↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯淡  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

66/76

66.新しい朝

どれほど時間が経ったのか、二人ともはっきりとは分からなかった。

布団の中には、まだ互いの体温が残っていて、外の冷えた空気とはまるで別の世界のようだった。


織は、裕介の胸に額を預けたまま、ゆっくりと呼吸を整えていた。

その呼吸が落ち着くたび、裕介の胸に伝わる温度も穏やかになっていく。


「……大丈夫?」


裕介が小さく尋ねると、織は目を閉じたまま、かすかに頷いた。


「うん。なんか、変な感じ。安心してるのに、まだ熱が残ってる。」


その言い方があまりにも素直で、裕介は思わず笑ってしまった。


織もつられて、少しだけ笑う。

布団の中で、二人の指先が自然と絡まる。

強く握るわけでもなく、ただ触れているだけ。

それだけで、さっきまでの熱が静かに余韻として蘇る。


「……夫婦って、こういう感じなんだね。」


織がぽつりと言う。


裕介は天井を見上げながら、ゆっくりと答えた。


「悪くないだろ?」


織はその言葉に、胸の奥で何かがほどけるような感覚を覚えた。

湯気のように、静かに、柔らかく。


「裕介」


名前を呼ぶ声は、さっきよりずっと落ち着いていた。


「ん?」

「…経験者は、語るってやつ?」

「…まあね」



裕介は織の髪をそっと撫で、目を閉じる。

外では風の音がしていたが、和室の中は、二人の呼吸だけがゆっくりと重なっていた。


その夜、二人は言葉を多く交わさなかった。

けれど、沈黙の中にあるものは、どんな言葉よりも確かなものだった。


----


翌朝。


目を覚ました瞬間、裕介はいつもと違う静けさに気づいた。

家の中が静かだからではない。

むしろ、外の世界はいつも通りで、遠くの車の音も、隣家の生活音も、微かに聞こえている。


それでも、部屋の空気がどこか違っていた。


隣では、織がまだ眠っていた。

昨夜の余韻がほんのり残るような、深い呼吸をしている。

その寝息が、部屋の静けさをゆっくりと満たしていた。


裕介は天井を見上げた。

胸の奥に、昨日とはまた違う種類の温度があった。

熱ではなく、落ち着きでもなく、ただ“そこにある”という確かな感覚。

夫婦になったからといって、生活が劇的に変わるわけではない。


それは分かっていた。

けれど、同じ布団で迎える朝が、こんなにも静かで、こんなにも満ちているものだとは思わなかった。


織が小さく寝返りを打つ。

その気配だけで、裕介の胸の奥がふっと温かくなる。


「……おはよう」


まだ目を開けていないのに、織は裕介の気配に気づいたように呟いた。


「おはよう」

裕介が返すと、織はゆっくりと目を開けた。

その瞳は、昨夜よりもずっと穏やかで、どこか柔らかい光を宿していた。


「なんか……静かだね、今日」

織がそう言うと、裕介は小さく笑った。


「うん」

織も微笑む。

その笑みは、言葉よりもずっと深く、二人の間に流れる“新しい朝”を静かに照らしていた。

布団の中で、織が裕介の手をそっと握る。


織はしばらくのあいだ、ぼんやりと天井を見つめていた。

まだ眠りの名残が頬に残っていて、髪が少しだけ乱れている。

裕介が横目でその様子を見ていると、織はゆっくりとこちらに顔を向けた。


その瞬間だった。

ふっと、力の抜けたような、

どこにも警戒も緊張もない、ただ“安心”だけでできた表情を見せた。


「なんか、変。すごく、落ち着いてる」


織はそう言いながら、自分でも驚いているように目を細めた。

その顔は、昨日までの織とは少し違っていた。


強さも、孤独も、張りつめたものもなく、ただ、寄りかかる場所を見つけた人の顔だった。


裕介は、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


「いい顔してるよ」

そう言うと、織は照れたように笑った。

その笑みは、昨夜の熱とは違う、もっと深くて、柔らかいものだった。


「なんかね。やっと、ちゃんと眠れた気がする」

その言葉は、織がどれだけ長いあいだ、ひとりで張りつめて生きてきたかを物語っていた。


裕介はそっと織の髪を撫でた。

織は目を閉じ、その手の動きに身を委ねる。


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、二人の間に落ちる影をゆっくりと照らしていく。

その静けさは、昨日までとはまったく違う種類のものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。