67.あなたは、何も言わないのね
織は、裕介の手を握ったまま、しばらく天井を見つめていた。
その目の奥に、ふっと遠い影が差す。
「なんかね、思い出してたの。会社員だった頃のこと」
裕介は黙って耳を傾けた。
織が自分から過去を語るのは、珍しい。
「朝起きるのが、ほんとに嫌でさ。満員電車も、あの蛍光灯の光も…全部、つまらなかった」
織はゆっくりと瞬きをした。
その表情は、懐かしさというより、あの頃の自分を遠くから見ているような静けさがあった。
「でもね、あの頃はそれが普通だと思ってた。みんなそうやって生きてるんだって。だから、自分も我慢するしかないって」
言葉の端々に、当時の孤独がまだ微かに残っていた。
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都内の中規模メーカーの総務部に勤めていた織は、当時、営業事務で数字管理を任されていた。
人間関係は悪くないが、馴れ合いも苦手だった。
あの職場の距離の近さは、いつも少しだけ息苦しかった。
昼休みの雑談に混ざることもなく、必要な会話だけを淡々とこなす毎日。
誰かに嫌われていたわけでも、何か問題があったわけでもない。
それでも、「ここに自分の居場所はない」そんな感覚だけが、じわじわと胸の奥に溜まっていった。
それでも、男に困ったことは、一度もなかった。
飲み会の帰りに連絡先を渡されても、昼休みに誘われても、織の心はどこか遠くにあった。
「好きとか嫌いとかじゃなくて、誰といても、なんか“自分じゃない”気がしてた。」
その言葉には、当時の織が抱えていた静かな孤独が、薄く、しかし確かに滲んでいた。
男が、織の身体に溺れている最初のうちはいい。
相手は勝手に盛り上がり、勝手に夢中になってくれる。
その間だけは、織も退屈しなかった。
だが、慣れてくると、決まって織の“生活の雑さ”に幻滅する。
部屋は散らかっているし、外出は面倒くさがるし、デートの提案には興味を示さない。
長続きしても、ひと月が限界だった。
大抵の男は、その頃にはもう嫌になるらしい。
「どこも出かけたがらないよな」
「反応が薄い」
「可愛げがない」
そんなことを言われるたび、
織は心の中でいつも同じことを思っていた。
じゃあ、言い寄ってこないでよ。
別に、恋人が欲しかったわけじゃない。
ただ、束の間の退屈しのぎにはなった。
それだけのことだった。
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織は、その頃の自分を思い返しながら、裕介の胸の上で静かに息を吐いた。
「あの頃の私は、誰といても疲れてたんだと思う。」
その声には、過去を悔やむでもなく、自分を責めるでもない、ただ“理解した”という落ち着きがあった。
裕介は何も言わず、織の手をそっと握り返した。
その温度だけで、織は“今は違う”と、自然に思えた。
だから、織には、裕介が不思議でたまらなかった。
ズボラな織に文句を言うわけでもなく、散らかった部屋を見ても眉ひとつ動かさず、お使いも家事も、頼めば淡々とやってくれる。
どこにも出かけなくても、「家でいいよ」と言ってくれる。
むしろ、外に出たがらない織のほうに合わせて、静かな休日を当たり前のように受け入れていた。
「身体の相性が良いんだよ、きっと」
裕介が茶化すように言うと、その軽さが、逆に織には引っかかった。
そんな単純な話じゃない。
確かに、身体の相性は良い。
それは織も認めていた。
むしろ、これまでの誰よりも自然で、無理がなく、気を遣わずにいられた。
けれど、それだけで説明できる距離感ではなかった。
織が散らかした服を拾っても、洗い物を溜めても、外に出たがらなくても、裕介は怒らない。
呆れもしない。
ただ、当たり前のように隣にいて、必要なら手を貸し、必要なければ黙って見守っている。
そんな男は、今まで一人もいなかった。
織は、裕介の胸の上で小さく息を吸った。
「なんでだろうね。裕介だけは、疲れないんだよ」
その言葉は、自分でも気づかないうちに漏れた本音だった。
裕介は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから、織の髪にそっと手を置いた。
「織が織のままでいるからじゃない?」
その言い方は、まるで当たり前のことを言うように、軽くて、優しくて、どこまでも自然だった。
織は目を閉じた。
織は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
今までの男たちは、織に“彼女役”を求めた。
可愛げ、気遣い、デートの計画、身だしなみ、反応の良さ。
そういうものを、無意識に期待していた。
織はそれを演じようとして、結局、どこかで疲れ果ててしまった。
でも、裕介は違った。
散らかった部屋を見ても笑っているし、外に出たがらない織に合わせてくれるし、反応が薄くても気にしない。
「恋人だからこうしてほしい」
そんな空気を、一度も出したことがない。
織は、ゆっくりと息を吸った。
ああ、そうか。
やっと分かった。
裕介の前では、“恋人役”を演じなくていいのだ。
可愛くしなくても、気を遣わなくても、外に出なくても、部屋が散らかっていても、反応が薄くても。
それでも、裕介は織を手放さなかった。
「なんか、変だよね。こんなに楽なの、初めて」
織がそう言うと、裕介は織の髪をそっと撫でた。
「楽でいいんだよ。俺も、そのほうが好きだし」
その言葉は、織の胸の奥に静かに沈んでいった。
“演じなくていい”という安心が、朝の光と一緒に、ゆっくりと身体の中に満ちていく。
織は、裕介の胸に顔を埋めた。
「ありがと」
その声は、昨夜の熱よりもずっと深く、静かに震えていた。




