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枯淡  作者: 水原伊織


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65.祝福の余白

タクシーが温泉施設を出て、夜の街へ戻る頃には、二人の身体にはまだ湯の温もりが残っていた。

窓の外を流れる街灯の光が、どこか柔らかく見えた。


「……このまま帰る?」

織がそう言うと、裕介は首を横に振った。


「雪さんのところ、寄っていこう。」


タクシーの運転手に店の名前を告げると、車はゆっくりと市街地へ向かっていく。


平日の夜、閉店間際の時間帯。

店の前に着くと、看板の灯りはまだかすかに点いていた。


扉を開けると、店内には力がひとり、カウンターでグラスを傾けていた。

雪は片付けをしていたところだったらしく、二人の姿を見ると目を丸くした。

「まあ、珍しい時間に来たわね。」


力も振り返り、少し驚いたように眉を上げた。

「おう、どうしたんだ。こんな遅くに。」


裕介と織は顔を見合わせ、少しだけ照れたように笑った。

「……ちょうどよかった。」


裕介がそう言うと、雪が首をかしげる。

「なにが?」


裕介は、織の手をそっと握った。

その仕草に、雪も力も一瞬だけ目を見開く。


「籍、入れました」

静かな声だったが、店内の空気がふっと変わった。

雪は一瞬固まり、それからぱっと表情を明るくした。


「まあ……! 本当に? よかったじゃないの」

力も大きく頷き、グラスを置いた。

「そうか、そうか。おめでとう。織をよろしく頼むぞ、裕介」


織は少し照れながらも、どこか誇らしげに微笑んだ。


雪はカウンター越しに二人の手を見て、目を細める。

「やっと、ね。なんだかんだ言って、あなたたち、最初からそうなる気がしてたわ」


力が笑いながら言う。

「まあ、織が選んだんだ。間違いねえよ」

店内には、閉店間際とは思えないほど温かい空気が満ちていた。

湯上がりの身体に、その祝福の言葉が静かに染み込んでいく。

雪はグラスを二つ取り出し、軽く掲げた。


「じゃあ……お祝いに、少しだけ飲んでいきなさい。」


織と裕介は頷き、カウンターに並んで腰を下ろした。

その瞬間、二人の“新しい日常”が、またひとつ形を持ったように思えた。


----


雪がグラスを拭きながら「本当におめでとう」と繰り返している横で、力は腕を組んだまま、二人をじっと見ていた。

その視線は厳しいようでいて、どこか照れくさそうでもある。


「まあ、籍を入れたって聞いて安心したがな」


そう言いながら、力はグラスをひと口飲んだ。

そして、少し間を置いてから、わざとらしく咳払いをする。


「ただよ、織のズボラさは、大丈夫か?」

織が「ちょっと!」と抗議するより早く、裕介は肩をすくめて笑った。

「慣れました」

その言い方があまりにも自然で、雪は吹き出し、力も堪えきれずに笑った。


「だよなあ! 昔からそうだ」

力は笑いながら織の頭を軽く小突く。

「まあ、それを“慣れた”って言えるなら大丈夫だ、お前ならやっていける。」


織は頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうだった。

雪はその様子を見て、目を細める。


「ほんと、いい夫婦になったわね。織、ちゃんと感謝しなさいよ」

「してるよ……してる」

織が小さく呟くと、裕介は横で静かに微笑んだ。

その笑みを見て、力はもう一度グラスを持ち上げる。


「まあ、とにかく、幸せになれよ」

閉店間際の静かな店内に、その言葉だけがゆっくりと染み込んでいった。


----


家に戻ると、玄関の灯りがともるより早く、二人の距離が自然と縮まった。

湯の余韻がまだ肌に残っていて、外気に触れた身体がわずかに震える。

その震えを確かめるように、裕介が織の腕を引き寄せた。

織も、もう抵抗する気配はなかった。

むしろ、帰り道からずっと抑えていた熱が、触れた瞬間に一気にあふれ出す。


コートが床に落ちる音がした。

そのあとを追うように、シャツの布が指先から滑り落ちていく。

どちらが先に脱ぎ捨てたのか、もう分からなかった。

和室に敷いてある布団へ、二人は絡まるように倒れ込む。


畳の匂いと、湯上がりの肌の温度が混ざり合い、部屋の空気がゆっくりと熱を帯びていく。

織の指が裕介の背をなぞる。その動きは迷いがなく、触れたところからじわりと熱が広がっていく。


「……裕介」


名前を呼ぶ声は、息に近かった。

その響きだけで、裕介の胸の奥が強く揺れる。

唇が触れ合うたび、今日一日の出来事がすべて溶けていくようだった。


祝福も、温泉の静けさも、雪と力の笑顔も、全部が二人の体温の中に沈んでいく。


織の呼吸が早くなる。

裕介の指先が織の腰に触れると、その身体がわずかに跳ねるように反応した。


布団の上で重なり合う影が、ゆっくりと、しかし確かに熱を深めていく。


言葉はもう必要なかった。

触れ合うたびに、夫婦になったという事実が、形式ではなく、身体の奥で確かに形を持ちはじめていく。


その夜、二人は長い時間をかけて、互いの存在を深く確かめ合った。

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