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枯淡  作者: 水原伊織


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68/76

68.芥川賞ってすごいんだね

織の書いた作品は、静かながらも読者の心を掴み、芥川賞の候補に名前が挙がった。

一方、小林ユキ名義の官能小説は、団鬼六賞の選考委員から「異様なほど体温のある文章」と評され、こちらも話題になっていた。

同じ人物が書いたとは思えない。

そんな声も、編集部のあちこちから聞こえてきた。


だが、織自身はその騒ぎを、どこか他人事のように受け止めていた。


「なんか、変な感じだよね」


織は、湯飲みを両手で包みながら呟いた。


「何が?」


裕介が尋ねると、織は少し考えてから言葉を続けた。


「芥川賞の候補に挙がったって言われても、小林ユキのほうが売れてるって言われても、どっちも“自分じゃないみたい”っていうか」


裕介は笑った。


「どっちも織だろ」


「そうなんだけどさ」


織は湯飲みの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を落とした。


「文学のほうは“静かで繊細な筆致”とか言われて、官能のほうは“体温がある”とか言われて、なんか、みんな勝手に私を分けてくるんだよね」


裕介はしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと織の手に触れた。


「分けなくていいんじゃない?織が書きたいものを書いて、それを読んだ人が勝手に名前をつけてるだけだよ」


織はその言葉に、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。

「そうか。勝手に名前をつけてるだけ、」

「そう。織は織だし、小林ユキも織だし、どっちも本物なんだよ」


織は湯飲みを置き、裕介の顔をじっと見つめた。


「なんか、裕介ってさ」


少し照れたように笑う。


「私より、私のこと分かってるよね」


裕介は肩をすくめた。


「まあ、夫婦だから」

その言葉に、織は小さく息を呑んだ。

胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。

芥川賞の候補に挙がっても、官能小説が売れても、世間が騒いでも。


“夫婦だから”

その一言のほうが、織にはずっと重く、ずっと確かに響いた。


----


芥川賞の選考会当日。

出版社からは「自宅待機でお願いします」と言われていたが、織はいつもと変わらない様子で、湯を沸かし、静かに茶を淹れていた。


夕方、外が薄暗くなり始めた頃。

スマホが震えた。

編集者からの着信だった。


裕介が息を呑む。

織は本を閉じ、ゆっくりと身体を起こした。


「……出るよ」

スマホを耳に当てた織の横顔は、驚くほど落ち着いていた。


「はい、上条です」


短い沈黙。

そして、編集者の声が震えているのが、電話越しにも分かった。


「……え?」


織の声が、ほんのわずかに揺れた。


「……はい。……ありがとうございます」


通話を切った織は、しばらく何も言わなかった。


裕介は、鼓動の音が聞こえそうなほど静かに、その言葉を待った。


やがて、織は小さく息を吐いた。

「……受賞したって」

その声は、驚きよりも、どこか遠くから聞こえてくるような静けさを帯びていた。


裕介は思わず笑った。


「すごいじゃないか」


だが、織は首を傾げたまま、自分の手のひらを見つめていた。


「……なんか、実感ないね。でも……嬉しい、のかな」


その“かな”の部分が、織らしくて、裕介は胸が温かくなった。


「嬉しいよ。俺は、すごく」

裕介がそう言うと、織はようやく顔を上げた。


その目には、静かだけれど確かな光が宿っていた。


「……そっか。じゃあ、嬉しいんだと思う」


織はゆっくりと笑った。

その笑みは、これまで見たどんな表情よりも柔らかかった。


スマホには、出版社や編集者からの祝福のメッセージが次々と届き始めていた。

ニュースサイトでも速報が流れ、SNSではすでに話題になっているらしい。


だが、その喧騒から遠く離れたこの部屋には、ただ、二人の静かな呼吸だけが満ちていた。


「ねえ、裕介」

「ん?」

「私、書いててよかったんだね」


その言葉は、賞の重みよりもずっと深く、裕介の胸に響いた。

裕介は織の手を握り、そっと親指でその甲をなぞった。


「うん。ずっと、そう思ってたよ。」

織は目を細め、その手に指を絡めた。

芥川賞を受賞した夜。

世間がどれだけ騒いでいても、織にとって一番確かなものは、

この静かな部屋と、隣にいる夫の温度だった。


----


受賞会見は、都内のホテルの一室で行われた。

報道陣のライトが一斉に向けられ、カメラのシャッター音が絶え間なく響く。

だが、織はその中心に座りながら、まるで自分のことではないかのように落ち着いていた。

黒のワンピースに、最低限のメイク。

飾り気はないが、どこか凛とした雰囲気があった。

司会者がマイクを向ける。


「まずは受賞のご感想をお願いします。」


織は一瞬だけ考え、それから、静かに口を開いた。

「……実感は、まだあまりありません。でも、読んでくださった方がいたんだな、と思うと、それが一番、嬉しいです」


その淡々とした言い方が、逆に会場の空気を引き締めた。

記者が次々と質問を投げかける。


「受賞作は、非常に静かな筆致が印象的でした。どのようにして生まれた作品なのでしょうか?」


「特別なことはしていません。ただ、自分が見てきたものや、感じたことを、そのまま書いただけです」


「小林ユキ名義の官能小説も話題ですが、両方の筆名で評価されていることについては?」


織は少しだけ目を瞬かせた。

その質問が来ることは分かっていた。


「どちらも、私が書いたものです。名前が違うだけで、書いているときの気持ちは変わりません」


会場がざわめく。

その“線を引かない”姿勢が、むしろ織の一貫性を際立たせていた。


「文学と官能、どちらが本業だとお考えですか?」


織は淡く笑った。


「どちらも本業です。どちらも、私の文章ですから」


その答えは、記者たちの想像していた“型”から外れていた。


だが、だからこそ、織らしかった。

会見の終盤、最後の質問が飛ぶ。


「受賞を支えてくれた方はいますか?」

織は一瞬だけ視線を落とし、それから、ゆっくりと顔を上げた。


「……夫です。」


会場が静まり返る。


「私がどんな文章を書いても、どんな生活をしていても、そのままでいいと言ってくれました。それが、一番の支えでした」


その言葉は、飾りも脚色もない、ただの事実だった。

だが、その“事実”が、どんな受賞コメントよりも強く、会場の空気を震わせた。


ライトが織の横顔を照らす。

その表情は、受賞の喜びよりも、静かな確信に満ちていた。


私は、書いていいんだ。

このままの自分で。


会見が終わり、織は控室に戻ると、スマホを取り出して裕介にメッセージを送った。


《終わったよ》

その短い言葉の裏に、どれほどの想いが込められているかを、裕介はきっと分かっている。

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