第7話 統合 前編
古い集合住宅が解体されることになった。
築四十七年。五階建て、二十世帯。
十年前から空き家が増え始め、三年前に最後の住人が出ていった。その後、第九の計測班が断続的に残響反応を記録していた。
数値は低く、増加もなかった。放置案件として分類されていた。
昨日、解体工事の開始通知が出た。
同じ日の夜、残響反応が急増した。
橘から連絡が来た時、久住凌はアパートで目を覚ました。
深夜二時だった。
「数値は」
「現時点で28.4。三十分前まで9.1だったので、三倍以上の急増です。増加が止まっていません」
「何か特異なことはあったか」
「現場付近の住民から110番が三件。いずれも『建物が変な音を立てている』という内容です。警察が確認に向かった二名を記憶処置済みです。現場への封鎖はまだ不完全で――」
「行く」
電車で三十分だった。
移動中にも、橘から追加の報告が入った。
「数値が34.2になりました。封鎖班が五名いますが、全員が建物から距離を取っています。近づけないと」
「何かが出ているか」
「視覚的には確認されていません。ただ、近づくと複数が『叫び声が聞こえる』と報告していて、実際には無音だということで」
「準備して待て。俺が中を確認してから判断する」
集合住宅に着いた。
外から見れば、ただの廃棄建物だった。
窓は暗く、外壁は汚れている。
だが、空気が違った。
百メートル手前から、残響の密度がわかった。
分厚い。
しかも、層になっている。
第九の職員が離れて待機していた。
久住が近づくと、一人が「中には――」と言いかけた。
「わかっている。離れていろ」
正面玄関に向かった。
扉は開いていた。
内側から引っ張られるように、ゆっくりと開き続けていた。
体内の核が、この建物全体に引きつけられていた。
磁石が磁石に近づいた時の、あの感覚だ。
抵抗と引力が、同時に来る。
「……」
中に入った。
一階の廊下に、光があった。
照明はすべて落ちている。
それなのに、廊下の壁が薄く発光していた。
壁紙の染みが光っていた。
床のリノリウムが光っていた。
二十世帯分の生活の痕跡が、全部、光っていた。
感情の密度が、光として見えていた。
変身前でも見える。
それだけ濃いということだ。
二階へ上がった。
廊下の壁の発光が強くなる。
三階。
四階。
五階。
上へ行くほど、密度は増していった。
五階の廊下の天井で、それが見えた。
形ではなかった。
まだ、形を作っていない。
霧のように漂っていた。
複数の感情が、個別の形を作れずに混ざり合っていた。
孤独死の後悔。
孤立した恐怖。
長い時間の悲しみ。
それらすべてが、解けて、混ざっていた。
核の集合体だった。
一つの核が中心にある。
その周囲を、複数の核が取り巻くように積層していた。
最も古い核が中心にある。
建物の歴史と同じくらい古いものが、中心核として、あとから来た感情を引き寄せていた。
久住はデバイスに手を当てた。
心拍が一拍、落ちる。
「変身」
二重の声が廊下に響いた。
「ギアレブナント」
装甲が展開する。
マスクが閉じる。
スリットが灯る。
HOWLを使った。
感知が鋭敏化する。
五階の廊下が、感情の可視化で書き換わった。
複数の核の位置が見えた。
中心核の位置が見えた。
久住は中心核に向かって動いた。
霧状の残響が反応した。
壁から何かが飛んできた。
壁紙の欠片だった。
それが刃のように薄く広がって襲ってきた。
腕で受けた。
切り傷が走る。
HOWLの薄い装甲を通して。
攻撃性がある。
中心核を守ろうとしている。
前に出た。
壁紙の刃を避けながら、中心核へ向かう。
三メートルの距離まで来た。
中心核が反応した。
周囲のすべての核が、一斉に活性化した。
廊下の壁が剥がれた。
床が浮いた。
天井が落ちかけた。
五階全体が、残響体の体になっていた。
弾き飛ばされた。
壁に叩きつけられる。
HOWLの装甲が割れた。
立ち上がる。
右腕は動く。
左腕が痛い。
肋骨が二本、折れているかもしれない。
中心核への直接干渉が、HOWLでは通らなかった。
MOURNに切り替えた。
重さが来る。
感情が遠くなる。
動いた。
今度は力で押した。
床が浮いても踏み込む。
壁紙が飛んできても受ける。
一メートル。
五十センチ。
手が届いた。
グレイヴ・ブレイクをかけた。
中心核が反応した。
分離を始めた。
その瞬間、周囲のすべての核が一斉に収縮した。
久住の体に向かって。
全部が、中心核の引力に引かれて――久住の体に向かって飛んできた。
衝撃が来た。
装甲が割れる。
フレームが歪む。
MOURNが限界を超えた。
変身が――解けかけた。
「…………」
解けそうになる変身を、久住は意識で引き留めた。
できない。
HOWLでも無理だった。
MOURNでも届かなかった。
中心核を単独で引き剥がすことが、現在の状態では不可能だった。
選択肢は一つ。
使いたくなかった。
|NULL REVENANTだ。
複数の残響構造を同時接続する。
適合者自身の境界を希薄化する。
その代わり、すべての核に対して直接干渉できる。
代償は、記憶だ。
変身中、自分自身の記憶が消費される。
失われる対象は選べない。
守りたかった相手の顔が消えるかもしれない。
桂木の顔の輪郭が。
天井から壁材が降ってくる。
装甲で受ける。
考えている場合ではなかった。
デバイスに手を当てた。
鎖骨のフレームに触れる。
いつものデバイスとは違う接触点がある。
緊急時のみ起動する接触点だ。
今まで押したことはなかった。
「変身」
声が出た。
今夜の重なった声は、久住の声ではない部分の方が大きかった。
複数の声が重なっていた。
「ギアレブナント――」
装甲が変わった。
黒い装甲の上に、さらに黒いものが重なった。
ノイズ状のものが体全体を覆う。
マスクの形が変わる。
目の発光スリットが広がる。
白く。
赤ではなく、白く。
背部のノイズが増大した。
不安定に揺らいでいる。
痛みが消えた。
痛みという信号が、届かなくなった。
複数の核の位置が、全部わかった。
感知ではない。
知っていた。
建物全体の核の配置が、久住の中に入ってきた。
全部の感情が、同時に入ってきた。
孤独死の後悔が。
孤立した恐怖が。
長い時間の悲しみが。
全部が来た。
全部が来ているのに、どれも久住を傷つけなかった。
境界が、希薄化していた。
動いた。
中心核に向かった。
壁を通過するように移動した。
装甲の境界が、今夜は曖昧だった。
中心核に手を当てた。
グレイヴ・ブレイク。
今夜のそれは、引き剥がす動作ではなかった。
干渉した。
溶かした。
中心核の構造そのものを、直接崩した。
中心核が消えた。
周囲の核が、連鎖して崩れていった。
全部が同時に。
五階の廊下が崩れた。
壁が落ちた。
床材が散らばった。
窓が割れた。
久住は廊下の真ん中に立ったまま、それが全部崩れていくのを見ていた。
すべての感情が、消えていった。
消えていく感情の中に、久住が知っている形の感情があった。
一つだけ。
形の違うものが、一つあった。
この建物の住人の感情ではない。
見ていた、という形の感情だった。
見届けていた。
久住が戦うたびに、見ていた。
変身が解けた。
廊下に落ちた。
膝から落ちた。
装甲が外れる。
マスクが外れる。
折れていた肋骨の痛みが戻ってきた。
息が荒い。
建物の外から、橘の声が聞こえた。
「久住さん! 久住さん、聞こえますか!」
遠かった。
久住は顔を上げた。
桂木の顔を確認しようとした。
輪郭がなかった。
声はある。
声の形がある。
名前は、ある。
桂木という名前が、まだある。
顔の輪郭が、消えていた。
目鼻の位置の記憶はある。
髪の形の記憶もある。
ただ、それを繋ぐ輪郭が――今夜、消えていた。
「…………」
久住は壁に手をついて立ち上がった。
廊下の窓から外が見えた。
解体が決まった建物の、最後の夜だ。
明日から工事が始まる。
消えることは悪いことではない、と久住はいつも決めていない。
今夜も決めなかった。
ただ、桂木の顔の輪郭が消えた。
その事実だけがあった。
今夜は、まだ名前がある。
声の形がある。
久住はそれだけを確認して、廊下を歩いた。
橘が呼んでいた。
返事はしなかった。
階段を降りる。
一階の廊下を抜ける。
玄関を出る。
橘が走ってきた。
「久住さん、大丈夫ですか、顔色が――」
「終わった。片づけに入れ」
「でも怪我が――」
「肋骨が二本。自分で処置できる。片づけを先に始めろ」
「そんな――」
「始めろ」
橘が止まった。
久住の顔を見た。
久住は橘を見た。
橘の顔の輪郭は、あった。
今夜の後遺症は、輪郭の喪失ではなく別の種類だ。
それだけは確認できた。
「……わかりました」
橘が引いた。
久住は夜の空気の中に立った。
冷たかった。
肋骨が痛んだ。
桂木の顔の輪郭は、今夜消えた。
名前は、ある。
声の形は、ある。
今夜はそれだけで、歩けた。
翌朝。
肋骨の痛みがあった。
処置した。
固定した。
桂木の顔を確認した。
輪郭がない。
声はある。
名前はある。
輪郭だけが、昨夜から消えたままだった。
橘から電話が来た。
「昨夜はありがとうございました。|NULL REVENANTを使ったんですね」
「そうだ」
「後遺症は」
「顔の輪郭の記憶が一部消えた」
橘が少し止まった。
「顔の輪郭、というのは――誰かの顔ですか」
「関係のない人間の顔ではない。それだけだ」
「……わかりました」
「今日の案件は」
「今日は入っていないです。鈴村さんが、久住さんに今日は休息を取るよう言っています」
「俺は今日も動ける」
「……はい。伝えます。ただ、久住さん――」
「何だ」
「|NULL REVENANTを使った後で、消えた記憶があるということを――鈴村さんに伝えた方がいいと思いますか」
久住は少し考えた。
「鈴村に伝えると、管理の対象になる。今後の|NULL REVENANT使用に制限がかかる」
「それはまずいですか」
「まずいかどうかは、まだわからない。ただ、今夜も案件が入る可能性がある。このエリアの再活性化が続いている。|NULL REVENANTが必要な規模が来る可能性がある」
「……わかりました。鈴村さんへの報告については、久住さんが判断してください」
「一つ頼む」
「はい」
「昨夜の建物について――過去に住んでいた人間の記録を、できる範囲で調べてほしい。孤独死、転落事故――そういった事例が記録に残っていないか」
「調べます」
電話を切った。
部屋の中が静かだった。
今朝は、桂木の顔の輪郭がない状態で朝を迎えた。
ない、という状態が、今の久住の中での桂木の状態だ。
声はある。
名前はある。
ただ、輪郭がない。
輪郭がなくなった、という事実を、久住はどこへ置くかを考えた。
考えても答えは出なかった。
|NULL REVENANTを使うたびに、何かが消える。
消える対象は選べない。
桂木の名前が消えるかもしれない。
声の形が消えるかもしれない。
それがわかった上で、また使う必要が来る。
久住はその可能性を、今朝初めて正面から確認した。
ただ今朝は――肋骨が痛んだ。
痛みがある間、久住は人間だ。
その確認だけを持って、今朝は立ち上がった。
今夜も案件が入れば行く。
そのために今日は体を休める。
ただそれだけのことが、今日の久住の動作だった。
夜、鈴村に呼ばれた。
「昨夜の件、報告書を読んだ」と鈴村が言った。「|NULL REVENANTを使ったな」
「そうだ」
「報告書に記録はある。ただ、後遺症の詳細は書いていなかった」
「書かなかった」
「なぜだ」
「書くと制限がかかると判断した」
鈴村が少し間を置いた。
「代償は出たか」
「顔の輪郭が一つ消えた」
「……誰のだ」
「今は答えなくていい」
鈴村が久住を見た。
表情が変わった。
変わったが、その変化の意味が久住には今夜は少し読めた。
「後遺症の詳細を報告書に追記する必要がある」と鈴村が言った。「ただ、追記の内容については俺の判断で一部保留にできる。上には消えた記録の対象を言わなくていい」
「なぜそうしてくれるんですか」
「言う必要がないからだ」
久住は鈴村を見た。
「俺が今後も|NULL REVENANTを使う可能性がある。その時の代償が何かを、あなたは知りたくないんですか」
「知りたくない、ということはない。ただ――それをお前に言わせることが、今は正しくないと思っている」
「なぜですか」
「顔の輪郭が消えた。それ以上詳しく聞くことが、今夜お前にとっていいかどうかわからない」
久住は少し間を置いた。
「鈴村さん」
「何だ」
「桂木が、お前のことを話していた時の桂木の顔を、と言っていましたね。覚えていると。いつか話す場所になった時に言うと」
「言った」
「今夜は話す場所ではないですか」
鈴村が長い間を置いた。
「今夜は――話す場所かもしれない。ただ、話す前に確認させてくれ」
「何をですか」
「お前が昨夜、顔の輪郭を失った。それはお前にとって、どういう意味があったか」
久住は少し考えた。
「代償だ。|NULL REVENANTの代償として失った」
「それだけか」
「……それだけではないかもしれない。失った、ということが、何かを教えてくれた気がする」
「何を教えてくれた」
「顔の輪郭がなくなっても、声の形はある。名前はある。それが残っていた。輪郭がなくても、声と名前がある。それでわかることがある、という気がした」
鈴村が久住を見た。
「……わかることがある、とは」
「桂木がいる、ということが。輪郭がなくても、声と名前がある間は、いる、ということが」
長い沈黙だった。
「そうだな」と鈴村はやっと言った。
「今夜、話してもらえますか」
「……話す」と鈴村は言った。
「桂木の名は桂木凛音という」
久住は動かなかった。
「女性だ。当時三十二歳だった。十五年前から第九の外部協力者として動いていた。適合者として、お前の前任者だ。三年前の事故の夜――桂木は、お前を生かすために自分の核を移した。技術的には可能かどうかまだ確認されていなかった方法で。実行した。お前は生きた。桂木は消えた」
久住は鈴村を見た。
「桂木が――自分の核を移した。俺のために」
「そうだ」
「なぜですか」
「お前が倒れていた。心停止が七分以上続いていた。桂木は自分の核を移植することでお前を生かすことができると判断して、実行した。その判断に確信があったかどうかは、俺にはわからない。ただ、桂木は実行した」
「桂木は――そのことで消えた」
「核を失った状態で変身を維持することはできない。桂木は核を移した後、間もなく消えた」
久住は黙った。
「桂木が俺のことを三年前より前から話していたと、言いましたね」
「そうだ」
「どんな内容でしたか」
鈴村が少し間を置いた。
「お前のことを気にかけていた。ただ、それ以上の内容は――言えない。言えない理由がある。桂木が俺に頼んだことがあって、それが理由だ」
「桂木が頼んだ」
「そうだ。いつかお前が辿り着いた時に、言うことと、言わないことを決めていた。今夜話したことは、言うことの範囲だ」
「言わないことは何ですか」
「今夜は言わない。ただ――桂木の顔の輪郭が消えた今夜、お前に話すべきだと思ったことは話した」
久住は立ち上がった。
「わかりました」
「久住」
「はい」
「桂木は――後悔していなかったと思う。俺はそう思っている」
鈴村はそれだけ言った。
久住は部屋を出た。
廊下に出る。
窓から外の空が見えた。
夜の空だ。
雨が降りそうな空だった。
桂木凛音。
名前が今夜、揃った。
顔の輪郭は消えた。
声の形はある。
名前が今夜、揃った。
それだけを確認して、久住は歩いた。
今夜の雨が来る前に、アパートに帰った。




