路地に小さい個体が発生していた。
「素体で行く」
久住は橘に言った。
「今夜は私もついていっていいですか」
「来い」
繁華街の路地裏。
古いビルの壁に、核があった。形はない。ただ、密度はあった。
「変身。ギアレブナント」
装甲が展開する。素体のまま。
壁に手を当てる。グレイヴ・ブレイクをかける。核が浮く。
感情が来た。
誰かのそばにいたかった。
それだけだった。
誰かのそばにいたかった、という形の感情だった。誰の名前も来なかった。誰かである必要はなかったのかもしれない。ただ、誰かのそばにいたかった。
右拳を打ち込む。消えた。
変身を解除した。
「今夜の感情は」と橘が言った。
「誰かのそばにいたかった、という形だった」
橘が少し言葉を失った。
「……それは」
「何だ」
「久住さんは、誰かのそばにいたかったですか」
久住は少し間を置いた。
「今夜は」と言った。「橘がそばにいる」
橘が黙った。
「それは、いいですか」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、ということは」
「今夜はそれだけでいい、と思っている」
橘が、少し笑った気配がした。
「わかりました」
二人で夜道を歩く。
誰かのそばにいたかった、という感情の残像がある。
桂木の声の形もある。
橘が隣を歩いていた。
それだけを確かめて、今夜は歩いた。
翌朝、桂木の声の形を確かめた。
ある。
昨日より鮮明だ。
鮮明になっていく一方だった。これがいつまで続くのか、久住はまだ確かめていない。確かめることが怖いわけではない。ただ、確かめることで何かが変わるかもしれない。変わることを、今は望んでいなかった。
昨夜の、誰かのそばにいたかった、という感情の残像は、今朝もある。薄くなってはいるが、ある。
その感情が誰のものなのか、今朝も確かめなかった。
橘から朝のメッセージが来た。
「おはようございます。今日の案件はまだ入っていません。少しゆっくりしてください」
「わかった」
そう返信した。
しばらくして、橘から返事が来た。
「昨夜、ありがとうございました。久住さんが『今夜はそれだけでいい』と言ってくれたことが、うれしかったです」
久住はその文面を見つめた。
うれしかった、と橘は言った。
久住が伝えたことが、橘に届いた。
届いた、という事実がそこにあった。
桂木の声の形が、今朝はこれまでより近い場所から来ていた。
その理由が、少しだけ見えかけていた。
翌朝、久住は三年前の高架下に来ていた。
深夜ではない。朝の早い時間だ。
橘には言わなかった。案件でもない。
ただ、来た。
高架の下に立つ。
桂木は三年前、ここで何かを決めた。久住は倒れていた。心停止は七分以上続いていた。桂木は、自分の核を移すことを選んだ。
鈴村はまだ、その時の詳細を話していない。言えない部分がある。
だが今朝の久住には、詳細がなくても、何かがわかる気がした。
桂木があの夜ここにいた、という事実がある。
その事実の中で、選択をした。
後悔していなかったと、鈴村は思っている。
久住は高架の柱に手を当てた。
三年前と同じコンクリートだ。変わっていない。
胸の残響核が、いつもと少し違う振動をした。この場所に来るたびに、振動は変わる。今朝も変わった。
今朝の振動は、以前より少し穏やかだった。
呼ばれるような感覚でもなく、応答するような感覚でもない。
ただ静かに、ここにある、という振動だった。
久住はしばらく高架下に立っていた。
橘から電話が来た。
「久住さん、今朝事務所に来ないので心配して。どこですか」
「三年前の高架下だ」
「……案件ですか」
「ない。ただ来た」
橘が少し言葉を止めた。
「そうですか。何か感じていますか」
「静かだ」
「静か、というのは」
「核が静かに振動している。呼ばれる感覚でも応答する感覚でもない。ただ、ここにある、という振動だ」
「……それは」
「何だ」
「落ち着いた、ということですか」
久住は少し考えた。
「そうかもしれない」
「良かったです」と橘が言った。「今日は事務所に来ますか」
「午後に行く」
「わかりました。案件は今日入っていないので、ゆっくりしてください」
電話を切った。
高架下に、少しの間立っていた。
桂木がここにいた夜のことを、今の久住はまだ完全には知らない。
ただ、今朝のこの感触は大切にしたいと思った。
大切にしたい、という感情が自分の中にあることを、今朝初めて確かめた。
高架下を離れる。
空が少し明るくなっていた。晴れそうだった。
午後、事務所に行くと、橘が端末を持って待っていた。
「高架下から帰ってきましたね」
「ああ」
「どうでしたか」
「静かだった。核が静かに振動していた」
「それは良かったです」
「橘」
「はい」
「今朝高架下に行ったのは、理由を言葉にできていなかったからだ。ただ行きたかった。行ってみたら、少しわかった。落ち着いていたのかもしれない」
「落ち着いた、というのは――久住さんが、桂木さんのことを受け取り始めているということですか」
「そうかもしれない。まだ全部じゃない。ただ、高架下に立って、静かだった」
橘は頷いた。
「それで十分だと思います」と言った。「全部を一度に受け取る必要はないと思うので」
「一緒に時間をかける、と言っていたな」
「はい。今日も一緒に時間をかけています」
久住は窓の外を見た。
今日は晴れたままだった。
それだけで、今日は少しいい日だった。




