第7話 統合 後編
翌朝、橘から電話が来た。
「昨夜の建物について調べました。区の記録と地方紙のアーカイブを確認しました。過去二十年間で四件の死亡事例が記録されています。孤独死が二件、自死が一件、転落事故が一件です」
「わかった。よくやってくれた」
電話を切った。
四件の死が、この建物に残っていた。長い時間、積み重なって、複合した残響になっていた。処置した。消えた。
消えることで、四人が記録から完全に消えるわけではない。ただ、残響という形の名残は消えた。
それが処理か鎮魂かを、久住はまだ決めていなかった。
雨が降っていた。
桂木凛音。
名前を確認した。ある。
声の形を確認した。ある。
顔の輪郭を確認した。ない。
輪郭がないまま、名前と声の形だけがある。
それが、今朝の久住の中での桂木の状態だった。
昨夜、鈴村に言われたことを、朝の部屋で改めて確認した。
桂木は自分の核を移した。
三年前の事故の夜。
久住を生かすために。
核を失った後、消えた。
今、久住の体内にあるのは、桂木凛音の核だ。
その核が、届かなかった感情に共鳴する。
信じてほしかった。
間に合わなかった。
来てほしかった。
そういう形の感情に。
桂木が受け取り続けた感情の形が、核に染みている。
久住はその事実を確認した。
橘から電話が来た。
「おはようございます。昨夜の鈴村さんとの話、鈴村さんから私も聞きました」
「知っているか」
「はい。少し前から知っていましたが、久住さんが自分で辿り着くまで言わないようにしていました。すみません」
「謝る必要はない」
「……久住さん、今大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「何か感じていますか」
久住は少し考えた。
「重い、という感じが少しある。昨夜から続いている。ただ、それだけだ」
「重い、というのは」
「様々なものが今朝の俺の中にある。桂木の名前と声の形。昨夜の建物の四件の感情の残像。鈴村が言ったこと。それらが全部今朝の俺の中にある。全部が重いわけではないが、全部が一緒にある状態が、少し重い」
「わかりました」と橘が言った。「今日は案件を入れないように調整します」
「入れなくていい。ただ、入ってきたら行く」
「……はい」
「橘」
「はい」
「橘が知っていたのに言わなかったことについて。俺はそれをおかしいとは思っていない。ただ」
「ただ、何ですか」
「今後は、俺が辿り着く前でも、言ってくれていい。辿り着くまで待たなくていい」
橘が少し止まった。
「……わかりました。そうします」
「頼む」
電話を切った。
雨は降り続いていた。
桂木凛音。
三十二歳だった。
十五年間、処置をしていた。
届かなかった感情を受け取り続けていた。
そして三年前、久住を生かすために、自分の核を移した。
後悔していなかったと、鈴村は思っている。
久住にはまだ、その言葉の意味が完全にはわからなかった。
ただ今朝は――名前が揃った、という事実だけがある。
それが久住には、重かった。
重かった。
だが、押しつぶされはしなかった。
押しつぶされなかった理由が、今朝は少し、わかりかけていた。
昼過ぎ、案件が入った。
橘から電話が来た。
「久住さん、商店街の外れに小さい個体が発生しています。数値は5.8。今夜は私が代わりの人間を手配し――」
「俺が行く」
「でも昨夜の後遺症がまだ――」
「肋骨は固定した。後遺症は動作に支障がない範囲だ。行く」
「……わかりました」
商店街の外れ、古い郵便局の跡地だった。
解体されてから何年も経っていたが、基礎の残骸が地面の下にある。
その中に核があった。
「変身。ギアレブナント」
心拍が一拍、落ちた。
装甲が展開した。
素体のまま。
地面に手を当てた。
グレイヴ・ブレイクをかけた。
感情が来た。
また届けたかった。
それだけだった。
また届けたかった、という形だった。
一度届いたことがあった。
その後で、届けることができなくなった。
また届けたかった。
核が浮いた。
打ち込んだ。
消えた。
変身を解除した。
また届けたかった、という感情の残像が残っていた。
橘が来た。
「今夜の感情は」
「また届けたかった、という形だった。一度届いたことがあった。また届けたかった」
橘が少し止まった。
「一度届いた、というのは」
「来た内容だ。一度だけ、届いた経験があった、という形が来た」
「それは――いつか届いた、ということが残っていたんですね」
「そうだ」
「久住さん」と橘が言った。
「何だ」
「桂木さんのこと、昨夜聞きましたよね」
「そうだ」
「桂木さんが届けたかったことが、一度でも届いたことがあったとしたら――それは、誰に届いたんでしょう」
久住は少し間を置いた。
「わからない」
「久住さんかもしれませんか」
「……わからない。ただ、可能性はある」
橘が頷いた。
「それは」と橘が言った。「いいことだと思います」
「いいことか」
「一度でも届いたことがあったなら。それが残っていたなら。いいことだと思います」
久住は答えなかった。
夜の道を歩いた。
また届けたかった、という感情の残像がある。
桂木の声の形もある。
輪郭はない。
声と名前だけがある。
一度届いたことがあった。
それが残っていた。
それが桂木のものだったとして――久住はまだ、受け取っていたのかどうかを確認できなかった。
ただ今夜は、桂木の声の形が今までとは少し違う場所から来ていた気がした。
少し、近い場所から来ていた。
それが何を意味するかを、今夜は確認しなかった。
橘が隣を歩いていた。
それだけで今夜は、歩けた。
翌朝、橘から連絡が来た。
「昨夜の建物について調べました。区の記録と地方紙のアーカイブを確認しました」
「何があったか」
「過去二十年間で、この建物では四件の死亡事例が記録されています。孤独死が二件、自死が一件、転落事故が一件です。転落事故は七年前、四階の住人が階段から転落して死亡しています。自死は十二年前、五階の住人が入院中に死亡、遺書があったと記録されています」
「孤独死は」
「一件は五年前、一件は三年前です。どちらも発見が遅れています。五年前の方は二週間後に、三年前の方は十日後に発見されました」
「三年前というのは――桂木が消えた年だ」
「はい。そうなります」
久住は黙った。
「三年前の孤独死の感情が中心核になっていた可能性がある」
「そう考えられます。その核を起点に、後から来た感情が積み重なっていったのかもしれません」
「わかった。よくやってくれた」
「久住さん」と橘が言った。
「何だ」
「|NULL REVENANTを使ったことで顔の輪郭が消えた、と言っていましたね。それは、昨夜の処置のためでした」
「そうだ」
「代償を払って、あの四件を処置した」
「そういうことになる」
「私は」と橘が言った。「その代償が何だったかを知っています。久住さんが何を失ったかを知っています。だからこそ聞きたいのですが――後悔していますか」
久住は少し間を置いた。
「していない」
「なぜですか」
「あの四件を処置することが必要だった。代償がなければ処置できなかった。だから払った。払ったことを後悔しても意味がない」
「でも、大切なものを失ったんですよね」
「輪郭は失った。ただ、声と名前はある」
「それだけで、足りますか」
「足りるかどうかを確認する余裕がなかった。昨夜は必要だったから使った。今はまだ、足りるかどうかよりも、声と名前がある事実の方が先にある」
橘が黙った。
「久住さん」と橘がやっと言った。「鈴村さんからフルネームを聞けましたか」
「昨夜聞いた。桂木凛音だ」
「……そうですか」
「知っていたか」
「知っていました。ただ、久住さんが自分で聞くべきだと思っていたので、言いませんでした」
「そうか」
「桂木凛音さんの顔の輪郭は消えましたが、名前は今夜揃いました」
「そうだな」
「それは――良いことだと思います」
久住は少し間を置いた。
「そうかもしれない」
「久住さんにとって、名前が揃ったことは、何かを変えましたか」
「変えた、と思う。何が変わったかを、まだ言葉にできていない。ただ、昨夜名前が揃ってから、少し何かが変わった気がする」
「それを確認する時間を、今日は持ってください」
「わかった」
「今日は私が調整します。案件が入っても、できる限り対処します」
「頼む」
電話を切った。
部屋の中が静かだった。
桂木凛音。
名前が揃った。
顔の輪郭はない。
声はある。
名前がある。
その状態で今日は過ごす。
確認する時間を持つ、と橘は言った。
今日は確認する時間があった。
その時間を、久住は初めて、ただ過ごした。
ただ過ごすことの中に、何かがあることを、今日は少し感じた。
夕方、事務所で沖野に顔を合わせた。
「昨夜の|NULL REVENANTについて、分析しました」と沖野が言った。「久住さんの核の共鳴パターンが、使用前後で変化しています」
「どう変化しましたか」
「使用前は、届かなかった形の感情に共鳴する傾向がありました。使用後は、その傾向が維持されつつ、加えて――見届けた形の感情にも共鳴するようになっています」
「見届けた形の感情」
「はい。見届けたかった、という感情に加えて、実際に見届けた、という感情にも反応するようになっています。これは|NULL REVENANTの境界希薄化が、核の共鳴パターンを更新した可能性があります」
「見届けたかった、から、見届けた、に変わった」
「変わったというより、加わった、という方が正確です。両方に共鳴するようになっています」
久住は少し考えた。
「桂木が見届けた、という感情を持っていた可能性がありますか」
「可能性としては、あります。ただ確認できません」
「わかりました」
沖野が端末をしまった。
「久住さん、桂木さんのフルネームを昨夜聞いたんですね」
「そうだ」
「どうでしたか」
「名前が揃った。それだけだ。ただ、それだけで何かが変わった気がした」
「そうですか」と沖野は言った。「それは、桂木さんが持っていたものに、少し近づいた、ということかもしれません」
「どういう意味ですか」
「桂木さんは、久住さんの名前を知っていました。ずっと前から。今日、久住さんが、桂木さんの名前を知った。少し対等になった、ということかもしれません」
久住は沖野を見た。
「対等」
「そうです。知っていることが対等になる、ということがあります」
沖野が立ち上がった。
「今夜はゆっくり休んでください。肋骨もまだ痛むでしょう」
「そうします」
沖野が出て行った。
事務所が静かになった。
桂木凛音。
名前が今夜揃った。
顔の輪郭はない。
ただ、名前がある。
対等になった、という言葉が残っていた。
それが正確かどうかはわからない。
ただ、今夜名前が揃った、ということは、何かの始まりかもしれなかった。




