第3話 嗅ぐ 後編
午後、事務所に行った。
橘がすでに報告書を書き終えていた。画面を久住に向けた。
刹那の間に何が起きたかが、正確に書いてあった。久住が右腕で構えを取った。攻撃動作に入りかけた。意識が介入して停止した。職員は無事だった。
「これで問題ない」と久住は言った。
「……本当に提出していいですか」
「言ったことをやれ」
橘が少し止まった。
「鈴村さんから、HOWLの使用制限がかかる可能性がありますよね」
「ある」
「久住さんは、それでいいと思っているんですか」
久住は橘を見た。
「書かなければならない事実だ。制限がかかるかどうかは、書いた後の話だ」
橘が画面を閉じた。「わかりました、提出します」
鈴村が奥から来た。どこかへ出ていたらしく、コートを手に持っていた。
「昨夜の報告書、提出前に声がかかったから来た」と鈴村が言った。「読んだ」
「はい」
「HOWLの使用制限を考えている」
「そうですか」
「ただ、完全に禁止にはしない。複数核の同時処置では、HOWLなしでは対応できない案件がある。制限をかけつつ、今後の運用は試行で見る」
「どんな制限ですか」
「HOWLの使用前に、周囲の人間を全員二百メートル以上退避させる。使用中は橘が外部から計測して、異常な感知増幅が起きた場合は撤収信号を送る。信号が来た場合、即座にフォームを解除する」
「信号が来た場合に即座にフォームを解除できるかどうかは、その時の状況次第だ」
「わかっている。できる場合は解除する。できない場合は報告書に書く」
「運用として成立するかどうかわかりません」
「試行でいい」
久住は鈴村を見た。怒っていない。判断している顔だった。久住の戦力との兼ね合いを計算している顔だ。第九は久住を使う。使いながら、どこまで使えるかを測っている。昨夜の件はそのデータになった。久住はそれを知っていて、報告書に全部書けと橘に言った。
「もう一つ聞いていいですか」
「聞いてみろ」
「沖野が昨夜――『以前似たことを言った人間がいる』と言いかけて、止まりました。誰のことですか」
鈴村が少し間を置いた。眼鏡のレンズを指で拭いた。拭いても、汚れていたわけではない。
「俺には答える権限がない」
「権限がない、ということは、答えを知っている」
「知っている、とは言っていない」
「知らなければ、権限がないとは言わない」
鈴村が久住を見た。
「……論理的だな」
「答えてもらえますか」
「今は言えない。いずれ、言う必要が出る時が来るかもしれない。その時に言う」
「いずれというのは」
「俺が判断する」
久住は立ち上がった。「わかりました」
「久住、体の回復は問題ないか。HOWLの後遺症は」
「今朝には抜けた」
「幻聴は」
「三時間で終わった」
「睡眠は」
「四時間」
「少ない」
「十分だ」
鈴村がため息をついた。久住は事務所を出た。
廊下を歩きながら、鈴村が「いずれ言う必要が出る時が来るかもしれない」と言ったことを確認した。来るかもしれない、と言った。来ない可能性もある。来るように俺が動く、とは言わなかった。
鈴村は約束をしなかった。約束しないことで、嘘をつかなかった。
この組織の問題は、嘘をついていないことだ。
夜、案件が入った。
橘から電話が来た。
「久住さん、商業施設の地下駐車場で残響反応が出ています。数値は8.4、増加傾向です。一般人が三名、記憶錯乱で搬送されました」
「発生源は」
「駐車場の南東の角、精算機の近くです。事故の痕跡があります。二年前に、そこで歩行者が車に轢かれています。死亡事故でした」
「今夜行く」
「久住さん、今夜は――昨夜のHOWLの後遺症が完全に抜けているかどうか――」
「抜けている。確認した」
「わかりました。フォームは」
「素体かMOURNだ。今夜の案件はHOWLを使う規模ではない」
商業施設は夜の二十三時に閉店していた。久住が到着した時には施設の電気が落ちていて、駐車場は非常灯だけで薄く明るかった。
第九の封鎖班がすでに入っていた。一般人は避難させてある。商業施設の関係者への記憶処置も終わっている。残ったのは久住と、外で待機する橘と、駐車場の中の残響だけだった。
地下一階。南東の角。精算機の前。
残響体は、すでに形を作りかけていた。
精算機の金属パーツが浮き上がっていた。精算機の画面が不規則に点滅していた。駐車場の白線が、その一点に向かって歪んでいた。周囲の車止めのゴムが、引力に引かれるように動いていた。
形は人型に向かっていた。素材が足りなくて、足りない部分を補おうとして、周囲の物質を引き込もうとしていた。
久住はデバイスに手を当てた。
心拍が一拍、落ちた。
「変身。ギアレブナント」
素体のまま入った。今夜はフォームシフトをしない。規模が小さい。素体で十分だ。
残響体が形を固めていた。精算機の金属で作られた腕が、久住の方を向いた。
来た。精算機のアームが振ってきた。
腕で弾いた。金属の重さがあった。素体でも受け切れる。右腕で押した。精算機のアームが曲がった。その奥、精算機の中央部分――核がある。
グレイヴ・ブレイク。
核に触れた。
流れ込んできた。
二年前の夜だ。夕方に仕事が終わって、地下駐車場で車を出そうとしていた。精算機で料金を払って、歩いて車に向かっていた。車が来た。気づかなかった。気づいた時には――
痛みでも恐怖でもなかった。困惑だった。
なぜこんなことが起きているのかという、困惑だけが来た。
久住は押し込んだ。グレイヴ・ブレイクが核を露出させた。精算機の中から、白く光る球体が浮いた。
右拳を握った。打ち込んだ。消えた。
残響体が崩れた。精算機の金属が落ちた。画面が消えた。白線の歪みが消えた。
変身を解除した。駐車場が静かになった。
困惑だった。
その感情の残像が残っていた。痛みも恐怖も怒りもなく、ただ困惑した人間の最後の感情が。なぜこんなことが起きているのかという、困惑だけが。
「終わった」と橘に言った。「片づけを始めろ」
「了解です。久住さん、今夜の個体は――」
「素体で処置できた。後遺症はない」
「よかった」
よかった、という橘の言葉が、今夜は少し鮮明に聞こえた。
困惑していた人間の感情の残像が、まだある。なぜこんなことが起きているのかという、最後の困惑が。
答えのない困惑が、今夜は久住の中に残っていた。
桂木の声の形は、今夜もある。
今夜はある。
翌朝、沖野から電話が来た。
「久住さん、昨夜の駐車場の案件、素体で対応されたと聞きました。昨夜の感情は何でしたか」
「困惑だった」
「困惑、というのは」
「なぜこんなことが起きているのかという、困惑だ。恐怖でも怒りでも後悔でもなかった。理解できないことに直面した人間の最後の感情だ」
「素体では、そういう感情が届きやすいですか」
「わからない。ただ、MOURNではこれは届かなかったかもしれない。MOURNはフィルターが厚い」
「なるほど」と沖野が言った。「貴重なデータです」
貴重なデータ、という言葉が少し残った。貴重なのは沖野にとってだ。久住にとっては、昨夜の人間の最後の感情だ。
「一つ聞いていいですか」と久住は言った。
「何でしょう」
「昨夜――以前似たことを言った人間がいると言いかけて、止まった。あれは誰のことですか」
沖野が少し間を置いた。
「……今は言えないです。ただ――久住さんが調べているとしたら、間違った方向に行く前に、私の方から言うべきことがある、と思っています」
「いつ言いますか」
「適切なタイミングで。今は、まだではないと判断しています」
「なぜ今ではないんですか」
「久住さんが、まだ受け取る準備ができていないと思っているからです」
久住は少し考えた。
「俺が判断する話じゃないんですか」
「そう言われれば、そうかもしれません」沖野が少し止まった。「ただ、私は久住さんのデータを十四年前から見ています。久住さん個人のは三年分ですが、前の方のは十四年分ある。そのデータから判断すると――今は、まだ、だと思います」
電話を切った。
十四年分のデータ。桂木が十五年前から活動していたとすれば、沖野のデータの開始と、桂木の活動開始はほぼ同じ時期だ。沖野は桂木のデータを持っている。
今は、まだ。
その言葉が、今朝の久住の中に残っていた。
残ったまま、今日も動く。それだけだ。
午後に事務所に行くと、橘が端末の前にいた。
「昨夜の駐車場の報告書、上げました。鈴村さんから確認済みのサインが来ています」
「昨夜の後遺症は問題なかった」と久住が先に言った。
「確認しようとしていました。よかったです」
「沖野が電話してきた」
「何を言っていましたか」
「今は、まだ、と言った」
橘が少し考えた。
「何の話ですか」
「俺が受け取る準備ができていない、と判断しているらしい」
「……それは桂木さんのことですか」
「おそらく」
橘が端末に向かった。少ししてから、顔を上げた。
「久住さん、私が調べた件ですが――EX‐07のコードで、昨夜また少し掘ってみました。十年前の廃食品工場の爆発事故の処置記録、担当者欄の黒塗りの下に、手書きの注記があって。解像度を上げたら、一部読めました」
「何と書いてあった」
「『核を引き受けること、了承済み』と」
久住は橘を見た。
「誰が、誰に了承したという意味ですか」
「わかりません。主語も対象も書かれていませんでした。ただ、別の手で書き加えられた一文です。追記のように見えます」
久住は窓の外を見た。
核を引き受けること、了承済み。
了承した人間がいた。了承された人間がいた。それが十年前の工場の処置記録に残っている。
三年前の高架下で、廃棄予定の核が久住の体に入った。
了承は、誰がしたのか。
桂木か。
それとも――別の誰かか。
「わかった」と久住は言った。「今日はそこまでにしておけ。上に見られる前に止める」
「はい」
「ありがとう」
橘が少し驚いた顔をした。久住は窓の外を見続けた。
今は、まだ、と沖野は言った。
久住には、今が「まだ」かどうかを判断する方法がなかった。
ただ、一つだけわかっていることがある。
桂木の声の形は、今朝もあった。昨夜より、今朝の方が少し鮮明だった。
それだけを確認して、今夜を待った。
貴重なデータ、という言葉が少し残った。貴重なのは沖野にとってだ。久住にとっては、昨夜の人間の最後の感情だ。
その差を、久住はどこかへ置かなければならなかった。置けなかった。
今日は昨夜の困惑の残像が、朝の部屋の空気の中に少しあった。
橘からメッセージが来た。「今朝の後遺症はいかがですか」
「問題ない。昨夜の残像が少しある。それだけだ」
「わかりました。今日は案件が入っていません。今夜も同様です」
「わかった」
久住は部屋で今朝のことを確認した。
桂木の声の形は今朝もある。方向もある。困惑の残像もある。どちらも今朝の久住の中にある。
どちらも今朝の久住の中にある、ということが、今日の久住には自然に感じられた。
受け取ったものを持ち続けることが、昨夜の案件で少し意味を持ち始めている。
持ち続けることが何であるかを、今日は急がずに考えた。




