第4話 声の形 前編
深夜の路上に、公衆電話ボックスがあった。
もう何年も使われていないはずの型だ。塗装が剥げて、内側のガラスが汚れていた。区画再整備の対象になっていて、来月には撤去される予定だと橘が言っていた。
橘はここに来ていない。今夜は久住だけだ。
第九の受信記録によれば、このボックスの半径三十メートル以内で、ここ三日間、四件の異常が起きていた。近くを通った人間が突然立ち止まり、公衆電話に手を伸ばし、数分後に記憶を失う。そのうち三件は記憶処置が行われていた。一件だけ処置が間に合わず、その人間は今も近隣の病院に入院している。
残響反応は低かった。7.2。
久住はボックスから五メートルのところで立ち止まった。
単一の核だ。密度は低い。小さい個体だ。
ボックスの中で、受話器が揺れていた。
揺れている、というより――動こうとしていた。受け台から外れかけて、また戻る。外れかけて、また戻る。繰り返していた。
誰かに電話をかけようとしている動作だ。
外れて、かけて、誰かが出て――そこで止まる。出てくれないから、また受け台に戻す。それを繰り返している。
久住は動かなかった。
攻撃性はない。繰り返しているだけだ。ただ、人間が近づくと、その人間に「電話をかけさせようとする」干渉が発生する。被害者の記憶錯乱はそれだ。
処理の規定では、この時点で変身して核を破壊する。
久住は少しの間、受話器の動きを見ていた。
外れかけて。戻る。外れかけて。戻る。
核の感情密度が、HOWLなしでも薄く読めた。密度が低く、構造がシンプルな個体は、変身前でも感情の形が届くことがある。
声を届けたかった。
それだけだった。それだけの形の感情だった。誰かに声を届けたかった。何を伝えたかったのか、内容ではなく、ただ声が届いた、という事実が欲しかった。
「…………」
デバイスに手を当てた。
心拍が一拍、落ちた。
「変身。ギアレブナント」
今夜の二重の声は、高かった。女性のものに近いかもしれなかった。
装甲が展開した。素体のまま。今夜はフォームシフトをしない。
ボックスの扉を引いた。
核の感触が来た。小さい。受話器の根元、コード部分の奥に密度がある。
流れ込んできた。
核に触れていないのに来た。個体が小さく、距離が近いからだろう。
声を届けたかった。
それだけだった。内容ではなく、ただ声が届いた、という事実だけが欲しかった。そのためだけに、この人間は電話に手を伸ばしていた。声を出すことができないまま。出せないまま手を伸ばして、伸ばすたびに届かなかった。
久住は受話器を持った。
コードの根元に触れた。グレイヴ・ブレイクをかけた。小さい核だ。すぐに浮いた。発光した。豆電球ほどのサイズだった。
右拳を握った。打ち込んだ。消えた。
受話器が、久住の手の中で、ただの金属と樹脂の塊になった。
終わった、というより――止まった。繰り返していた動作が止まった。
後始末は不要だった。記録に残さない案件として鈴村が処理する予定だ。
久住はボックスの外に出て、変身を解除した。
声を届けたかった。
その感情がまだ残っていた。届けたかった先が誰で、何を伝えたかったかは来なかった。内容ではなく、事実だけが欲しかった。そういう形の感情だった。
久住は公衆電話を見た。
受話器が垂れていた。取り付け部分が壊れた状態になっていた。来月撤去される予定の、すでに誰にも使われていないボックスだ。
誰かに電話をかけたことがあったか、と久住は考えた。桂木に。電話をかけたことが。番号を知っていたはずだ。三年前は、知っていたはずだ。
今は思い出せなかった。
番号の形が来ない。どんな番号だったか。桂木の電話から着信があった時、どんな画面だったか。それが来なかった。
声を届けたかった、という感情の残像の中に、久住は自分の感情が混ざっていることに気づいた。どちらが誰のものかを、確認できなかった。
久住は右手を見た。
指先の感覚はある。
何かが欠けていることには気づいているが、それが具体的に何なのか確認する方法がなかった。公衆電話が最後に使われたのがいつかを調べる方法がないのと、同じようなことだ。
道を歩き出した。深夜の路上は静かだった。
久住がアパートに戻ってから二時間後に、橘から電話が来た。
「起きていますか」
「起きている」
「調べてみました。今夜言いに来るつもりでしたが、電話で先に」
「桂木の件か」
「はい。入局時の研修資料のアーカイブを昨夜確認しました。権限申請を研修関連という名目で通しました。嘘の申請ではないので問題はないと思いますが」
「内容は」
「第九処理班の発足の経緯と、初期の適合者の一覧です。桂木という苗字の人間が一名、初期のギアレブナント適合者として記録されていました。フルネームは別の資料にあるはずですが、そこまでは権限が通りませんでした」
「備考欄は」
「適合者の状態として『任務中に消滅』と書いてありました。三年前の日付で。その記録の下に、一行だけ追記がありました。別の筆跡で、後から加えられた記述で。『核を分離・保全処置。廃棄予定』と」
廃棄予定。
体内に定着したこの核が、廃棄予定として記録されていた。三年前の事故の夜、久住が倒れた高架下で、廃棄されるはずだった核が体内に入った。
「わかった」と久住は言った。
「……その人のことを、知っていたんですか」
「知っていた。今も、知っている。ただ、知っていることの範囲が――変わってきている」
「変わってきている、というのは」
「ある。今はある。ただ、どこまであるか確認するたびに、前回と少し違う」
橘が黙った。
「その人は、久住さんにとって」
「今は答えなくていい」
「……はい」
橘がまた間を置いた。
「久住さんにできることがあれば」と橘が言った。「もっと調べることも――」
「今のところはない。ただ」と久住は言った。「初期適合者の消滅事例として、桂木の名前が記録にあった。それを教えた人間が上にいる場合、お前が調べたことが知られる可能性がある」
「……考えていませんでした」
「次から考えろ」
「はい」
「ありがとう」
橘が少し止まった。
「……おやすみなさい」と橘は言った。「久住さんも、少し眠ってください」
「わかった」
電話を切った。
部屋が静かだった。
桂木は消滅している。消滅した人間の核が、久住の体に入っている。
消滅という言葉の意味を、久住はこれまで完全には確認していなかった。確認しなかったのではなく――確認できない状態だったというのが正確かもしれない。聞く相手がいなかった。あるいは、聞いた時の答えを知ることが、今の久住に何をするかわからなかった。
廃棄予定の核が、廃棄されなかった。
誰かの意思でそうなったのか。偶然そうなったのか。
三年前の高架下で何があったかを、久住はまだ完全には知らなかった。
翌日の昼過ぎ、事務所に来た橘の顔が少し違った。何かを持ってきた時の顔だ。
「調べてみました」
久住は顔を上げた。
「桂木さんですが――入局時の研修資料のアーカイブとは別に、第九の人員管理システムの一部が古い形式で残っていました。外部協力者の登録情報です。桂木という苗字は、識別コードで管理されていました。EX‐07。外部適合者の七番目ということだと思います」
「EX‐07のコードは封鎖されているはずだ」
「はい。ただ、封鎖される前の断片的なデータが、別の保管場所に残っていました。自動バックアップの残骸だと思います」
「何がわかった」
「桂木という人物が初めて第九に登録されたのは、十五年前です。外部適合者として登録されていました。以後、十二年間にわたって任務記録があります。最後の記録は三年前です」
久住は黙った。
「十五年前から三年前まで」
「はい。十二年間です」
「その記録の中に、十年前の廃食品工場の案件はあるか」
「案件そのものは閲覧できません。ただ、十年前の周辺で活動記録が密になっています。このエリアで何件も処置をしていた可能性があります」
「今夜はそこまでだ。上に痕跡を残すな」
「わかりました。ただ――もう一つだけ」
橘が端末の画面を久住に向けた。
「EX‐07のコードの封鎖日が、三年前の日付で。封鎖した人間のサインが……鈴村さんの名前で」
鈴村が封鎖した。
久住は窓の外を見た。
廃棄予定の核。消滅。十五年前から三年前まで。鈴村による封鎖。
どこかで何かが繋がっている。繋がっているが、久住にはまだその全体像が見えなかった。
「わかった。今日の分は十分だ」
「……久住さん」
「何だ」
「もし、知りたいことがあるなら、私に言ってください。危険なことは私も判断します。でも、一人でやることはないと思います」
久住は橘を見た。橘は視線を外さなかった。
「頼む」と久住は言った。
橘が少し驚いた顔をした。
久住は席を立って、事務所を出た。
廊下の窓から外の空が見えた。今日も曇っていた。
桂木という名前を出した時の鈴村の顔を、久住はもう一度確認した。
驚きではなかった。
何かが来た、という顔だった。来ることはわかっていて、来た時どうするかを、まだ決めていなかった人間の顔だ。
胸の残響核が振動した。
誰かの何かが、久住の中で目覚める。久住ではない何かが。
声を届けたかった、という感情の残像は、今朝になってもまだ少し残っていた。
今夜はそれだけを持って、歩いた。
夕方、鈴村に呼ばれた。
「橘がEX‐07のデータにアクセスした件、俺の段階で止めた。上には上げていない」と鈴村が言った。
「止めた理由は」
「橘がまずいことになる前に」
久住は鈴村を見た。
「封鎖したのはあなたですか。三年前に」
鈴村が少し間を置いた。眼鏡を外した。レンズを拭いた。また掛けた。
「そうだ」
「なぜですか」
「今は言えない」
「言えない理由は」
「ある」
「その理由の内容も言えませんか」
「言えない」
久住は鈴村を見た。鈴村も久住を見た。
この組織の問題は、嘘をついていないことだ、と久住はまた思った。
隠しているが、嘘はついていない。隠していることを隠そうともしていない。ただ、言わない。言わない理由を尋ねれば「言えない理由がある」と言う。それが嘘でないことも、わかっている。
「一つだけ聞かせてください」
「聞いてみろ」
「桂木は――消滅した、と記録にあります。残響体に取り込まれた、という意味だとすれば。取り込まれた先が、わかっていますか」
鈴村が長い間を置いた。今夜一番長い間だった。
「お前が今持っているものが、それかもしれない」
久住は鈴村を見た。
「桂木は――久住の体に入ることを、選んだ可能性がある。その意図があったかどうかを、俺は確認できていない。ただ、偶然ではないかもしれない、と思っている」
「なぜそう思う」
「桂木が、お前のことを話していたからだ。三年前の夜より前から」
久住は何も言えなかった。
「お前のことを話していた、というのは――どんな内容でしたか」
「それは今夜は言えない」
「なぜですか」
「今夜これ以上言うと、俺が言えない理由の、言えない部分に触れる。その判断は俺には今夜はできない」
「俺が判断します」
「お前が判断できると、俺も思っている。ただ――判断する準備ができているかどうかは、今夜はわからない」
久住は鈴村を見た。鈴村は嘘をついていなかった。
「次の案件が入ったら連絡をください」
鈴村が立ち上がった。
「久住」
「はい」
「桂木が――お前のことを話していた時の桂木の顔を、俺は今も覚えている。覚えているが、今夜はそれを話す場所じゃない」
「では――」
「いつか、話す場所になった時に、言う」
鈴村が外套を手に取った。着ながら扉に向かった。
「お前が調べることを、俺は止めない。ただ、調べながら辿り着いたことを全て正しいと思うな。それだけだ」
鈴村が出て行った。
久住は席に座ったまま、窓の外を見た。
桂木が、久住のことを三年前の夜より前から話していた。
その話の内容が何だったか、久住には想像する材料がまだ少なかった。
桂木の声の形は今夜もある。ある方向から来る。今夜はある。
声の方向がわかる状態が続いていた。
それがいつまで続くかを、久住は確認しなかった。
確認しなかった理由は、久住にはわからなかった。
ただ今夜は――廊下の窓から外の空を見て、それだけで、そこに立っていた。




