69.実際、夫婦だからな
控室に戻ると、出版社の編集者たちが一斉に立ち上がった。
「上条さん! 本当におめでとうございます!」
「いやあ、すごかったですよ、会見!」
「次の重版、すぐ決まりますから!」
「テレビ局からも問い合わせが来てます!」
まるで小さな嵐のように、祝福と興奮が織の周りを取り囲んだ。
だが、織はその中心で、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、夫を待たせてるので」
その一言で、編集者たちは一瞬固まった。
「えっ、あ、はい!もちろん、お帰りになって大丈夫です!」
「送迎車も手配できますが……」
「いえ、大丈夫です。迎えに来てくれてるので」
織は深く頭を下げ、最低限の礼儀だけを残して控室を後にした。
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廊下に出ると、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだった。
ホテルのロビーを抜け、自動ドアが開くと、夜の冷たい空気が頬に触れた。
そのすぐ先に、タクシーのドアにもたれかかるようにして立つ裕介の姿があった。
コートの襟を立て、寒さに肩をすくめながら、スマホを見ている。
織が近づくと、裕介は顔を上げ、ほっとしたように笑った。
「お疲れ」
その一言だけで、織の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……待たせた?」
「ちょっとだけ」
裕介はタクシーのドアを開け、織を乗せるように手を添えた。
その仕草が、どんな祝福の言葉よりも優しかった。
タクシーがゆっくりと走り出す。
ホテルのライトが遠ざかり、街の喧騒が窓の外に流れていく。
織は、隣に座る裕介の肩にそっと頭を預けた。
「……帰ろう」
「うん、帰ろう」
芥川賞を受賞した夜。
世間がどれほど騒いでいても、織が帰りたい場所は、ただひとつだった。
タクシーの中には、二人の静かな呼吸だけが満ちていた。
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翌日。
ニュースサイトのトップには、織の顔写真とともに大きな見出しが並んでいた。
《芥川賞に上条織氏 静謐な筆致が高く評価》
《官能小説家・小林ユキの正体は芥川賞作家だった》
《二つの名前を持つ“異才” 文学界に新風》
テレビでも、ワイドショーでも、織の名前が繰り返し取り上げられていた。
美人作家。
芥川賞受賞。
しかも官能小説も書いている。
それだけで、話題性は十分すぎた。
小林ユキ名義の作品は、前日までとは比べものにならない勢いで売れ始めた。
通販サイトでは在庫が消え、書店では平積みが一気に拡大されていく。
団鬼六賞の選考委員会からも、出版社に問い合わせが入ったらしい。
「次回の選考で、ぜひ検討したい」
そんな言葉が編集部を駆け巡っていた。
だが、当の織は、その騒ぎをどこか遠くから眺めているようだった。
「…なんか、すごいことになってるね」
紙コップを片手に、織はスマホの画面を眺めて呟いた。
「まあ、受賞したからな」
裕介は淡々と言った。
「小林ユキのほうも売れてるって。なんか、在庫が全部なくなったらしいよ」
「そりゃ、良かったじゃないか」
裕介も、紙コップを片手にいつもと変わらない調子で答えた。
ついさっき、近所のコンビニで、裕介が買ってきたホットコーヒーだった。
裸に、毛布を羽織っているだけの、いつもの姿の織。
エアコンはつけっぱなしなので、寒くはない。
と、いうか、裕介のお気に入りの恰好が、この無防備な織の姿だった。
スケベ親父と言われればそれまでなのだが。
裕介は、出かけることも多いので、ジャージにトレーナーを着ている。
織はその横顔を見つめ、ふっと笑った。
「裕介は、ほんと変わらないね」
「変わる必要あるかな?」
「ないけどさ」
「なんかね、世間が勝手に盛り上がってるのに、家の中は全然変わらないのが、ちょっと安心する」
「俺たちは俺たちだろ」
その言葉に、織の胸の奥がじんわりと温かくなる。
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午後。
出版社から一本の電話が入った。
「上条さん、ご存じかもしれませんが、ご主人のこと、ネットで話題になってまして」
「え?」
「作詞家の上条裕介さんですよね?“芥川賞作家の夫は人気作詞家だった”って、ニュースになってます」
織は思わず吹き出した。
「…なんでそっちがバレてるの?」
「いや、会見の“夫”発言から、ファンが調べたみたいで、SNSで特定されてしまって…」
裕介は横でコーヒーを飲みながら、「まあ、そうなるよな」と苦笑していた。
織は電話を切り、裕介のほうを向いた。
「…ごめん。なんか、巻き込んじゃった」
「別にいいよ。俺は俺で、やること変わらないし」
その言い方があまりにも自然で、織は胸が詰まりそうになった。
「……ありがと」
「実際、夫婦だからな」
その一言が、また織の胸に静かに落ちた。




