70.生産管理に比べたら、楽なもんだ
小林ユキ名義の作品が、団鬼六賞の最終候補に挙がったのは、芥川賞受賞からわずか三週間後のことだった。
編集部はその知らせを聞いた瞬間、「これは歴史に残るぞ!」と大騒ぎになった。
そして、選考会当日。
夕方、出版社に一本の電話が入った。
「……受賞です」
その瞬間、編集部は爆発したように沸き立った。
「やったあああああ!!」
「小林ユキ、団鬼六賞受賞!!」
「芥川賞と団鬼六賞のダブル受賞なんて前代未聞だぞ!」
「文学界と官能界の両方を制覇って、どういうことだよ!」
まさに狂喜乱舞だった。
編集者たちは走り回り、営業部は電話をかけまくり、広報は緊急会議を始め、社長室からは「すぐ来い!」と怒号のような声が響いた。
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当の織は、ソファで毛布にくるまりながら、コンビニの肉まんを食べていた。
「……受賞したって」
スマホを置きながら、織は淡々と呟いた。
裕介は、湯気の立つカップ麺にお湯を注ぎながら言った。
「おめでとう」
「うん。ありがと」
織は肉まんをもう一口かじり、もぐもぐしながら続けた。
「なんか……すごいことになってるらしいよ」
「だろうな」
「出版社、たぶん今、地獄みたいに忙しいと思う」
「だろうな」
裕介は箸で麺をほぐしながら、いつもと変わらない調子で答えた。
織はその横顔を見て、ふっと笑った。
「……裕介ってさ。私が何を受賞しても、ほんと変わらないよね」
「変わる必要ある?」
「ないけどさ」
織は毛布にくるまり直し、肉まんの袋を丸めてテーブルに置いた。
「なんかね、芥川賞のときも思ったけど、世間がどれだけ騒いでも、家の中は全然変わらないね」
裕介はカップ麺をすすりながら、軽く笑った。
「それが俺たちだろ」
その言葉が、また織の胸に静かに落ちた。
芥川賞。
団鬼六賞。
二つの世界の頂点に立っても、織の帰る場所は変わらない。
毛布にくるまり、肉まんを食べ、隣にはカップ麺をすする夫がいる。
その日常こそが、織にとって一番確かなものだった。
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団鬼六賞受賞のニュースが流れた翌日から、織の生活は一気に加速した。
出版社は、まるで祭りのような騒ぎだった。
文学誌、新聞、テレビ、ラジオ、ネット媒体、あらゆるメディアから取材依頼が殺到し、スケジュール表は一瞬で真っ黒に埋まった。
「上条さん、明日は朝から撮影です!」
「午後は官能文芸の特集インタビューが入ってます!」
「夜はテレビ局の打ち合わせが…!」
編集者たちは息を切らしながら走り回り、織はその波に飲み込まれるように、次々と現場へ連れて行かれた。
だが、その混乱の中心で、もっとも冷静だったのは裕介だった。
「次、移動だよ。車こっち」
「水、飲んで」
「このインタビュー押してるから、終わったらすぐ次の現場行くよ」
裕介は、まるで最初からそういう仕事をしていたかのようだった。
織のスケジュールを把握し、移動の段取りを組み、車を回し、必要なものを揃え、織の負担を最小限に抑えていた。
出版社のスタッフが驚くほどだった。
「上条さんの旦那さん、すごいですね」
「プロのマネージャーみたいだ」
「いや、むしろ本物より有能では?」
裕介はただ淡々と、「サラリーマン時代の生産管理に比べたら、楽なもんだよ」と笑っていた。
その言葉に、織は思わず吹き出した。
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文学誌のインタビューでは、芥川賞受賞作の“静謐な筆致”について語られ、官能文芸誌の取材では、小林ユキ名義の“体温のある文章”が絶賛された。
どちらの現場でも、織は淡々と、必要なことだけを話した。
だが、どの現場でも必ず聞かれる質問があった。
「ご主人は、あなたの作品について何と言っていますか?」
そのたびに織は少し照れながら答えた。
「……そのままでいいって、言ってくれます」
記者たちは一様に目を丸くし、そして、どこか羨ましそうに笑った。
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ある雑誌の取材では、編集者が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの…ご主人にも少し、お話を伺ってもいいですか?」
裕介は驚いたように目を瞬かせたが、織が小さく頷くと、「まあ、いいけど」と椅子に座った。
「奥様の作品をどう思われますか?」
「普通に、すごいと思うよ。」
「官能小説のほうも読まれているんですか?」
「まあ、一応。」
「どういうところが魅力だと?」
裕介は少し考え、それから、静かに言った。
「……織が書いてるってだけで、十分魅力だよ」
記者は一瞬言葉を失い、織は隣で耳まで赤くなった。
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どれだけ取材が続いても、どれだけ世間が騒いでも、家に帰れば、いつもの日常があった。
毛布にくるまり、ハイボールを片手で、さきいかをつまむ織。
裕介も、同じように酒を飲んでいる。
毛布から覗く、Tバックが裕介の目の保養とともに、酒の肴だ。
「…どこ、見てるの?」
そんな感じの静かな夜が、織にとって何よりの救いだった。
「……裕介がいてくれてよかった」
織がぽつりと言うと、裕介はテレビのリモコンをいじりながら答えた。
「夫婦なんだから、当たり前だろ」
その言葉が、また織の胸に静かに落ちた。
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その日の夕方。
リビングのテレビでは、ニュース番組が芸術・文化のコーナーに切り替わった。
《芥川賞と団鬼六賞、史上初のダブル受賞──上条織さん》
画面には、会見で淡々と話す織の姿が映っていた。
黒いワンピース、落ち着いた声、凛とした表情。
その前で、彩は思わず手を止めた。
「……え?」
洗濯物を畳んでいた手が、ゆっくりと止まる。
美も、テレビを見て、気づいた。
二人とも、ただ呆然と画面を見つめた。
そこに映っていたのは、かつての夫、裕介の姿だった。
織の隣で、控えめに笑いながらインタビューに答えている。
《奥様の作品をどう思われますか?》
「普通に、すごいと思うよ。」
《官能小説のほうも読まれているんですか?》
「まあ、一応。」
《どういうところが魅力だと?》
「……織が書いてるってだけで、十分魅力だよ。」
その言葉に、会場がざわつき、織が照れたように目を伏せる。
彩は、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「…再婚、してたんだ…」
声に出して初めて、その事実が現実として胸に落ちた。
テレビでは、《作詞家・上条裕介氏》というテロップが映し出されていた。
彩は思わず息を呑んだ。
「…作詞家…だったの…?」
裕介は、離婚のときも、その後も、一度も自分の仕事について詳しく語らなかった。
毎月のように涼経由で送ってくる援助も、「困ってるなら使って」とだけ言って、理由を話さなかった。
彩は、ようやく理解した。
「…そういうこと、だったんだね…」
裕介は、自分の生活がどうであれ、自分たち、元家族のためにできることを黙って続けていたのだ。
彩はテレビの中の裕介を見つめた。
織の隣で、穏やかに、幸せそうに笑っている。
彩はそっと目を伏せ、深く息を吸った。
「これで、よかったのかもしれない」
その声は、少しだけ震えていたが、どこか晴れやかでもあった。




