68.芥川賞ってすごいんだね
織の書いた作品は、静かながらも読者の心を掴み、芥川賞の候補に名前が挙がった。
一方、小林ユキ名義の官能小説は、団鬼六賞の選考委員から「異様なほど体温のある文章」と評され、こちらも話題になっていた。
同じ人物が書いたとは思えない。
そんな声も、編集部のあちこちから聞こえてきた。
だが、織自身はその騒ぎを、どこか他人事のように受け止めていた。
「なんか、変な感じだよね」
織は、湯飲みを両手で包みながら呟いた。
「何が?」
裕介が尋ねると、織は少し考えてから言葉を続けた。
「芥川賞の候補に挙がったって言われても、小林ユキのほうが売れてるって言われても、どっちも“自分じゃないみたい”っていうか」
裕介は笑った。
「どっちも織だろ」
「そうなんだけどさ」
織は湯飲みの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を落とした。
「文学のほうは“静かで繊細な筆致”とか言われて、官能のほうは“体温がある”とか言われて、なんか、みんな勝手に私を分けてくるんだよね」
裕介はしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと織の手に触れた。
「分けなくていいんじゃない?織が書きたいものを書いて、それを読んだ人が勝手に名前をつけてるだけだよ」
織はその言葉に、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「そうか。勝手に名前をつけてるだけ、」
「そう。織は織だし、小林ユキも織だし、どっちも本物なんだよ」
織は湯飲みを置き、裕介の顔をじっと見つめた。
「なんか、裕介ってさ」
少し照れたように笑う。
「私より、私のこと分かってるよね」
裕介は肩をすくめた。
「まあ、夫婦だから」
その言葉に、織は小さく息を呑んだ。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
芥川賞の候補に挙がっても、官能小説が売れても、世間が騒いでも。
“夫婦だから”
その一言のほうが、織にはずっと重く、ずっと確かに響いた。
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芥川賞の選考会当日。
出版社からは「自宅待機でお願いします」と言われていたが、織はいつもと変わらない様子で、湯を沸かし、静かに茶を淹れていた。
夕方、外が薄暗くなり始めた頃。
スマホが震えた。
編集者からの着信だった。
裕介が息を呑む。
織は本を閉じ、ゆっくりと身体を起こした。
「……出るよ」
スマホを耳に当てた織の横顔は、驚くほど落ち着いていた。
「はい、上条です」
短い沈黙。
そして、編集者の声が震えているのが、電話越しにも分かった。
「……え?」
織の声が、ほんのわずかに揺れた。
「……はい。……ありがとうございます」
通話を切った織は、しばらく何も言わなかった。
裕介は、鼓動の音が聞こえそうなほど静かに、その言葉を待った。
やがて、織は小さく息を吐いた。
「……受賞したって」
その声は、驚きよりも、どこか遠くから聞こえてくるような静けさを帯びていた。
裕介は思わず笑った。
「すごいじゃないか」
だが、織は首を傾げたまま、自分の手のひらを見つめていた。
「……なんか、実感ないね。でも……嬉しい、のかな」
その“かな”の部分が、織らしくて、裕介は胸が温かくなった。
「嬉しいよ。俺は、すごく」
裕介がそう言うと、織はようやく顔を上げた。
その目には、静かだけれど確かな光が宿っていた。
「……そっか。じゃあ、嬉しいんだと思う」
織はゆっくりと笑った。
その笑みは、これまで見たどんな表情よりも柔らかかった。
スマホには、出版社や編集者からの祝福のメッセージが次々と届き始めていた。
ニュースサイトでも速報が流れ、SNSではすでに話題になっているらしい。
だが、その喧騒から遠く離れたこの部屋には、ただ、二人の静かな呼吸だけが満ちていた。
「ねえ、裕介」
「ん?」
「私、書いててよかったんだね」
その言葉は、賞の重みよりもずっと深く、裕介の胸に響いた。
裕介は織の手を握り、そっと親指でその甲をなぞった。
「うん。ずっと、そう思ってたよ。」
織は目を細め、その手に指を絡めた。
芥川賞を受賞した夜。
世間がどれだけ騒いでいても、織にとって一番確かなものは、
この静かな部屋と、隣にいる夫の温度だった。
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受賞会見は、都内のホテルの一室で行われた。
報道陣のライトが一斉に向けられ、カメラのシャッター音が絶え間なく響く。
だが、織はその中心に座りながら、まるで自分のことではないかのように落ち着いていた。
黒のワンピースに、最低限のメイク。
飾り気はないが、どこか凛とした雰囲気があった。
司会者がマイクを向ける。
「まずは受賞のご感想をお願いします。」
織は一瞬だけ考え、それから、静かに口を開いた。
「……実感は、まだあまりありません。でも、読んでくださった方がいたんだな、と思うと、それが一番、嬉しいです」
その淡々とした言い方が、逆に会場の空気を引き締めた。
記者が次々と質問を投げかける。
「受賞作は、非常に静かな筆致が印象的でした。どのようにして生まれた作品なのでしょうか?」
「特別なことはしていません。ただ、自分が見てきたものや、感じたことを、そのまま書いただけです」
「小林ユキ名義の官能小説も話題ですが、両方の筆名で評価されていることについては?」
織は少しだけ目を瞬かせた。
その質問が来ることは分かっていた。
「どちらも、私が書いたものです。名前が違うだけで、書いているときの気持ちは変わりません」
会場がざわめく。
その“線を引かない”姿勢が、むしろ織の一貫性を際立たせていた。
「文学と官能、どちらが本業だとお考えですか?」
織は淡く笑った。
「どちらも本業です。どちらも、私の文章ですから」
その答えは、記者たちの想像していた“型”から外れていた。
だが、だからこそ、織らしかった。
会見の終盤、最後の質問が飛ぶ。
「受賞を支えてくれた方はいますか?」
織は一瞬だけ視線を落とし、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……夫です。」
会場が静まり返る。
「私がどんな文章を書いても、どんな生活をしていても、そのままでいいと言ってくれました。それが、一番の支えでした」
その言葉は、飾りも脚色もない、ただの事実だった。
だが、その“事実”が、どんな受賞コメントよりも強く、会場の空気を震わせた。
ライトが織の横顔を照らす。
その表情は、受賞の喜びよりも、静かな確信に満ちていた。
私は、書いていいんだ。
このままの自分で。
会見が終わり、織は控室に戻ると、スマホを取り出して裕介にメッセージを送った。
《終わったよ》
その短い言葉の裏に、どれほどの想いが込められているかを、裕介はきっと分かっている。




