偽りの魂 12
飛び込んで来たのは、スウォンとファギだった。
二人は窓辺で怒鳴るヴァルの怒りのほどに一瞬驚いたが、このままではロスを振り払っても外へと飛び出しかねない勢いに慌てて駆け寄ると、無理やり窓からヴァルを引きはがした。
長身で痩せぎすのファギは、三十過ぎとは言え力はまだまだ強いし、スウォンとの二人掛かりである。いくらなんでも、目の見えないヴァルが勝てようはずがない。
「無茶すんなよ。いくらお前ったって、この高さは……」
宥めるように言いかけてファギは、ヴァルの目が見えていないことに気が付いた。
きつく閉じられた瞼が赤く腫れ上がっている。この分だと相当痛むであろうに、ヴァルは腹立たしげに怒鳴り散らすばかりで、一言たりとも痛いなどとは口にしない。
「スウォン、水持って来い!」
「あ、ああ」
ファギに怒鳴られて、スウォンは慌てて水差しを取りに走る。
その間に、ファギはヴァルをその場に座らせた。と、言うよりは足を後ろから払ってその場に尻餅をつかせたと言うべきか。
ともかくその場に腰を下ろさせられたヴァルは、ぎりぎりと音がしそうな程に歯咬みしている。
「ふざけやがって……」
「ふざけてんのはどっちだ。そんな目で、捕り物もないだろうが……よくも、こんなとこから飛び降りる気になるもんだ…」
ファギは尚もぶつぶつと悪態をつくヴァルに呆れ果てて、戻って来たスウォンから水差しを受け取った。
「おら、上向け。上」
「……」
ヴァルは黙ったまま、憮然とした表情で空を仰ぐ。その目に、ファギは水差しの水を注いだ。
冷たい水は、ヴァルの目の中の異物を取り除く。水差しの全てを使い切るころ、ようやく目の痛みが引いて行った。
まだちかちかして遠近感もかなりおかしいが、先刻に比べれば随分とマシだ。視界がぼやけてしまっていても、失明だけはしなかったようである。もっとも、きつい目潰しを使わなかったあたりが、イサクの良心の呵責というヤツなのだろう。
それでもまだ、ヴァルはむっとした顔をしている。
「……それにしたって、お前が獲物を逃がすとは、珍しいこともあるもんだな……」
口をへの字に曲げ、黙りこくるヴァルを見下ろしてファギは驚いたと息を吐く。
ヴァルはファギをあまり良くは見えていない瞳で、きりと睨みつけた。
「あーあ。どうせ、オレがトロかったんだよ!」
ふて腐れたように、ヴァルは言葉を吐き出した。
「お前を振り切る奴がいたとはね。一体、どんな奴なんだよ?」
剣士としてもピカ一の実力を誇るヴァルから逃げ果せた間者に、ファギは純粋に感心している。
ヴァルはむっとしたまま、口を開く。
「……イサク…だよ……」
「イサクだぁ?」
憮然と紡がれるヴァルの返答に、ファギは素っ頓狂な声をあげた。
「あいつが? 本当かよ。あ、いや、別にお前を疑ってる訳じゃねぇぜ。……それにしたって…あいつが……そう言ったことには無縁の坊やに見えたがなぁ……」
「ああ、オレもロスも、あの野郎に見事にハメられたのさ」
苦虫を噛み潰したような顔をするヴァルの傍らで、ロスがぐすぐすと泣きじゃくっていた。
「…そう言や。そのチビは随分懐いていたよな…」
この人見知りの激しい少年が、脅えた様子などかけらも見せなかったことをファギは思い出す。
ロスは人の感情には敏感だ。だから、ウラのある人間には絶対に懐きはしない。ヴァルとの付き合いからその辺りのことを知るファギは、ロスが懐くイサクが間者であるなどとは砂粒程も思わなかったのだ。多分、ヴァルもそうであろう。
そのロスを見事に欺いたイサクに、ファギとしてはもう、怒りを覚えるより感心するしかない。
「大した奴だ……」
「なにのほほんと褒めてんだよ。腹の立つ奴だなー」
「そう言ったってな、ヴァル。今度ばかりは、お前とそのチビをだまくらかしたイサクの勝ちってもんだぜ」
ファギの飄々とした口調に、ヴァルはむっとする。
「なに、ぬかしてやがるっ! どーして、お前は顔の割にそうものんきなんだよ。ロスがそれでもあいつの違和感に気づかなかったら、今頃大将はっ!………おい、大将はどうしたんだ?」
ファギに食ってかかろうとして、ヴァルはようやく己の当初の目的というものを思い出した。
そう言えば、ガイアスを守るためにヴァルはここへ来たのだ。
ヴァルがこの部屋に飛び込んだ時は生きていたが、その後のガイアスの姿をヴァルは見ていない。見るどころではなかったのだ。
「……大丈夫。擦り傷程度だよ。引っ繰り返ってのびてるけどな……」
東側の窓の方で、スウォンがのんびり返した。
スウォンの足元には、ガイアスがほとんど大の字状態で倒れていた。
ヴァルが駆けつけるまで、あのイサクを相手に一人で持ちこたえたのだ。ガイアスの年では、随分と大変なことであったろう。
今、その張り詰めた気が切れてしまっても仕方のないことであった。
「……こういうの。年寄りの、冷や水。ってのかね……」
「そう言ってやるなよ。ここで生き延びてくれたんだ。俺たちは感謝しなくちゃな」
軽く曲げた両膝に手をつき、ため息交じりにガイアスを見下ろすスウォンに、ファギは苦笑して言う。
「ま、そりゃそーだ」
ファギの諭すような言葉に、スウォンもまた苦笑した。
仏頂面なのはヴァルだけである。
「……あんのヤロー……今度会ったら、絶対に叩っ殺してやる……」
世にも物騒なことをつぶやくヴァルを、ファギは呆れたように肩を竦めて見下ろした。少年もまだ泣き止まない。
(こいつは、まだもめるな・・・)
先行きを考えて、ファギは一つ小さな息をついた。
窓の外を見やると、星は未だその漆黒を飾るが、遠く東の空が微かにうっすらと白み始めていた。
ガイアス将軍の暗殺に失敗したフエンリア軍は、次第にクレイトン軍に押されて行き、約半年後には自国までの撤退を余儀なくされた。
フエンリア王国の、第一次クレイトン遠征は失敗に終わった訳である。
かくして、二国に一時的な条約が調印され、戦いには取り敢えずの終止符が打たれた。
この戦いにおいて、もっとも大きな功績を上げたのはガイアス率いる傭兵部隊であったことは言うまでもない。
終




