第3話 嗅ぐ 前編
感知する前に、久住凌は嗅いだ。
比喩ではない。HOWLに移行すると、久住の感覚器官は変質する。視覚よりも速く、嗅覚に近い回路で情報を処理するようになるのだ。匂いではない。感情の密度を、嗅覚の速度で捉える感覚だ。
廃棄された建設現場の仮囲いの外に立った時点で、すでにわかった。
残響がある。複数で、密度が高い。
橘が案件の概要を読み上げている間、久住にはその感覚はなかった。資料として処理していただけだ。再開発エリアの建設工事は一年前に中断され、そのままになっている。先週、現地調査に入った区の職員二名が意識不明で発見された。残響反応は当初6.4だったが、職員が倒れた翌日から急増し、現在は15.7だ。
現場に着くと、変わった。
仮囲いの鉄板の向こうから感情の密度が伝わってくる。複数の核が互いに引き合っている。
第九の封鎖テープが仮囲いの外側に張られていた。職員二名が出入口の前に立っている。久住が近づくと、一人が「おつかれさまです、久住さん、中が――」と言いかけ、止まった。
「言えないのか」
「見た人間の口頭での説明が、難しくて」
「行く」
久住は封鎖テープを跨ぎ、半開きの扉から中に入った。内側から何かが引き込んだように。
建設現場は暗い。工事は止まり、基礎工事まで終わった鉄骨の骨格が夜空に突き立つ。クレーンは一台、動かぬまま腕を伸ばしている。足場の一部は崩れ、散乱した鉄パイプが床を覆う。安全ネットが地面近くで揺れていた。風はない。
残響核が振動している。複数の感情が積み重なり、怒りや恐怖ではなく、形の崩れた「報われなかった」「疲れた」「寒かった」といった密度だ。
足場の一部が動き、鉄パイプが磁石に引かれるように空中で接続される。安全ロープが宙を這い、クレーンのワイヤーが解けて垂れ、別の場所へ向かう。複数の形が作られかけていた。三つ、あるいはそれ以上。別々に形を作ろうとしながら、互いに引き合い、一点に収束しようとしている。
今夜はHOWLを使う。複数の核がある場合、個別の位置を特定するにはHOWLの感知能力が必要だ。三ヶ月ぶり。代償も承知している。
久住はデバイスに手を当て、心拍を一拍落とす。
「変身」
二重の声が夜の現場に響いた。
「ギアレブナント」
装甲が展開し、マスクが顔を覆う。発光スリットが赤く灯る。フォームシフト。感覚器官が鋭敏化し、暗い建設現場は残響の密度で可視化される。クレーンの骨格は感情の濃淡を示す熱画像のように輝き、足場の鉄パイプはそれぞれ異なる光を放った。
核の位置がわかる。三つ。クレーンのジョイント、安全ネットの集積点、基礎コンクリートの中に一つ。
基礎の中の核は、最後に死んだのではなく最初に死んだ者のものかもしれない。建設現場の事故が隠蔽され、基礎ごと埋められた可能性がある。それが核として残り、後から来た感情を引き寄せた。
仮囲いの外で待機している職員二名の気配も、HOWLは拾う。脅威ではない。久住は意識的に除外するフィルタリングをかける。ただ、感知精度が上がるほど除外精度は落ちる。
動いた。クレーンのジョイントに跳躍する。
安全ロープが束になって来る。右腕で弾き、左に飛ぶ。クレーンのジョイントに取り付き、金属の感触の奥に核の感触を捉える。干渉し、グレイヴ・ブレイク。核が浮き、右拳を打ち込むと消えた。足場の形が崩れ、クレーンのワイヤーが解け落ちる。
二つ目、安全ネットの集積点へ向かう。ネットが絡みつこうとするが、体を回転させて避け、核を直接殴る。消えた。残響体が二つ崩れ、鉄パイプが散乱する。
三つ目、基礎の中。地面に膝をつき、手を当てる。深い。強い感情が流れ込む。寒さ、痛み、名前を呼ばれずに消えた者の感情。久住は手を当てたまま動かない。ここから引き出せる。少しずつ、核をコンクリート内部から引き出す。
背後で何かが動いた。振り向くと、待機していた職員が近づいてきた。HOWLは誤って「敵性存在」と判断する。久住は止まる。意識が追いつき、職員だと認識する。腕を下ろす。
「来るな」
声が出る。二重のまま。職員は足を止め、後退する。久住は手を基礎コンクリートに戻し、わずかに震える手を確認した。
干渉を再開。核を引き出し、基礎コンクリートから白く小さい核を浮かび上がらせ、右拳で打ち消す。建設現場は再び、暗い廃工区に戻る。変身を解除し、HOWLを外す。感覚器官は通常に戻り、冷たい空気だけが残った。
仮囲いの外に出ると、二人の職員が待っていた。久住は「来るな」と言った方の職員の顔色を確認する。
「片づけ準備に入れ」
「は、はい。あの、さっきは――」
「現場に入る前に指示を徹底しろ。HOWL使用中に人間が近づいた場合のリスクは鈴村から説明済みだ」
「……はい」
橘に電話する。
「片づけ班を入れろ。核は三点全て消滅した」
「了解です、久住さん、今夜HOWLを――」
「わかっている」
電話を切る。
帰り道、電車で目を閉じる。HOWLの過剰感知で他の乗客の気配が濃く、向かいの老人の呼吸、隣の若い女性の手の動きまでが過剰に感じられる。久住は動かず、刹那の間に体が攻撃動作に入りかけたことを確認する。止まったのは意識だった。
翌日、橘がコンビニ前に現れる。
「昨夜の後遺症確認です。鈴村さんの指示ではなく、私個人の判断です」
「規定外だ」
「はい」
「次はするな」
久住はコーヒーを手渡し、橘は両手で持つ。
「幻聴は?」
「断続的に、三時間ほど」
「眠れましたか」
「四時間」
橘は間を置く。
「昨夜、現場職員が――久住さんが攻撃動作を取ったと報告書に書いていました」
「取ろうとしただけ。刹那だ」
「……」
「恐怖ではない。処理すべき信号として見えた」
「でも人間なのに」
「HOWLには関係ない」
久住は缶コーヒーを開ける。
「今後も起きる可能性は?」
「ある」
「……そうですか」
「感知誤読は起きる。攻撃動作につながる可能性はゼロにならない」
「それでも使うのですか」
「他に手段がない時だけだ」
「でも――」
「止まれる。昨夜も止まった」
橘は久住を見つめる。
「止まれる、という確信がありますか」
久住は答えない。確信はない。ただ「止まれるはずだ」という感覚がある。
「確信はない。ただ三年間止まってきた」
橘は黙り、コーヒーをゆっくり飲む。
「桂木さんについて教えてもらえますか」
「今は言える範囲が少ない。三年前に失った。体内の核に関係がある可能性はある」
「調べます。できる範囲で」
「慎重にやれ。第九の上層部が知られたくないことに触れるかもしれない」
「はい」
橘が立ち上がる。
「昨夜の件、報告書に書きますか」
「書け。刹那の間に何が起きたか、全部書け」
橘は頷き、去った。久住は缶コーヒーを飲み干す。幻聴は今朝、消えていた。桂木の声も確認できる。
久住はその事実を確認し、意味は確定せず、歩き出す。今日は案件がない。行き先も決めていない。




